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妖精の系譜 №60 [文芸美術の森]

イギリス児童文学と旅 7

     妖精美術館館長  井村君江

フェアリーランドへの旅 2

 今世紀に入るとC・S・ルイスがナルニア国を造りあげた。七巻から成るナルニア・サガである。この国へ子供たちは古い洋服箪笥の奥から入っていくのである。ナルニア国ではライオンの王アスランという善の支配と、白い魔女という悪が戦っている。ルーシーほか四人の兄妹は力を合わせナルニアの王と女王となってこの国を治めるが、カロールメン国との最後の戦いの末に滅びてしまう。神であるライオン、アスランの声に応え、時の巨人が角笛を吹くと星は落ち世界は暗黒となる。生きものはすべてその国を逃れ去る。竜やとかげが、草も木も一つ残らず食べつくしてしまう。海水がおしよせ、国は一面の水にひたり、夜が明けると空には太陽がのぼる。このナルニアの国は聖書の創世紀の世界を見る思いがする。ノアの洪水以前のこの世界の初めに存在した幾世紀も前の原始の国のような感じがある。ド・ラ・メアのティッシュナーにも魂の憧れる理想郷を象徴的に示したような感じがあったが、このナルニアはより寓意的にとれる。人間の魂の永遠の世界かも知れないし、人間の心の裡に存在する世界の原型かも知れぬし、また端的に言えばキリスト教的な世界ともいえよう。ルーシーたちはタイム・マシンによって時間を逆行し、古い伝統の世界へ旅したようでもある。
 一方、アーサー・ランサムは『女海賊の島』(一九四一)を作りあげた。一見リアルな中国ふうの島を設定しながら、主人公ミシイ・リーの性格には現実離れのしたフェアリーめいたものがあるし、虎島と竜島と亀島という三つの島は、形を変えたネヴァネヴァランドであるともいえるであろう。そしてまたここには探検、宝探し、逃走と追跡、遭難という要素を付け加え海とヨットを舞台に物語は展開していく。ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』(一九〇三)以下の一連の海洋ものは、スチーヴンソンの冒険ものの系列をひきながら、その冒険のテーマが子供たちの心の中の空想の遊びの中におり込まれていることによって、あまり特殊な事件や人物を登場させずとも、子供たちの日常生活と密接に結びついた地点で出来事が起こっていく、という独自の物語の世界を作りあげたのである。そして『女海賊の島』などは、その海洋冒険の要素と未知なるものとの出会いという、フェアリーランドの要素も合わせ持った物語であると言えよう。
 さて重点的に現代児童文学におけるフェアリーランドへの旅を見てきたが、これはファンタジィの世界とも言い換えることができるように思う。ファンタジィについては別の角度から論ずる必要があろうが、ただここで述べておきたいことは、ファンタジィの世界とは単なるとりとめのない無統一な空想や幻想を羅列してできた世界などではなく、あくまで作者の想像力によって意図的に築かれた有機的に統一性のある世界だということである。ネヴァランドでもワンダーランドでも、ティッシュナーやナルニアでもわかる通り、それぞれの世界はこの普段の世界とは異なる独立した存在としての論理と現実観を持っているのである。前にフェアリーランドは子供のユートピアだと言ったが、確かに夢を抱かせ、子供の心をこの世にない楽しい国に遊ばせはしても、往々にして現実に欠けているものの裏返しとしての充足できる国であり、それ故に現実諷刺を含んだりする大人のユートピアのような積極性は持たない。ネヴァネヴァランドなどは、いつまでも子供でいられるという条件があるところは日本の「常世」に似ているし、ティッシュナーの静かで神秘的で美しい一つの山を描写するところは、「蓬莱山」と類似した理想郷でもあろう。この日本の「常世」観というものは、神話から辿ってこなければならぬ古語であるが、桃源郷とか楽園とは違って「常世」とか「常世ノ国」は、海の彼方の異郷、あるいは理想郷を指しており異国的な不老不死の夢幻の理想郷を指すという点で、もっともフェアリーランドの考えに近いものを持っていると思われる。
 もちろんこの語を語源的に辿っていっても、海の彼方が外来文化(仏教も含めて)の渡来する別世界なのか、渡来民の持っていた異郷観が日本流に変化してできたものか、あるいは自然発生的に育った観念なのか明らかでないし、神仙思想が日本に土着した説話である「浦島子」や「竹取」「七夕」といったものから連想され成立してきたものであるかはっきりしない。しかし「常世」は「常夜」という常闇や地下の黄泉(よみ)の国に通じるものとは違い、他界観ではなく異郷観であることははっきりしている。童話のフェアリーランドでも、死後の世界を重ねたものはあまりない。「北風のうしろの国」が半ば意識不明の状態で描く天国という、死との境のような国であっても地下ではないし、地の下にあるといっても、ワンダーランドは死者の世界ではない。天に登って行くものではマクドナルドの『黄金の鍵』が虹をつたって登って行く国であるが、死後の世界―天国や地獄―といぅ設定は現代童話ではあまり見られない。たいがい空を飛んでも海を渡っても、現実世界と同次元にある水平的な別世界に行くのである。「常世」も空間的にいって原初は「水平表象」であり、いわば「水平(海の彼方)の夢幻理想郷」である。フェアリーランドは民間伝承として存在したものであるが、これまで見てきたように現代になってもさまざまに創作者たちの手から独自のものになって生まれ変わっている。しかるにこの日本の「常世」観というものは、『古事記』『万葉』『風土記』の世界から継承されて現代文学に生かされている例をみない。中国の神仙詩や伝奇物語などとの連関でも、考えてみる必要があろう。
 また子供のフェアリーランドは、大人の理想郷が地上楽園として願望を満足させてくれる楽しい場所として、動物的幸福や感覚的逸楽に耽る退廃的場所になるような傾斜は持っていない。官能の陶酔にひたれる「ヴィーナスの山」や食欲を満たしてくれる国コカーニュなど、大人の文学には人間の欲望を満足させてくれる本能充足や一種のデカダンスな放逸を許した国として描かれた文学も多い。もちろん子供の童話にも「お菓子の国」の物語はあっても(『ヘンゼルとグレーテル』や『くるみわり人形』)、それは単なる楽しい愉快な国の道具立てであって、食欲におぼれ感覚的放逸さや楽しさそのものを示すのが目的ではない。もちろん、「こうしたい」、「ああだったらいいな」という子供の願望をかなえてやる物語もなくはないし、最近でもネズビットが『砂の妖精』(一九〇二)で、小人のサミアッドが子供たちに一日に一つ願いごとを実現させてくれているが、それも夜になってその魔法の力は失せた時のギャップの方が問題となっているのである。そしてそれぞれのファンタジィの国への旅をしたトムでもルーシーでもダイアモンドでも三匹のサル達でも、その途上の体験から何かを得て大きく成長していくのであって、ファンタジィの作者たちはその変化を描くことが一つの意図である。とまれ、今日の子供たちが送っている日常生活はもはやフェアリーの棲息を許さないであろうし、そうだとすれば子供たちの方がこの日常生活の制約から逃れて、一時フェアリーランドへ赴くほかはないであろう。そのへんにこの未知の国へ、ファンタジィの国へ旅をするというパターンが今日でもなおもてはやされている理由があるのかも知れない。

『妖精の系譜』 新書館



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