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妖精の系譜 №59 [文芸美術の森]

イギリス児童文学と旅 6

     妖精美術館館長  井村君江

フェアリーランドへの旅

 前にも述べた通り、旅といっても陸を行くものや海を渡るものや種々あるのだが、イギリスの場合、海を渡っての旅が物語のテーマとして多く用いられているので、その系列の考察に限って見てきた。ここでもう一方の旅として架空の国へ行く旅、すなわちフェアリーランドへの旅を少し見てみよう。イギリスには古くからフェアリー・テイルの信仰があり、広く各地に波及していてその伝統は根強い。この妖精信仰に関してはすでに考察してきた。第一章、第二章で中世の民間伝承としてのフェアリーの発生と伝播、またとくに文学作品の中にとりこまれたフェアリー像を、『ベオウルフ』からチョーサー、スペンサー、シェイクスピアと辿ってみたので、ここでは詳しく触れない。ただ国家の形成以前の村落共同体を単位とする農耕狩猟生活の中から発生し、民間伝承として中世まで伝わってきた「超自然的な生きもの」の言い伝えは、どこの民族にもあるわけだが、本来ならばキリスト教が入ると悪魔として、文明の到来とともに、あるいは迷信として、その影がうすくなり斥けられるはずのこれらフェアリーやエルフが、イギリスの場合のみは非常に異なった運命を辿ったということを指摘しておきたい。
 中世末期に、都市生活の隆盛と、それに伴う合理精神とが人々の心の中に生きていたフェアリーたちを追い出そうとしたとき、イギリスでは何人かのすぐれた詩人たちがフェアリーを自分たちの庭へ導き入れ、そこにフェアリーの棲息の場を作ったわけである。その先鞭をつけたのはチョーサーであるが、フェアリーたちにもっとも大きな貢献をし、現在われわれの描く映像を作りあげたの は、なんといってもシェイクスピアで、『夏の夜の夢』と『嵐』とはそれ以後のフェアリー観を確立した作品である。けれどもスペンサー以後の作品に現われるフェアリーは、もうシェイクスピアにおけるほど人間と親密なものでも素朴でいきいきとしたものでもなくなり、美の象徴とか寓意の道具とかになってしまっている。そして、これ以後は詩人たちがいかにフェアリーを取り上げてみても、それは生気に乏しい、詩篇の小さな額縁のなかに収まってしまった精密画にすぎないもので、パックやエアリエルのように元気に飛び回る姿は見られなくなる。こういう経路を辿って近代に至ったイギリスのフェアリーに、再び生気をふき込んで妖精復活、フェアリー再生ともいうべきものをもたらしたのが子供たちであり、児童文学であったわけである。死にかけた妖精ティンカー・ベルは、妖精を信じる子供たちの拍手で生命を取り戻し、息をふき返すのである。
 このフェアリーが児童文学へ導入される場合にも、やはり「旅」の概念が大きな役割を果たしている。すなわちフェアリーランドへの旅である。この型はすでに、古い民間伝承の中にも少なからず見られる。例えば「ジャックと豆の木」で豆の木を登って行きつく巨人の国などがそうであろう。また男の子が巨人や怪物退治の冒険や宝探しに旅立つ話は数多くあるし、女の人が人里離れた妖精の家へ連れて行かれ帰ってくる(不意の旅)の話もある。あるいはフェアリーやエルフ、ピクシーや人魚などに誘われて、地底や水中のフェアリーランドに行き、楽しい思いをするというパターンも民間伝承物語の中に多く現われている。近代の児童文学にフェアリーが現われる場合も、フェアリーランドへの旅という形式がとられることは注目すべきことであろう。
 このフェアリーランドは言ってみれば子供の一つの夢の国を実現したものであり、子供のユートピアとも言えよう。近代の創作童話では、いろいろな型の国がさまざまな作家によって造りあげられている.例えばジェイムズ・バリの『ピーター・パン』(一九〇六)では「どこにもない国」が出てくる。これはケンジントン公園の中にあるサーペンタイン(蛇)池の真申にうかぶ秘密の島で、いずれ人間の子供として生まれ出るはずの小鳥たちと妖精しか住んでいない楽園である。ここは普通の公園と地つづきであるが、人々がいなくなってからだけしか存在しない場所である。前身は人間の子であったピーター・パンはこの島で永遠に子供であって、夢と現実との間の半端ものの存在(Betwix and Between)である。彼が現実とこの非現実の夢の世界の橋渡しの役をして、人間の子供ウエンディたちを連れてくる。その旅の方法彗妖精の粉をふりかけて「空を飛んで」である。そしてウエンディは再びピータ-ー・パンに案内されてわが家へ戻ってくることができるが、一年に一度春の大掃除にこの「ネヴァネヴァランド」にくることになる。しかし、次第にウエンディにはピーターが見えなくなる。これは子供は成長するにつれて「ネヴァネヴァランド」が遠い存在になってしまうことを示していよう。
 またアリスの行った「不思議の国」は兎の穴から入る地下の国であり、「鏡の国」は鏡の向こう側のあべこべの国である。しかしアリスの場合、この二つの国はトランプとチェスの国であり、また夢の国でもあるという三重の構造を持っており、夢から覚めればアリスはわが家の暖炉の前にいるわけである。そしてこの国には奇妙な生き物が住んでいて奇妙な論理が支配し、アリスの常識とぶつかって面白い事件が展開する。
 ジョージ・マクドナルドの『北風のうしろの国』では、少年ダイアモンドは北風の背中に乗って空中高く飛ぶ旅をするのだが、北風の体をつきぬけて、北風のうしろの国へ行ってしまう。この国はダイアモンドと詩人と農家の娘の、それぞれの体験から語られるが、いつも五月のように美しく、愛に満ちた幸福な心を抱くことのできるような国である。ダイアモンドがこの北風のうしろの国に行っているときには現実では、生死の間をさまよう大病にかかっている状態になってしまうので、一種の天国のようなところともとれる。死後の世界に近いわけである。
 チャールズ・キングスレイの『水の子トム』(一八六三)は、トムという煙突掃除の子が親方に叱られて逃げ、そのあげく川にはまって水の子となり、水の中で暮らすことになる。この場合は水中に水の子の家や美しい宮殿があり、トムは魚のように泳いで行く。水の底にはまた「紙くずの国」とか「悪ものの国」「うわさの国」「ばかものの島」などがあり、トムはその「世界のはてのその彼方」のところへ親方をたずねて旅をして行く。またド・ラ・メアの『三匹のサル王子たち』が求めて旅をつづける「ティッシュナーの国」は陸地の果てにあるが、不思議な国である。谷間のアッサシモンの宮殿が父の家であったがその死後、三匹の王子はさまざまな冒険や経験を重ねつつ、この国に辿りつくのである。このティッシュナーは人の求める理想郷のような、あるいは彼岸の国のような、また三蔵法師の求めて旅をした釈迦の国のような感じもある。ド・ラ・メアは「口では言い現わせぬ不思議な秘密のしずかな国」とか「風や星やはてしない海や、その向こうの未知のくに」とか「片手につぼ、もう片手には青い衣のすそをもち、首をかしげている女神さま」と表現したりしている。非現実的な夢幻の世界を表現しようとする場合のド・ラ・メアの筆致は精妙であり、そこにかそけき未知の国が立ち現われてくるようである。楽園というものを表わすとき、花咲き小鳥唄い美味しいものが食べられ、いつも年をとらないといった具体的な楽しく作りあげられた夢の世界を思い描くが、このティッシュナーはとらえどころがなく、かえって人間の心の内なる世界に近い。マクドナルドの『北風のうしろの国』に描かれている、北国の精が少年ダイアモンドを連れて行く北風のうしろの国は、この天をもっと人間にひきつけて、夢うつつの状態、あるいは熱にうかされた離魂状態にある人間の精神状態に近いため、より現実感はあるが、自由に心を解き放てる楽園からは遠くなっている。

『妖精の系譜』 新書館



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