SSブログ

妖精の系譜 №58 [文芸美術の森]

イギリスの児童文学と旅 5

       妖精美術館館長  井村君江

海と想像力

 『ロビンソン・クルーソー』と『ガリヴァー旅行記』を書くときに、作者たちが気軽に航海記や漂流記という形式を用いた裏には、こうした海洋もの、旅行記ものの伝統があった。そして子供たちの強い好奇心と興味とはそうした中から自分たちに面白い部分をとりあげ、彼ら特有の空想力で自分をとりまく環境以外の経験を取り込んだのである。
 「海は ― とくに子供にとっては ― 未知のもの、未踏のもの、これまで人に語られたことのない不思議な世界の持つ魔力をたたえている」リリアン・スミスは童話の物語の舞台としての海が持つ特殊性をこう述べている。確かに海は人の心を無限の彼方に誘う魅力を持っている。想像力と可能性とを限りなくかき立てる力を持っている。海の彼方に楽しい国があるかも知れぬという夢を描かせる。波路はるかな国へ行こうとすれば、旅の手段は船である。「船」というものは一つの限られた場所である。ある意味では小さな一つの島に等しい。あるいは無人島と同じような条件を備えていよう。一つの限界状況の中で、人間の能力は試される。その中でも発明と工夫の能力が要求される。制限ある物質や環境の中で、人間関係の中での我慢と忍耐とが必要となってくる。船の上の事件、例えば天候や海流の急変や嵐にあったり、火事が起こったり乗組員の間に反乱が起こったりすると敏速に対処せねばならず、陸の上での事件よりもことの重大さは強調され、一人一人の力が試されることになる。能力と心の明暗とそういったものがはっきり浮き彫りにされてくる。一つの出来事に対しては船に乗った人がみな力を合わせて当たらねばならず、個人の勇気、機転、工夫の才と他との調和を図ることも要求されてくる。
 こうした海の上の制約ある場所である船の生活に馴れることに、人間としての成長をからませて物語を書けば、リチャード・アームストロングの『海に育つ』(一九五四)のような作品になる。それを軍隊という集団の中にもってくればフレデリック・マリアットの『海軍士官候補生イージー』(一八三六)や『ピーター・シンプル』(一八三四)など一連の作品になろう(現代で言えば、フォースターの諸作品)。
 海とそこに起こり得る可能な事件、要素をつけ加えてさまざまな物語がこれまでに書かれているが、例えば海の底を探険し調査するという科学的発見の要素をそこに入れれば、ジュール・ベルヌの『海底二万哩』(一八七〇)のようなものになる。だが七つの海の底を放浪するこのネモ船長は、海の誘惑に虜になったというよりも、海の旅に呪われた放浪者のようであり、永劫に海に漂う「さまよえるオランダ人」の映像が入っている。
 難破と探検の物語としては、南太平洋の島に上陸する三人の少年を主人公にしたロバート・バランタインの『珊瑚礁の島』(一八五八)があるし、漁村の生活をそこに結びつけたものならばルドヤード・キプリングの『勇敢な船長』(一八九七)がある。これはアメリカの裕福な家庭に育ったわがままな少年が航海中に海に落ち、漁船に助けられてニューファウンドランドのグランド・バンクスの漁村で生活するうちに、勇気ある少年に変わっていく物語である。密輸事件をからませればジョ ン・メイスフィールドの『ジム・デイヴィス』(一九一一)のように、偶然洞穴に財宝を発見したことから、捕えられて脱出するまでのジム少年の物語となる。
 海賊物語の要素を入れた作品はとくに多く、チャールズ・ホウズの『ダーク・フリゲート』(一九二三)は十七世紀の海賊船を設定し、そこに海に憧れて家出した少年が巻き込まれ、逃れるまでの出来事が語られている。しかしなんといってもこの分野の創始的位置を占める代表的な作品は、R・L・スチーヴンソンの『宝島』(一八八二)であり、『かどわかされて』(一八八六)である。『宝島』で、偶然のことから海の宝探しの旅に巻き込まれ、「ヒスパこオーラ号」で船出する少年ジム・ホーキンズの口から語られる海賊たちの異様な行動や出来事は、作者の巧みなストーリイの運び方で次々と興味深く展開される。残忍なのっぽのジョン・シルヴァーの性格が、木の片足のコトンコトンという音とともにリアルに迫ってくる。海を背景に繰り広げられる息もつかせぬ事件の展開と人物たちの動きとは、この種の海洋冒険ものの古典としての不動の位置を今に至るまで保っている。
ここでは少し立ち入って『かどわかされて』の方を見てみよう。
 これは孤児のデヴィッド・バルフォアが遺産相続の問題から叔父の計略で「コヴエナント号」で連れ去られ、スコットランドの海でさまざまな危険にあい、難破してからは山野で苦労し、ついに本家にたどりつき財産を継ぐまでのスリルに富んだ海洋冒険物語である。舞台は前半が海、後半は山野である。この少年は地味でおとなしく勇気と義侠心に富んだ性質を持っているが、これに対してもう一人の中心人物である登場人物アラン・プレック・スチユワートは対照的に、派手でおしゃれで詩も作り、剣も上手な行動的な人物として描かれている。このアランは当時の支配者であるイングランドに反対し、兵を挙げようとして敗れたハイランダー(スコットランド高地人)の一人で、国外へ亡命し移住した者たちとの間に連絡をとる隠密の一人である。従ってこの物語は海の冒険のストーリイという要素に、ジェイムズ二世派の最後の敗北につづく十九世紀のスコットランドを描いた歴史小説としての要素も備えているわけである。
 筋立ては当時よく知られた「アピン殺人事件」をもとにしている。そしてまたこの物語はそこに生活している人々の性格を作りあげた岩礁が多い霧のかかった海や、ヒースの草原や沼地といった自然と気候を持つスコットランドそのものを描いてもいる。ハイランダーのアランが燃える忠誠心と勇気と誇。高い心を持ち、どんな困難にも堪え忍ぶ粘り強い性格を持っているとすれば、デヴィッドは健全で真面目で、がんこなまでの公明誠実さというものを持ってローランダー(低地人)の性格を代表している。縛られたままエライアス・ホージャスンを船長とする二本マスト船「コヴェナント号」に乗せられ海に出たデヴィッドは、この船で寝たり働いたりして暮らすこととなり、次第にいろいろな船のきま。を覚えていく。荒くれ船乗りたちは気ままだが、一つの船を動かしていくために舵手や航海士や水夫という自分のポジションを守って働いている。その人たちとの友情やかけひき、船室甲板の様子、船での食事や規則のある日常など、デヴィッドは警戒しながらもその生活に馴れていく。ある日、霧の中で他の船にぶつかり、相手はすぐに沈んでしまうが、その乗組員のうち一人だけが空中に投げ出された瞬間、「コヴエナント号」のともから出ている柱につかまって助かり、この船に入ってくる。それがアランである。「コヴエナント号」は海賊船ではないが、海を越え北アメリカに売られる奴隷を運ぶ船であって、デヴィッドも叔父から船長への頼みで売られにいくのであった。アランとデヴィッドの二人は、船長ホージャスンとその部下十五人を向こうにまわして戦いを始める。後甲板船室を中心に繰り広げられる戦闘は、船の中、海の上という状況を充分に利用し考えられた戦略による激しい戦いである。アランとデヴィッド側が勝利をおさめるのであるが、その終結の仕方も陸上のそれとは事情を異にする。船が破損し、また一等航海士と水夫がやられてしまったために船を操る人数が少なくなり、協力して船を動かさざるを得ないために、船長が和睦を申し入れてきて、結局協力して船をすすめ最後は岩礁にぶつかって難破してしまう。
そしてデヴィッドは丸太につかまって浮かび、イアレイド島海岸に流れついて助かるのである。
 そして後半は、山や野の冒険となる。こうした海での経験はこの少年に勇気をつけ、判断力を適切にし強く大きく成長させていく。この作品も『宝島』もそうであるが、主人公の少年の一人称の語り口で客観化され、物語は進展してゆく。従ってこの少年の目に映りこの少年の立場からの解釈によって、事件は印象深く語られていくので、より真実味が物語に加わっている。物語全編に海の風と潮の香りが満ちている。
「イギリス人は恐れを知らぬ強い国民である。彼らは忍耐強い身体と粘り強い意志とを愛する。彼らは国外に出ること、旅をすること、征服者となること、遠くの地を植民地とすることに情熱をかける。土をいじることは好きではない、しかし海は、船で行けるところはどこでも支配したいと望んでいる」。フランスの英文学者ポール・アザールはイギリス人の気質をこう述べているが、島国であるという地理的な事情がこうした海外への進展を望む国民性を養ったのであろうし、また安定した国内では冒険や異常な出来事はもはや起こらず、海と船の上とがその恰好の舞台を提供してくれるものとなったこともあろう。

『妖精の系譜』 新書館



nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。