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妖精の系譜 №56 [文芸美術の森]

イギリス児童文学と旅 3

     妖精美術館館長  井村君江

旅と文学

 子供が自分たちのものとして手に入れた大人の作品を三つ挙げたが、バニアンは主人公の遍歴と冒険の物語であり、ロビンソンもガリヴァtも海に出て見知らぬ国へ旅をし、遭難する物語であって、こう並べて見れば三つとも「旅」と「冒険」という要素を含んでいることに気づく。そしてまたイギリス児童文学を通覧してみると、フレデリック・マリアットやロバート・バランタイン (一八二五-九四)、ロバート・L・スチーヴンソン(一八五〇-九四)等々、海の旅に出てさまざまな事件に会うという海洋冒険ものが多いことに気づく。事実全体を概観して見れば、イギリスでは子供の生活をリアルに描いた生活童話よりも、ファンタジィを主とした童話の方が多いのである。これは、フェアリー・テイルの伝統が古くからいきわたっていたことにもよろうが、「妖精の国(フェアリーランド)」の旅から現代でも「何処にもない国(ネヴアネヴアランド)」とか「不思議の国(ワンダーランド)」といった不思議な夢幻の未知の国へ行き、次々と珍しいものに出会う物語の構造を持ったものが多い。すなわち海洋ものと同じく、ファンタジィの物語も「旅」という要素が介在しているのである。このイギリス児童文学に目立つ二つの系列に共通する「旅」という概念を作業仮説として、イギリス児童文学の特色を純文学史との連関においてここに考えてみたいと思う。
 一口に「旅」といっても具体的に見ればさまざまな形がある。『天路歴程』のように宗教的意図を持って各地を「遍歴」(pilgriimage〉するものもあるし、ガリヴァーのように海へ出る「船の旅」(navigation〉もある。またアーサー王の騎士たちのような「武者修行の旅」(knightly errant〉もあり、宝を探し、母を尋ねて何千里の旅に出る「目的地の定まらない旅」(wandering〉もあるし、その意志もないのに「不意にさらわれてまきこまれる旅」(kidnapping〉や、ロビンソンのような「遭難」(shipwreck〉や漂流の旅もある。また探険旅行、遠征、一周旅行や見物の旅といった目的のある旅、そして、最後の審判の日まで海を航行する運命にある「さまよえるオランダ人」(flying Dutch-man>のような呪われた旅もある。もちろんこれらの物語は旅の実際の記録ではなく、創作であればすべて空想旅行記であろうが、これらが一応現実らしさを手段として意図しているのに対して、想像された架空性を前提としているものも考えられるわけである。それらは後半のファンタジィの系列に入るものであって、大きく分けてみれば、第一に民間信仰や中世ロマンスにもとづいたフェアリーの国への旅(ファンタジィ文学となる)があり、想像された理想の国・空想社会への旅(ユートピア文学につながる)もあり、また未来の国への旅(SF小説になる)などが考えられよう。
 こうした物語は、いわば「旅」というものを小説構成の枠組みに用いることによって、話にほんとうらしさをつけ加えている。例えば、作者の心の裡にある理想の国という非現実的な存在に現実感を与えるため、遠隔の地に存在していることを旅という距離感とそこへの接近という手段によって表わそうとする。言いかえれば、物語にとって「旅」は普段の生活の場と空想の世界の橋渡しなのである。そして読者はこの旅という手だてを経て、非現実の彼方に存在する国を想定しそれを期待する。海の彼方の国は多くの場合「憧博の対象」であり、「好奇の存在」であり、また「理想の映像」なのである。
 では「旅」の本質は何であろうか。『広辞苑』はこれをなかなか上手に定義している ― 「わが家を出て一時他郷に行くこと」。ここには三つの要素がある。第一はわが家を出ること、つまり日常生活からの離脱、または現実のくびきを逃れることである。これは昔でも今でも、農業や商工業を営み定住生活を送るものにとっては重大な体験である。第二はその日常生活からの離脱が一応、一時的であること、これは旅するものが日常生活を捨ててしまうのではないことを意味する。つまり本来の自分としての日常生活の外に出るのであって、生活それ自体を否定するのではない。そして第二の要素は、他郷に行くことである。実はここにこそ旅と人間の精神の関係のもっとも重大な問題があると思う。
 「他郷」とは未知なるもの、今まで知らなかったものである。従って他郷へ行くという体験は、その未知なるものとの出会いを意図することである。新しい未知なるものとの出会いは好奇心をそそるものであり、そこには驚きが生まれる。これはまた物語の基本的要素でもある。「わが家を出て一時他郷へ行く」、その行き方、行く過程のあり方を旅という一つの手段として、今問題にするわけであるが、この旅というところに夢や眠りをおくことも「浦島太郎」やリップ・ヴァン・ウィンクルの例に見られるとおり可能であろう。タイム・マシンを設定すれば時間的にあと戻りができ、ウィリアム・モリスのユートピアものやH・G・ウェルズのSF小説になる。夢や眠りや幻覚、タイム・マシンといったものの方が時間空間的に距離感が短く、現実との間の連関の鎖を絶ち切る力が強い。ふと目が覚めたらどこか見知らぬ国にいた、という夢による唐突な行き方は、当初からその国は夢の中に想像された国であるとしてその非現実性を指定しているわけで、この世との断絶感が強い。また覚めて現実に戻ったときの幻滅感も二つの地点の断絶から起こってくる。そこを、船に乗り足で歩いて行くという具体的行為によった方が、日常生活を継続させ、リアルなものを自然に想像につなげる。言いかえれば「旅」という手段による方が、この現実世界の現実感をそのまま他郷まで運べるわけで、本当らしさの濃度が高いものになるわけである。
 さて、旅というものは規定された現実の枠を取り除くことによって、さまざまな可能性を認識するし、そしてさまざまな出来事を経験する機会が生まれる。このことによって精神は進展するわけで、「可愛い子には旅をさせよ」の諺にもある通り、旅と精神的生長を連続させた人格修養を目的とした教養小説とか遍歴小説も生まれてくるわけである。
 リリアン・スミスは、その『児童文学論』の中でファンタジィを論じているが、その箇処でこう述べている。「ファンタジィはほかのフィクションとは別の風土 - 非現実のなかの現実、信じがたい世界の真実性という雰囲気のなかに生きるものである」。こう規定してから、ファンタジィには夢物語以外の型があることを説き、その中で重要なものの一つに遍歴型を挙げている。W・H・ハドソンの『夢を追う子』に見られるように、蜃気楼を追って迷子になった少年が、草原や森や山の神秘を探険し、海に出て旅を終える過程において出会う事件がその物語となっていることを述べている。そしてこの冒険と経験によって、少年が心の成長を遂げることが物語られると言っている。児童文学の場合、とくにこの旅の過程そのものが物語の重要な要素となっているわけで、旅の過程で出会う出来事、冒険というものが物語のストーリイの面白さを形作るのであり、またその過程が、主人公たちの心の成長過程となる。ウォルター・ド・ラ・メアの『サル王子の冒険』は、三匹の猿がティッシュナーという未知の国をさして旅をつづけるが、そのさまざまな旅の経験は人生のさまざまな経験であり、三匹はそれぞれに成長していくという、いわば象徴的な人生の物語に作られているものである。
 ひるがえって考えてみれば、子供自身が成長していく過程というものも、この旅の本質によく似たものを含んでいるといえよう。この世へ唐突に生み出された子供にとっては、すっかりそこに同化してしまうまでは日常の場もまた他郷であり、日々は単なる繰り返しではなく、新しいものとの「出会い」であり「交渉」であり、その体験を自らのうちに「蓄積」していくことであろう。そしてもう一つ、読書という体験のうちにも、この旅の本質と似通ったところがあるのではないだろうか。文芋のなかでもとくに小説の場合などには、ノヴェル(novel)という語の語源が示すとおり、その物語が新しいものであり、読者の知らないものであることが、これを読むという体験にとって尊大な意味を持つ。人間の精神が肉体同様に何か新しいものを中へ取り込んでいくことによって健康を保つとすれば、旅や読書を「精神の糧」などと表現することの意味も、多少は明らかになるかと思う。そして 「旅人の体験する新しさ」をそのまま 「読者が体験する新しさ」 とするところに、つまり旅と読書という似通った体験を重ね合わせてしまうところに、旅行記やもっと進んだ旅と文学との結びつきのもっとも基本的な原型があるのだと考えられる。あるいはこれを創作者の、とくに児童文学の創作者の立場から考えてみれば、旅の概念を取り入れることによって、作者は想像力を大変広く自由に用いることができるようになる。つまり現実の世界とはまったく別の、日常的な規範をとびこえた世界を想像力の赴くままに作り出し、現実世界とを主人公の旅という形で結びつけるわけである。

『妖精の系譜』 新書館

「イギリス児童文学と旅 2」は差し替えました。「3」の前にぜひ一読ください。



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