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妖精の系譜 №55 [文芸美術の森]

イギリス児童文学と旅 2

        妖精美術館館長  井村君江

子供が読者になる ― 子供の勝利 2

 十八世紀に入ると児童文学にとって、非常に革命的な現象が起こる。それは∵七一九年に発行されたダニエル・デフオー(一六六〇7-二七三)の『ロビンソン・クルーソー』と、ジョナサン・スウィフト(一六六七⊥七四五)の『ガリヴァー旅行記』という二冊の本を(これらは現在という時点から見れば、世界文学史の上に位置を確立した傑作であったわけであるが)、『天路歴程』に味をしめたと同じ子供の好奇心が、大人の本棚から自分たちの子供部屋に運んでしまい、この本の評価をある程度決めてしまったということである。フランスの学者ポール・アザールの指摘を待つまでもなく、これは重大な出来事であった。私たちが抱いているこの二冊に対する印象は、いまだにその当時以来の子供たちによる評価の影響を多く受けている。今日の批評家たちがいかにやっきになってこの二作の本来の性質を説明してみても、私たちが『ロビンソン』とか『ガリヴァー』と聞いたときの第一印象は、やはり児童文学的な評価にひきずられたものである。まことに子供たち
の勝利と言うべきであろう。
 この二つの作品は、あくまで大人の読者を念頭に置いて書かれたものであって、果たして子供が読んで面白がるかなどということを作者たちが一瞬でも考えたかどうか、非常に疑問である。『ロビンソン』を成立させている思想は当時のイギリスの社会観や宗教観と深く結びついているし、またマルクスが『経済学批判』の中でロビンソンに言及していることでもわかるとおり、骨の髄まで商人だったデフォーの作品は経済思想との関連も深いものである。すなわちロビンソンは、サン・フエルデナンドの孤島で鍋を作り種をまく原始農耕生活から、フライディとの原始共産制を経て、資本主義に至るまでの道を足ぼやに通るのである。宗教的にはピューリタン革命期の雰囲気の消えやらぬ時代に育ったこともあって、ピューリタニズムは『ロビンソン』の大きな主題の一つとなっている。一無人島にただ一人流れついたドイツ系イギリス人アレクサンダー・セルカークが、この島でいろいろなハンディキャップをのりこえて、いかにイギリス的現実生活を展開し、果てはイギリス的孤島経営に成功するか、またその成功を支えるものが、カルヴィニズム的奮励努力と身勝手なまでの自信であるかということが、相当露骨に語られる。
 また『ガリヴァー』にしても、亜梨実ではロビンソン以上に大人を対象にして書かれた物語ある。ダブリンのセント・パトリック寺院の司祭長たるスウィフトもやはり政治的関心が強く、時の政府を諷刺してアン女王の怒りに触れたり、一時は匿名で政治パンフレットを書いて政府から懸賞金がかけられたりしたこともあった。従って『ガリヴァー』にしても、時の政府要人に対する揶揄に始まって、宮廷人への残酷な嘲笑や科学者、哲学者へのあてこすりから、人類全体に対する呪詛に至るまで、もしも子供にそういうことを読み取る能力があってこれを読んだとしたなら、行く末が案じられるような鋭い諷刺と厭世観に満ちた作品である。だが子供たちはガリヴァーの旅行する海の彼方のリリパット王国やプロプディンナグ王国、ヤフー王国やラビユータ島での出来事を、巨人や小人や奇妙な動物の興味深い不思議の国として面白がったのである。
 この二つの作品には、実はいま述べた批評家とか文学的訓練を経た読者の深読みでしか読み取れない面とはまた別の面があることも事実で、子供たちが惹かれたのはもちろんこの別の面なのである。『ロビンソン』がアレクサンダー・セルカークという船乗りの孤島漂着の体験談『サン・フエルデナンドの島』をもとにして書かれたこと、それに『ガリヴァー』がその一部、例えば「大人国」へ漂着する前の嵐の場面などが、やはり実際の航海記のまる写しであること、こうした二つの事実は子供たちによるこの二冊の本の読み方を象徴的に表わしていよう。「旅行」、「漂流」、「航海」といったものは、作者にとっては思想展開の道具にすぎない筋であったのに、子供たちはそれを目的に読んだのである。こういうところから少なくとも自発的な読者であるところの子供というものが生まれてきた。
 こう見てくると、まず初期の児童文学の歴史は、言ってみれば子供たちがどうやって自分たちの本を手に入れていったかという獲得の歴史であろう。それは、初めは大人が教訓(とくに宗教的な)を与えるために自ら選んだ本のみを子供に与えていたのが、子供は飽き足らなくなり、自発的に欲しいと思う大人の本を子供部屋に持ち込んでしまうことが起こ。、そのうちに大人が読者としての子供を意識して、子供のために物語を書くに至るわけである(こうした過程は一人の子供の成長途上にも見られる現象であろう)。
 もともと作者と読者がいて初めて成立するという点では、児童文学とても普通の文学と変わりはない。ただ児童文学の場合、これまで見てきたように、作者(である大人)と読者(である子供)との間に、親や教育者が紛れ込んでくる。今日では児童文学の作者たちも、自分が書いた本を子供が自発的に読んでくれることを知っているから、この作者=読者という関係は一般文学とさほど違わないが、作者や本を作る大人たちが「子供が読者になる」という段階の認識に達し、それを表立ったことにするまでにはこうした回り道があった。そして文学史の変遷と児童観の変化というものもそこに大きく作用していよう。その地占迂達するのはほぼ十九世紀であり、『不思議の国のアリス』(一八六五)や『宝島』(一八八三)、『トム・ソーヤの冒険』(一八七六)などの出た頃であると言えよう。

『妖精の系譜』 新書館


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