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多摩のむかし道と伝説の旅 №108 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

        多摩のむかし道と伝説の旅(№26)
   -御岳渓谷、鳩ノ巣渓谷、数馬峡を辿る奥多摩への道-2
             原田環爾

108-1.jpg 多摩川を左に見て青梅街道を西へ進む。アンティーク煉瓦等の販売する店を過ぎると道路脇に青い金網のフェンスが現れる。フェンスに沿って50mも進めば「御岳渓谷遊歩道入口」と記した道標があり、左手に渓谷へ下る細い道筋が現れる。林の中を細い階段を辿って降りて行くと渓流の傍らを縫う遊歩道に出る。涼風を頬に受けながら川面から眺める渓谷の風景は格別だ。この辺りは時折釣り人が竿に糸を垂らしているほかはほとんど誰もいない。遊歩道は1~ 2m幅で多少の石ころや凹凸はあるものの、よく整備されていて歩くのに特に支障は無い。やがて前方に楓橋というグリーンの吊橋が見えてくると沢井108-2.jpgだ。楓橋のすぐ下流辺りは塚瀬と呼ばれ、かつて筏を組んだ土場があった所という。沢井の界隈は行楽客の集まる所で、地酒「澤乃井」で知られる元禄15年創業という小澤酒造がある。楓橋の袂には澤乃井直営の料亭「ままごと屋」が豆腐や湯葉料理を楽しませてくれる。ままごと屋の前には同店の澤乃井園があり、園内の売店では地酒をはじめ、わさび漬けや酒饅頭など様々のお土産が販売され食事も出来る。庭園の片隅には詩人北原白秋 の歌碑が立っている。
108-3.jpg「西多摩の 山の酒屋の鉾杉は
 三もと五もと 青き鉾形」
 鉾杉とは鉾の形をした杉のことを言うそうだが、大正12年白秋が友人達と一緒に御岳山を登山した際に、途中この蔵元に立ち寄って見た酒造りに感銘を受け作られた歌という。一方楓橋の対岸の山肌には昭和5年中国蘇州の寒山寺を模して造られたという奥多摩寒山寺が佇み、水墨画に見るような景観を見せてくれる。
 楓橋を後にし、民家を右に見ながら渓谷の道を進む。この辺りからは渓流をカヌーで楽しむ人たちが目立つよう108-4.jpgになる。赤や青や黄色の色とりどりのカヌーを巧みに操りながら岩の間を滑る情景はいつまで見ていても飽きないものだ。小さな鵜の瀬橋を過ぎると「ゆずの里」というカフェがあり、その玄関口に『お山の杉の子記念碑』が立っている。佐々木すぐる作曲、吉田テフ子作詞の昔懐かしい童謡の記念碑だ。佐々木すぐるの自宅は都心にあったが、戦争中この地に疎開していたことから、当地で作曲したのだという。
「むかしむかしそのむかし 
   椎の木林のすぐそばに
     小さな小山があったとさ
         あったとさ  ・・・・・・・」
108-5.jpg ところで、鵜の瀬橋とカフエ「ゆずの里」の中間辺りに細い路地がある。路地を北に採り急坂を上るとすぐ青梅街道で、筋向いに丘陵を背景として大きな石の鳥居が立っている。ここは清和源氏の祖である源経基の伝説を残す青渭神社だ。上り坂の参道を400mばかり辿れば拝殿があるので時間があれば立寄ると良い。青渭神社は延喜式内社の古社で、ここ山裾には拝殿があり、本社は裏山の惣岳山の山頂にある。
108-6.jpg 青渭神社にはこんな伝説が残されている。承平天慶の乱のあった10世紀、将門追討の命を受けて京より東国へ下ってきた清和源氏の祖源経基が、将門を追ってこの辺りまでやってきた時のこと、多摩川の水が急に青く変わった。奇妙なこともあるものだとしばらく佇んで眺めていたら、神社の方から一人の童女が現れて、経基に「神のご加護により、必ず戦に勝つであろう」と告げた。経基はこのお告げに大いに力を得て、やがて将門を討ち反乱を鎮圧したという。
 元の道を進む。ほどなく比較的広い川原の横を通る。川原の端に「名水百選御岳渓流」と刻んだ大きな石碑が立っている。やがて前方に再び吊橋が見えてくる。御岳小橋だ。ここも行楽のポイントで橋の袂はちょっとした公園108-7.jpgになっている。対岸には奥多摩を愛した日本画家川合玉堂の作品を収めた玉堂美術館がある。木の間から見え隠れする古びた美術館は辺りの深い緑とあいまって、なかなか味わいのある景観を呈している。奥多摩小橋を後にするとすぐ前方に巨大なコンクリート製の御岳橋が渓谷の遥か上方を大きく跨いでいるのが見える。御嶽駅のすぐ前に架かっている橋だ。御岳橋の界隈は谷が一段と深く昼間でも 薄暗くひんやり感じられ、晩秋の頃は燃えるような紅葉が素晴らしい。カヌーも一段と増えて賑やかになってくる。御岳橋を抜けてすぐの所で、何気なく見上げると見事な石垣の遺構が目に入る。旧御岳万年橋の跡で、昔はここに橋脚の無い木製の太鼓橋が架かっていたという。文政3年(1820)の「御嶽山一石山紀行」によれば、長さ24間(約43.63m)、幅4尺5寸(約1.36m)、橋杭なし、牛馬の通りなしとのこと。天保13年(1842)、安政6年(1859)、明治31年に再架され、大正6年までここにあったという。
108-8.jpg 御岳万年橋跡を後にし、杣の小橋を過ぎると対岸に発電所が現れ、川筋は右へ大きく湾曲する。川筋に沿って右へ回り込むと前方に神路橋という吊橋が見えてくる。御嶽駅から徒歩で御岳山へ向かう際によく通った人道橋だ。神路橋を通り過ぎると広い河原が開け、川筋いっぱい迫っていた山は後退し、一瞬渓谷の雰囲気はなくなる。 そこに奥多摩フィッシングセンターの鱒釣り場があって、多くの釣り客が釣りを楽しんでいる。やがて遊歩道はゆったり左へ曲がり民家の並ぶ水辺の道になる。そのまま進むと青梅街道に出る。出口には以前は蕎麦懐石の「丹縄」があったが今は「せせらぎの里美術館」に変わっている。御岳渓谷遊歩道はここで終わる。
 ここからはしばらく青梅街道を進む。街道は大きく右へカーブする。惣岳山からの支脈が急傾斜で多摩川に落ちる。伝説にいう「尾崎の柵」とはこの辺りを指すのであろうか。
108-9.jpg 伝説によれば、承平年間平将門がここより上流の棚沢に居住した折、家臣の尾崎十郎が川井に尾崎の柵を、また対岸に浜竹五郎が浜竹の柵を構えたという。その柵にまつわる伝説に姫ヶ淵伝説がある。尾崎十郎の息子と浜竹五郎の娘は相思相愛の仲であった。娘は笛が上手で、夜毎娘の笛の音を合図に、若武者は藤蔓橋を渡り、浜竹の川辺で逢瀬を重ねていた。これに嫉妬した浜竹五郎の家臣が藤蔓橋の蔓に鉈目を入れたため、それとは知らない若武者はたちまち蔓が切れて谷へ落ちて死んでしまった。悲しんだ娘は以来笛を吹くことも無く、ある夜家を抜け出し淵へ身を投げてしまった。淵にはただ笛が一管漂っていただけだった。娘の死を哀れんだ村人は、この淵を姫ヶ淵と呼ぶようになったという。(この項つづく)


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