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妖精の系譜 №45 [文芸美術の森]

シェリーの 『マブ女王』 と精霊たち

        妖精美術館館長  井村君江

 シェリーがイタリアのリヴオルノからレリチに向けて出航したヨット『ドン・ジュアン』号が、はげしい雷雨に襲われて転覆し、シェリーが永遠に海に消えたのは一八二二年、三十歳の夏のことである。ローマのイギリス人墓地にキーツと並んで墓があるが、墓石にはリー・ハントの撰になる深い意味をたたえたラテン語Cor Cordium(心の心)が刻まれており、その下に「からだはどこにも朽ち果てず、海の力で変えられて、不思議な宝となっている」という詩句が書かれてある。これはシェリーが生前愛唱していた『嵐(テンペスト)』の妖精エアリエルの歌の一節である。宇宙に遍在する精霊的存在である「英知の美(インテクチュアル・ビューティ)」を追い求め、「西風」や「雲雀」「雲」を歌いつづけた詩人であるシェリーは、エアリエルにもたとえられようが、マシュー・アーノルドがシェリーを「大気の精エアリエルのように美しいが役に立たぬ天使」と呼んだことは、確かにこの詩人の一面をついている批評言かも知れない。
 一八一六年メアリー・ゴドウィン(のちのシエリー夫人)と彼女の間に生まれた息子ウィリアムと共に大陸に渡ったシエリーは、ジュネーヴで初めてバイロンに出会い夏を共に過ごし 『モン・ブラン』『英知の美を讃える歌』などを書いていたが、傍らにいたメアリーは小説『フランケンシュタイン』を書いていた。

  まだ少年だった頃、わたしは「幽霊」を探した、
    耳をすましているような部屋や洞窟、廃墟や、
    星明かりの森をぬけ、おののく足どりで、追いかけていったのだ、
  この世を去った死者たちと堂々と話がしたいという望みを求めて、
  晋作を培ってくれたいやな名前を呼んでみたが、
   織の声も聞こえず-誰の姿も見えなかった—
  人の運命を深く考えていると、「風」が「鳥」や「花」の便りをもたらし、
    すべての生命あるものをめざめさせる、あのやさしい時に
    突然あなたの影がわたしの上に落ちてきた、
  わたしは悲鳴をあげ、恍惚として
    手をにぎりしめた。
                『英知の美を讃える歌』 (「 」は著者)

 この一節からは、幽霊話の好きだった、しなやかな身体と碧い大きな目の感受性の強い少年シェリーの面影が浮かんでくるが、そればかりでなく、目に見えない霊的存在を追いかけ、歌っていた詩人のありかたが示されているように見える。その霊とは、この世を去った死者たち(それは自分を養ってくれた両親も入っていようが)である。自分自身の過去であり、シェリーの言葉を借りれば「霊感のやどる精神の洞窟」に思いをいたすことであろう。その「生の暗闇」にしばしば現われる「幻のような霊感」をとらえて「廃墟」から救い出し、「それを言語や形式に包んで人類の間に送り出す」ことが詩作だと、シェリーは詩論『詩の擁護』で述べている。
 『英知の美を讃える歌』のなかで突然詩人に訪れ、詩人に恍惚感をもたらす「あなたの影」とは、「詩的霊感」を意味している。詩人はこれを「美の精」(Spirit of Beauty)と呼んでお。、この詩の題には「英知の美(インテレクチュアル・ビューティ)」の語を掲げている。「詩はあらゆるものを美しくする」と信じる詩人にとって、詩は錬金術のように、ものを変質させる力があり、死から生へ流れる毒の水を黄金の流れに変え、日常性のヴェールをはぎとり、すべての形態の真髄である「美」を見せるのである。
 ここで「美の精」は「あなたはどこへ行ったか」と詩人に求められているが、「目に見えぬ力」「夏の風のように気まぐれな翼」で、「星明かりに広がる雲のように」大気中に遍在し、絶えず動いているものとして描かれている。ワーズワースの自然描写が静止的なものであるのに対し、シェリーの自然が非常に動的であるのは、この目に見えぬ「精霊」や「力」そして目に見える「風」「雲」「鳥」が、自在に大空を動いていることによろう。しかし『雲雀に寄す』に見られるように、鳥も実在する動物ではなく、「喜びの精」(b-i昏eSpirit)と歌われているように、目に見えぬ自在に空駆ける精霊なのである。目に見えぬ精霊は、シエリ1の時の中にさまざまな呼び名をとって歌われており「喜びの精(スピリット)・オブ・デライト」(『うた』)、「孤独の精(スピリット・オブ・ソリチュード)」「自然の精(スピリット・オブ・ネーチャー)」(『アラスター』)など目に見えぬ観念を、「スピリット」という精髄を示す言葉で表わしている。さらに「愛の精(スピリット・オブ・ラブ)」(『含羞草』)は、ジエイン,ウィリアムズという友人の美しい妻のことであるが、彼女を「一種のやすらぎの具現化の精」(a sort of spirit of emmbodied piece)とも呼んでいる。また『エビサイキディオン』では、テレサ・エミリア・ヴィヴィアーニを通し、理想的な愛と美の存在を求めた過程が歌われているが、ここでもその理想美を「やさしい精よ」(Sweet Spirit)、「精霊の翼もつ心よ」(Spirit Winged heart)、「不幸な囚われの鳥」「この卑しい現世をはるかに高く飛ぶ天使」「天の御使い」になぞらえている。シェリーがいかに「スピリット」という言葉に、そのもの自身、存在物の精髄という意味を仮託させていたかがうかがえるのである。
 このシェリーの「英知の美(インテレクチュアル・ビューティ)」の意味のもとに動く精霊たちについて、W・B・イエイツは「インドのヒンズー教に出てくる提婆達多(だいばだった)や、中世ヨーロッパの地水火風という四大元素の精霊や古代アイルランドの妖精に相当する」と言っており、これらの妖精たちはシェリーの詩の中で絶え間なく姿を変え変化するが、それは「神秘主義者やアイルランドの人々が幻想の中に描くような」動き方に似たものであると言っている。
 自在に動く精霊というシェリーの考えをよく表わしているのが、有名な『西風に寄せる賦』である。シェリーは「西風」を「秋の呼吸」である「烈しい風(ワイルド・ウインド)」と言い、「烈しい精(ワイルド・スピリット)」と呼んでいる。秋の朽ち葉を「魔法使いから逃れる亡霊のように」追い払い、墓の屍のように眠らせる「破壊者」とするが、一方、大地に吹き散らされた種を次の春まで保存する「保護者」と見ている。詩人はこう西風に呼びかける。

  なんじ、烈しき精霊よ、
  私の精霊となれ! 抑えがたい精霊よ、私となれ!

 西風は宇宙の大霊であり、詩人の死んだ思想を歌の魔力によって朽ち葉のようにまき散らし新しい生命をもたらす活力であり、破壊と再生の力でものごとを変質させる天成の力を持つものになっており、古代ケルトのドゥルイド思想が持つ輪廻転生観に類似している。シェリーの心はそうした古代の信念を、直観的に把握していたであろうが、イエイツが「シェリーの詩情に根なしの幻想的な雰囲気を与える」のは、「精霊たちが彼の詩のなかで絶え間なく姿を変えている」からであり、「伝統的な精霊の表わし方を知らなかったlためであろう」と評している言葉は肯けるものである。
 妖精が登場するシェリーの唯一の詩は、二十歳の若さで書いた長篇詩『マプ女王』であるが、これはひとつの寓意詩であり、観念的な教訓詩のようになっており、マブ女王には、精霊のような動きは見られない。妖精女王のマブが少女アイアンシの魂を車に乗せ、中空から世界の過去の歴史、社会、政治、経済、科学、宗教を見せ、その害悪を暴き、未来の理想世界を展望させるという筋で、人間悪の基因している制度を変革しようとするウィリアム・ゴドウィンの急進的な思想と理想的世界観を盛りこんだものである。マブ女王は「呪文の女王」(Queen of Spells)と呼ばれており、この世と死の世界の空間、過去、現在、未来の時間を支配する存在になっている。この女王のもとに仕え黄金の雲に乗り魔法の広間に入ってくる二人が、精霊(スピリット)と妖精(フェアリー)になっている点は興味深い。シェリーの中で、初期において妖精は精霊と区別して描かれているが、この詩篇のほか妖精という言葉で詩が書かれるのは、唯一、一八三九年に発表されている『断章 - 妖精の洒』のみである。このことは、妖精が無視されたということではなく、シェリーの考えの中において、妖精が精霊という言葉の中に包含され、溶解されてしまったことを示していると考えられるようである。
 プリッグズは「浪漫派の詩人のなかでキーツがもっとも妖精に近いところにいた」と言っている。確かにキーツの感覚は、妖精界の消息を捉えそれを豊かに表現している。しかし、シェリーの詩想の根底につねに動いていた精霊(スピリット)は、イエイツが指摘しているように、ケルトの妖精と同種のものであり、古代ケルトの思想ドゥルイドに近い生命観から出たもののように思われるので、こうした意味から考えていけば、シェリーもまた妖精の国という異界の消息を、伝え得た詩人といえるかも知れないのである。

『妖精の系譜』 新書館



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