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妖精の系譜 №31 [文芸美術の森]

『嵐(テンペスト)』のエアリエル 2

       妖精美術館館長  井村君江

 オベロンの姿が人間の目に見えなくなるだけなのに対して、エアリエルは変身が巧みであるが化けるものは火の玉のほか、海のニンフ、怪獣バービー、女神アイリス、実りの女神シーリーズ、全能の神の妃ジューノーなどローマ神話の神々で、仮面劇ふうの即興の余興を、静かな音楽の伴奏で演じるようになっており、パックが馬に化けたり、椅子に化けておばあさんを驚かすといった変幻自在な変身ぶりとは非常に異なっている。またこの余興劇も仲間の小妖精たちと演ずるわけで、エアリエルがパックや他の妖精と異なるのは、この仲間意識にあるともいえよう。歌好きで太鼓を叩いては「踊れ妖精軽やかに、歌え妖精華やかに」とはやすエアリエルは、歌、音楽、踊りの象徴的存在とも見られる。次のサミュエル・ジョンソンの言葉は、こうしたエアリエルの特色をよく語っている。

 エアリエルがふざけながら登場するのは、エアリエルが仲間と共に、明らかに妖精と称する種類に属し、エアリエルの歌が示しているように民間伝承では重要であるが、どこか滑稽で小規模な役割、あるいは自然を支配する上である詣課を混えた性格を常に与えられているからである。

 これは「使い魔」として十六年の年期奉公があけたら自由になる。々の下で歌って遊んで暮らしたいと憧れ歌うエアリエルの歌につけられたサミュエル・ジョンソンの脚証である。「使い魔」であるせいか「おれをつねったり、おどした。、泥沼につき落としたり、鬼火に化け夜道を迷わせる」とキャリバンが言い、プロスベロも「月夜の草原に緑の輪をつくり、真夜中のキノコ作りにいそしむ妖精たちよ」と民間伝承で知られた妖精の性質を台詞の中で言っているのに、実際の動きではエアリエルはそうしたいたずらからは遠く、「淡い大気のなかに溶けていく」軽やかな空気の精霊として描かれているようである。
 エアリエルは人間に対して憐れみを感じたり、喜びを共にしたりもできるようだが、一方憐れに思うかと聞かれて、「はい、もし私が人間ならば」と答えているのでもわかるとおり、それにも限度がある。主人に対して「私をかわいがってくださいますか?」とか「よくできたでしょう」と甘えたり、一所懸命仕事に励むあたりはなかなかかわいい妖精である。
 エアリエルを典型的な妖精と呼ぶことはおそらくできない。彼の性格はあまりにも雑多な要素からできているし、イギリスに古くからあったような意味での妖精とは見なせない。しかしながら彼が発表当時からフェアリーだとされてきたということは、逆にフェアリーという概念がイギリス人にとっていかに親しいものであったかを示すものではないだろうか? 彼らはエアリエルをともかくフェアリーだと認めたうえで、あらためて「非常に変わった種類の」と付け加えた。今日フェアリーという言葉は、本来の意味に比べれば非常に拡大して用いられ、大男や人魚や時には動物までがフェアリーと呼ばれ、それらの出てくる物語はフェアリ1・テイルとされているが、この傾向の発芽は、このエアリエルや先にティタニアのところで述べたニンフやナイアドがフェアリーと訳されたことに見るとおり、この当時からあったということができるだろう。
 『嵐』の中には妖精たちに対して「アーチン」と呼びかける場所がある(第一幕二場)。この名前はケルト系の起源をもつフェアリーの一種のものであり、スコットランド地方の妖精ウリシュクもこれに似ている。アーチンは本来「はりねずみ」の意味だが、相当古い昔から十七世紀初頭までゴブリンやエルフを指すのに用いられた。『ウィンザーの陽気な女房たち』の中には子供たちを妖精に仮装させて「アーチン、ウーフ、フェアリー」(第四幕四場)に仕立てようという台詞がある。この「ウーフ」という語も「エルフ」と同じ語源を持ち、グリムによれば中世ドイツ語のウルフあるいはその複数形ウルヴと呼応するものであり、ウルフあるいはアルフはすなわち英語のエルフであって、これはスウェーデンの民謡集成の中にエルフ王がヘル・エルフヴェール、ヘル・ウルフヴェールと呼ばれていることからも立証される。
 プロスベロの台詞のなかにフェアリー・リングのことがでてくる。

 月夜に羊も食わない苦い緑の輪を草地につくるおまえら、真夜中に茸をつくって遊ぶおまえら妖精たちよ。

 この緑の輪がすなわちフェアリー・リングである。古い牧場などで草の一部だけが環状にとくに色濃く茂って見えることがある。これはある種のキノコの影響によるのであるが、昔の人々はこれを妖精たちの円舞と結びつけて考えた。月夜にたくさん集まって一晩中踊りあかす妖精たちの、その踊った跡がこのフェアリー・リングだと考えたのである。これはイギリス人だけの考えではなく、ノルマンディーの農村でも「妖精の輪」と呼んでいる。またアテネの神託の中にも、フェアリーの輪ができたところに家を建てれば、そこに住む人々は富み栄えるという言い伝えがあるという。話をシェイクスピアに戻せば、『ウィンザーの陽気な女房たち』の中にもこれに関する台詞がある。

 ガーター館の輪のようにまるくなって歌え、草地に一段とよく茂る草の輪をこしらえろ……

 さらに『マクベス』の中でも「さあ大釜のまわりで歌えや歌え、輪になったエルフやフェアリーのように」とあり、また、非常に速く成長するので一夜でできあがるように思えるキノコそのものも、妖精たちがせっせと月夜に作りあげたのだと人々は考えていた。
 『リア王』にもフェアリーが、それもとくにケルトの伝説にもとづいたフェアリーが多く登場するし、それに関する民謡の断片も出てくる。けれどもそれは、骨の鐘が鳴ると歩きだし、一番鶏が啼くと消えてしまうフリバティー・ギベットだったり、雨蛙やおたまじゃくしややもりからねずみまで食べるマッド・トムだったり、歩く火(ウオーキング・ファヤー)だったりして(『リア王』三幕から四幕)、本来のフェアリーとは呼びにくい怪異なものが多い。
 フェアリー・リングとならんで妖精たちに関連して出てくる語にピンチングがあり、これもシェイクスピアにはしばしば出てくる。フェアリーは労働の報酬をきちんとしない人間や、だらしのない連中、それに不信心者などをつねって、青や黒のあざを作るということが非常に広く知られていた。キャリバンが毒づくと、プロスベロは「例の小鬼どもが……身体中をつねりたてて、蜂の巣のように穴だらけにするぞ」とおどかすし、また『ウィンザーの陽気な女房たち』の中でも「もしも火が埋けてなかったり暖炉の掃除をさぼったりしたら、女中どもをつねってやれ、くろうすごのような跡がつくまで」「慨悔もしないで寝ているような奴は、つねってやれ、腕も足も、背中も肩も脇腹も、そして尻もだ」とある。そしてフォルスタッフは妖精に化けた子供たちからさんざんつねられる。これは民間伝承をそのまま巧みにシェイクスピアが利用したわけである。

『妖精の系譜』 新書館



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