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海の見る夢 №32 [雑木林の四季]

              海の見る夢
        -Very Early―
              澁澤京子

 少し前のアカデミー賞授賞式で、妻の脱毛症をからかわれたウィル・スミスがコメディアンであるクリス・ロックを平手打ちするという事件があった。日本では圧倒的に妻を庇ったウィル・スミスを擁護する声が多いのに対し、アメリカではウィル・スミスの暴力を非難する声が多いらしい。「己自身と不調和になるより、世界全体と対立するほうがまし」というソクラテス的倫理に従えば、たとえそれが暴力でも、妻を侮辱されたことに抗議したウィル・スミスに理があると思うが・・

ウィル・スミスの事件でなんとなく思い出したのは、メルヴィルの『ビリー・バッド』。ビリー・バッドという若い水夫がいる。無学だが純朴で同情心に厚く、ギリシャ彫刻のような体格を持ち、誰からも好かれる明朗で快活な美青年。ビリー・バッドの人気に妬みを持つクラッガード曹長という陰気な人物がいて、彼は部下を使い、ビリー・バッドに濡れ衣の罪を着せて艦長に密告する。身に覚えのない罪を問われ、思わずカッとしたビリー・バッドはクラッガードを無意識のうちに殴ってしまうが、打ちどころが悪くて死なせてしまう。艦長は善良なビリー・バッドを死刑にすることを苦悩するが、翌日、ビリー・バッドは絞首刑となる。自然が沈黙しているように、ビリー・バッドは自分を一切弁護しなかった。

~「人類にあっては形態がすべてなのだ、節度のある形態がね。・・」~『ビリー・バッド』

『ビリー・バッド』では、罪をねつ造する密告者クラッガードの陰湿な性格と二面性がリアルに描写されていて、(自己保身の事しか考えない、表面は愛想のよい裏表のある人物)ビリー・バッドと会わなければ、ただの陰険な人物ですんだだろう、それまで悪意を持たなかったビリー・バッドが衝動的に殴ってしまったように、この小説で出来事はほんの偶然の積み重ねによって起こる。無意識のまま行動する自然児のビリー・バッド、奸計・陰謀を巡らすクラッガード、そしてビリー・バッドに死刑を宣告する艦長。登場するのは、ビリー・バッド(自然)、クラッガードの陰謀(知性)と法(理性)。人間は一体、何を信頼したらいいのか?というテーマになっている。

ウィル・スミス事件を『ビリー・バッド』に当てはめて考えると日本でウィル・スミス(自然)を擁護する声が多いのも分かるし、暴力を否定する声(法)の多いアメリカはやはり法治国家なのかもしれないと思う。

それでは倫理はどうだろうか?ある人間がどういう倫理観(規範)、つまり良心を持っているかは、育った環境・文化によっても違う。それぞれ違う育ちと倫理感覚を持っている人間が出会う映画がある。

エリック・ロメール監督の『レネットとミラベル』。画家を目指す田舎育ちのレネットと、都会育ちの学生ミラベル。仲良くなった二人の少女はパリのアパートで一緒に暮している。ホームレスを見ると思わずお金を渡さずにいられない純朴なレネットの影響を受け、いつしかミラベルもホームレスにお金を渡すようになったり、二人の少女の友情が微笑ましいが、倫理感覚の違いで二人は時々、衝突する。ある日、スーパーで万引きをした女性を逃がしてあげたミラベルを、レネットは怒る。レネットにとって万引きはどんな状況の人間にとっても厳重な罰に値する「悪」であるが、ミラベルにとって、万引きの動機によって(貧しく飢えていたせいで、とか)一年や二年の服役の刑はあまりに重すぎるので逃がしたというのである。ここで、「法」は絶対のものであると考えるレネットと、「法」を絶対なものとせず、倫理は個々の人間の状況の問題として考えるミラベルとの倫理観の違いが出てくる。価値観の違いで、二人が御互いに自己主張しあい、徹底的に白熱して議論する辺りはフランス人っぽい。議論になると、都会育ちの生意気なミラベルの方が有利。弁舌に長けた彼女の才能はその後、レネットの絵を画商に売りつけるときにも見事に発揮される。

真面目で潔癖なレネットは、下手すると法を盲信したナチスになりそうだし、倫理を個人的なものとして自由に考えるミラベルははずれものやアウトサイダーになる恐れがあるが、「法」を絶対として裁くレネットに比べると、ミラベルのほうが万引きした女性の気持ちを慮る「良心」というものを持っている。日本でウィル・スミスを擁護する声が多かったのも、「法」の重視より、奥さんをからかわれた彼の気持ちを思いやる「良心」の声が多いからだろう。つまり日本人のほうが「自然」を重視する分、「法」に対する柔軟さも持っているという事じゃないだろうか。(日本人の自然重視によって、戦争という人災さえも、あたかも天災のように「仕方ない」としてしまう弊害を持っている事は丸山真男が指摘した通りだが)

もちろん、田舎で保守的に育てられたレネットと、都会で自由な教育を受けたミラベル、田舎と都会の文化の違いもある。レネットの保守性は権威・伝統主義に結び付きやすく、ミラベルの自由はともすると制度や秩序を壊すだけの破壊者になりやすいが、法や権威を盲信しないミラベルのほうが自律した大人の判断力を持てるのは、悪を自分以外のところに設定するのではなく、自分の内部にもあるものとして柔軟に考えることもできるからだ。

阿武町の4630万円誤送金問題で、お金を使ってしまった人の氏名、顔写真まで公表され、ついに逮捕されたが、レネットだったら、悪い事をして法で裁かれているのなら公表されて当然と思うだろうし、ミラベルだったら、たかだかお金を使い込んだだけで個人情報まで暴露され逮捕されるのはとんでもない嫌らしいやり方と思うだろう。レネットのナイーブさが自覚ないまま偏狭さや排他性に傾きがちなのを、ミラベルの柔軟な思考が救っていて、逆にレネットの優しさと素朴な利他心がミラベルに良い影響を与えている。

映画の中で、田舎の夜明け前の静寂な時間を体験させるため、レネットがミラベルを起こすシーンがある。陽が上る前の一瞬の静寂の「青い時間」。この原初的な自他未分化の時間の感動を共有したことが二人の少女の絆になっている。自分の宝物にしている「青い時間」を何とかミラベルにも体験させたいと夢中になるレネットが可愛らしい。夜明け前の、世界全体が青に染まる、海の底にいるような静かな時間、まだ偏見など世俗の価値観によごれていない二人が御互いに自分の意見を正直に相手にぶつけ、衝突しながらも何とか理解し合おうと努力する姿は真剣そのもの。ちょうど親の価値観に反抗し、自分自身の価値や倫理を形成していく青い時代。人に対しても世界に対しても初々しい柔らかな心が開かれている短い一時期。人の倫理や価値観というのは、若い時のこうした人間関係の中でゆっくりと育っていくものだと思う。つまり倫理というのは、友人との会話や、人生経験や文学を通して学んでいくうちに徐々に形になってゆくものじゃないだろうか。

タイトルの「Very Early」はビル・エヴァンスが若い時に作曲したピアノのための曲。これを聴くと、子供の頃の夏の朝を思い出す。目が覚めると部屋の壁にはカーテンの隙間から差し込む夏の陽射しが細長く光っていて、まるで世界全体が黄金に輝いているように思えたのだった。

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