SSブログ

論語 №141 [心の小径]

四四七 子のたまわく、古者(いにしえ)民に三疾あり。今や或いはこれこれなし。古(いにしえ))の狂や肆(し)、今の狂や蕩(とう)、古の矜(きょう)や簾(れん)、今の矜や忿戻(ふんれい)、古の愚や直(ちょく)、今の愚や詐(さ)のみ。

        法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「昔の人に狂・矜・愚の三癖があったが、その癖さえも今では堕落してしまった。狂は気位が高過ぎることで、昔の狂は小節に拘泥せぬ程度だったが、今の狂はでたらめである。矜はおのれを持することが厳に過ぎることで、昔の矜は物事に角が立つのだったが、今の矜は強情我慢である。愚はすなわちばかだが、昔の愚はばか正直であり、今の愚はばかずるいのじゃ。」

四四八 子のたまわく、巧言令色鮮(すく)なし仁。

 これは全然重出(三)なので、すべてを略して、思い出した江戸笑話を一つ書いておこう。儒者の塾に忍び込みし盗人を内弟子たちが捕えて突き出そうとするを、師匠が止めて懇々説諭(せつゆ)し、過(あやま)って改むるに憚(はばか)るなかれと、銭そくぱくを握らせて放してやる。盗人手をあけて見て「鮮し仁」と言った。

四四九 子のたまわく、紫の朱を奪うを悪(にく)む。鄭声(ていせい)の雅楽を乱すを悪む。利口の邦家を覆すを悪む。

 孔子様がおっしゃるよう、「間色たる紫がそのなまめかしさの故に正色の赤を圧倒することがにくむべきと同様、鄭国の俗楽が耳に入りやすきが故に先王の正楽を混乱し、多弁の偉人が君にへつらい、善人を陥れて国家を危くするは、にくむべき極みである。」(参照~三八六)

四五〇 子のたまわく、われ言うことなからんと欲す。子頁いわく、子もし言わずんば、すなわち小子何をか述べん。子のたまわく、天何をか音うや、四時(しいじ)行われ、百物(ひゃくぶつ)生ず。天何をか言うや。

 孔子様が、「わしはもう何も言うまいと思う。」 と言われた。子貢が驚いて、「もし先生が何もおっしゃらなかったら、私ども門人は何を拠り所として先生の教えを宣伝致しましょうや。」と言った。そこで孔子様がおっしゃるよう、「天は何か言うかね。天は何も言わぬけれども、春夏秋冬の四季は時を違(たが)えず、百物は日に日に成育する。天は何か言うかね。」

 伊藤仁斎は本章を説明して、「これ学者の言語に求めずして深くその実を務めんことを欲するなり。それ実ありて言うことなきは以て患(かん)と為すに足らず、言うことなしと雖も必ず行わるるを以てなり。もし言うことあるも耐かもその実なければ、すなわち巧文麗辞天下の弁を極むと雖も益なし。」といっているが、少々見当違いではないだろうか。本章はむしろ「われなんじに隠すことなし」(一七〇)と対応する。すなわち口で言って聞かせずともわしの一挙一動をそばで見ているのだから、わしの趣旨はわかるはずじゃ、と言われたのだと思う。自らを天に比したところに孔子様の抱負の大なるを見る。

『新訳論語』 講談社学術文庫


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。