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多摩のむかし道と伝説の旅 №76 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅
                        -幻の旧五日市鉄道廃線跡を行く-2
               原田環爾

 立川南通りの右側歩道を青梅線(旧五鉄)に沿って進む。右手に猫の額ほどの小さな駐車場がある辺りにくると、高さ1m、長さ数10mほどの土手の様なものが線路脇に見える。次の緑川通りとの交差点「富士見五丁目」2-2.jpg2-1.jpgにある上野原踏切から先ほどの土手を見返すと、これがかつての武蔵上ノ原駅のプラットホームの残骸であることが推察できる。次の交差点「立川四小前」の辺りから青梅線は次第に北方向へカーブしている。踏み切りに立てばその様子がよくわかる。しかしかつての五鉄はこのまま立川南通りに沿って走っていた。次の小さな辻辺りから立川南通りはゆっくり南へカーブして行く。その辻のすぐ右手に「裏通り踏切」と称する幅2mばかりの通行人専用の小さな踏切があり、その手前に何と「工」マークを刻んだ高さ30~50cmばかりの石柱が2本立っている。「工」マークは鉄道を管理したかつての工部省の「工」に由来し、これこそ五鉄がここを通っていた証である。
2-3.jpg 立川南通りを進む。富士見橋で残堀川を渡り、富士見通りを横切ると沿道左に緑豊かな公園とも農園とも言えるような広大な敷地が展開する。都立農業試験所の施設だ。ほどなく試験所入口の前に至る。守衛所も何もないのでちょっと失礼して中に入るとよい。素晴らしい農園の風景に、先ほど迄の喧騒がまるで嘘のように思えるだろう。しばし都会のオアシスの様な農園の景観を楽しむことができる。 
 農業試験所を後にすると、隣は都立多摩職業能力開発センターになっ2-4.jpgている。以前は都立短大であったがいつのまにか変ってしまっている。傍らの交差点の標識も「都立短大」から「産業サポートスクエア」となっている。この辺りに旧郷地駅があった。南西角地に大法商会というカップやトロフィーを扱う店があり、その南側に幅2m足らずの狭い路地が南西方向へ集落の中へ入って行く。この路地が旧五鉄の廃線跡なのだ。路地に入るとすぐ道は左右に分岐する。かつては分岐点に東町第5自治会の粗末な小屋があったが今は撤去されてなくなっている。廃線跡はこの小屋跡の上を通って左側の広い街路に入る。街路は住宅街をゆったりと左方向へカーブを描きながら走っている。この通りこそ現2-5.jpg在「五鉄通り」と呼ばれる通りなのだ。程なく五鉄通りはゆったり右方向へカーブする。通り右手にこんもり雑木林で覆われた公園が現れる。昭和公園だ。昭和公園の入口前まで来ると、そこに五鉄の由緒を記したパネルが立っている。パネルには五鉄通りがかつての五日市鉄道の路線であったことが記されている。
 由緒書にはこんな風に記されている。『この東西の道路は、昭和5年(1930)から昭和19年(1944)までの間、立川駅と拝島駅を結んでいた五日市鉄道の線路跡で、すぐ西には武蔵福島駅がありました。現在のJR五日市線の前進である五日市鉄道は、大正14年(1925)4月21日、拝島・武蔵五日市駅間(11.1km)が最初に開通し、蒸気機関車が走りました。後に立川駅までの延長が認められ、立川・拝島駅間(8.1km)が昭和5年(1930)7月13日に開通しました。 立川・拝島駅間には「武蔵上ノ原」「郷地」「武蔵福島」「南中神」「宮沢」「大2-6.jpg神」「武蔵田中」「南拝島」の8駅がありました。旅客用にはガソリンカ ーが運転され、「五鉄」の愛称で親しまれた五日市鉄道は昭和15年(1940)に南武鉄道と合併し、昭和19年(1944)4月1日には、太平洋戦争の影響で青梅線といっしょに国に買収されました。そして、近くを青梅線が走 っていることから、立川・拝島駅間は昭和19年11月付けで休止路線とされ、そのまま廃止されました。』 と。(この項つづく)



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