SSブログ

海の見る夢 №23 [雑木林の四季]

      -Conversation With Myself~Bill Evans-
                                     澁澤京子

 渋谷発の銀座線に乗ると、隣に座ったおじさんが坐るや否や、文庫本を取り出して読み始めた。私の斜め前に座っているサラリーマン風の男性も本を開いて読んでいる。下りる時、手すりのすぐ近くに座っている若い男の子も熱心に本を読んでいた。電車の中でスマホを眺めるのではなく、本を読む人が同じ車両にこんなにいるなんて珍しい・・

スマホやSNSの登場により、人が本当に孤独になれる時間が少なくなった。少なくとも読書は、ラインやメールのように反応するものではないので、人にじっくりと考える時間を与えてくれる。(特に上質の本は考えるきっかけをたくさん与えてくれる)SNSによって、孤独な時間が減るという事は、考える時間が減ったということなのかもしれない。

一時期、ネットで「小泉進次郎構文」というものが流行っていて、実に面白かった。小泉進次郎氏の演説「・・今のままではいけないと思っています、だからこそ、日本は今のままではいけないと思っている。」を元にしたもの。そうした無意味な同語反復を小泉構文というらしい。「満開の桜を見ると、桜が咲いているなと思いますね。」など、すごく緊張した時とか、何も考えていないが何か言わないといけない時、誰しもそれに似た無内容なことを思わず言ってしまったことがあるかもしれない。パフォーマンスだけが大切な政治家の究極の言葉なんて、案外こんなものかもしれない。それでも、某元総理の「美しい日本」に比べたら、小泉構文のほうがずっと可愛いが。

要するに、「拠り所」が世間の目だけだと、人は当たり障りのない綺麗ごとを言おうとするものであり、それは次第に空虚な形骸化した言葉となり、言葉というのは簡単に死滅してしまう。言葉の死は、感受性の死と同じで、精神を喪失した上辺だけの言葉が、巷にあふれることになるのであり、精神を喪失すれば、皆が評価すれば何か価値があるような気になり、噂や風評を真に受けやすく人の影響を受けやすい、要するに他人に流されやすい人物になりやすい。

ヘイトスピーチが公になったのも、そうした言葉の死の状況で(暴言=イキイキしている)という勘違いから生まれたのかもしれない。(トランプ人気もそうだろう)暴言、毒舌がサマになるためには、実は繊細さと頭の良さ、抜群のバランス感覚が必要で、暴言・毒舌のサマになる人はまれにしかいないと思うが。まず普通の人がやれば、イキイキするどころか、辺りにゴミをまき散らしているのとたいして変わらなくなる。(私のこの文章もそんなものかもしれない・・・)

「地球を大切に」は、効果のないおまじないのように何度も唱えられているうちに今や「人類皆兄弟」と同じように現実と乖離した薄っぺらな標語となってしまった。グレタさんの怒りの方がはるかにこちらの胸を打ち、空虚なスローガンやヘイトスピーチのような薄汚れた感じがまったくないのは、彼女の言葉が真剣に悩んで考え抜いた末の正直なものだからだ。

あるいは、ガッツ石松氏の「僕は、ボクシングを始めて360度人生観が変わりましたね。」の発言などは、言葉がちゃんと生きていている。ボクシングがいかに彼の人生において重要な転機になったかがシンプルに伝わってくるし、360度と言ってしまうところに、ガッツ石松氏の人柄がそのままにじんでいるではないか。

言葉は、長い間、無意識の底に沈殿して血肉化された時に初めて生きるものだと思う、誰かに言われた言葉、あるいは聖書の一句や小説の一節が、ある時、何かをきっかけに不意に浮上して「わかる」ことがある。頭だけの理解ではなく、本当に「わかる」とはそういうことなのであって、優れた詩も小説も、わからないままひっかかる言葉を必ず残してくれるのであり、心の中にわからないままひっかかっている言葉がある事はとても大切だと思う。

孤独と沈黙の時間を持てないと、いわゆる人の話をじっくりと聞くことのできない、思い込みと偏見の強い人が増えるだけだろう。「やさしくわかる~」の解説本があふれていて、なんでも説明されればわかる、という風潮の中では、結論だけ知ってわかったつもりになる、自分で考える行為を放棄する人が増えたんじゃないだろうか?(私の場合、もやもやっとした違和感が考えるきっかけになることが多い)

人が孤独になるためには何か拠り所が必要で、芸術であるとか、学問的「真理」であるとか、あるいは宗教の「神・仏」のような、そういった拠り所とするものが何もない場合、人の拠り所は世間の目だけになってしまい、自分の内側に向かうことができずにたえず他人の反応を気にするようになり、たとえ一人でいても孤独の時間を持つことができなくなる。

孤独の時間、はじめて人は、試行錯誤したり、自分の無意識と向かい合うことができる。無意識と向かい合うということは、自分で考えることであり、孤独は自分で考える力を養う時間なのである。中世のキリスト教や仏教のお坊さんの言葉が力強いのは、人里離れて修行して自分自身を掘り下げ、死にもの狂いで無意識と格闘したからだろう。疑問は卵のように、大切に温める時間が必要なのである。

「自分探し」というのがあるけど、本気で自分を探そうとすれば、自分の無意識に潜り込んで、傷ついた様々な記憶、そして子供~幼年時代の記憶までさかのぼっていかないとならない。自分自身を見つけるのは、実に困難な作業なのだ・・(アーティストも同じようなプロセスをたどるのだと思う)

人の無意識というものは、本人が自覚できないままその人の本質や、個人的な歴史を暴露してしまうことがよくあるし、もっと奥深くでは、意識が全く気づかない物事や状況の全体や真実を知っていることがある。稀に予知夢であるとか、夢と現実が思いがけず一致してしまうのも、無意識の力によるものだろう。マーラーが「亡き子を偲ぶ歌」を作曲した後、偶然、現実でも自分の愛娘を亡くしてしまうとか。

能楽師の安田登さんによると、「誠」というのは、(言葉)と(なるべきように成る)の一致なのだそうだ。つまり言葉が無意識の奥底と一致した場合のみ、「誠」になる。そうすると「誠であれば勉めずして中り、思はずして得、従容として道に中す」(努力せずとも的中し、思い悩まなくとも手に入り、自由にしていながら道にかなう)状態になるらしい・・(ちなみに、安田登さんの古典読解の本はすごく面白い)

何だかオカルトめいているけど、なるほど、その通りだろうと思う。優れた宗教家や、才能ある詩人や音楽家、アーティストには、(私であって私でない)状態、いわゆる「神がかり」のような、無意識の奥底にタッチしたこういった経験を持つ人が結構いるんじゃないかと思う。マーラーのように自分の人生を予言するような作曲をしてしまうとか。

孤独の中で、自身の無意識と向かい合うのは、自分の故郷を探すようなものである。

そして、無意識の奥底深くから浮かび上がってきた言葉だけが本当に力を持つのであって、「言葉の力」とは本来そういうものじゃないだろうか。

タイトルはビル・エヴァンスのアルバムから。この人も孤独を大切にして、自分と向かい合う時間を持った人であることは、彼のピアノを聴けばなんとなくわかる。



nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。