SSブログ

日本の原風景を読む №29 [文化としての「環境日本学」]

コラム

  早稲田大学名誉教授・早稲田環境塾塾長  原 剛

ツル細工の智恵
 自称「売れない酒屋の女房」こと渡辺史子さんは、阿賀町きってのツル細工師である。材料はアケビとクルミの樹皮、それにヒロワ(草)。阿賀は植物の種類が多く、ツルを使った背負いカゴなど生活道具づくりの技が伝わる。カゴ類、容器、飾り物などから伝統民具の香りが漂う。物産館などで売られ、狐の嫁入り屋敷では細工も実演されている。
 材料はすべて九月に採取する。アケビのツルは樹木に絡んでいるものではなく、根っこのような地下茎を一メートルほどの長さで採る。クルミは切り株から二メートル程に再生した若い枝木の皮を求める。「クマと出くわさないよう、気配りせんとな」。
 止め糸となるヒロワは日蔭を好み、かって蓑本体に用いられた五〇センチほどの軽やかな、しかし丈夫な草である。材料を水にさらし、陽に干し、叩いたり、ほぐしたりの下ごしらえを経て作品に仕立てられる。
 「ツルや樹皮の編み目を詰めず、隙間を広げているのは何故?」。
 「山でキノコを採り、背負いかごに入れて運ぶ時に、キノコの胞子がカゴの隙間からこぼれて、翌年そこにキノコができるから」。伝統民具にこめられた暮らしの知恵の深さを思う。
 「阿賀町の花」はユキッバキである。枝や幹がしなやかで、積雪にしっかり耐え抜く。アケビもクルミもヒロワもみんなその同類だ。豪雪にも慌てず、騒がず。心折れることもなく、渡辺史子さんは古老から伝授されたツル細工を日々黙々と楽しんでいる。
 「東京の原宿と表参道で、おらはのカゴが何万円かで売られていてたまげたな。一〇倍だもんな」。
 民具を生み、育てた豊かな自然と人の営み。麒麟山の植物群落はツガワマタクビ、キリンツクバネウツギなど新種をまじえて六百種を超え、新潟県の天然記念物である。
 巨木も多く、樹齢二四〇〇余年、幹周一九メートル、樹高三八メートル、平等寺境内の「将軍杉」は、国の天然記念物に指定されている。

心を癒す森のイスキア
 弘前市に住む佐藤初女さん(二〇一六年二月没、享年九十四)は、岩木山の山麓に「森のイスキア」を設け、この二〇年間、訪れる悩み深い人々を迎え入れ、蘇生させてきた。イスキアとは地中海の島の名である。若くして心朽ちたイタリア・ナポリの富豪の息子が、島で勇気を取り戻し、社会に向かった。
 佐藤さんはイスキアにたどり着いた人々に、地元で採れた食材を生かした料理を振る舞い、元気回復の手助けをすると共に、講演活動も活発に行ってきた。
 佐藤さんを慕う人々のイスキア訪問が日々絶えない。微笑で迎える主は、しかし言葉少なに、季節の食材を整え、ひたすら食材の命と向かい合い、訪問者の食卓に供してきた。
 深夜、ひそかに独りイスキアに辿りつく人々もいた。そこで初女さんのおにぎりをご馳走になり生きる力を得た人は数えきれない。手製の梅干しをまん中に、海苔でしっかりくるみ、きれいな丸型に仕立てられる。
 「言葉では通じない、言葉を超えた行動が魂に響きます。私は食べることが好きなので、どんな方とでもとにかく食べよう、ということでその人のために料理をして待っています」。
 食べることはいのちのやりとりである、と佐藤さんは語っていた。「嬉しい気持ちで食べると食材も喜んでいる、という感じです。ニンジンや大根の皮が荒っぽくむかれるのを見ると、もしこれが自分だったら、とつらい気持ちになります」。
 森のイスキアに供される食材の多くは全国から”寄進″されたものだ。
 初秋のある日、私たちが昼食に食べたサンマは北海道厚岸から贈られたものだった。佐藤さんの講演を聴いた人からのお礼のメッセージである。一〇皿に及んだ昼食の素材は、贈られた品々が多く使われているとのことだった。
 佐藤さんは青森、弘前でキリスト教の教育を受けた。しかし、イスキアを訪れる人に聖書の言葉や仏典をそのまま語ることはなかった。
 「森のイスキアは岩木山が真正面に見えるところに建てました。私たちはお山と一緒、山と結ばれていて、山はすべてを超えて、あらゆるものを包み込んでいる感じです。どなたでもここで祈って満足していくのです」。
 サロンの片隅の里壇には、来訪者が残したキリストやマリア像と共に、菩薩や地蔵の像もみられる。
 東日本大震災の後、イスキアを訪れる人々に変化が見られる、と佐藤さんは指摘していた。「私の料理を食べることよりも、私のそばにいるだけでいい、と言われます。皆さん不安だからでしょうか」。
 佐藤さんは、〝歩く岩木山″などといわれていた。「私には岩木山のような大きな心構えはないけれど、出会う一人一人を大切にして、小さなことを積み重ねていく。それが大きな希望を満たす道につながるかもしれませんので」。

神と共に飲むどぶろく~どぶろく特区
  濁り酒-「にごり酒」「だくしゅ」ともいう。
 日本酒を醸造し、ろ過しないでもろみのままで飲む。酒税法では「その他の雑酒」とされ、神事用のおみきとして、特定の神社で年に一八〇リットル(一石)まで造ることがみとめられているほかは、昭和の初期から製造が禁じられてきた。
 どぶろくには密造酒のひそやかなイメージと、酒を介してカミとの交歓を重ねてきた土俗の記憶とが秘められているようだ。
 いろいろな規制を緩めて地域に活力を、と二〇〇二年に構造改革特区の事業が始まった。新潟県内では小千谷、魚沼、佐渡など九市町に税務署の“監視”つきで「どぶろく特区」が登場した。
 稲作が日本列島に伝わった縄文時代の末期この方、私たちの先祖は全国津々浦浦で“八百万のカミ”とどぼろくの饗宴の歴史を綴ってきた。確かにどぶろくには地域を元気にする力が秘められているのである。
 信濃川沿いの河岸段丘から西の山地へ。長岡市との境に近い小千谷市時水の「越後のどぶ 毘沙門天」の蔵元に、どぶろく造り認定者、池田徳右工門さんを訪ねた。蔵とはいえ3DKほどのプレハブ平屋建てである。仕込み作業場にステンレス製の器具が連なる。「精米」「洗米・浸潰・蒸し」「冷却」「米麹・乳酸・酵母仕込み」「発酵」を経て、一四日間で濁り酒に仕上がる。
 米は新潟県が誇る酒米「五百万石」、仕込み水はかっての山城時水城の近くに湧き出る姥清水(ばばしみず)。洒永のそばは車の列、ペットボトルを抱えた人が順番待ちしている。
 米と麹の総量に対し、甘口で一・五倍くらい、辛口でそれより多い量の水を加え発酵させ、仕上がった濁り酒は王冠に針の穴はどの穴をあけた瓶に詰め、一〇度以下で保存する。ぴん詰めの濁り酒は発酵し続けるので、王冠の穴からガスを逃がさなくてはならない。
 池田さんは語る。「同じ味の濁り酒を二度とつくることはできません。どぶろくは茶碗で飲み、酒の肴はいりません。それがどぶろくというものです」。その奔放な味わいに、我が内なる濁り酒の記憶が力強く蘇ってくる。

『日本の「原風景」を読む~危機の時代に』 藤原書店


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。