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ケルトの妖精 №36 [文芸美術の森]

ハべトロット 1

          妖精美術館館長  井村君江

 むかしスコットランドのセルカークに、ジャネットという、美しいけれども気ままな娘がいた。風の音を聞いたり草の波を眺砦。花を摘んだりすることが大好きで、いつも鳥や鹿のように駆けまわっていた。
 ところが困ったことに、家にいることがひとときもなかったから、娘ならだれでも身につけているはずの嫁入りのためのたしなみが、なにひとつ身についていなかった。糸紡ぎや、機織りもちっともできなかった。
 母親はこれをたいそう心配して、娘に糸紡ぎや機織りを教えこもうとしたが、気ままに出歩くジャネットを、糸車の前に座らせておくことは、ついぞできなかった。
「今日こそ糸を紡いでおきなさいよ」と、きびしい顔で毎日言いつけるのだが、いつのまにかいなくなってしまうのだ。
 とうとうかんしゃくを起こした母親は、ある日ジャネットの首ねっこを押さえつけて、七つの綿毛のかたまりを押しつけ、
「三日のうちに糸に紡いでおかないと承知しないよ」ときつく言いわたした。
 母親の剣幕に驚いたジャネットは、こんどこそ糸紡ぎに精をださないと、とんでもないことになりそうだと覚悟をきめ、慣れない手つきで、糸を紡ぎはじめた。
 しかし、働いたことのないやわらかいジャネットの手はすぐにはれあがり、糸をなめながら紡いでいると、くちびるがヒリヒリと痛んできた。それでも一日じゅうがまんした。そして紡ぎあがったのは、ぶつぶつとこぶだらけの糸がたったの三十センチだった。
 つぎの日も同じだった。あんまりつらいので、その夜は泣きながら寝てしまった。
 そして、翌朝になると、「どうせ母さんに言われたようには紡げはしないわ。糸車の前に座っているのは、もうたくさん」と糸車を放りだして、さっさと朝の露が光る丘へ走りだしていた。
 丘の道をしばらく行くとおばあさんに出会った。くちびるがぶ厚く垂れさがっていて、口にくわえた糸を引きだしながら、せっせと紡いでいた。このおばあさんは糸紡ぎ妖精ハベトロットだった。
 ジャネットは、おばあさんがあんまり上手に糸を紡いでいるのを見ているうちに、つい泣き言を言ってしまった。
「わたし、糸が紡げないの、おばあさん」
 すると、おばあさんは糸紡ぎの手を休めずに、ジャネットを見て言った。
「おやおや、かわいいお嬢さん。糸を紡げないんじゃ困ったねえ。いいよ、あたしんとこへ持っといで」
「え、おばあさん、わたしを助けてくれるの」
「そうだよ、おまえの代わりにわたしが紡いでやるよ」
 ジャネットは、とつぜん気持ちが軽くなって、家へ飛んで帰ると、もじゃもじゃになった七つの綿毛のかたまりを持って引き返してきた。
 綿毛を受け取ると、親切な糸紡ぎ妖精のおばあさんは、いつのまにかどこかへ消えてしまった。
 ジャネットは、おばあさんが腰をおろしていた石に座って待つことにした。ふと見ると、
その石には、水がぽつぽつと滴り落ちてできた深い穴があいていた。
 丘の木々がさやさやと葉ずれの音楽を奏でるのを聞きながら、ジャネットはいつのまにか眠りに誘われ、目を覚ましてみると、あたりは夕闇におおわれていた。
 「おばあさん、どこに行ってしまったのだろう」
 心配になって耳を澄ましていると、ふと、座っていた石の穴から糸車がプンブン鳴る音と、なにやら楽しげな歌声が聞こえてきた。
 石の穴をのぞいてみると、不思議なことに、広いのか狭いのかわからないぽっかりあいた穴のなかで、たくさんの女たちが糸車をせっせと回し、糸紡ぎに精をだしている。そして、さっきの親切なおばあさんが、みんなに指図しているのが見えた。
「糸を束ねておくれ、スキャントリー・マップ。娘に渡す時刻だよ」
 スキャントリー・マップはハベトロットのなかでも糸紡ぎの達人として知られていた。
それからおばあさんは、
「わたしがハベトロットなのを、あの子は知らないんだからね。家の戸口まで届けるとしよう」
 と言って、立ちあがった。
 ジャネットはそれを聞くと大急ぎで家まで走って帰り、戸口で待っていて、ハベトロットのおばあさんが持ってきてくれた七かせの糸を受け取った。
 それはみごとな糸に仕上がっていた。ジャネットは「これで、お母さんに叱られずにすむわ」とすっかり安心して、踊りだしたいような気分で家に入った。
 すると、急におなかがすいてきた。今日は朝から不思議な体験ばかりで、食べることなどすっかり忘れていたのだから無理もない。見ると台所の食卓にはソーセージが七つ乗った皿があった。豚の臓物と血から作ったブラック・プディングというソーセージだ。母親が丹精こめてつくった自慢料理を、ジャネットは七つともぜんぶ平らげて、そのまま寝てしまった。
 翌日の朝、母親はブラック・プディングが跡形もなく消えてしまって、その代わりにみごとに仕上がった七かせの糸の束がおいてあるのを見て驚いた。(つづく)
『ケルトの妖精』 あんず堂


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