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続・対話随想 №43 [核無き世界をめざして]

 続・対話随想43 関千枝子から中山士朗様

                      エッセイスト  関 千枝子

 お手紙拝見して、私は軍のことに興味がなくて、第二総軍などと言ってもぴんと来なかったのですが、一九四五年二月にできたということは、あの時期になって「本土決戦」を思いついたということですね。松代大本営もあの頃でしょう。近衛文麿さんが、昭和天皇に「終戦」のことを提言し、天皇が「もうひと踏ん張り戦果を挙げてからでないと」と言ったというのは確かあの一月ころだと思います。そのころから本土決戦を真剣に考えだしたのか。いやな感じになりますね。硫黄島や沖縄など、まさに捨て石、だったのではないかと思うのです。
 さて私のこれから書きたいことは(41)の続きです。
 このところ、昔の友たちで亡くなる方や弱る方が多く、ショックです。一人で生活することが苦しくなって老人ホームに入りましたというお知らせが多くて。老人ホームもいいと思うのですが、「認知症」というのは嫌ですね、認知症もいろいろで、すっかりわからなくなっているという方もありますが、方向感覚が無くなったり、今言ったことが判らなくなったり、いろいろのようです。ですから、多少「ボケて」来ても、日常の生活は何とかなるようでしたら、それなりに楽しく暮らせるのかもしれませんが。全く分からなくなって、「私は誰?」になったらどうなるのでしょうか。
 昔、頭を使わないからボケると言われましたが、あれも嘘ですね、さまざまの運動、活動をしていた方(それもトップクラスの中現役)が認知症になったケースを私は三人以上知っています。尊敬する先生たちだったので、私はショックでした。
 先日も同窓会で、認知症の話が出、「わからなくなったら本人は楽で一番いいですよ」というのです(この人、医者です)。「そうですか?」と私は懐疑的で「でも何もわからなくなったら、楽しいかしら?」と言ってしまったのですが。頭は大丈夫ですが足腰が悪くなり動けない人がいます。いわゆる寝たきりですが、でも、寝床でパソコン打てますし、頭のはっきりしている方がいいじゃないかと思うのですが。
 私自身のことですが、体は確かに老化していると思いますが、耳も目も悪くありません。認知症の方もまだ大丈夫なようです。これはとてもありがたいことです。「残された時間を大切にできるだけのことをしたい」と思っています。もしこれで、あと一〇年生きてしまって、わけがわからなくなって、なんであの人生きているの?と言われたら…・、それはその時で対策を考えるしかないですね。
 実は認知症のことここまでこだわるのは、この間、村井志摩子さんの死が伝えられたからです。ご存知ですね、チェコで演劇を学び、「広島の女上演委員会」を作り、ドラマ「広島の女」を上演、文化庁芸術祭賞や谷本清賞も受けています。また、原爆ドームを作ったヤン・レツルがチェコの人であることから、彼のことを調べました。レツルのこと、彼女の調査で分かったことが多い、これも大変な業績です。
 私は「全国婦人新聞(女性ニューズ)」で「広島の女」をずっと取材してきました。このドラマに書ける彼女の思い、よくわかりましたし、彼女の「経歴」にも非常に興味を持ちました。村井さんは、生粋の広島の人で、第一県女の卒業です。私の姉と同学年になります。つまり一九四五年(昭和20)年三月、女学校を四年生で卒業させられてしまったクラスです。村井さんは東京女子大を受験、受かったのですが、なかなか入学のため来いという知らせが来ず、そのまま動員先(広島)で働いていました。これはどこの女子の高等教育(女子専門学校)も同じで、私の姉なども通知が来ないまま専売局で働いていました。
 村井さんが東京女子大を志望したのも驚きでした。あの下町大空襲の直後です。東京は一番危ないところ、そこに娘をわざわざ送り出す親はよほどの方と思います。私の父は、かなり開けた方でしたが、東京の学校に進学したいという姉の希望を絶対に許しませんでした。村井さんの親御さんはよほど覚悟ができた方だったのか。村井さんの希望がそれだけ強かったのか。結果的に西荻窪の東京女子大は焼けず、素晴らしい寄宿舎も無事だったのですが。
 七月下旬になって入学式のため学校に来るよう通知がありました(これも全国同じのようです)。村井さんは勇躍上京。私の姉も広島女専に行きましたが、勤労動員で水島(倉敷)に行く。それまで一週間ほどオリエンテーション(そのころはそんな英語は使えなかったでしょうが)ということで、八月六日もそんな校長の訓話を講堂で聞いている最中、ピカと来たわけです。村井さんが東京女子大で何をしていたかわかりませんが、広島に新型爆弾の報にどんなに驚かれたか。
 村井さんはドラマの道に進み、チェコに行き、ということになるのですが、「ヒロシマ」への思いはあの「3部作」になります。私はずっと取材を続け、あまり大マスコミが取り上げない中、最後のころは一人で取材していたような感じがあります。彼女が被爆者でない(あの日広島にいなかった)のに、「広島の女」を書いたことで、心ないかげくちもあったようです。広島の人は「よそ者」に冷たく、広島の人であっても広島から出て活躍している人に冷淡なところがありますから(中山さんも感じたことありませんか)。村井さんは非常に怒っておられました。
 「広島の女」シリーズが終わった後、お連れああいの葛井欣士郎さんと何かあったようで住まいが変わりました。葛井さんは演劇プロヂューサーというより、アングラ演劇の帝王のような存在で仲の良いお二人だったのですが。その後も村井さんとは何度かお会いしましたが、そのあたりのいきさつ、詳しいことは知りません。
 ただ、@広島の女:などの様々な資料の保存には苦労しておられて、私が「ノーモアヒバクシャ記憶遺産を継承する会」ができたことをお話しし、資料を大事にしてと言ったのですが、この会も、「センター」を設立する動きになかなかならず、そんなうちに葛井さんもなくなるし、村井さんからも年賀状も来なくなり何年か経ちました。
 去年、前にお話ししたパリ在住の松島和子さんを通じて、パリに住む人から(どこのくにのひとか知りません。。。日本人ではないことは確か)、村井に連絡を取りたいのだが村井は元気かという問い合わせがありました。そこで村井さんの所に電話してみたのですが、電話は鳴るばかりで誰も出てきません。しかし、電話が鳴っていることは、この電話が生きているしるしと思い、あきらめずかけ続けたところ、受話器がとられたのです!しかしその声は「葛井でございます」というのです。驚きました。声は、志摩ちゃんに違いありません。でも彼女がお連れ合いの名を名乗るなんて。「村井さん?」と聞くと「村井は私の旧姓で御座います」というのです!
 その瞬間、彼女が認知症になっていることはわかったのですが、未練がましく「私、関千枝子です。覚えていますか?」と聞いたら、明るい声で「覚えていませんわ」と言われてしまいました。
 暮らしは「ヘルパーさんに助けてもらって何とかやっています」というのでそのまま電話を切り、パリの方にありのまま知らせ、電話には本人が出てこられますが、話が通じるかどうかは疑問といっておきました。その後、どうされたかわかりません・。
 それから数カ月、新聞で村井志摩子さんの死去を知りました。ああと思いましたがどうすることもできず、なんとしたものかと思っていましたら、先日ある女優さんから電話があり女優さんたちで部屋を片付けている、ビデオなどがあるので、私がもらったが、大きなパネルがあり、捨てるには忍びないし困っているというのです。遺産を継承する会にも連絡しましたがまだセンタ-建設の募金も始まっていないし、資料保管のために借りている部屋も満杯だし、ということでその女優さんの家でしばらくパネルを預かっておくということにことになったのですが。
 女優さんに「ヤン・レツルの資料などはなかったか」と聞いたのですが、それらしきものは見当たらなかったということ。これでヤン・レツルの資料は永久になくなってしまうのでしょうね。
 資料保存の難しさをつくづく感じます。
 記憶の継承のことと、認知症のこと、村井さんのことがショックで、つい、暗い話を書いてしまいました。

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