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続・対話随想 №41 [核無き世界をめざして]

        続・対話随想41  関千枝子から中山士朗様

              エッセイスト  関 千枝子

 中山さんのお手紙で、茶本裕里裕さんが、八月七日から第二総軍特別情報班に動員される予定で、一日ちがいで原爆で死ぬことを免れたという話があり、感慨に堪えませんでした。原爆で、「一日ちがい」で助かったという例は多いのです。私なども、あの日だけ病欠、前の日でしたら確実に死んでいますので。
しかし、第二総軍特別情報班ということに、考えせられました。私たちの広島第二県女の一年生と二年生の半分(東組)は突如として東練兵場の作業に動員されたため、死をまぬがれたのですが、この作業命令は二中にも下され、二中は、一年生は建物疎開作業に残り全滅。一年生は東練兵場に行き、命が助かりました。二中の人たちも、前日の八月五日の午後、急に命令が来たそうです。あの広島市全市をあげての建物疎開作業から急に人を引き抜くのです。何か相当の理由があったはずですが、二中の生徒のしていたことは芋畑(そのころ東練兵場は芋畑と化していました)での雑草抜き、二県女は生徒たちは集合しているのに、何をすればいいか、指導する兵隊が来ず、教師たちは一年生にとりあえず畑の雑草抜きを命じ、二年生には待機を命じ、兵隊を迎えに行った。その時ピカと来て一年生は火傷をし、二年生は大きな木の陰にいたので火傷もせず助かったのです。これも大変な「運」の分かれ道でした。
 しかしなぜあのとき急に東練兵場行きが命じられたか、芋畑の雑草抜きなど大した作業ではありませんし、新たな農作業をする季節でもありません。不思議なことですが、私たちはこの問題の不思議さを考えることもありませんでした。
 「おかしいではないか」と言い出したのは、戦後六〇年以上たって、「自分史」を書きだした今田耕二さんです。なぜあれだけ建物疎開作業が急がれていたあの時期に、しかも二中と二県女が東練兵場に行かされたのはおかしい。建物疎開作業は中国軍管区の命令だが、東練兵場は第二総軍の管轄である。第二総軍の新しい作戦、しかもそれは暗号とかかなり知的な作業ではないか。一中の二年生はすでに通年勤労動員に行っていたので、次に知能が高いとみられる二中に白羽の矢がたったのではないかというのです。私は彼に言われたころ、中国軍管区も第二総軍も全く知らなかったので、(女ですね。そんな軍の機構のことなど興味もありませんでした)、ただビックリしました。そういえばあの時期に芋畑の雑草抜きなんておかしいと。そのうち今田さんから新しい情報が入ったという知らせがあったのですが、それが何なのか具体的なことは知らされないうち、今田さんが急に亡くなってしまったのです。
 気にかかったまま日が過ぎて行ったのですが、近年になって、東練兵場では朝鮮の人たちが東照宮の傍のがけの洞窟を掘る仕事を進めていたという話を聞きました。トンネル工場かしらと思ったのですが、第二総軍の関係で、洞穴を掘っていた、と考えてもおかしくないですね。
 暗号と言うことで、ふと思ったのは茶本さんが、第二総軍の特別情報班ということを聞いたからですが、この間からお話ししている戸田照枝さんのこともあるのです。
 戸田さんは、国泰寺高校三年生のときからの友人です。戸田さんは市女から来た人ですが、隣のクラスだったので早くから仲良しでした。市女は、県庁前の建物疎開作業で一、二年生全員が.亡くなり、広島の学校の中でも最大の被害を受けているのですが、市女から国泰寺に来た人の数はかなり多かったのです。まあ、何かで助かったのだろうくらいに考え、国泰寺のときは、あなたはどうして原爆で命が助かったの、など聞いたこともありませんでした。
 国泰寺高校卒業後、戸田さんは舟入高校の事務職員になったのですが、卒業後の夏のころ私たちはよく遊んだものです。包が浦にキャンプに行ったり、まだ海がきれいだった元宇品に行ったりよく遊んだのです。しかし陽気で明るく、「人柄がいい」と誰にも好かれる戸田さん(当時は旧姓の日浦さんでしたが)と、原爆のことなど話し合ったこともなかったのです。
 その後、こちらも大学も高学年、就職など忙しくなり、すっかりご無沙汰になっていましたが、照枝さんがクリスチャンになり、教会で素敵な男性に遭い、大恋愛で結婚したことは風の便りで知っていましたが、会うことも少なかったのです。
 再会は一九九〇年代で、私が「第二県女二年西組」を出した後、広島YWCAの何かの催しに参加、彼女がYWの朗読のグループで、原爆の詩の朗読な度に大活躍されていることを知り彼女もやっているな、と思い、「再会」を喜び合ったのですが、その時も私は彼女の被爆体験を聞くこともありませんでした。私たちの年代、中山さんもご存知の通り、被爆体験は皆、いろいろありますからね。
 彼女が被爆時、市女の生徒でなく、第三国民学校の生徒であり駅付近で被爆したことを知ったのは、二〇〇〇年に入ってからです。彼女が中国新聞に取材された記事を見せてもらったのが知る機会でした。第三国民学校だったら私たちと同じ雑魚場で建物疎開で被爆したはずです。それをいぶかしく思うこともなく、戦後たくさんの人を失った市女が、いろいろなところから生徒集めしたことも知っていましたので、彼女もそんなことで市女に行ったのだと思いました。彼女の家がお兄さんたちを何人も戦争で死なせていることも知っていましたので、大変な家庭の事情の中、娘を市女に編入させ、高校まで進学させた彼女のお母さんに、偉い人だったのね、と感心したのは覚えています。でもなぜ「駅近く」なのか、考えてみようとはしませんでした。
 その事情、そして彼女がそれに対し悩み、苦しんでいたことを知ったのは、もう彼女が死ぬ一年前、彼女がすい臓がんの再発で緩和ケアの病室にいるときでした。
  一九四五年の七月、各国民学校に成績優秀な女生徒を一人ずつ選抜するよう命令が来、第三国民学校からは彼女が選ばれたのだそうです。なぜ女子生徒かと言えば、高等科の男子の二年生はすでに勤労動員に動員されていたからでしょう。国鉄の仕事ということで行ったのは駅の近くの建物で、暗号関係の仕事だったそうです。で、まずいろいろ練習があったそうです。学校と違い一つの教室にいるわけでもないので、全員の顔も知らず、名前もわからず。ただ、その場で一緒だった「大谷さん」という人が、大変立派なリーダー格の人で、その人のことはよく覚えているそうです。
 そしてあの日、ピカ。あっという間に建物は倒壊し、彼女は夢中ではい出したのですが大勢の人は建物の下に埋まったまま、救い出そうにもどうにもならない、どこに埋まっているかもわからない。まごまごしているうちに火はせまってくる、早く逃げろと追い立てられ、彼女は北に逃げます。宇品は、と聞いても広島市内は全滅じゃと言われ、ひたすら北の方に逃げるのですが、やがてどうにも家のことが心配になり、広島に引き返し、大回りして家にたどり着きます。すでに夜、薄暗くなっていたそうです。彼女の家は宇品でも一番北、御幸橋のすぐそばで、被害はひどく、「壁も飛んで柱だけ残っているようなありさまじゃった」そうですが、家の外でお母さんが心配して、立っていて、帰ってきた照枝さんを見てよかったと泣いて喜んだそうです。
 照枝さんは、戦後、駅の傍の「職場」が心配になるが、もう何が何やらさっぱりわからない。ただ一人名前を憶えている「大谷さん」のことを調べようにも、フルネームも住所もどこの国民学校高等科から来たかもしらない。調べようがない。でも彼女は死んだに違いない、自分は友を見捨てて逃げ、命が助かったのだと思うと苦しくて苦しくて悩み続けたそうです。
  そしてあまり苦しくて、ある日、ふと通りかかった教会に入ってみた。そしてそこで牧師さんに話を聞いてもらい、癒された。クリスチャンになり、夫と知り合い…・、ということなのです。彼女の信仰の深さは、教会の中でも有名で、娘さんの一人は牧師さんに嫁いでいます。私はそんな話を被爆後七〇年にして初めて聞いたのでした。
  それにしても、彼女の「仕事」が暗号だったこと、気になりますね。それから、どんな原爆の記録を見ても、こんな国民学校高等科の一校一名ずつの動員のことなど書いてもありません。どうも茶本さんの第二総軍特別情報班のことと言い、二中、二県女の不意の不思議な動員のこととい、気になります。
  
 照枝さんは自分の被爆体験を昨年の八月六日、ちょうど日曜日でしたので、教会の朝の拝礼のあと、特別行事として話をされました。私は大勢の友を誘ってゆき、朝日新聞の例の宮崎さんが取材され、記事にされました。
 この日、戸田さんは、末期の再発癌の人とは思えない元気な様子で声も大きかったのですが、九月に入ってから体調が衰え、一〇月に亡くなりました。
  
 ごめんなさい。この後にまだ書きたいことがあるのです。
 それは、認知症のことで、近頃少し衝撃を受けることがありまして。でもこの手紙、もう三五〇〇字です。少し長すぎますね、認知症の話は次回にします。


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