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続・対話随想 №40 [核無き世界をめざして]

   続・対話随想40  中山士朗から関千枝子様へ

                  作家  中山士朗

 前回の手紙で、佐々木美代子さんから頂いた中国新聞の記事、広島第一県女(旧制)の学徒動員の記録集の紹介に触れましたが、関さんがそのことに非常に驚かれたことを知りました。手紙を熟読して、その理由がよくわかりました。
 戦時下の女子学生の、勤労動員の実態、記録について「戦時下勤労動員少女の会」が結成され、一九九六年に手作りの作業で「記録――少女たちの勤労動員」を完成させました。この経路が詳細に記述されていました。この記録集は、反響が大きく、二刷も出し、後にジャーナリスト平和協同基金の賞を得たのでした。
 こうした中で広島からの資料は少なく、広島第一県女の動員先のことも「表」の中に入っていましたが、情報量が不足していたようで完全ではありませんでした。この記録集は二〇一三年に改定初版、二〇一四年に改訂版二刷が刊行され、昨年、国立女性教育会館のアーカイブで保存されることが決まったとのことでした。 
 そのような折に、長年その作業に携わって来られた関さんは、第一県女の記録のことを知り、なんで今頃と絶句されたのは無理からぬ話だと思いました。
 折り返し、関さんは皆実有朋同窓会に電話して記録を取り寄せ、その読後の感想をつぎのように述べておられます。
 <一口に言って、とても精密な力作と思いました。/この記録、大変詳しいもので、二十年前に出ていたらもっとよかったのですが。>
 そして、「戦時下勤労動員少女の会」の事務局長に回し、国立女性教育会館に追加資料として保管を依頼するとのことでした。第一県女の看護隊についてすでにご存知だったことは、驚きでした。
 この第一県女の記録集が出たことは、昨年十二月に、茶本裕里さんから知らされていました。茶本(旧姓・三重野)さんは、関さんから紹介され、広島一中一年生であった弟の杜夫君の被爆死を書いたことがあります。そして、私たちの『ヒロシマ往復書簡』でも書かせて頂きましたご縁のある方です。昨年、日本エッセイストクラブ「会報」冬号に、戦争の中の「生と死」というテーマで、三人の女性の方に登場していただきましたが、その中の一人が茶本さんでした。掲載誌を送った返事のなかに、第一県女の勤労動員の記録集が出版されたことが記されていました。
 <日本エッセイストクラブの会報有難うございました。”ヒロシマ往復書簡”も終了したとか、素晴らしい本でしたね。杜夫のことも取り上げていただき、姉と弟にはさまれヒガミ根性のヤンチャ娘だった私もようやく親孝行ができたのではないかと、ありがたく思っております。三冊、目の前の本棚に並べ、時々読んでいます。私は若いころの十一年ちかくヒロシマで暮らしていました。が、知らないことが結構多く、あのご本からの死得ていただくことが、けっこうあります。今年は、卒業した第一県女の同窓会が皆実高校卒の方がたとごいっしょに、とても立派な勤労動員の記録集を出されました。立派な本です。私も少しアンケートにお答えしています。私の先輩諸姉が、広(呉市)の海軍工廠に行っていたのを知ってビックリ。父が広島に転勤になる前に居たところです。今週は友人に誘われて、四国五郎さんの作品展に行くつもりにしています。>
 茶本さんの家族は、当時、鎌倉にお住まいでしたが、お父上が広の海軍工廠から広島市内にあった軍需省中国管理部長に就任された際、昭和二十年の四月に広島に移住されたのでした。
 当時、横浜第一高女四年生だった茶本さんは、広島第一県女に転校し、湘南中学に入学したばかりの杜夫君は、広島一中に転校したのでした。
 横浜第一高女四年生だった茶本さんは、広島第一県女に転校してからも、最初は私たち広島一中三年生の三学級が動員されていた東洋工業、次いで広島航空へと動員先が変わりました。この広島航空には、広島一中三年生の一学級が動員されていましたが、原爆が投下された八月六日は,爆心地から八〇〇メートル離れた場所で建物疎開作業に従事していて被爆し、全員が即死状態の死をとげました。
 広島航空に移って間もない茶本さんでしたが、八月七日から第二総軍に動員の指示が伝えられ、八月六日は休暇が与えられ、郊外の家にいたのでした。
 第二総軍の特別情報班は、泉邸(浅野侯爵邸、現在の縮景園)に在りましたが、そこは爆心地から一・ニキロの近距離に位置していました。
 「八月六日から第二総軍に出ていましたら、助かってはいなかったでしょうね」
 茶本さんの印象的な言葉が、記憶の底でよみがえってきます。
 今回の関さんの書簡の添え書きに「少し、ヒロシマ・ヒバクシャから離れたかもしれませんが」と書いてありましたが、あの日、建物疎開作業に従事していて犠牲になった中学校、女学校の低学年生は、六千人にも及んでいます。広島第一県女の学徒動員の記録集への関さんの思いは、被爆した広島の少女たちの記録が、「戦時下勤労動員少女の会」の趣旨につながっていくのではないでしょうか。
 こうした経過に至ったのは、関さんの「私たちは日本のもっとも悪くなる時代に生まれ、もっとも悪い時代に中学(女学校)、新制高校という、本来ならば、多感で夢多く楽しい時代を、さまざまな思いを生きてきた」という言葉があったからです。そして、第一県女卒業生の佐々木美代子さんの手紙から、また、茶本裕里さんの手紙によってつながっていくのですが、私たちの『ヒロシマ往復書簡』とご縁があったことをあらためて感じています。




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