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続・対話随想 №39 [核無き世界をめざして]

    続対話随想39  関千枝子から中山士朗様へ

         エッセイスト  関 千枝子

 お返事大変遅くなりましてすみません。
 本当に、このごろいろいろありまして、かっかとしております。モリカケ問題、公文書改ざんまで明るみに出てきたのに、いっこうに反省せず、財務省の役人の責任にしてこのままうやむやにしたいとしか思えない政府の態度に、怒っておりましたら、今度は、財務省事務次官のセクハラ問題まで出てきて、怒りを通り越しあきれ果てています。福田本人もですが麻生氏の態度の酷さ。彼を引責辞任させたら、安倍政権はがたがたになりますから、なんとしてもやめないつもりでしょうが、あのセクハラ発言に対し、はめられたとか、二次セクハラとしか言いようがない。しかし、テレビで女性記者と福田の会話を聞きましたが、卑しいとしか言いようがありません。福田という人、神奈川県の名門中の名門、湘南高校でトップの優等生で生徒会長までした人ですって(湘南在住の人に聞きました)。そして東大に入ってもトップの秀才で、大蔵省に入り、出世街道まっしぐら。そんな人が。女性に対してあの野卑な物言い。何でしょう。そんな「優等生」たちがこの国を動かしている。いやもう恥ずかしいと思いです。財務省は彼を罰し、減給にするそうですが、五千何百万という私なぞの想像もつかぬ額の退職金から、百何十万の減給分を差し引いても何億通もないでしょう。もう、いやになってしまいます。怒っているうち、連休入り。最後まで詰められない野党の弱さ。、健康に悪いです。
 さて、この前のお手紙の返事が遅くなったのは、広島第一県女の学徒動員の記録を作ったことが、佐々木さんからのお手紙に関連して書かれていたことでした。いえ、これは悪いことではなくいいことですが。私が絶句してしまったのは、実は戦時下の女子学生の勤労動員の実態、記録に関しましては。1980年代の終わりごろ、各地の元女学生たちによって記録集文集がたくさん出ました。それが新聞などで報じられ、当事者たちは「戦時下勤労動員少女の会」を一九九一年に作りました。そして、当時のことなどを話し合ううち、女子学生たちが一年半も学業を放棄させられ、働かされたことは大変な事なのに、文部省(当時)や各県の教育委員会にも資料が少なく(具体的な資料が全くない県もある)、これは自分たちの手で資料を集め、是国的な記録を作ろうと作業を始めました。
 手作りの作業で、一九九六年「記録――少女たちの勤労動員」を作り上げました。これは、東京都女性財団の助成金で作りました。当時、女性年からの女性運動の盛り上がりは大きく、特に金があった東京は、相当の助成制度がありました。
この出版に対し反響は大きく、連絡のついていない「元勤労動員少女」から新しい情報も入り、二刷りも出し、ジャーナリスト平和協同基金の賞も得ました。
 実は私、この会ができたころ、私のクラスは正規の恒常的な動員でなく、臨時動員で、建物疎開作業で死んだのだからと私は当事者ではないという思いでした。しかし、私の姉たちのことでもあり、大いに関心があったので、新聞記者として取材に行き、大いに記事に書いていたのでした。そのうち会の方から、戦争末期の一九四五年三月、戦争の緊迫した状況のため、国民学校初等科を除き学業一年間停止という決定をし、女学生も中学生も全員働けということになったことを教えられました。つまり私たちが工場にまだ行かなかったのは広島には工場が多くなくて、行くところがなく、学校で勉強をし、時々臨時動員に行っていたということだったのですね。愛知県などは一年生でも動員されていたようです。なるほどと思い、この記録集が出た後もこの会の方と長く「付き合い」が続き、折にふれ記事にいたしました。
 この方々はツテを通じ会員のいない地方の女学校の資料集めに努力したのですが、広島からの資料は少ないのです。誰かから情報は行ったらしく、第一県女の動員先のことも「表」の中には入っていますが、とにかく広島県は情報量が少ないのです。広島市の場合、臨時動員で疎開作業に動員された低学年生が大量に死んだのに、工場等で働かされていた上の学年の方が被害(死者)が少なかった。下の学年に対し、「済まない」という気持ちがあり、工場動員の記録が少ないのではないかと思います。
あるのは、大久野島(毒ガスつくり)で働かされていた忠海高女の記録だけ、ほかに東洋工業に行っていた海田高女の生徒(敗戦時三年生)の日記があります。
 長崎の場合、原爆が市の中心部でなく、浦上に落ちたことで、工場で亡くなったりけがをされた方が多く、原爆記録がそのまま工場動員記録になっているのと対照的です。
この会の活動を聞いて、地方の県で、工場動員記録(男女とも)をまとめたところもありますが、そんな記録も女学校の話が多いのですね、どうも男性と差があるようです。
 それは、多分、働くことなど特別なことと考えられていた女性が、男同様に働かされたことに対する複雑な思いでしょう。そして当時の軍国少女ですから、お国のために必死で働いた思いがあります。東北など工場の少ない地域の女学生は京浜の工場地帯などにに動員され寮生活をするのですが、女性へと体が変わりつつある時期にプライバシーもない生活。生理用品もなく辛かったという思いもあります。そのあたり、男子学生と少し違うのかもしれません。
 とにかくこれが出てから十五年近くたった二〇一二年ごろ、その後新しい事実が判ったり、新しい学校の文集が出たりいろいろあったので、改訂版を作る話になりました。しかし、最初の記録を釣った時に活躍した委員たちの多くは年老いて亡くなったり、身体が悪くなっている。お元気でも地方の委員(大阪や長野の方)が、東京まで来て編集作業をするのは無理ということもあり、私が改訂版の編集のお手伝いをすることになりました。
 こういうことをするときまず大変なのがお金で、会に残っているお金(記録の売り上げだけ)ではとても足りません。本当に困ったのですが、藤田晴子基金を頂くことになりました。藤田晴子さん、戦前、レオ・シロタ氏に師事、毎日ピアノコンクールで一位になるほどの一流ピアニストなのに、戦後東京大学が女性に門戸を開くと聞いて、入学試験に挑み、見事女性の第一期生になられた方です。法律を勉強し、国立国会図書館に勤め、ここでも最高の職まで上り詰めます(省庁の事務次官と同じ)。女性の先輩のロールモデルとして尊敬している方です。藤田さんは、退職金などを基金として、女性のための有意義な事業に使ってくださいと言われたのでした。私たちがお願いした時、この基金も、ベアテシロタさんを描いた映画を作るためのお金などのために大半使い果たした状況だったのですが、私たちが『百万円あればいい』というと、そのくらいでしたらと、基金を預かっておられる富田玲子さんは、初対面の私たちにその場でお金を出すことを承知してくださったのです。
 その頃、ほかの復刻版などの経験で百万円もあれば余裕と思っていたのですが、一九九〇年代の版は、もう使えず、表(動員の記録)だけは新たに分かった分を足さなければなりませんがこれがお値段が高くつき、本文の加筆は、本当に、少なく必要最低限に抑えるしかありませんでした。その中で私に関わり深い問題では、大久野島に行った動員少女たちが、戦後再動員され、広島郊外、廿日市で原爆の傷病者たちの看病をさせられているのです。驚きました。敗戦後誰がこんなことを考え命令したのか?県かしら?
 この作業を終え、二〇一三年の改訂版初版,二〇一四年に改訂版二刷りを出しました。これも反響多く、女性史を各地で学ぶ方々の大会があるのですが、そこでも私は発表をしました。しかし、広島の方の反響はあまりなかったのです。
 その後この資料をどうするか問題になりました。もちろん記録集はしかるべきところに寄贈しておりますが、第一次資料(会が出したアンケートとか、元女学生たちの絵、つけていたハチマキ。それにもちろん各女学校に記録、文集など捨てがたい資料があります)それは国立女性会館(埼玉県嵐山)のアーカイブで保存していただくほかないと交渉しましたが、、これに二年以上の月日がかかり保管していただくことになり、ようやく去年納入したところでした。
 そこへお手紙で、第一県女の記録のことを知りました。何でいまごろ。絶句しました。「少女の会」のことはいろいろ新聞で報道されましたが、皆実有朋同窓会の方は全くご存じなかったのですね。私たちのやったこと何だったのだろうと、愕然としたのです。
 でも、第一県女の記録が出たことはいいことだと気を取り直し,皆実有朋同窓会に電話をし、記録を取り寄せました。一口に言って、とても精密な力作と思いました。私が呼んだあと少女の会の事務局長に回しています。彼女が読み終わったら、国立女性教育会館に、「追加資料」として保管を頼むつもりです。
 第一県女の記録、大変詳しくいいもので(これがもう二〇年前に出ていたらもっとよかったのですが,)私が一番面白かった(これは知らなかった)と思ったのは、看護隊のことでした。
看護隊のことは冲縄のひめゆり部隊が有名です、あそこは島全部が戦場になったこと、もともと沖縄には工場が少ないので、女学生は看護をやらされるのですが、ひめゆりだけでなく他の女学校もやらされています。
 本土でもほかの地域の看護隊の話はあり,なんとなく私は、本土決戦に備えてのことかと思っていました。第一県女の看護隊のことは前から知っていました。原爆の日、学校にいて亡くなったのも知っています。でも私は看護隊は第一県女だけかと思っていましたし、沖縄の惨禍があり本土決戦に備えて、作られたのだと思っていました。でも、記録を見ると一九四四年九月(まだ日本の本土が本格的空襲が始まる前)に結成されたとあり、第一県女、市立高女、比治山高女の四年生から選抜されたとあります。相当成績の良いこの行く学校ばかりで、人数がある程度いる(第二県女は人数が少ない)学校です。成績がよく体力、気力の充実した少女を選べると思ったのではないでしょうか。市女や比治山に看護隊があったことなど初めて知りました。女。看護のこと考えさせられます。忠海高女の戦後の再動員と合わせて、考えさせられました。
介護はやはり女性専科ナノでしょう。そうそう、工場で作らされたものの中に男性にはないものがアロマした。風船爆弾です。これは本当にあちこちで作らされています、和紙を張り合わせるのに少女のしなやかな指が最適だったようです。いやですね、
 


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