SSブログ

続・対話随想 №38 [核無き世界をめざして]

     続・対話随想38  中山士朗から関千枝子様へ

                   作家  中山士朗

 今回の往復書簡に添えられたお手紙を読みながら、関さんが指摘されたように、昭和五年、七年生まれの私たち(昭和一桁生まれの人も含めて)が生きてきた原点は、原爆被爆のみならず、戦争がもたらした時代を生きてきたことを改めて認識した次第です。
 昭和四年十月ニューヨーク株式市場の大暴落による世界恐慌に端を発する、国内の恐慌深刻化、昭和六年九月十八日の柳条湖事件によって満州事変が始まり、翌七年三月満州国建国宣言がなされました。
 私が小学校に上がった昭和十二年七月七日には、盧溝橋事件が発生し、日華事変となったのでした。そして昭和十六年十二月八日には、太平洋戦争がはじまりました。
 その太平洋戦争も、昭和二〇年八月六日に広島、九日には長崎に原爆が投下され、十五日には終戦の詔勅が下されたのです。
 そうした歴史の流れの中で、文部省「国体の本義」の配布、文化映画の強制上映、国民学校令の公布、学徒出陣命令、中学生の勤労動員大綱の決定、学徒動員実施要綱の決定、学徒勤労令・女子挺身隊勤労令の公布施行などと言った文字が年表の中にひしめいています。そして、戦後の悲惨な状況が続き、そうした環境の中で、私たちは学生時代を過ごさねばならなかったのです。
 関さんが手紙に、「とにかく私たちは日本のもっとも悪くなる時代に生まれ、もっとも悪い時代に中学(女学校)、新制高校という、本来なら多感で夢多く楽しい時代を、さまざまな思いを生きたのだと思って…・』と述懐されていましたが、改めて私自身の過去を振り返ってみましても、そのように思わざるを得ません。
ちょうどここまで返事をしたためたところに、不思議ですね。まるで打ち合わせでもしたかのように、関さんもご存知の佐々木美代子さんから。取材を受けた特集記事が掲載された中国新聞(三月十九日付け)が送られてきました。
 それは、皆実高校(広島市南区)の同窓会が、前身の県立広島第一高女(第一県女)の卒業生七六〇人を対象にアンケートを行い、戦時下の学徒動員に関する資料をまとめたものを紹介したものでした。資料集はB5版、291ページにまとめられています。第一県女では建物疎開に出た一年生二百二十三人が原爆で死亡しています。新聞の見出しは、
「お国のため」少女動員
 となっており、動員に至るまでの法令、措置要綱の公布などに合わせて、第一県女の動員状況が一覧表としてまとめられ、当時の写真とともに、掲載されていました。
 そして、終わりに動員学徒代表として佐々木さんの言葉が載っていました。
 関さんが手紙のなかで語られた思いと共通するものがありますので、全文を引用してみます。
 <普通に授業があったのは、一年生の時だけ、勤労奉仕が始まると、陸軍被服支廠で軍人の肌着のボタンを付ける作業をした。糸と木綿針を渡され。一日中働いたと思う。
 宇品の陸軍糧秣支廠へも行った。最初は一カ月に数回、徐々に増え、3年になると毎週のように勤労奉仕をした;。英語の授業はなくなり、なぎなたなど武道の時間が増えた。
 4年生の1年間は一度も授業を受けた記憶がない。校舎の2階が工場になり、南方の戦地へ行く兵隊のために蚊帳を作った。ヒルが落ちて来るのを防ぐ蚊帳。マスクをしていても、みんな鼻の周りに緑色の塗料が付いた。毎朝、起きたら鉢巻を巻いてモンペをはき、学校工場へ行く。朝7時半ごろから夕方まで黙々と働いた。「お国のため」と洗脳されていたからか、無理に働かされているとは感じず、苦しかったけれど楽しかった。
 「県女生の仕事はきちんとしている」と軍人に褒められたこともあり、「よその学校には負けられん」と必死だった。3年生の動員が始まった一九四四年一〇月には、代表で「壮行の辞」を読み上げたことがある。いよいよ下級生も動員されるのだな、と緊張した。
 振り返れば、憧れの県女に入ったのに学生らしい生活は全くできなかった。県女を卒業後は広島女子専門学校に入学したが、川内村(現安佐南区)へ移った工場にしばらく動員された。原爆で父を失い、戦後は生きるのに必死で勉強どころではなかった。あの時、もっと別の方向へ一生懸命だったら、と残念に思う。>
 新聞に添えられた手紙には、「私、何時の間にか九〇歳の声を聞くことになりました。不思議な感じがいたしております。」また、「だんだん忘れることが増えてきました。困ったものです。四月五日にABCC(放影研)に健康診断にまいります。」とありました。
 佐々木さんはそれと同時に、東京のメディアコネクションの取材を受けたということでした。終戦前の学徒動員の際、(女専時代でしょうか)、看護組という一クラスができましたがl、その取材のようでした。看護組は、空襲などの時に、看護婦さん、医師の不足を補うためにできたクラスだと佐々木さんは説明されていました。赤十字病院での実習や各科の看護などがアニメーション化され、完成するのは年末になるということでした。それまでは元気に過ごしたい、と佐々木さんは思っておられるようです。
 もっとも悪い時期に遭遇し、多感な学生時代を過ごしたと関さんが言われるように、佐々木さんの手紙からもそのことが実感できます。
 次に、<女たちの戦争と平和資料館>での澤地久枝さんの「満州引き上げ体験を語り継ぐ」という講演の内容を読み終えて、関さんの満州建国の理念への疑い、とりわけその理念に欺かれた開拓農民の悲劇、引揚げの苦難に並々ならぬ心寄せを感じました。
 澤地さんのお話の中に、敗戦の年の六月十日から七月十日まで、開拓村に行かされた話がありました。泥の家で、窓もなく、電気も水道もないところで、女学生たちは一カ月働き、吉林にもどってきたのでした。ソ連軍参戦前に吉林にもどることができたのは、不幸中の幸いでした。
この個所を読んだとき、私は友人田原和夫君が書いた『ソ満国境15歳の夏』(一九九八年八月十五日発行 築地書館)を思い出さずにはいられませんでした。
本書の扉を開くと、
<新京一中東寧派遣生徒隊が、敗戦に際し、国軍に見捨てられてどんな状況に陥ったのか。ソ連軍の捕虜になってどんな目に遭ったのか、そしてそもそもなぜそんな悲惨な事態が生ずるようなことになったのか、その渦中にいた一人として当時の一部始終を記録したものである。祖国の敗戦に殉じた新京一中東寧派遣生徒隊の級友はじめこれら少年少女のために、このささやかな記録を捧げる。>
と、書かれています。そして、著者は、
<      「はじめに」
 いつまでも五十年以上も前のことに拘っているのだろうか。自分でもそう思うときがある。けれども、それでもこだわっている。
『ソ満国境最前線の「東寧報国農場」に中学生を派遣する、派遣校として新京一中三年生百三十名をあてる』という決定は、どこでどういうふうに行われたのであろうか。
これは、私が心境に帰り着いて自分の生還を自覚した時以来、ずっと抱き続けてきた疑問である。そして、それは、いまだに解明されていない。
この問題に漠然と立ちふさがるのは、「官僚の無責任性」という巨大な壁である。
東洋平和。国体護持、忠君愛国、滅私奉公などというもっともらしい大義名分のもとに、陸軍軍人の官僚システムが、統帥権を振りかざして国家を統治した。その実、一皮むけば、自分に都合の悪い事実は発表をのばし、どんな失敗に対してもそれをもたらした決定の責任を回避して、自己の属するセクションの防衛と自分の保身、立身出世をはかるという習性がビルト・インされている。つまり問えば頭ほど「誰もが間違った決定はしていない、責任を問われる決定はしていない」という答えが返ってくるシステムである。>
と、現代にも通ずる、厳しい批判の目が注がれています。
<いまとなっては解明は難しいのかもしれないが、私は生還以来この疑問をあくまで追求していくつもりである。この記録を通して、統治者や指導者の情報公開、透明性、説明能力などがいかに大切な事であるかということを、述べてみたい(中略)
本書の読者と共にこれを再確認することで、生まれ故郷を喪失してしまったひとりの少年の夏のささやかな体験記が、この歴史の中の一こまとして、何ほどか読者に訴えることになれば幸いである。>
とも述べられています。
本書は、前線、無差別攻撃下の五日間、敗戦、捕虜、開拓団跡地、収容所生活、帰途、生還*1、救出隊など10章で構成され、終章は故郷喪失となっています。
 私が、田原君を知ったのは、広島の中島小学校(当時は中島国民学校)の5年生のときでした。
 <父のすすめで、新京白菊小学校の五年生のときにひとり家を離れ、父の故郷である広島に行った、親戚に預けられて、市内の中島小学校から県立一中(旧制)に進学した。>
 と記述されているように、クラスは異なっていましたが、昭和十八年四月から同じ中学校に通っていたのです。しかし、昭和一九年秋から学徒動員令によって、私たちの学校では、三年生が通年動員となり、クラスごとに分かれて軍需工場に通うようになったのです。田原君のクラスは、広島市の西の郊外・高須にあった広島航空という軍用機工場に派遣され、飛行機の部品組み立て作業をしていました。私は東の郊外。向洋(むかいなだ)の東洋工業(現・マツダ)に通い、航空機のエンジン部品の製作に従事していました。ですから、私が田原君と最後に会ったのは、三年生の壮行会のときでした。私たちは「ああ、紅の血は燃ゆる」を斉唱しながら、校門を後にしたのでした。
 しかし、田原君は翌年の五月二日に、広島一中から新京一中に転入学していたのでした。米軍が沖縄に上陸し、戦闘が本土に近づいてくるようになってきて、心配した父親から進学どころではないと呼び戻され、四月末、四年半ぶりに新京に帰って行ったのでした。田原君のお父さんは、当時、満州国政府の外交部の要職についておられました。
 そして、転校してひと月も経たないうちに動員令が下り、東寧に向けて出発することになったのです。
 そうした事情を知らなかった私は、戦後に開かれた広島一中同学年の同窓会が東京であった時、はじめてその事実を知ったのでした。
 田原君が広島を去って三ヵ月後に、原爆が投下されましたが、田原君と同じ工場で働いていた級友は、当日、爆心地から八〇〇メートル離れた市内の土橋町で建物疎開の屋外作業に従事していて、担任の先生はじめ全員が原爆の熱線を浴び、ほとんど即死の状態で死亡したのでした。
 関さんの満州に対する思いは、私にさまざまなことを思い出させました。亡くなった妻が、敗戦によって国家に見捨てられた時の悲惨な状況を語ったことが、今も強い記憶として残っています。

nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。