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続・対話随想 №37 [核無き世界をめざして]

   続対話随想37  関千枝子から中山士朗様へ

              エッセイスト  関 千枝子

 例年より早く桜の開花です。私の住む町は、東京の臨海地域、場末の団地の街。時折吹く風が寒いことがあり(海風?ビル風?)桜はまだまだと思っていましたら、昨日(三月十九日)もうかなり花が開いておりまして、ホウと思ったのですが、本日は朝から雨、ひどく寒くて、せっかくの桜も一時休みになりそう。それにしても、世の政治も悪いが、天気も不順、困ったものです。
 天下の方は、森友問題での財務省の文書改ざん問題で、安倍内閣の支持率急落です。国会前は連日、人で一杯です。全く安倍政治のこの頃ひどいことばかりで、ことに今回明らかになった公文書の改ざん問題など、民主主義政治の根幹を揺るがす大問題です。これを、佐川さんという一官僚の問題でお茶を濁すなどとんでもないことで、何とか内閣総辞職に追い込めないものかと思っています。そうなれば安倍氏のもくろむ憲法改悪の国会発議も遅れるのではないか、など思うのですが。
 ただ、私は、とても国会前に立てませんから、若い人(七〇台の人も私に言わせれば若い人)たちに頑張って!と思うだけです。しかし、あの六〇年安保闘争の時、国会前を埋め尽くした人々の安保反対の怒号に、「後楽園にはもっと大勢の人がいて野球を楽しんでいる」と言い放った岸信介。彼は最後まで民の声を無視し、頑張り続け、日米安保条約を守り抜きました。その孫も、「頑張り抜く」か。いやーな感じもします。
 しかし、「孫」の方のやり方、岸以上というか、とにかく汚いですね、そして人に罪を擦り付ける。籠池氏や官僚だけに罪を押し付け、自分や妻などは絶対に悪かったと言わない。もう、下劣というか品がないというか、本当に腹立たしいです。

 こんな中、三月十七日、wam(女たちの戦争と平和資料館)で、澤地久枝さんの「満州の引き上げ体験を語り継ぐ」という話がありました。澤地さんが一昨年、「14歳(フォーテイーン)満州開拓村からの帰還」(集英社新書)を出されたので、そのことに関連するお話です。澤地さんは戦中「軍国少女」で満州にいたことも恥ずかしくて体験を語れなかった。戦後進駐して来たソ連兵の将校に強姦されそうになったのを、お母さんの必死の抵抗で救われたと言っています。
 私も澤地さんの満洲での体験を聞いたことがなく、ぜひ聞きたいと思い、行ってみました。前に澤地さんが満州で敗戦を迎えたことは聞いたことがあると思っていましたが、開拓村ではなかったはず、など、素朴な疑問もありました。
 集会の場所は西早稲田の早稲田奉仕園の中。決して便利な場所ではありません。私はバスの遅延その他のことを考え余裕をもって出かけ、開会の一時間近く前に到着したのですが、もう何人かの方が受付を待っておられました。会場は補助席を入れると100人は入れるのですが。入りきれず別室で映像放送で見る方もあり、澤地さんの「人気」が分かりました。
 澤地さんは、ご存知の通り「九条の会」の呼びかけ人の一人で、大江さんが体調すぐれないのか、このごろほとんど外に出られないので、今、澤地さんが孤軍奮闘しておられる状況です。でも澤地さんは大変お元気で、ついこの数日前もある会でお会いしましたが、短いスピーチをなさったのですが、大きな声で雄弁に語られ、とても感動いたしました。澤地さんは私より一年上(つまり中山さんと同学年)ですが、このごろかえってお元気になっておられるのではないかと思いました。
 この日も。大変な「張り切りよう」で九〇分の講演のはずが百十分くらいになってしまい、だれも時間ですからと、止められないくらいの迫力でした。
 wamが主催ですから、当然、性暴力のこと、澤地さんがずっと話せなかった戦時性暴力、
(満洲開拓村の女性の中では、村の男性たちによってソ連軍に差し出された人もいる)のことを中心に話してもらいたかったのでしょうが、澤地さんのお話は、やはり今の状況のことをまず話され、それが中心のようになりました。
 実は、私は、満洲のことに非常に関心がありまして、それは私の学年が「満州事変落としの生まれ」だからです。満州事変が起こった時人々は熱狂して歓迎、支持したのです。もちろん生まれたばかりの私(私は正確には「満州国」が建国した一九三二年三月の生まれですが)に判る筈がないと言われたらその通りですが、私がだんだん大きくなって学校に行くようなると、学校が変わっても、どのクラスにも「満」の字の付く名前の子がいたのです。戦後、あるお父さんが言われました。「だって、あの時は”満洲”。これからは満州の時代だとみな思ったではありませんか。」
 実は私、中山さん、あなたのことも思ったのです。あなたの奥さまは、満洲銀行におられたということです(実はこれも、奥様が亡くなられてからずいぶんたってこの「往復書簡」のやりとりの中で知ったのですが)、奥様の深い感慨のようなものを感じたのです。あのころの日本全土を覆った「満州国」への期待。「王道楽土、五族協和」への共感。よその国に行って「理想の国」を作るなど、おかしいことだ、など誰も思わず、満州万歳、これからは満州だ、と思った、あなたの奥様も、満洲の理想にあこがれ満洲銀行に入られたのではないか。そして、あの敗戦で、『満州って何だったのか』と思いつつ、苦しい帰国。満州への疑問や、しこりを抱えつつ、過ごされた。あの戦争への深い拘り、多分それが中山さんとのご縁となったのではないか。これは私の勝手な想像で申し訳ありませんが、なんとなく、そんなことを思って、集会に参加したのです。
 澤地さんの場合は、お歳のせいもあって、少し事情は変わるようです。お父さんは貧しい大工だったようで、昭和の恐慌で食べて行けず、満州に渡ったようです。だから、満州建国の後、満洲の理想にあこがれて…・、と言った方々とは動機が違うように思えました。
満鉄社員と言っても下級の社員で、吉林にいたが、とにかく社宅を見ればどんなに身分が低いかすぎわかる。満鉄だっていろいろよ、と言っておられました。
 羽田澄子さんも満鉄社員の娘で大連にいらしたそうですが、どうも羽田さんの方が身分の高い社員だったようですね、羽田さんは長く開拓民の惨禍のことは知らず、そのことを知って、知らなかった自分を恥じて、満蒙開拓団の悲惨を映画にされるのですが。澤地さんの場合は、昭和一八年、吉林の国民学校を卒業、吉林高等女学校という日本人だけの女学校に入ったが、中国人の行く女学校はそのころでもスカートをはき、そのスカートに赤い線が入って奇麗だったのに、日本人の女学校の方はセーラー服はだめで国民服、中国人の方が豊かに見えたというのですが。
 とにかく、戦況が悪くなると校庭に大きな穴が掘られ、馬糞を拾いその穴に入れ、たい肥作り。学校の校庭も畑になり野菜を作るが、その野菜を食べた記憶はなく、教師が食べてしまったらしい、と。
 敗戦の年(一九四五=昭和二〇)は、すいきょくりゅうというところの開拓村に行かされた、そこで六月十日から七月十日までいた。澤地さんも開拓村の実物を見るのはそれが初めてだったようです。泥の家で、窓もなく、電気も水道もない。そんなところで女学生たちは一か月間働き、吉林に戻ってきた。そうしたら八月九日にソ連参戦。「日本の勝利を信じて疑わない」少女にとって信じられない日々。そしてソ連軍の将校二人が押し込んできて強姦されそうになったのを母の命がけの抵抗で助かったそうですが、それから日本にたどり着くまでの二年間の苦労。「この二年間に私の戦争はあった」と言っておられました。
 しかし、七月に開拓村から帰ってきた幸運でしたね。もしそのまま開拓村にソ連軍参戦までいたら…・。大変な事で、開拓農民の女、子どもの悲劇が、澤地さんの身に襲い掛かってきたかもしれない。日本にたどり着けなかったかもしれません。
 帰れなくなり、中国人に育てられた残留孤児たち。その中で当時一三歳以上の女の子は「自分の意志で帰らなかった」とされ、帰国が認められるまで大変だったのです。いわゆる残留婦人です。
 私の生まれたころ、満洲に酔い、多くの人々は「満州帝国」を歓迎したのです。十五年後あのような惨劇になるとは誰が思いましょう。本当に怖い。十分に賢いと思う人々が先が読めないのです。でもそれを嗤えるでしようか。

 これを書いてから十日。桜はあれからすぐ満開、今日あたりでサヨナラです。この間国会で。前国税庁長官佐川氏の喚問。刑事訴追されそうだからと五十回も証言を断り、安倍夫妻や官邸からの指示は全くなかったというあの答弁。誰が見ても嘘としか思えない。何とも情けない国です。


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