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続・対話随想 №36 [核無き世界をめざして]

  続対話随想 36 中山士朗から関千枝子様へ

                  作家  中山士朗

 前回の手紙で、朝日新聞の鷲田清一氏「折々のことば」から、田中角栄元総理が新人議員たちに語ったとされる言葉を引用しました。その折、新聞の切り抜きが見当たらず、記憶で「戦争体験者が政治の中枢にいる間は大丈夫だ。平和について語る必要はない」という趣旨の発言でしたと書きましたが、正確には
<戦争を知っている世代が政治の中心にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。 田中角栄>
と引用されていました。
 これについて鷲田氏は、
 「跨ぎ越してはならない線がどこかを教えるのは、体験の重しである」
と解説しています。まさに、現政権は重しが取れ、戦争へと向かうはかない状況を作り出しているように思えてなりません。
 この「体験の重し」という言葉を反芻しておりましたら、戦争体験者、被爆世代の死が相次いで報じられる、昨今の思いと重なり合うのを覚えました。
 そして、関さんのこのたびの手紙に書いておられました著書「広島第二県女二年西組」が、一九八五年二月に筑摩書房より刊行されて以来、版を重ね、文庫版になってからも十版を重ね、現在も日本各地で朗読劇、朗読が続いていることを知り、まさに体験の重しではないかと思いました。本当に良い著作を残されたと思います。
 折しも、俳人・金子兜太さんの逝去(二月二十日)の報に接しました。新聞の記事によると。病名は急性呼吸迫症候群、享年九十八歳。読みながら「続対話随想」28に、昨年十月三十日の朝日俳壇。金子兜太選の句を載せたことを思い出しました。
    腰据えてがんとの闘い大根蒔く  奈良県広陵町  松井矢菅
 その後、昨年十一月二十日の選に、
    晩秋やあっさりと癌告知さる   向井市  松重幹雄
 の句があり、私の胸中に深く残りました。

 これらの句が、当時、大腸癌を告知されたばかりの私に影響したものと思われましたが、それとは別に、金子兜太さん自身の心に反映した句として選ばれたものではないかと思って、切り抜いておいたのです。
 金子兜太さんの死後まもなくして、二月二十五日のNHKの「ETV特集」で金子兜太さんをめぐるドキュメンタリー番組が再放送されました。
 癌の手術を受けて入院中の金子兜太さんの姿が写し出されているのを見て先に引用した選句は、まさしく金子兜太さん自身の心象を反映したものだと思いました。担当医は、「悪いところは、取ってください、とあっさりした方でした」と語っていました。その言葉を聞きながら、手術を断り、経過観察で日々を過ごしている自分の姿をあらためてみつめ直した次第です。昨年、ペースメーカーの四回目の電池交換手術を行いましたが、その直後に感染症に罹り、肺炎を起こした経験から、どうしても手術を受ける気にはなれなかったのです。
 すっかり話が横道に逸れてしまいましたが、私は以前から、私たちの「続・対話随想」に金子兜太さんの句に見られる、生き方の原点について書いてみたいと常々考えておりました。
 金子兜太さんは、晩年まで戦争反対の声を上げ続けた俳人でした。この原点には、海軍主計中尉として赴任した南太平洋・トラック島での戦争体験がありました。
     水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る
 この句は十五ヵ月間の捕虜生活を終え、日本へ帰る戦場で作られたものでした。
 戦争がない世の中を作り死者へ報いるという決意は、晩年になっても変わることはありませんでした、その表れが安全保証関連法案への反対が広がった二〇一五年には、「アベ政治は許さない」と揮毫したプラカードが、全国の会場で揺れたと言います。
 また、俳句の世界では、「社会性俳句」に取り組み、前衛俳句運動の中心となって戦後の俳句運動の旗振り役をつとめました。そして季語の重要性は認めながらも。季語のない無季の句を積極的に詠んだのです。
 季語のない句、この言葉から私たちが現在も続けております「ヒロシマ往復書簡」の続き、「続対話随想」も、季節、空間、時間の定めなく書いていることに気づきました。これは、かつて中国新聞社にいた故・大牟田 稔さんが提唱していた言葉でした。関さんも私も、原爆被害が原点となって生き、書いているのですが、ひっきょう死者に報いるためのものです。とりわけ関さんは、核兵器廃絶を目指して活動を続けておられるのです。金子兜太さんが晩年まで、戦争反対の声を上げ続けたように。
 手紙の冒頭で、田中角栄元総理の言葉に触れましたが、資料を当たっておりましたら、大分合同新聞の追悼文の中に、つぎのような文章がありました。
 <近年、ナショナリズムが台頭する風潮が強まると、戦争反対の声を上げる機会が増えた。晩年のインタビューでは、戦争体験者がほとんどない国会で、「戦時」を議論する「危なっかしさ」を指摘した。「議論を見ていても、戦争への恐怖心を感じない。あの残酷な状態を体験したらね、戦争につながる事態を作り出すことに、もっと警戒するはずなんです」と。>
 このたび関さんへの返書、最後に原爆を詠んだ金子兜太さんの句ならびに選句で結ばせていただきます。

 二〇一七年八月、原爆の図丸木美術館を初めて訪れた際に、同館学芸員の岡村幸宜さんの説明を受けながら、第一部「幽霊」をじっと見つめるうち、口ずさんだ句。
    湾曲し火傷し爆心地のマラソン
 第二部「火」、第三部「水」を見ての思いを託した句。
     被爆直後夫妻の画像大きく太し     兜太
 <選句>から
     冷まじや聾者の被爆語る手話    埼玉県宮代町 酒井忠正

     母のもとに還る流灯爆心地     山口市 浜村匡子

     核なくせ灼けて丸山定夫の碑    相模原市 芝岡友衛

     平和こそ山川草木みな笑ふ     川崎市 神村謙二

     陽炎や全ての戦争許すまじ     飯塚市 釋 蜩硯

     忘れめや生きてる限り原爆忌    成田市 神部一成

     人類史角番にあり夏に入る     東京都 望月清彦

  <金子兜太さん代表句>から  

     水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る 

     原爆許すまじ蟹(かに)かつかつと瓦礫(瓦礫)歩む

     湾曲し火傷(やけど)し爆心地のマラソン

     被曝(ひばく)の人や牛や夏野をただ歩く

 この手紙を書き終えた日の大分合同新聞の「声」の欄に、大分市の田口次郎さん(84歳)という方の文章がありました。
 「水脈の果て」の句に、硫黄島で戦死した兄の記憶と重なったことが書かれた後に、
<十数年前、東京で平和憲法を守ろうと「俳人 九条の会」が結成された。呼び掛け人の中に金子さんの名前があり、敬意を深めた。大分県でも金子さんらの呼びかけで「俳人九条の会・大分」が結成された。金子さんらの反戦の意志に応える取り組みをしたいと思う。>
という追悼の文章がありました。




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