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続・対話随想 №35 [核無き世界をめざして]

  続対話随想35  関千枝子から中山士朗様へ

              エッセイスト  関 千枝子

 核兵器禁止条約のことをめぐり安倍内閣の態度、トランプの核戦略に河野外相が直ちに賛意を表したことなど、腹が立つことばかりで、それに被団協にしろそのほかの団体にしろ、国連への核兵器廃絶の署名を相変わらず集めていますが、私はかっかとしています。いくら国連への署名を集めても、国連の人々は、ヒバクシャは国連への署名は集めるが、自分の政府を何ともできないのかと、あきれているのではないかと思うのですが。
 私は、政府へ態度を変え核兵器禁止条約に署名しろという請願署名をすべきではないかとあちこちで言っているのですが,誰も相手にしてくれません。でも、「普通の人たち」は北朝鮮の「核」をとても怖く思っているらしくて、「現実」を言う人も多いのは事実です。もちろん私も北朝鮮のやり方をいいと思うわけではありません。しかし、北が、水爆づくりに成功したとしても、そんなにたくさんの爆弾を作れるわけがない、そこへ行くとアメリカはすでに7000発の核兵器があるのです。それを小型化してあちこちに配備する。艦船にも載せるという、その艦船はどこの港に停泊するの?
 日本の「非核3原則」がめちゃめちゃにされるのではないか。恐ろしいですね。「密約」がお得意な日本政府ですが、トランプ氏なら。密約などなしに正面から言ってくるのではないのかしら。本当に怖い。
 でも、この二週間ほど、不思議なことに、私の「広島第二県女二年西組」の朗読劇や朗読がつづき、なんだか忙しい(本売りも)日々でした。
 二月十一日、山梨県の「山なみ」という劇団が朗読劇をしてくださいました。前にもお話ししました関西の熊本一さんが、大阪や生駒のシニア劇団で私が三〇年前に書いた脚本を上演してくださり、それを全国に広めたいとリアリズム演劇集団の機関誌「演劇会議」に掲載してくださったのですが「山なみ」の方はこれを見て、上演を思いつかれたのです。ただ、ご自分の考えがあるようで脚本をいろいろ書き替えられたのですが、私は書き換えは構わないが事実と違うことは困る、これは「ドキュメンタリー」なのでと、二回にわたってやりとりをしました。それから音さたなく、どうなったのかしらと思っていたら、一月も末になって山梨に住む友達から「あなたの劇が上演されるらしいけど、あなた甲府に来るの?」と電話がかかりびっくりしました。驚いて「山なみ」の主催者.河野通方さんに電話したところ「流感で寝込んでいて連絡が遅れた」とのこと、主催者が寝込んでいて、無事にドラマができるのかとまた心配。そのうちやっと招待券とチラシが届きましたが、演出は別の方のようで、やっと少し安心して、甲府まで足を延ばしました。
 会場は山梨文学館の講堂。ミレーの絵で有名な山梨美術館のすぐそばで立派な建物です。講堂も広くて立派です。入りは七割位かしら。採算は大丈夫かしらと直ぐそんなことが気になるのですが、山梨の友だち(それは、先年ニューヨークやボストンで丸木美術館の「原爆の図」の展覧会のコーディネートをやった早川与志子さんです。彼女とは彼女が日本テレビにいる頃からの友達)によれば、山梨は人口も少ないし、客足はどうしてもこんなことになるとのことです。
 しかし、山梨というと保守的なイメージですが、講堂の隣の部屋では、「2月11日を考える集い」をやっていてそこにも人が集まっていました。なかなかしっかりしていると感心。
 さて劇の方ですが、とにかく上手で驚きました、この脚本は前半は原作の中からとった被爆、遺族の嘆きですが、後半は靖国神社の合祀の問題や戦争の加害のことを言っています。この部分がかなり長いのですが、熊本さんは素人のシニア劇団でやらすには少し難しいからと靖国のことだけに絞って後はカットして上演されたのですが、「山なみ」はこの分もカットせず、朗読されます。演者の力量に感心しました。終わってからの主催者あいさつで、河野さんは「戦争を知らないメンバーが戦争のことを一生懸命勉強して演じました」と言われ私も、舞台に引っ張り出され、観客と演者の方にお礼を申し上げました。
 後で聞いたところ「山なみ」は劇団創設以来六十二年ですって。驚きました。もちろん今日の演者たちは創設のメンバーではないでしょうが。日頃ほかに仕事をしている人が夜などに演劇の勉強し、年に一度か二度、公演し頑張っている。六十二年も頑張っているなんて本当にすごいことですね。
 終わったから早川さんとお連れ合いと三人でお茶など飲み、久しぶりに話し合いました。
早川さんも山梨でも活動が広がっているようで夏、八ヶ岳の麓で平和コンサートをするのですって。「来なさい」と言われて調子よく「行く」と約束してしまいました。
 一八日は、江戸川区のタワー船堀というところで平和コンサートがあり、その中で二年西組」の朗読が入るというので行きました。これもどういう会なのかよくわからなかったのです。場所は都営地下鉄新宿線の船堀駅。昔(二〇年近く前)娘がそちらの方に住んでいてよく利用した地下鉄ですが、このところ乗ったこともありません。とにかく江戸川というととても遠いような感じがしたのですが、意外に早く着き、船堀駅を出ると真ん前のビルが船堀タワー。きれいなビルで、便利でびっくりしました。おまけにコンサートは無料だそうで、小ホールが会場なのですが、多分二〇〇人くらい入りそうなホールに人がいっぱいです。聞けばこの会、江戸川区の被爆者の会の主催ですが、江戸川区などから補助があり、無料でこんなことができるそうで、びっくりです。でも毎回コンサートだけで、今回「新しい試み」として私の本の朗読を入れてくださった、会長さんがたまたま私の本を読んでくださり、感動したということで、ありがたく思いました。
 朗読はフリーの女性アナウンサーで、呉の出身だそうです。私の本のはじめの方を中心に、忠実に読んでいただきました。弦楽のバックミュージックが入り、とても感興をそそりいい感じでした。皆さん静かに聞いてくださり、うれしく思いました。でも、ちょうど私の隣に座っていた女性、私と同年配だと思うのですが、(被爆者ではないみたい)、私に盛んに話しかけてくるのですが、あの時の何年生でした?と聞いてもはっきり覚えていないようなことを言い、驚いてしまいました。敗戦の時何年生だったか、これは誰でも忘れないと思うのですが‥‥。
 第2部は江戸川区に住む演奏家の弦楽五重奏。楽しい音楽もたくさんあってよかったです。江戸川区には演奏家もたくさん住んでおられるようです。
 でも、この会はこんなことに慣れていないようで、私が参加していることは紹介してくださったのですが、特に話をさせてくださいませんでしたので、核兵器禁止条約のことなどアピールする機会はなく少し残念だったのですが。でも、江戸川の方やフリーのアナの方など新しい方とお目にかかれてうれしく思いました。

 二十一日は、安保関連法制女の会の違憲訴訟の公判がありこの日意見陳述した原告の中には、長崎の被爆者がおられました。この方は無事だったのですが、爆心地近くの工場に動員されていたお兄さんが被爆、亡くなるのですが、当時ズックの靴、とても大切だったでしょう、ボロボロになった片方の靴を大事抱きしめて家にたどり着いたということです。私の友も下駄で通学していて、原爆で足も焼けて裸足になり、痛さにうめきながら逃げた、足が痛い痛いと言っていた友のことを思い出しました。
 二十五日、川崎、武蔵小杉の中原市民館で「中原・平和を願う原爆展」の被爆者証言に行ってまいりました。この主催者たちは原水協で懸命に平和活動をしている方々で私も何度か行ったことがあり、「慣れたところ」なのですが。
 中山さんもご存知でしょうが、武蔵小杉というところ、昔、南武線と東横線が交わる所ですが、それだけの町だったのですが、今、例えば私が品川から鎌倉に行こうとして横須賀線に乗ると東海道をまっすぐ行かず、武蔵小杉に行きそこから横浜に行くのです。品川から一〇分くらいで武蔵小杉に着くのでびっくりです。そんな便利な場所になったので武蔵小杉は、近頃大繁盛の街。高層ビル立ち並ぶまちです。
 今年の原爆展が二月で、例年より早いと思ったのですが、そんな武蔵小杉なので、中原市民館のギャラリーは超人気で、場所取りの抽選で大変、やっと取れたのがこの二月末だったのですって。でも八月になると平和、原爆で大騒ぎし、八月を過ぎると忘れてしまうのは困るから、いいではないの!と言いました。
 ギャラリーの真ん中の机を囲んでの話しあい、参加者は多くないのですが、みなさん熱心で良かったです。私も自分の体験、建物疎開作業のこと、そして被爆者の思い、核兵器禁止条約のこと、日本政府への怒り、思う存分話させていただきました。
 この原爆展が第八回というので、私、この会に姉と話しに来たことがあったので、聞いてみました。「そうですよ。あの時(二〇一〇年一〇月)が第一回です」と言われるのです。姉、黒川万千代はその年、急性白血病を発症いたしました。でも、「データは悪いのに」とても元気だったのですが。彼女が病気になったというので、今まで被爆の話をさせてもらっていたところが全部断ってきました。姉の体を心配してくださったのでしょうが、「死ぬまで話をしたい」姉は、残念に思っていました。そこへこの中原の話です。おまけに私も一緒です、私と姉が二人一緒に原爆の話をしたことはなく、これが初めてで姉は大いに張り切り、語り、心から喜んでいました。この年の暮れあたりから姉は急に衰え、亡くなりました。その半月後に3・11。福島原発の事故を知ったら姉はどんなに怒っただろう、あの前に死んでいてよかったと私は思いました。
 この第一回に参加した方が、その時の写真を持ってきてくださいました。姉の顔は本当に元気そうです。でも抗がん剤で髪が抜けているのでしょう、帽子をかぶっています。横に座っている私も若いです!この時まだ七〇代だったのだ!と思いました。そしてこの八年間の世に中の動きを思いました。あの時核兵器禁止条約ができるとは思わなかった。でもこれだけ日本政府がひどくなるとは思わなかった!と思いました。


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