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続・対話随想 №30 [核無き世界をめざして]

 続対話随想30 中山士朗から関千枝子様へ

                   作家  中山士朗

 平成三十年の新年を迎えました。  
 天皇退位が二〇一九年に決まりましたので、「平成」最後の年となります。平成が終わるということは、昭和、平成を生きた私には、戦後が終わったことへの深い感慨をもたらします。私はこれまで元号が変わっても、何時も昭和の年数に換算して日々の生活を送っていました。ですから、今年は昭和九三年になるのです。
 「百年河清を俟つ」という中国の諺がありますように、ヒバクシャである私は、核兵器廃絶を心底から願っていました。しかし、その思いとは逆に世界は核抑止力を背景に拡大していくとき、昨年(被爆七二年。昭和九二年】の七月には核兵器禁止条約が採択され、一二月には、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)がノーベル平和賞を受賞し、被爆者の証言に世界の目が注がれるようになったのです。
 したがって、核兵器廃絶への一歩が踏み出されたばかりの、年頭の「ヒロシマ往復書簡」ということになりますが、平常どうりの心境で臨みたいと思います。

 お手紙を読み、戦争中に反戦を貫き、治安維持法で起訴されたクリスチャンが原爆が投下された時、広島刑務所に収容されていたということを初めて知りました。
 市内・吉島町にありました広島刑務所は、通称「吉島の監獄」と言われていました。私が通っていた中島小学校の近くにあり、友達のなかには刑務所の官舎に住む生徒もいましたし、学校から先生に引率されて刑務所の内部を見学に行ったこともありました。そして、中学校に入学して間もなく、広島刑務所の先の埋め立て地に陸軍飛行場が建設されることになり、モッコをかついで土を運ぶ勤労奉仕に駆り出されました。その時、母が縫ってくれた肩当てをあてがって、二人一組で暁部隊の兵士が盛ってくれる土を運びましたが、その重さが幼い私たちの肩に食い込み、腫れ上がった記憶がいま思い出しても鮮明に残っています。
 戦後になって、私が通っていた中学校は爆心地近くにあったため校舎は全壊焼失しましたので、市内・翠町にありました第三国民学校の間借り教室で授業を受けるようになりました、ところが、橋が決壊していたために、私の家がある舟入川口町から翠町に行くためには、広島刑務所のある対岸を行き来する渡し船を利用するしか方法がありませんでした。
 私たちはその船頭さんから、被爆当日の、彼の父親の話を聞いたことがありました。
 後で分かったことですが、吉島の陸軍飛行場建設作業に通っていたころに、私は彼の父親の船頭さんが漕ぐ船で対岸を行き来していたのです。私はこの話を渋沢栄一記念財団発行の『青淵』の平成一五年八月号の「水の上の残像」のなかで書いていますので、引用してみます。
 <父親の沖元重次郎さんは、原爆が投下された当日の朝も、いつものように渡し船を漕ぎ、吉島方面から江波や観音町の新開地にあった三菱造船や三菱重工に通う職員、工員、徴用工、動員学徒などを乗せて櫓を漕いでいた。原爆が投下された時刻には、川の中程で被爆したが、川面のことゆえ遮蔽物が何一つないために、ほとんど全身火傷に近い状態だったという。
 市の中心部から吉島に避難してきた被災者は、憲兵によって負傷の程度を確かめられ、乗船できる者とそうでない者とに分類された。その整理を青い衣服をまとった刑務所の囚人が手伝った。
 そのために、沖元さんは自身も負傷しているにもかかわらず、船が沈みそうになるほど被災者を乗せ、棹で水面を搔き分けながら舟を対岸に進めた。そして、折り返した。
 何度も往復しているうちに、沖元さんは体力を完全に使い果たし、夕方近くには、江波側の土手にしゃがみこんでしまった。>
 関さんの手紙に「<ヒバクシャ遺産の継承>などと言っても、吉島刑務所のことなど思いつく人はいないのではないかと思いました」と書いてありましたが、実は『青淵』の平成一六年九月号に「黄葉の記」という題で、広島刑務所に勤務中の安東荒喜氏の<ある書簡>という手記を紹介しています。
 この手記は、二一世紀への遺言という副題の付いた「いのち」という冊子に掲載されたものでした。この冊子は、大分県原爆被害者団体協議会、大分県生活協同組合連合会、大分県連合青年団が中心となって「聞き書き語り残し」実行委員会を設け、平成七年八月に出版されたものです。その中に故安東荒喜氏(明治二二年生まれ。昭和五〇年二月九日没。八五歳)の文章が私の目に止まったのでした。原稿が募集された折り、夫人の二三子さんが、ご自身の体験記に添えて、夫がかつて書いた被爆直後の被害状況報告書を提出した経緯があったので「ある書簡」とされたのでした。
 この「命」を贈呈してくれたのは、大分県被害者団体協議会の事務局長の佐々木茂樹さんでした。原爆が投下された時、佐々木家も安東家も同じ広島刑務所内の社宅に住まい、佐々木氏の父親と安東氏は同じ職場で受刑囚の矯正、指導に当たっていたのでした。安東氏は広島刑務所を最後にその年に退官され、出身地の大分に戻られましたが、佐々木氏の父親は、その後盛岡、札幌正管区、松江、山口、福岡と転勤し、大分刑務所長を最後に退官され、平成四年四月に八八歳で亡くなられています。
 被爆当時、七四,三四四平方メートルの敷地内には舎房、工場、官舎、宿舎などの建物があり、職員二五〇人、収容者一一五四人がいました。当日、広島刑務所に勤務中に被爆した安東荒喜氏が被害者報告書を認めておられなかったら、また、夫人がこれを今日まで保存されていなかったならば、私たちは広島刑務所における被爆の実相について知ることはなかったであろうと、紹介の冒頭に私は記しています。

      「ある書簡」
               大分市  安東荒喜 

客月六日午前八時十分 警戒警報及空襲警報発令下ニアラザル当市全域ニ亘リ空襲アリ
其後今尚、戦慄ヲ覚ユルモノ有之 当時小生ハ戒護課ニ於テ書類捺印中先異様ナル光線ヲ認メタルモ其何者タルヤヲ探知セズ  且最初ノ事デモアリ何等ノ不安ヲ感ズルコトナク依然検印中約十秒経過後大爆音ヲ聞クニアラズシテ突如「グラグラ」ト言フ一大音響ト共二戒護建物大破  天井ヲ始メ瓦其他ノ落下物無数 中二自分ハ二間位吹キ飛バサレテ戒護中央近クニ在ルヲ意識ス時真ノ暗黒(ゴミ散乱ノ為)間モナク外部ヨリ光輝ヲ認メタルヲ以テ其方向ニ脱出左前膊部ニ縫合四針ノ負傷ヲ始トシ外十数ヶ所ノ擦過傷ヲ受ケ上半身ハ血ニ染ミ其何人タルヤヲ判別出来ザル程ニ有之 戒護本部前ニ停立一瞥スルニ各工場各舎房共全部崩壊収容者ハ屋根ヨリ脱出スルモノ救ヲ求メルモノ阿鼻叫喚実ニ惨害の極ニ有之候
 軽症者ヲ督励救助ニ努メ併而、戒護検索に任ジ所内ヲ一巡スレバ各種通用門各非常門各事務室ハ何レモ一瞬ニシテ倒壊、各官舎ハ或ハ倒壊或ハ大破ノ状況ニシテ所内出火十ヶ所余ニ至リタルモ何レモ完全消火 火災ニ至ラザリシハ不幸中ノ幸イニ有之候
 右災害ニ依リ収容者即死十四名・重傷八十八名、職員即死四名(津国技手、山口技手、宮野部長・乗元教誨師)、重傷三名ニ有之  無傷ノモノハ職員及収容者ヲ通シ一人モ之無候
 工場又ハ舎房内ニ在リシ者ハ打撲傷 外部ニ在リシ在リタルモノハ光線ニ依ル火傷ニ有之候 市内ハ全部消失而カモ同時ニ各方面ヨリ出火消防器具ナク.消防ニ従事スル人ナク身ヲ以テ逃ゲントスルニ止ムル(後半略)

 後半は、子息の救出に出向くように都の所長の心配りが伝えられましたが、多数の部下、看守が家を忘れて救助に戒護に懸命に努力している現状を見て、折角の厚意を断り逡巡する心の内、そして後刻に調査をし、息子の死を確認した時の心境が語られていました。
 関さんが言われるように、広島刑務所に関しては、その沿革、敷地の規模に関する記録はありますが、被災状況の記録は見当たりませんね。しかし、被爆七二年の歳月を経て広島刑務所について語っている人々との出会いというか、縁というものを改めて感じています。

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