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続・対話随想 №28 [核無き世界をめざして]

   続対話随想28 中山士朗から関千枝子様へ

              エッセイスト  関 千枝子

 歳月という言葉が、このたびの手紙にはありました。
 広島で供養塔の清掃、遺骨の遺族探し、被爆証言を四十年以上も続けた佐伯敏子さん(十月三日逝去。享年九七)の死は、まさに二〇一七年のヒロシマの風化を象徴していると言えます。テレビで観た私の記億では、病床の佐伯さんに核兵器禁止条約の採択が告げられた時、「良かった」と微かに頷く場面があったように記憶しています。
 それにつけても、関さんが書いておられるように、一〇月二七日の国連総会で、日本政府が「核兵器禁止条約」にも触れもせず、昨年出した案よりも交代した「核兵器廃絶案」を、多くの国々から痛烈な批判を受けたことを思い出さずにはいられません。
 二〇一六年オバマ大統領が広島の原爆慰霊碑の前で核廃絶への希望を語りましたが、それに呼応して、安倍首相は、
 <熾烈に戦いあった敵は七十年の時を経て、心の靭帯を結ぶ友となり、深い信頼と友情によって結ばれた同盟国となりました。そして生まれた日米同盟は世界に希望を生み出す同盟でなければならない。>
 <核兵器のない世界を実現する。その道のりがいかに長く、いかに困難なものであろうとも、絶え間なく努力することが、いまを生きる私たちの責任であります。>
 <日本と米国が力を合わせて世界に希望を生み出す灯火となる。この地に立ち、オバマ大統領とともに、改めて固く決意しています。そのことが広島、長崎で、原子爆弾の犠牲となったあまたの御霊の思いに応える唯一の道である。私はそう確信しています。>
 こうしたメッセージを送っているのです。
 それにも関わらず、この十月、二〇一七年のノーベル平和賞が核兵器禁止条約の制定の原動力となった非政府組織ICANに授賞が決まりましたが、これには広島、長崎の被爆者が連携し、核の非人道性を訴えてきたことが大きく作用しています。にもかかわらず安倍首相は受賞への公式コメントを出しませんでした。
 二〇一六年のオバマ大統領と慰霊碑の前で語った言葉は何だったのでしょうか。
 そのようなことを考えておりましたら、十月二十日付の朝日新聞に「皇后さま今日八十三歳 回答全文」が出ているのが目に止まりました。これは、皇后さま八十三歳の誕生日に当たり、この一年について尋ねた宮内記者会の質問に文書で回答を寄せられたものです。被災地への思い、国内各地への旅、学者、スポーツ選手のすがすがしい引退、陛下譲位についての感謝について述べられていて、その中にノーベル賞について触れておられました。
 その項の見出しは「平和賞 被爆者の努力に注目」とありました。
 <今年もノーベル賞の季節となり、日本も関わる二つの賞の発表がありました。
 文学賞は日系の英国人イシグロ・カズオさんが受賞され、私がこれまでに読んでいるのは一作のみですが、今も深く記憶に残っているその一作「日の名残り」の作者の受賞を心からお祝いいたします。>
 続いて、
 <平和賞は、核兵器廃絶国際キャンペーン「ICAN」が受賞しました。核兵器の問題に関し、日本の立場は複雑ですが、本当に長い長い年月にわたる広島、長崎の被爆者たちの努力により、核兵器の非人道性、ひと度使用された場合の恐るべき結果等にようやく世界の目が向けられたことには大きな意義があったと思います。そして、それとともに、日本の被爆者の心が、決して戦いの連鎖を作る「報復」にではなく、常に将来の平和の希求へと向けられてきたことに、世界の目が注がれることを願っています。>
その続きには、大勢の懐かしい人たちとの別れが綴られていました。その中に、医師の日野原重明先生の名前も出ていました。
原爆投下から十五年の一九六〇年八月六日、皇太子(当時二六歳)だった天皇陛下は、似島(にのしま)に渡り、行き場のない原爆孤児たちのために造られた民間養護施設「似島学園」を訪問されました。
 瀬戸内海に浮かぶ似島は、一九四五年八月六日、広島に原爆が投下された後、この小さな島に臨時の野戦病院が置かれ、約一万人の被爆者が運び込まれました。後に大量の遺骨や遺品が見つかりました。
 私は被爆直後に比治山に遊離し、放心状態で山の麓に停車している軍用貨物列車を見下ろしていました。この列車は、比治山の麓近くにある陸軍被服廠、兵器廠と宇品港を結ぶために設けられた鉄道でした。貨車の傍にいた兵士たちが「負傷者は、集まれ」と合図していました。この声を聞いて、大勢の負傷者はいっせいに赤土が露出した山肌を滑るようにして、貨車をめがけて下りて行きました。体を酷く焼かれた私には、その気力、体力がなく、その場にうずくまって貨車が去って行くのを見送っていました。それからしばらくして私は兵士に背負われて、山の東斜面の中腹にあった臨時救護所に運び込まれたのでした。あの時貨車に乗っていましたら、似島に送られ、家族の者との再会も果たせず死んでいったはずです。私たちの広島一中では、学校付近の建物疎開作業に従事していた一年生の多くが似島に送られ、亡くなっています。
 話が横道に逸れてしまいましたが、陛下の似島訪問が、後の天皇、皇后のこれまでの五一島訪問のきっかけとなったのです。
 こうしたことなぞを思考しておりますと、ノーベル平和賞は核兵器を史上初めて非合法化する核禁止条約に向けて努力し、広島、長崎の被爆者と連携して核の非人道性を訴え続けてきたICANの活動を評価したものでした。しかるに、安倍首相は核兵器禁止条約が国連で採択されましたが参加せず、このことについての何ら公式のメッセージも発していません。自民党は、多数の民意を得てこのたびの戦況を勝利したと言っておりますが、次のような民意があることも知っておいてもらいたいものです。
「核の傘」の下にあっても条約に参加することICAN(わたしはできる)
                   (神栖市) 寺崎 尚
 この短歌は、一〇月六日付朝日新聞の「朝日歌壇」に、水田和宏選として掲載されたものです。
 こちらは十月三十日「朝日俳壇」金子兜太選の(奈良県広陵町)松井 矢菅さんという人の句ですが、私の現在の心境に沁みこみました。
    腰据えて癌との戦大根蒔く


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