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続・対話随想 №24 [核無き世界をめざして]

 続対話随想24 中山士朗から関千枝子様へ

                   作家  中山士朗

 お手紙拝見しながら、いつもながらの関さんの熱い思いを感じています。
 とりわけ、筑摩書房の文庫版に収められている貴著『広島第二県女二年西組』が一〇版を重ねられたことを知り、何よりも嬉しく思いました。これぞまさしく神様が関さんにご褒美として贈ったものに相違ありません。これまでの関さんの生涯をかけたお仕事を顧みる時、当然のことだろうと思っています。中国新聞の西本さんの発言にありましたように、原爆の本が読まれなくなった時代にあって、関さんのご本が版を重ねていくのは、以前に書きましたように、まさに、
  ライフ  イズ  ショート
  アート  イズ  ロング
 と言わねばなりません。
 中国放送の秋信さんが残された仕事も、それと重なってきます。
 現在、私は、強くそのことを感じるようになりました。
 とりわけ、このたび緊急で検査入院し、大腸に癌があることが判明しましたので、余計そのことを意識するようになりました。それより少し前から、呼吸が苦しく、歩行もままならない状態が続いていました。かかりつけの病院で血液検査の結果、貧血が判明し、急遽、別府医療センターに検査入院したのでした。総合診療の結果、大腸癌が発見され、貧血はそのことが原因でした。すぐさま輸血をし、鉄分を含んだ薬剤が投与され、呼吸が楽になり、歩行も以前に戻りました。現在、通院しながらの経過診療が行われていますが、私自身はこの年齢になっての手術はごめんこうむりたいと思っています。
 医師から直接に大腸癌を伝えられましたが、その言葉を衝撃的なものとして受け取らない存在としての、私自身に気づいたのでした。
 なぜならば、私の父は後に、原爆症認定の病名となった心筋梗塞で、六五歳で亡くなりました。母は七七歳でS状結腸癌と分かり、余命九〇日と診断されたのでした。
 姉も七八歳で、母と同名の癌となり、手術を受けましたが、現在、痛苦に耐えながらの生活を続けています。母と姉は、私が臨時救護所にいることが判るまでの五日間、爆心地近くにいた私を探す毎日を送ったのでした。姉は、徴用先の会社があった己斐の近くで<黒い雨>に遭っていますが、ひっきょう母と姉は私を捜し歩いたがために、ともに後年、同じ病名の癌にかかったものと私は常々こころ苦しく思っていました。そうしたことから、現在八六歳になる私が癌と宣告されても、敢えて驚くこともなかったのです。
 その時、私は二人の女性の言葉を思い出さずにはいられませんでした。
 その一人は、関さんの姉上・黒川万千代さんが、急性骨髄性白血病の病床で、「原爆症認定の申請をしたのは、お金が欲しいのではない。原爆のためという言うことをはっきり認めて欲しいのだ。放射能が六五年経っても仇をする恐ろしいものだということを認めて欲しいのだ」、この言葉を残して逝かれたのでした。認定までの二年を待たずして黒川さんは亡くなられたのでした。
 今一人は、往復書簡第Ⅲ集の「あとがき」の中で引用しました宮崎園子さんの祖母(享年八〇)の言われた言葉でした。
 <あの日、18歳、爆心地から一・五キロで被爆し、顔半分をやけどした。
 「地獄を見た」と繰り返した。晩年、多発性骨髄腫と診断され「六〇年たっても原爆に殺される」と。>
 それと同時に、関さんの手紙にありました県病院の緩和ケア病棟で戸田照枝さんが語った言葉を思いださずにはいられませんでした。特に国民学校高等科の生徒の時、勤労動員で国鉄の無線の仕事をしていましたが、原爆が投下された時、広島駅の近くにあった建物は崩壊し、大勢の動員学徒が下敷きになりました。彼女は、運よく脱出できましたが、親しい友人を救うことができないまま、その場を逃げるより仕方がなかったのです。そのことがずっと気にかかり、罪深い自分を意識し、その思いがキリスト教の教会に足を向けさせ、クリスチャンになったのでした。
 先日の関さんお手紙で、戸田さんがこの八月六日に教会で被爆証言をされるということを知りましたが朝日新聞の宮崎園子さんが取材に当たられたということを知り、不思議な縁のつながりをお覚えずにはいられません。この記事は、八月六日の朝日新聞全国版の一面に載ったのでした。
 八月三〇日、私の身に癌が発症し、余命がいよいよ狭まって来たことを否応なしに認めなければならない時、被団協代表委員の谷口稜曄さんが、癌のため死去されたことが報じられていました。享年八八でした。
 谷口さんは一六歳の時、自転車で郵便配達中に、長崎の爆心地から一・八キロのところで被爆。背中を焼かれて三年七カ月の入院の後も完治せず、手術を繰り返していました。二〇一〇年五月、ニューヨークの国連本部でのNPT再検討会議では、各国政府代表を前に演説し、約三〇〇人の出席者から総立ちで拍手を受けたと新聞に報じられていました。
 このようにして、私を含めて被爆体験者が確実に数を減らしていく時、関さんとの『広島往復書簡』を第Ⅲ集までまとめることができたのは、ありがたいことだと思っております。現在も書簡の往復は続いておりますが、書ける間は、書き続けたいと思っています
追伸 関さんのお手紙で戸田さんの訃報を知り驚いています。次便で触れたいと思います


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