コーセーだから №25 [雑木林の四季]
コーセーの新工場が完成
(株)コーセーOB 北原 保
もう1ヶ月前(3月1日)のことになりますが、コーセーの群馬工場の敷地内に新しい生産棟が完成し、稼働を始めました。
この新しい工場は、地上3階建で、延べ床面積は5,600坪、年間の生産能力は4,500トン、個数にして3,000万個の規模を有しています。こう書いてもピンとこないのは当たり前ですが、この工場の完成で、現在のコーセーが日本国内と中国等海外にある工場全てで生産している量の30%増しになります。
この新工場を建設した理由は、近年の売上げ拡大にともなう生産量の増加に対応するためです。
完成した群馬工場の新生産棟
コーセーは創業者である小林孝三郎の「良い商品こそが企業の命」という熱い思いもあり、創業当初から生産施設の拡充には力を注ぎ、次から次へと工場を建設してきました。時には、その当時の企業規模をはるかに上回る工場を建設したこともありますが、結果的には企業の成長のほうが上回ることになりました。
1946年の創業当初は、東京の王子地区にアパートだった建物を購入し、そこを事務室と工場や出荷場にしたそうです。しかし、1年9ヶ月後には、王子の豊島地区に、同時に2つの工場を作ってしまいます。それも4年ほどすると手狭になってきたため、1952年には同じ王子の栄町に鉄筋2階建の新工場を建設します。最新の製造機や自家発電装置を導入するなど、かなり力を注いで建設したため、東京工場として1975年まで製造が続けられ、以後は研究所として活用されることになりました。
黎明期を支えた豊島工場
次に建設されたのが、今でも活躍を続けている狭山工場です。この工場の敷地面積は3万坪以上もあり、1964年に第一期工事が完成し増したが、全ての工事が完成するのは起工式から数えて、4期9年間にわたりました。1972年の完成当時は東洋一の化粧品工場といわれました。
「広大な敷地の公園のような工場」、当時建設にかかわった人たちは、孝三郎社長の意思を実現する工場を作ることに夢を傾けていました。
完成当初、コーセーにとっては十分と思われていた狭山工場も、その後の日本経済の拡大、コーセーの発展などで、狭山工場だけでは足らなくなってしまいました。
そのため、1975年に上尾工場と板橋工場、1979年に当時最先端だったFA(ファクトリー オートメーション)を導入した群馬工場をと、次々と建設してきました。現在は生産体制の確立や施設の統廃合などによって、国内は狭山工場と群馬工場の2箇所に集約されている。
しかし、狭山工場も稼働から50年以上経ち、施設の老朽化と生産能力不足により、新しい生産設備の建設が急務となっていました。
また、消費者ニーズの変化により、化粧品への需要はますます複雑化してきました。昔から、化粧品は多品種少量生産といわれてきましたが、最近のドラッグストアの化粧品売場をのぞいていただくとよくご理解いただけますが、本当に多種多様の化粧品があふれています。これはメーカーにとっても同じことが言えます。化粧品専門店や大型量販店、ドラッグストアなど流通形態にあわせて、また消費者の好みや肌の状態、年代などに合わせて多種多様な化粧品を開発することが求められています。
このようなニーズに応えて行くには、従来の生産施設では不十分なことも多くあります。
そのため、コーセーの創業70周年をきっかけとして、新工場の建設が決定されました。
幸いなことに、群馬工場の敷地は狭山工場にも匹敵する2万7000坪(東京ドーム 約2個分)もあり、半分も利用されていませんでした。そのため、新工場は群馬に設置することが決まったのです。
今までのメイン工場だった狭山工場
群馬工場は以前から、ほこりや昆虫等の工場内進入を防ぐ構造になっているなど、最新の化粧品工場の要件をそなえています。新工場もその考えを引き継ぎ、外界の自然環境と工場内の環境をロッカー等の空間で遮断する設計となっています。つまり、一度工場内に入った人は、一度も外へ出ることなく過ごせるように、食堂などアメニティスペースにも工夫がなされています。
生産に関しても、従来とは異なり、製品タイプ別に生産ゾーンを分けて管理するなど、最新の生産環境を構築し、万全な品質保証体制を実現させています。
しかも、現在コーセーは中国や台湾など海外にも工場を持っているため、今までは、狭山工場はメイン工場としての役割を果たしていました。しかし、群馬工場の新生産棟の本格稼働後は、ここがコーセーのハブ工場として、全ての生産施設の中心となり、コーセーのグローバルブランド育成に大きな力を発揮していくことになります。
群馬工場前場(画面右が新生産棟、左が従来からの生産棟、中間にあるのが厚生棟)
新生産棟のスキンケアライン
コメント 0