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五輪書 №47 [心の小径]

崩れを知るということ/敵になるということ

                          元武蔵野女子大学学長  大河内昭爾

崩れを知るということ 

 「崩れる」ということは、物ごとにはあるものである。家が崩れる、身が崩れる、敵が崩れるというのも、みなその時機になって、拍子が狂って崩れるのである。
 大勢の合戦においても、敵が崩れる拍子をとらえて、その間をとり逃きぬように追いたてることが大切である。崩れる拍子の呼吸を外すと、また盛り返すこともあるだろう。
 また一対一の戦いであっても、戦っているうちに、敵の拍子が狂って崩れが出てくるものである。そのとき油断して見すごすと、敵はまた立ち直り、新たに立ち向かってきて、はかがいかなくなるものである。
 その崩れ目をつき、敵が立ち直ることができないように、確実に追い打ちをかけることが大切である。追い打ちをかけるというのは、一気に、強く打つということで、敵が立ち直れないように打ち放すものである。この打ち放すということを、よく理解する必要がある。打ち放さないと、不徹底さを残すことになる。工夫すべきである。

敵になるということ

 「敵になる」というのは、わが身を、敵の身になり替わって考えよ、ということである。世の中を見ると、盗みなどして家の中に立て籠ってしまったような者でも、敵を非常に強いもののように考えるものである。敵の身になって考えれば、世の中の人をみな相手にして、逃げ込んで進退きわまった心持ちである。立て籠っているのは雉子(きじ)であり、打ちとりに入り込む者は鷹(たか)である。このことをよく考える必要がある。
 大勢の合戦においても、敵といえば強いものと思い込んで、大事をとって消極的になるものである。しかし、よい部隊を持ち、兵法をよく心得、敵に勝つ理をよく知っていれば、なにも心配することはない。
 一対一の戦いでも、敵の身になって考えるべきである。兵法をよく心得、兵法の理にも明るい、その道の達人にかかっては、誰でも必ず敗れると思うものである。よくよく吟味すべきことである。

『五輪書』教育社


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