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立川陸軍飛行場と日本・アジア №62 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

航空神社建立・東京飛行場に初の外国機が飛来

                                            近代史研究家・高校教師  楢崎茂彌  

今年は立川市平和都市宣言20周年にあたるのでさまざまな企画が行われています。夏には“Peace2012 戦争を語りつぐ 平和都市宣言20周年事業展示会「多摩地区と我が家の戦争・戦後」”と題した写真展を、7月10日から22日までの歴史民俗資料館を皮切りに市内の各学習館や市役所など巡回して行います。(25日から30日は西砂学習館、1日から6日は砂川学習館、以後続く…)。僕も協力しており、昨年に米国立公文書館で入手してきた立川地区空襲の航空写真を提供します。その中には、砂川国民学校周辺に爆弾がさく裂した直後の写真も含まれています。その空襲の下に居て生き埋めになった女性、爆撃で破壊された二宮金次郎像などの写真、立川全体の戦時中の航空写真や空襲被害の絵なども展示して、立川が戦場だったことと平和の大切さを訴える内容です。是非お近くの会場に足をお運びください。
 この企画を案内するニュースがマイテレビで流されることになって、企画を熱心に進めてくれている高松学習館の石井係長とスタジオ収録に臨みました。カメラがリモコン操作になっているので、スタジオの椅子に座ると、目の前に人がいません。こうなるとどこを見てよいものか視線が定まらずキョロキョロしてしまい「話している人を見てください」と指示されて、今度は石井さんやアナウンサーの女性を凝視する有様で、なんとも落ち着かない気分でした。放送されたニュースを見ると、ガチガチに緊張して、話している人を見続けていました。ガマの油ではありませんが、わが姿を見て脂汗ものです。人前で話すのには慣れているのに、人前でない方が難しいものです。
 

 飛行場脇に航空神社創建
 昭和4(1929)年4月、東京飛行場(立川陸軍飛行場)に接して航空神社が創建されました。航空神社を建てる話は昭和2年3月には持ち上がっていて、多摩御陵用材の一部を下げ渡してもらう申請が進められていたようです。立川陸軍飛行場関係の最初の飛行機死亡事故は大正13年7月5日起こり(連載NO35)、大正時代最後の国内航空死亡事故は立川で起こっており(連載NO38)、昭和に入ってすぐに航空神社創建が提案されるのは自然な流れだといえます。62-1.jpg
 航空神社の由来を、創建11年後に発刊された「立川史と写真銘鑑 紀元2600年市制施行記念」(立川史と写真銘鑑領布会・1941刊)は“航空神社は板谷仁左衛門なる者、当時の所有地現在の立川飛行場南端の地に板谷家の鬼門除けとして京都北野天神を勧請し遷座せるものを、昭和五年立川町本町一部有志並びに飛行第五連隊当局より空の犠牲者を合祀せんと要請し来れるによって快諾、現在は北野天神と空の犠牲者が合祀されて居る。北野天神勧請年代は詳らかならざれども二百余年なりと口碑に伝えてあり。”と書いています。まだ10年余りしか経っていないのに建てられた年が違って記されているのも気になりますが、学問の神様の天神様に航空神社の取り合わせも妙ですね。空だから天神様というわけなのでしょうか。
 航空神社の遷宮式の様子を「東京日日新聞(府下版)1929・4・20」は次のように伝えています“立川停車場組青年会の手で新築された航空神社は愈々今二十日盛大なる遷宮式を挙行、讃岐丸船の象頭山金比羅神社の御神体を分祀すると同時に、立川町の民間及び陸軍側の航空犠牲者十一氏を合祀し祭典を執行することになった”  航空の安全のために航海の神様である金比羅さんを分祀するのなら筋が通っています。それにしても天神様と金比羅様を一緒にするとは…、日本の神様は鷹揚ですね。合祀された十一名は、日本飛行学校の小西敏明氏、電報通信社の水代藤松氏・岩田正夫氏・櫛部嘉男氏(連載NO53)、東西定期航空会の大島末雄氏(連載NO38)、荒井淳三郎氏(連載NO 35 )、飛行第五連隊の立見少佐、福田少佐・小川大尉(連載NO38)、西田曹長(連載NO35)菅原特務曹長の各氏でした。昭和2年に創建されていれば水代・岩田・櫛部の三氏は助かっていたかもしれません。(連載で扱っていない、小西氏と立見少佐、菅原特務曹長の事故が気になります。)飛行第五連隊は例年5月1日に行う連隊創立記念と慰霊祭をこの日に合わせて行い、各隊3機ずつ合計12機が空を舞う予定でした。 
 ところが、残念ながら20日当日は春雨のために飛行は中止となり、遷宮式と慰霊祭が挙行され、第五連隊関係570人と多くの一般参加者700人が参拝し鳥居をくぐりました。 

 「航空神社」変じて「太陽神社」となる62-2.jpg
 戦争に負けると航空神社は「太陽神社」に衣替えしました。「飛行場と立川」(田中繁男著)は、“「航空神社」 敗戦で名も太陽神社と変わり結婚式場となっている。飛行場に接した畑の片隅に小さな北野天神の社があった。たまたま空の殉職者を祀ろうという声が、航空関係者の間で起こり、これを聞いた西口通りの青年が発起人となって航空神社を建立することになり、場所がら天満宮が好適地なので社殿を大きくして改造したのが昭和四年四月のことであった。満州事変後の戦時ブームで、建国祭のコースにもなった。”と書いています
 昨年の3月11日、立川市柴崎学習館で中国語を学んでいると東日本大震災が起こり教室は切り上げになりました。そこで、戦前の立川の地図を手掛かりに、かねてから懸案だった航空神社探しに出かけました。現地近くで70歳代半の男性に尋ねると「航空神社なら、あの駐車場の中にあるよ」と指さしてくれた先には小さな祠があるだけでした。当時の飛行場の南側約30mの位置にあたります。現在の姿が確認できただけでもホットしてバス停に向かうと、こんなに沢山の人がいたのだと思うほどの人が街にあふれていました。家に帰ってから電車が止まっていることが分かって納得したのですが、この時すでに福島原発事故が起こっており、事故は今も続いています。
 それはともかく、この祠は今でも航空神社と呼ばれているのでしょうか。先日もう一度62-3.jpg現地に行って駐車場の敷地内にお住まいの方に伺うと、あの祠は太陽神社と呼ばれており、地主の方がお供え物をしているとのことでした。名称については納得がいきましたが、ここに航空神社があった表示でもなければ合祀された11名の方は浮かばれないと思います。

 
 ケーニッヒ男爵、20馬力のクレム・ダイムラー機を操縦して立川に着陸
 昭和4(1929)年5月11日、たった20馬力の発動機を積んだ豆飛行機が立川にある東京飛行場に着陸しました(訪欧大飛行の初風・東風の発動機はローレン式400馬力)。操縦するのは弱冠23歳のドイツ人ケーニッヒ男爵で、前年の8月10日にベルリンを出発しモスクワ経由でインド・シンガポールを経て大阪・東京と飛んできたつわものです。
 当日の様子を「東京朝日新聞(1929・5・12) ”何しろ一風変わった空の訪問者だというので、立川飛行場は関係者が大勢出迎えた。なるほど豆飛行機というだけあって車輪は子供の三輪車の輪ぐらいしかない。青年男爵は飛行服も着ないでスポーツマンの服装にハンテングを後ろ向きにかぶって飛行眼鏡をかけただけ。昔のアート・スミスそっくりの格好で如何にも愉快そうに笑う。飛行機は大阪へ来た時はぼろぼろだったのだが、立派に修理され別に破れも見える程でない。機はクレムダイムラーといい、発動機はベンツの20馬力、空を飛んでも余り大きな音は立てない。全くおもちゃ同様の飛行機で三百メートル上がるとも下からは本物のとびに間違えられるのも無理はない。こんな飛行機でヨーロッパからシンガポールまで飛び、今又大阪から東京まで飛んでくるとは全く勇敢なものだ”と飛行機が小型なことを強調して伝えています。62-4.jpg
 同日の「東京日日」は“飛行場八百メートルの上空にあって得意の急旋回を行って着陸した。時に三時四十分、男爵はと見れば陽に焼けた顔に帽子も眼鏡もなく飛行服もまとわぬ壮姿、出迎えの人は口々に御苦労々々御目出たうと言葉を浴びせかける。男爵は頗る元気でニコニコ愛嬌を振りまきつつ飛行機から降り誰彼の別なく握手を交わす。荷物ボックスから籠に入れた猫を取り出して頬ずりする有様、やがて設けられた野天が宴席で小憩の後、中島立川町長より「富士」と「桜」の色紙を贈呈し”と書いており、好感が持てる人柄が強調されている感じがします。いでたちについては形容が違いますが、朝日新聞の写真を見る限りでは、東京日日新聞が正しいように見えます。
 この後、ケーニッヒ男爵は船で太平洋を横断し、サンフランシスコから、また愛機でアメリカを横断し、大西洋を船で渡り、ベルリンに戻る予定にしていました。20馬力の豆飛行機で世界一周とは夢がありますね。確か日本には飛んで来たのではなく、解体された状態で神戸に入港したように記憶していますが、今のところ詳しいことが分かりません。男爵の世界一周飛行を調べてみたいと思います。
 この年の4月には初めての地方普通選挙が実施され、再び四・一六事件と呼ばれる政治弾圧がおこなわれました。国会では張作霖爆殺事件が追及され、不戦条約についても紛糾します。次回はこうした地上の出来事も扱う予定です。

写真上   「航空神社と民間殉職者」      東京日日新聞(府下版)1929・4・20                                        写真2番目 「航空神社変じて太陽神社」     飛行場と立川 P38                                                             写真3番目 「現在の太陽神社」         著者撮影  2012・7・14                                                         写真下   「機から降りるケーニッヒ男爵」   東京朝日新聞 1929・5・20                 


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