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立川陸軍飛行場と日本・アジア №17 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

立川陸軍飛行場と日本・アジア  ⑰ 女性飛行士、立川の空を舞う

                            高校教師・近代史研究家  楢崎茂彌

婦人参政権・女性飛行士
 大正13(1924)年5月に行われた総選挙で、「普通選挙即行」を掲げた護憲三派が圧勝し、6月11日には憲政会加藤高明内閣が成立したことは既に触れた通りです。この選挙に中立系で立候補し当選した長岡外史中将(予備役)は、明治42(1909)年に、国が初めて航空関係に着手するため創設された臨時軍用気球研究会の初代会長であり、大正4(1915)年に創立された国民航空協会の会長となり、後に帝国飛行協会の副会長となるなど、日本航空の先駆的な人物です。この臨時軍用気球研究会は所沢に飛行場を置き、第一次世界大戦では、所沢の航空隊が日本軍初の航空機による爆撃を青島市街に行っています(戦史叢書「陸軍航空兵器の開発・生産・補給」朝雲新聞社)。臨時軍用気球研究会から海軍・東京帝大が脱会し、所沢は陸軍航空の拠点となり、のちに所沢の機能が立川に移動して来ます。そこで長岡中将は、間接的には立川陸軍飛行場と関係があるわけです。それはともかく、長岡帝国飛行協会副会長は東京朝日新聞に「婦人に彩られた軟らかい航空界」と題した次のような文を寄せています。
「わが邦の飛行事業発展に対して婦人の与えられた助力はほぼ前記の通り(新橋の芸妓や上流婦人が後援会を作ったことなど)で、他は僕不敏にして未だ聞くことを得ない。飛行機と言えば落ちるもの死ぬものと考え、左様に怖がって居ないで人一人前のことはして貰いたい。女子に参政権を与えるのは時代順応である、是非獲得せねばならぬとか仰るまで進んだ婦人社会が、何故飛行機にのみ無趣味、無頓着で隣の猫が児を生んだ程にも考えぬと云うことは如何であろうか。男子と共に立体文明の進歩を平和的に発展せしむることに努力せらるるは、日本女子の義務であり、責任であり、飛行家として名を成さしむるは教養ある日本女子の面目問題でありますまいか。」(大正13年7月30日)
 長岡氏は女性を揶揄していますが、実は大正11年には兵藤精さんが三等飛行士の免許を得て、女性飛行家第一号となっていたのです。彼は、本当は男性に対抗する女性飛行家の誕生よりも「柔らかい支持者」を好んでいたのだと思います。女性の参政権要求運動は、大正デモクラシーの流れの中で婦人参政権獲得期成同盟会などが創設され、男子の普通選挙が実現されたあとも運動は続けられましたが、ご存知のように第二次世界大戦前には女性の参政権は実現しませんでした。
 「婦人に彩られた軟らかい航空界」が掲載される3日前の東京日日新聞には、立川陸軍飛行場で学ぶ女性の記事が載っています。
「持参金をブチ込んで 女飛行家の卵
 ○ 身の上を堅くして写真はおろか誰が行っても逃げ回って話もろくヽしない府下立川の日本自動車学校にいる女流飛行家の卵前田あさのさんがどう悟ったものか機嫌良くレンズの前に立った。
 ○ 奈良県の生まれで当年とって二十歳、見らるる通りの雛そだちでお世辞も愛嬌もない。背は低いが肥満な体格、飛行帽をかぶると男か女かわからない、女鳥人の卵としてどんな経路でここ立川に飛んできたのか、それは教官に聞かれても唇を開かぬという程秘密にしている、その謎をだんだん探ってみると婦人操縦士前田あさの.jpg
 ○あさのさんが国ではどんな綺麗よしでもお嫁に行く時は持参金付きださうな。あさのさんの思えらく『馬鹿馬鹿しい女一匹持参金がなうてはお嫁に行けないなんて不合理な話があるものか。私はそんな嫁入りは嫌だ、持参金が無くても立派にお嫁に行くからそのお金は私に下さい…』とばかり両親をけむにまいて故郷を飛び出した。
 ○蒲田の日本自動車学校飛行科で四ヶ月間地上教育を受け、この三月から操縦術訓練のため立川に身を移した。毎日スパローホークやニューポールに乗って鳥の真似事をしているが覚えがよくて近く単独操縦を許されることになっている。
 ○一時間百二十円の練習費を払って十時間稽古をすると三等操縦士の免状を受ける資格がつく。これを持参金に換算すると千二百円、蒲田の地上教育に五六百円受験にパスするまでの下宿料を見積もると随分莫大な持参金になる勘定だ (写真は飛行服姿のあさのさんとその自署)」
 今読んでも、恥ずかしくなるほど女性蔑視に満ち、前田さんを揶揄する記事ですが、彼女の強い意志には爽やかな感動を覚えます。因みに、当時の盛りそばは一杯10銭程度だったようです(「値段の明治・大正・昭和風俗史」朝日新聞社)。今は安くても400円として、物価は4000倍ということになるので一時間120円の練習費は高額です。大正13年に三等飛行機操縦士の免状をとった木部シゲノさんは、帝国飛行協会から500円の奨励金を受け取ったと回想されていますが、焼け石に水程度です。
 所で、あんなにに強い意志で道を切り拓いた前田さんはどうなったのでしょうか?
 昭和51(1976)年に前田(龍)あさのさんは立川に招かれ、自衛隊のヘリコプターで思い出の立川上空を一周すると、「立川飛行場物語」の著者三田鶴吉さんや日本飛行学校校長相羽有さんと一緒に写真に納まっています(「立川飛行場物語」第49回)。第49回の記事によると、前田さんは大正14年に三等飛行士の資格を得て、故郷の奈良県に帰り大和日報紙の社機で祝賀飛行や宣伝ビラ撒きをしていました。しかし、昭和5年には父親への恩返しの為にと天理市の龍家に嫁ぎ、農業に精を出しました。その後、陸軍省からの女性航空官の招聘もあったのですが「もう空はあきらめました」断ったと前田さんは回顧しています。散々揶揄しておいて、道を切り拓いた女性にはこのような扱いが待っていたかと思うとやりきれません。

 立川陸軍飛行場行われた三等飛行士競技大会に女性飛行家が参加
 大正10年に定められた航空取締規則に基づいて操縦士の資格検定制度が定められ、三等飛行機操縦士は20時間、二等は50時間、一等は100時間の練習時間があれば技量検定を受けることが出来ることになりました。この年には16名の受検希望者があり、4名が合格しました。栄えある操縦士免許第一号は浅草区山谷生まれの藤縄栄一氏(三等)、第二号は安昌男氏(三等)、第三号はウイリアム・ランセンド・ジョルダン(栄えある一等第一号)、第四号は「しごう」なので避け、第五号は謝文達氏(三等)です。藤縄氏は日本人、安氏はソウル生まれ、ジョルダン氏はロンドン生まれ、謝氏は台中生まれと今でいうとインターナショナルなのが航空界らしいですね。大正12年6月時点では、一等飛行機操縦士18名、二等操縦士24名、三等操縦士37名、女性は兵藤精さんただ一人です。
 大正13年11月10日・11日に立川陸軍飛行場で三等飛行士だけの競技会が行われました。前日に津田沼から立川に向かった小西金二郎氏は明治神宮の椋の木に不時着し不参加となり、25名がくじ引きをして順番を決めました。競技に参加した唯一の女性は木部シゲノさんでした。「定刻前参加飛行士25名の順序を抽選で決める。例の第一航空学校の木部しげの嬢には一番ビリ籤が当たる。黒天鵞絨の背広に鳥打帽と云う男装した此の女流飛行家はその男装にふさわしくすっかり男性になりすましている」(東京朝日新聞 11月11日)  競技は発動機の初動から発動までの時間、離着陸直後の操作、直径二百メートル以内の着陸の三点で得点が決まるのですが、当日は強風のため各競技者は苦戦を強いられたようです。翌日は各飛行学校の代表一名による投下競技が行われ大会は終了しました。一等は95点獲得の平井仁一氏(日本航空学校)で、航空局賞4百円・飛行協会賞6百円・朝日新聞から金メダル・東京日日新聞からカップ・山階宮から最優秀賞を、それぞれ受け取りました。平井氏が獲得した賞金合計千円はなかなかの額です。残念ながら木部しげのさんは最低点の60点に終わっています。木部さんなど立川陸軍飛行場にかかわる女性飛行家については「雲のじゅうたん」の回で紹介する予定です。
 競技会当日の10日、朝日新聞東西定期航空会の立川新格納庫落成式が行われました。記事には「まだ木の香新しい」となっているので木造、間口34間(61m)奥行6間半(11.7m)高さ24尺(7.2m)飛行機が4機横並びで格納できる大きなものでした。ここは間もなく東京・大阪間の旅客輸送の拠点になります。立川飛行場格納庫落成.jpg
 話は変わりますが、この4月1日から立川市立中央図書館のパソコンで「ヨミダス歴史館」を利用できるようになりました。読売新聞創刊時からの全ての記事を閲覧・印刷できるようになったわけです。試しに「前田あさの」で検索してみると次のような記事が一つ出てきました。
「来春華と共に巣立つ婦人の飛行家 若い前田あさの嬢 次は朝鮮婦人朴敬元嬢も 共に立川飛行学校の花 前田あさの(二二)さんはこの冬をみっちりやって来春までには三等飛行士の試験を受け免状を得ようと一生懸命である。学校でも大いに力瘤を入れ、青年飛行家の小川一等飛行士が万事手をとるように教え導いているが、あさのさんの成績はこれまで数回の操縦飛行で、既にたいていその手腕を認めているので来春の試験も容易にパスするだろうと見込みをつけいているから、さうなると婦人三等飛行士は木部シゲノ(二三)と都合二人になるわけで日本の航空界にとってもおめでたいことである。」(大正14年12月4日)
 読売新聞は東京日日新聞より前田さんにずっと好意的で、読んでいてほっとしました。「ヨミダス歴史館」で記事がこんなに簡単に見つかると、マイクロフィルムで探すのに比べ、発見の喜びが半減するような気もしますが、ともかく便利なことは間違えありません。

 写真上 日本飛行学校の練習機の前に立つ前田あさのさん 東京日日 (大正14年7月23日)
 写真下 朝日新聞社東西航空会の立川新格納庫 東京朝日新聞 (大正14年11月11日)


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