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こころの漢方薬№13 [心の小径]

枯淡と浪漫

                           元武蔵野女子大学学長  大河内昭爾

   指をもて遠く辿れば、水いろの
     ヴォルガの河の、
       なつかしきかな。

   秋となれば秋のネクタイをさがすなり
   朽葉のいろの胸にしたしく


 この2首は共に土岐善麿作である。前著は土岐京楽某と名のった作者28歳の第二歌集『黄昏に』(明治42年)、後者は米寿の折の歌集『連山抄』(昭和41年) に収録されている。この間の60年の歳月を思うとき、そしてその歳月にかかあらぬこのみずみずしさを感じるときすくなからぬ感慨をおぼえる。
 水色のすがすがしい感覚、朽葉のいろの枯淡、青春と老境の、枯淡と浪漫のかくも渾然として一人の人生において絶妙の対をなしている歌もまれであろう。淡彩、清新にして、なお眼にもこころにもしみるものがあると同時に、老人問題が云々される時世だけに、このおしゃれな感覚のなんとさわやかに訴えることか。
 先生は晩年を芸術院会員として、さらに武蔵野女子大学日本文学科主任教授としてすごされたが、その幅広い業績の示すように、歌人としても何よりも先ず自由な生活人としての歌いぶりに特色があった。しかも禅味に通じる自在さに魅力があった。

  コーヒーをいれましょうかと声若く
  立ちゆく副手よ 研究室の午後

といった、一見何の曲折もない歌が多いのである。この副手さんの結婚式に私も先生と共によばれて、その折、私は洋食の作法にうとく、うっかり隣りの土岐先生のパンに手をつけて、以後会食のたびに、「大河内君はパン泥棒だからね。ここからこっちは僕のだよ」といわれたものだ。
 パン泥棒といえば、堺利彦に貰ったという幸徳秋水愛蔵の〝国禁の書″クロボトキソ『パンの略取』に触発されて、労働者に提供する栄養価のあるパンを焼くことに夢を抱いた時期が先生にある。読売新聞記者として初の駅伝競走なるものを企画、いざ実施にふみきったところ素人考えを大幅に上まわる経費で、企画の成功にかかわらず責任をとって、かねて念願のパン屋に転じようとした。もちろん容易なことではなく、夫人のすすめる易者に、「あなたはやはりパンよりもペンがいい」としゃれたことをいわれて、朝日新聞の記者に移ったという経歴がある。
 初期の先生の三行書きというスタイルが石川啄木に大きな影響を与えたことは、新聞の先生の訃報記事にまで出たほどすでに文学史的事柄だが、啄木の葬式をした先生の生家、浅草等光寺で、土岐善麿の告別式もおこなわれた。昭和55年4月、先生は満94歳で亡くなったのである。たまたま葬儀の折頂戴した「会葬御礼」 の小色紙に、次の歌がしるされていたのも印象深い。

  わがために一基の碑をも建つるなかれ
  歌は集中にあり 人は地上にあり

 この反骨というにとどまらぬ、都会的含蓄とおしゃれこそ、冒頭にかかげた2首の60年にわたる若々しさに一缶するものであろう。
『こころの漢方薬』彌生書房


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