知の木々舎
第五福竜丸は平和をめざす№5

第五福竜丸は平和をめざす⑤
久保山さんの思い
                                 『知の木々舎』編集部・構成

まえがき
以下の記事は、『写真でたどる第五福竜丸』(財団法人第五福竜丸平和協会・2004)、同協会発行の『福竜丸ニュース』掲載の記事を基礎に同協会の了承をえて編集部で構成しました。
                    
 久保山愛吉さんは「原水爆の被害者は、わたしを最後にしてほしい」との言葉を遺して亡くなりました。第五福竜丸の被ばく事件は、マグロの放射能汚染、放射能を含んだ雨が日本各地に降るなど、国民全体に影響を及ぼしました。実験反対、原水爆禁止の声が大きく広がっていきました。
久保山さんの死は、さらにそれを促進しました。反核運動が反米運動へ移ることを恐れた米国は日本政府との間で被爆者補償の交渉を急ぎ、55年1月4日日米交換公文を結びました。それは「米国の責任を追及しないこと」「この合意を持って事件は全て解決」との合意であり、200万ドル(日本円で7億2千万円)のお金がアメリカから日本政府に渡されました。政治決着でした。
 実際に「放射能マグロ」の大量廃棄や、放射能に対する漠たる不安感から魚肉の消費が落ち込むなど、水産業界の損失額は24億円ともいわれました。

第五福竜丸のその後
  アメリカ政府は当初、船体を横須賀に曳航し放射能を除去して沈める、との提案を日
本側にしています。しかし、乗組員の治療に当たる医師、科学者は学術研究資料として
船体の保存を強く求め、5月段階で文部省(当時)が船体を買上げ、8月22日、第五福
竜丸は曳航されて東京・品川の水産大学に預けられました。
 ここで約1年半、残留放射能の検査がおこなわれました。その後、安全宣言がなされた
船体は、水産大学の練習船とするため三重県強力造船所で改造されます。

強力造船所での第五福竜丸
 『強力造船所・強力辰夫伝・航跡は消えず』は次のように記しています。(引用は大要)
 第五福竜丸の改修は、地方へ出張していた辰夫に代わって、善次(辰夫の父で強力造船の創設者)が修理を引き受けた。
 ある夜、工員たちの見守る中、湾内
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(雑木林の四季)09-07-26 14:02


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