第五福竜丸は平和をめざす№5
に入ってきた第五福竜丸の喫水部分には、大量の夜光虫が光っていた。
「夜光虫がついているということは、船に放射能がないという証拠だ」
と善次はふりむきざま、工員たちにいった。
接岸した船に最初に乗り込んだ善次は、
「遠いところをよく来たな」
と傷ついた船体を慈しむように触っていたという。
第五福竜丸修理のニュースに強力造船所の壁には反対ビラがはられた。住民は工員たちにも近づこうとせず、風呂屋に入るのも断られたという。
「種々の許可の窓口となる官公庁の申し出を断れなかったのだ」
「もうかる仕事になりふりかまわないのだ」
と陰口を叩かれもした。
ただ善次は誰も引き受けてのない傷ついた木造船を、どうしても見捨てることができなかったのだ。船造りに生涯をかけた男の矜持(きょうじ)をここに見ることができる。
練習船「はやぶさ丸」として
1956年5月、第五福竜丸は「はやぶさ丸」となりました。
はやぶさ丸は、練習船として千葉県館山を母港におもに外房から東京湾を行き来して練習航海をおこないました。
当時すでに船体は相当に老朽化して外海には出られなかったようです。
海洋サイエンティストの河井智康氏はその著書『漁船第五福竜丸』(同時代社1997年) に次のように記しています (大要)。
「1956年から60年にかけて、私は東京水産大学にいた。水産大学には、海鷹丸、神鷹丸、はやぶさ丸という3隻の練習船があった……
はやぶさ丸は一番思い出のある船でもある。日本近海の波浪は、ちょうど100トン位の揺れ方と波長が合って、一番よく揺れる。はやぶさ丸の初心者は全員船酔いである。
船が港についている時にはどんな強い奴でも、沖に出るとまっ青になって何もできなくなる。生唾がたまって今にもこまものを拡げそうだ。正に格好の「練習船」だった」
はやぶさ丸は廃船処分に
こうしてはやぶさ丸は、9年間使用され、1966年からは老朽化のために水産大学の岸壁につながれたままとなり、67年3月、廃船処分となり解体業者に払い下げられました。「屑化する」ことが条件だったといいます。
使用可能な部品だけが抜き取られた後に東京都江東区