SSブログ
雑木林の四季 ブログトップ
前の20件 | 次の20件

住宅団地 記憶と再生 №21 [雑木林の四季]

13・住宅都市カール・レギーン Wohnstadt Carl Legien(Prenzlauer Berg. Erich-Weineft.Str. u.a.10409 Berhn)

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 2010年の1月早々にベルリンに来て、最初に訪れた世界遺産の団地は、建設年順では4番目のこの団地である。午後にブリッツの馬蹄形団地へまわった。雪がふかく歩きにくかったし、宿から近い団地をえらんだ。シェーンパオザー・アレ一駅からSバーンでl駅東のプレンツラオアー・アレ一駅、歩いて5分あまりのところにある。環状Sバーン内をベルリンの旧市街とすれば、6団地中ただ一つの旧市街地団地である。
 北東の果ながら旧市街にあり、駅前から5階建ての、どこか陰気な古びたアパートメント群がびっしり建ち並んでいる。これが20世紀はじめまで労働者街に典型的な「賃貸兵舎」とよばれる集合住宅かなと思いながら歩いていた。すぐに大きな道路、グレル通りにでると、ぱっと頭上に空がひらけ、向こうに住宅都市カール・レギーンが見えた。団地の周辺にあるのは公園、公共施設らしい。
 1928~30年建設の4~5階建て、築80年をすぎた団地だから、世界遺産ということでの修復や化粧直しがなければ、駅前のアパート群とそう大差はなかったのかもしれない。しかし近づくにつれて、整然と広がる明るい色調の住棟のこの一画はやはり目立つ。
 団地の中央を東西に横断するエーリッヒ・ワイナート通りの両側からU字型の住棟が向きあい、住棟にかこまれた中庭は、通りをはさんで一つながりに見える。U字が向かい合って全長250メートルあまり、中庭は長さ約250メートル、幅約25メートルの長方形をなしている。中庭に高木のはかに低木があちこちに群生していた。雪がとけると、芝生のカーペットがあらわれるのだろう。眺めていると、ここにかぎらず団地の中核、生命は中庭にあるような、中庭には象徴的な意味、公共的な役割を担っているように思える。建物が密集する市街地だけに、緑ゆたかな団地の広場は、周辺の住空間にもゆとり、人びとに安らぎを与えている。
 向きあうU字型2棟を1ブロックとすると3ブロックといえようか。各棟の両端、つまり中央の通りに面した部分だけは5階建てで高く、バルコニーが展望台のように円く張り出し、団地の顔をなしている。そこ以外は4階建て、各戸のバルコニーはすべて中庭に向いている0住宅の平面図をみると、バルコニーを思いっきり広げて、これに接するリビング空間にゆとりを演出し、広々とした中庭を日々眺めて暮らす設計になっている。玄関と階段室、浴室、キッチンは反対の道路側にある。背中合わせの住棟の壁面はすっきりと合理的に整理され、狭い間隔は植込みのある通路となっている。そこに何台も路上駐車していた。市街地の限られた敷地のなかでの住宅設計のポイントを示唆している。
 タウトは「色彩は生命の質」をモットーに、広々とした緑のオープンスペースに日光と空気の流れをとりこむ家づくりにくわえ、心を砕いたのは色彩の効果である。デザインはもちろん配色によっても、広さとゆとりを醸しだし、個性化の演出をはかった。外壁は濃淡の褐色を基調にブルーや緑色もっかい、ファサードとバルコニー、窓枠には赤と自あるいは黄色と、フアルケンベルクやブリッツにくらべやや淡い色調ながら、ここでも多彩に染めあげている。
 建築主はゲハーグ社、設計をブルーノ・タウトと協力者のフランツ・ヒリンガ一にゆだねた0敷地は8・4ヘクタール、総戸数は1,149戸、規模は1.5室から4.5室までだが、2室タイプがほとんどで、単身者か夫婦と子ども一人の家庭向けといえよう。当初入居者の3分の2は労働者、あとは事務職か役人クラスであったという。団地名は、1920年に死去した社会民主党の下院議員でドイツ労働総同盟初代議長カール・レギーンの名をとった。通り名にも社会民主党員の名がみられる。

 この団地には、「初めであり終わりである」2つの特徴がある。
 一つは、人口密集の既成市街地で高地価の土地に労働者向けの集合住宅を勅率的に建設するという新たな課題である。この点、フアルケンベルクやブリッツのように都心から離れた郊外とちがうし、団地の様子からも察せられよう。ベルリン市当局はシティ内に5階建ての建築を許可したが、「道路とブロック」の地区計画をもとめた。タウトたちは、新たな制約のもとで高密度の住宅建設をしながらも、田園都市的な構想をいかに実現するかに挑戦した。住棟の配列、ブロックの設計、緑の空間、色彩の効果にあわせ都市機能の利便とインフラ創出に苦心した。焦点は「市街地にありながら、植物にかこまれ日光を浴び広々とした空間を感じて暮らせる」住宅づくりであった。
 タウトは前出『ジードルング覚え書』で「4階ないし5階の家屋にはぼ1,200の住宅を収めようとするもので、しかもきわめて圧縮した地域であるだけに、衛生的開放性と通風性の印象を出そうとすれば、建築上じつに緻密な考慮をはらわねばならなかった。この場合は建築に着手する前、設計の考案に4年もかかった」と書いている(タウト全集第5巻、296ページ)。練りあげた設計にもとづき、住宅建設と同時に、都市機能でいえば、独自に洗濯場、集中暖房プラント等の施工、レストランやカフェもある商店街づくりにも着手した(洗濯場やボイラー室等は、いまバウハウス記録博物館に所蔵されている)。結果として、ヴァイマル期「最初の最も都市的でコンパクトな団地」と評される。
  もう一つの特徴は、ドイツ労働運動の指導者の名を冠したこの団地が、ベルリン都市建設参事官マルテイン・ヴァグナー主導のもと、労働組合・協同組合が連携して建設した「最後の大団地」となったことである。1931年にプリューニング内閣は緊急令をだし、住宅建設などへの国庫助成金をすべて廃止した。タウトはその前に、住宅の大量建設の画期的なイノベーションを提起し、人口密集のプレンツラオアー・ベルクに接する旧市街ぎりぎりの地区内での「都市的」団地建設を精力的に提案、ゲハーグ社に資金を出させた。タウトはそれ以前に市内に数多くアパートメントを建設しているが、市内に大規模な中層の労働者住宅団地はこれが最初であったし、国庫の助成をえての最後の社会住宅建設であった。タウトは「ドイツのジードルング建設は1926~30年に最高潮に達し、1932年に終わりを告げた」という(タウト全集第5巻、302ページ)。その意味でカール・レギーン団地はタウト作品のなかで特別な位置を占めている。
 ナチス時代になってこの団地は左翼、反逆のシンボルとされ、1933年に団地名を、1914年の西部戦線侵攻を想起させる「フランドル団地」Wohnstadt Fla. d. f.にかえた。1936年のオリンピックのさいには「イデオロギー上の理由から」建物のファサードの色は塗り替えられたが、構造物までは改変されなかった。1950年代に東ベルリン市議会は団地名を元にもどし、通り名もエーリッヒ・ワイナート通りのように、反ナチ運動の戦士たちをしのんで名を改めた。
 第2次大戦中の団地の被害は少なく、戦後すぐに損傷は補修されたが、応急的なものでしかなかった。戦後ベルリンは東西に分割され、ゲハーグ社は東地区に所有していたこの団地を失い、市住宅局の管理下におかれた。統一後ゲハーグ社にもどり、90年代半ばから修復がすすめられた。歴史的記念建造物として保護が確認され、原型をめざしての本格的な復元作業が完了したのは2005年である。その後、団地の所有はゲハーグ社から2006年に住宅協同組合BauBeCon Wohnenへ、17年には、馬蹄形住棟と同じドイチェ・ヴオー
ネン杜に移っている。
 雪が降りしきるなか団地を見てまわり、通りかかった団地に住む女性からは こんな話が聞けた。
 〇世界遺産になり、外部から人がきて住民はいくらか迷惑している。
 〇「壁」が崩壊して20年間に管理会社が4社もかわり、そのたび家賃が上がった。年金暮らしにはきびしい。
 〇でも世界遺産になって誇りに思っているし、生活にとても便利な場所である。
 〇世界遺産になって、住宅や環境保全についてかなりうるさくなった0
 〇特別に自治会のようなものやコミュニティ活動はない。
 ○空き家は皆無にひとしい。入居希望の待機者は多い。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



nice!(1)  コメント(0) 

山猫軒ものがたり №25 [雑木林の四季]

春の招き猫 2

        南 千代

 家では、本物の猫であるウラが待っていた。ウラは、冬の間、朝ごほんを食べるとすぐ出て行き、夕方まで帰らない生活を続けていた。山の暖かい所にいるのだろうと思っていたが、ある日、日中不在のナゾがとけた。
 用事があって、五軒下の家を訪ねた。陽あたりのよい島田さんの家では、縁側もポカポカ。猫も幸せそうに、座布団の上で昼寝をしている。私は、用事ついでに島田さんに言った。
「お宅にも猫がいるんですね、あったかそう。うちにも、よく似た黒猫がいるんですよ」
「なあに、うちの猫じゃねえんだ。この所、毎日来て、ああしてひなたぼっこをしてるんだ。他の猫は人を見ると逃げるけど、このタロちゃんは人なつこくてよ。呼ぶと、こっち来るんだよ。どこの猫だかな」
 ウラだった。似ているはずだ。ウラは日中だけ、ちゃっかりと陽あたりのよい家の猫になっていたらしい。

 毎日八十個前後。鶏たちが順調に産み始めた卯は、庭先で売ることにした。「庭先玉子、売ります」の小さな立て札を出しておくと、次第に通りすがりの人や口コミで玉子のことを知った人々が買いに来るようになった。一パック六個入りで、三百円。一日に十パックほどの玉子は、午前中にはすぐに売り切れる。
 買いにきても、いつも売り切れ状態が続くと、客の方でも考えるらしい。
「もしもし、明後日、玉子を買いに行きたいので五、六パックとっといてくれませんか」
 電話予約が入るようになった。この様子でいくと、玉子で十分に生計が立てられそうである。そして、それは私たちの理想であった。
 借りた土地は、五百羽ぐらいまでなら飼えそうである。皮算用をしてみた。毎日二百五十個産むとして一日約一万二千円の収入、月で約三十五万円。食に関しては、米ができればほぼ自給できるから、これだけあれば充分である。
 万一不足なら、カメラとコピーの仕事もあるし、それもなくなれば職種を選びさえしなければ何をしても働ける。私たちは、誰からも二者択一を強いられているわけでもなし、撮影したり文章を書くことが嫌いになったわけでもなかったので、カメラとコピーの仕事も、来れば引き受けるといったカタチで続けていた。もとより、二人とも積極的に営業をして仕事をするタイプでは全くなかったが。
 夫は、ラッシュ時を外せば麻布のスタジオまで、高速道を利用して早ければ一時間半で着く。私は、電車で池袋まで一時間十分。この距離は、充分に通勤距離圏であった。
 フリーランスという立場もまた、都合がよかった。田畑や地元のつきあいで、忙しいときは、夫の場合は「その日は予定が入っています」、私の場合は「ちょっと今、忙しいのでその仕事は受けられません」とか「時間がかかります」と正直に言えば艮かった。もちろん、ずっと担当し続けている仕事ではそうはいかないこともあるが、そんな場合は、あらかじめ仕事のスケジュールが見えているので、予定が組める。
 畑は、とりあえず最初は一キロほどドつた地にある鶴先生の畑に、少しだけ間借りさせせてもらい、スタートすることになった。鶴先生は、もと学校の先生なので地元ではこう呼ばれている。
 畑は、鶴先生のお母さんであるバツばあちゃんがコツコツと耕している。明治生まれで、とっくに八十歳を超えた齢だが、その小さな体に背負いカゴをしょいこみ、いつもこコニコして畑を耕していた。
 野菜は、豆や芋など保存できる作物をたくさん作ろうと思わなければ、自給用なら意外に少ない面積で足りる。そのうち、地元に知り合いが広がれば、畑の話も出てくるだろう。私は、小松菜やホウレンソウ、大根、ニンジン、春菊など、食卓にのる機会の多い野菜から作り始めた。
 そうしているうちに、寄居の坂根さんの紹介で玉川村に、斜面ではあるが一反ほどの畑を借りることができた。
 坂根さんは、越生町から車で四十分ほどの寄居町で「皆農塾」という百姓志願の人たちと共に農業をやる塾を開いていた。山猫軒と同じ、自然卯養鶏会に入っていたことで知り合った。車で約三十分。玉川村の奥に借りた畑には、小豆を植えた。
 マメに通って世話ができる地ではないので、植えたら収穫までは草取りぐらいですみそうな小豆にしたのだ。それに、大豆からゴマ、ニンニク、落花生などまで、関東地区でできると思える野菜のひと通りは試してみたが、小豆だけはまだだったので、作ってみたかった。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



nice!(1)  コメント(0) 

台湾・高雄の緑陰で №37 [雑木林の四季]

                  2024年の台湾総統選挙戦たけなわ

         在台湾・コラムニスト  何 聡明

 来年1月の総統及び立法委員の選挙戦は日々激しくなっているが、8月28日選挙に出馬する総統候補者が又一人増え、来年の総統候補者は4人の争いになるようだ。4人目の候補者郭台銘氏は鴻海集團(フォクスコン)の創始者で、2016年に日本の有名企業シャープ社の株66%を持ったことで知られている他、中国にも多くの工場を持った企業家で、現在は鴻海集団の名誉会長である。郭氏は中国国民党の党員だったが、4年前の党内総統候補戦で敗れたあと、国民党を罵して脱党したが、その後国民党と和解を図り総統候補者の再選に乗り出す構えを見せたが、失敗に終わり、政党と関係のない無党派の単独候補者として出馬を決めたのである
 郭氏の投入は2野党の候補者の脅威になるが、一部国民党員は郭氏を選挙の擾乱者だと反発、だが一部国民党員は彼は国民党が過去財政困難に陥るたびに多額の資金を贈与したことを高く評価している。

来年の総統選挙は与党民進党、野党中国国民党、野党民衆党と無党派候補の4人で争われるか、それとも11月16日の候補者の最終登記以前に与党に勝つにはめの談合が行われて、野党の総統候補が2人または1人に減るかに注目が集まっている。2019年8月に創立した民衆党は郭台銘氏と人脈で繋がりが強く、党首の柯文哲氏は機会主義者、郭台銘氏と同様やや中国共産党寄りだが、柯氏が果たして郭氏に総統候補権を譲るか否かに興味が集まっている。

最近の民意調査では与党台湾民進党の候補頼清徳氏の支持率は常にトップの40%前後を維持、中国国民党の侯友宜氏は20%前後、新党民衆党の柯文哲氏も20%前後、無党派の郭台銘氏は10%前後である。私は民意調査だけで与野党の総統選挙の結果が分かるとは思っていない、参考資料の一端だと考えている。


nice!(1)  コメント(0) 

台湾・高雄の緑陰で №36 [雑木林の四季]

                    台湾より九州への舟旅

            コラムニスト  何聡明

今年の5月11日、私は8月に九州の長崎と鹿児島に寄航する大型郵船が基隆港より出港することを知り、直ぐ知り合いの旅行社に家内と娘の昭慰3人の乗船手続きを終えました。私は以前福岡、長崎を含む北九州と、中部の熊本県、大分県を商用や観光で訪れましたが、南九州の鹿児島は未踏の地であるので、この郵船のコースを選らんだのです。家内と娘は九州観光は始めてです。

7月に入ると突如私は右足の神経痛で歩行困難となり、病院で検査と治療を続けましたたが、神経痛はなかなかよくならず、一時は旅行の取り止めを考えました。幸い8月に入ると医師の新しい投薬で歩行困難が柔らぎ、毎日その薬を服用すれば右足の神経痛は抑えられると医者の診断があり、私も数日の服薬で自信がついたので予定どうり出掛けることに決めました。
8月18日早朝、私達3人と同行者達は旅行社が準備した大型バスに乗り高雄より基隆港へ赴き、既定の郵船に搭乗して九州への船旅が始まりました。私達が搭乗したイタリア籍郵船の名前は「Costa Serena」で,114、500トン、船長290メートル、横幅35.5メートル、客室の高さは13階、乗客3千7百人,乗務員1千1百人を搭載する大型郵船です。

船は8月18日午後5時基隆港を出航後3日目の朝8時ごろ長崎港に停泊しました。長崎市は太平洋戦争戦末期の1945年8月9日に3日前の広島市に継いでアメリカの原子爆弾で多くの犠牲者と甚大な破壊を受けた都市です。私は長崎には35年ほど前に商用で訪れたことがあり、その時と比べると今の長崎市は高層建物が増え、市街もよく整理されて活気ずいています。

私達が先ず訪れたのは天と平和を両腕で指した大きな平和記念像のある平和公園、続いて平和の泉、長崎の鐘、原爆落下中心地を安行しました。長崎原爆資料館へは長い歩行を要するので遠慮しました。その後、グラバー公園の入り口内の休憩所で公園の奥へ行く娘の帰りを待ちました。娘は園内にある日本開国直後に長崎にやってきたスコットランド出身の貿易商、グラバー氏の住宅や明治時代の洋館と「蝶々夫人」のオペラ作曲家・プッチーニの像が佇むところまで足を伸ばしたことを知り、私はつぐつぐ歳の差を感じました。午後は繁華街の歩行道路の真ん中でアナゴ弁当を食べ、短いショッピングを済ましたあと、郵船に戻り、船は予定どうり午後8時に長崎港をあとにしました。

翌朝8時船は私が始めて訪れる鹿児島に到着、先ず目に入ったのは雄壮な活火山桜島です。船は鹿児島湾に入り埠頭に横づけするまで減速を続けていたようで鹿児島港に着くまでかなり時間がかかりました。鹿児島は明治維新まで島津藩が約七百年統治したとのことです。私達は1658年に藩主島津光久氏が建造した広壮な別荘と仙厳園を訪れました。仙厳園はNHKが大河ドラマ「篤姫」ののロケーションの一部分に使ったとのです。篤姫は徳川幕府13代将軍徳川家定の正室でした。次に訪れた吉野公園からは桜島が美しく見えました。その後南九州随一の繁華街天文舘歩行区を訪れ、昼食は鹿児島の名物黒豚ラーメンを頂いたあと、歩行区でいろいろ鹿児島の名物を台湾へのお土産として買い求めました。間もなく時間が切れるので急いで船に戻りましたが、船は予定より1時間近く遅れて鹿児島港を出航しました。港には現地の音楽隊が音楽を奏でて見送りをしてくれました。

静かな海上の1昼2夜が過ぎて8月23日の朝、舟は基隆港に到着、長い時間をけて入国と通関を終えたあと、私達は新幹線で高雄へ戻って来ました。旅行中台風に出会わなかったのは幸でした。長崎市と鹿児島市観光で帰国後今でも残念に思っているのは、市内観光とショッピング時間が甚だ短かったことです。これは郵船会社と旅行社に改善を要求しなければならないと思います。若し要求が取り入れられたら船旅のコストは高くなるでしょう。

通常陸上の旅は色々な交通機関に乗り、行く先々でホテルを換えますが、船旅はホテルを換える必要なしですから、日々荷物の持ち出しと収納に時間を掛けずにすみます。旅行中私は右足の神経性疼痛の投薬を続けていましたが、時々歩行がままならないときは難儀しました。総じて家族ずれの楽しい船旅でした。船会社は99歳までの老人の乗船は拒絶しないとのことですから、超高齢の方々には良きニュースだと思います。私も手足がまだ動ける間に機会があればまた船旅をしたいと思っていますが???


nice!(1)  コメント(0) 

BS-TBS番組情報 №289 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年9月後半のおすすめ番組

         BS-TBSマーケテイングPR部

Sound Inn S

288Sound Inn S.jpg
9月16日(土)よる6:30~7:00

☆最高のアーティスト・サウンドメーカー・ミュージシャンが一堂に会し、
「時を超えた、ここでしか聴くことの出来ないサウンド」をお届け。

ゲスト:八神純子
アレンジ:坂本昌之、笹路正徳、島田昌典
ナレーション:恒松祐里

八神純子さんが「みずいろの雨」「明日の風」「パープルタウン」を一夜限りのアレンジで披露。

吉田類の酒場放浪記~屋台巡り!酒蔵巡り!絶景巡り!
             台湾大衆酒場「熱炒」で乾杯!~」

288吉田類の酒場放浪記.jpg
9月18日(月)よる9:00~10:54

☆番組初の海外ロケ!吉田類が台湾の酒場「熱炒」で乾杯♪

出演:吉田類 (酒場詩人)
ナレーション:河本邦弘

番組開始20周年の節目で“台湾”酒場にどっぷりつかる2時間スペシャル!
類さんが、台湾の酒と肴に舌鼓!

憧れの地に家を買おう 楽園・沖縄2時間SP

288憧れの地に家を買おう.jpg
9月22日(金)よる9:00~10:54

☆楽園沖縄の極上物件をご紹介する2時間スペシャル!

出演:武井壮 ゲスト:村上佳菜子
リポーター:田中律子、ISSA(DA PUMP)

青い空と白いビーチが広がるリゾートアイランド沖縄から、首里城近くの高台に建つ総額1000万の新築コンドミニアム、 “恋人の聖地”古宇利島にある南国感あふれる新築ヴィラなど豪華物件が続々登場☆ そして沖縄に移住したタレント田中律子さんの自宅を大公開。悠々自適な沖縄ライフに密着!さらに、沖縄出身のDA PUMPボーカルのISSAさんがとっておきの物件を紹介してくれます。


nice!(1)  コメント(0) 

海の見る夢 №61 [雑木林の四季]

    海の見る夢
          ―グローリア~ヴィヴァルディー
                         澁澤京子

 九月になっても猛暑が続き、台風が遠く過ぎ去った日曜の朝。透明な眩しい陽の光は、まるで西脇順三郎の詩にある「覆された宝石のような朝」のように地中海的な乾いた陽の光で、地球温暖化とはいえ、初秋の透明な空気と陽射しの強さが美しい朝を与えてくれた。子供の頃は、あたかも天の高みから天使がラッパを吹くような感じの清々しい朝を迎える事がごく時たまあったが、この年齢になって、こういう朝を迎えるのは本当に久しぶりなのである。何もかもがくっきりと見える感じは、音楽でいえばヴィヴァルディの感じ。「秋」というより「グローリア」だろうか。
-
8月にアメリカから帰省して、我が家に二週間ほど滞在した年上の従妹Sは若い時から熱心なカトリック信者。彼女の強い希望によりシスター・キャサリンに会わせるため、日曜日に鎌倉のカトリック教会のミサで待ち合わせしたのである。アメリカに永住する事を決めた日本人と、来日してから54年。54年間も日本で坐禅修行を続けているアメリカ人であるシスター・キャサリン。人生って面白い。

鎌倉という町は仏教とキリスト教の交流が盛んらしいが、シスター・キャサリンほど、禅とキリスト教の両方を深く理解している人はなかなかいないんじゃないだろうかと思う。しかも彼女には、いわゆる禅臭さやキリスト教臭さといったものが一切なく、それは、もともと彼女が自由で聡明な人間だからなのかもしれないが、老若男女問わず、彼女を尊敬して慕う人は多い。彼女を慕うあまり鎌倉に移住してきた女性もいるほどで、結局、人を説得できるのは言葉ではなく、人の「存在」そのものなのだな、としみじみ思う。シスター・キャサリンだけじゃなく、常に他人のために生きてきたシスターたちには、黙っていても温かでおおらかな雰囲気を持つ人がとても多いが・・

従妹は1946年生まれ。私が子供の時からその印象が全く変わらないのは、若い時から大人っぽかったせいかもしれない。私がまだ学生の時、しきりにキリスト教入信を薦めてくれたのも彼女で、その時は興味がなかったが、巡り巡って、またキリスト教でつながる事になったのである。二週間の間、私の狭い部屋をシェアして毎晩遅くまでおしゃべりしているうちに、初めて聞く話もたくさんあった。彼女が若い時、ジャズヴォーカルの学校に通っていたことも、渋谷百軒店のジャズ喫茶に通っていたことも初めて知った。彼女がよく通っていたジャズ喫茶は「オスカー」。百軒店の坂を上り、ムルギーを曲がったところに昔、映画館があったがその近辺か・・「オスカー」はその後渋谷リキパレス(取り壊された東急プラザ裏の急な坂の上あたり)の下に移転したらしいが、もちろん私は「オスカー」については両方とも知らない。Sの母親(つまり私の叔母)のクラシックギターの教え子が、「ムルギーカレー」のおじいさん(すでに故人・カレーを注文すると必ず「ムルギー卵入りね」と念を押した、足の悪いおじいさん)であったとか・・思いがけず、昔の渋谷百軒店の話を聞くことができたのだ。荒木一郎が百軒店のジャズ喫茶「ありんこ」に通っていたのもこの頃だろう・・彼女が通っていた時も、ジャズ喫茶では若者は深刻な顔でジャズを聴くのが定番だったという。オスカー・ピーターソンが好きだというので、友人からもらったオスカー・ピーターソンのCD「ロマンス」を従妹と一緒に聴いた。

クラシックギターの先生だった叔母は、ほっそりとしたきれいな人だったのを覚えている。まだ子供の頃、祖父の家の庭で遊んでいると、「いいものを差し上げますから、ちょっとそこで待っていらして。」と言われ、ずいぶん長いこと待っていると再び現れ、きれいなリボンをかけられたお菓子の包みを下さった思い出がある。

従妹が通っていたころの百軒店は、ちょうどジャズ喫茶文化の全盛期。私が通っていた頃の百軒店のジャズ喫茶はちょうどジャズ喫茶が廃れ始めたころで、マニアックなジャズファンのたまり場だったが、従妹が通っていたころはマニアックというより、音楽好きのスノッブな若者のたまり場だったのかもしれない。

今回、従妹をいろんな人に紹介したら、何人かの人から私と従妹が「似ている」と指摘された。顔や雰囲気はもちろん、男友達が多くて、男友達と一緒にいるほうが楽という中性的な性格も私に似ていて、人は年取ってくるにつれ、自然に似た者同士が寄り集まってくるような気がする、まるで魂が寄り添いあうように・・人の縁というのは不思議なもので、どこかでつじつまがあうようにできていているのだろうか?

日曜日の鎌倉はすごい人込みで、海が近いというのに東京並みに暑い。これからアメリカに帰る従妹と、アメリカから帰国したばかりのシスターをやっと会わせることができた。従妹がシスターにプレゼントしたのは、子羊のイラストの描いてあるTシャツ。シスターは「迷える子羊」を導く役割の方だが、私たちのほとんどは「迷える子羊」で、自分が迷っていることすら気が付かないのかもしれないな‥とぼんやりと考える。

しかし、迷える子羊である私にも、煌めく陽光の素晴らしい朝が与えられることもあるのであって、世界はやはり神秘なのである。


nice!(1)  コメント(0) 

住宅団地 記憶と再生 №20 [雑木林の四季]

12.ブリッツの大団地(馬蹄形団地)GroBsiedlung Britz(Hufeisensiedlung)(Britz.Fritz.Reuter-Allee,Husung,Onkel-Braisig-Str.u.a.12359Berlin)
 
      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 
住人3名にインタビュー 2

●クリストフ・イエンシュケさん(男性、40歳代末、ミニング通り)

 法律事務所をウンターデンリンデンにかまえ、私立の専門学校の教授として法律を教えている。専門は医療健康関係の法律。趣味は音楽。ここの住民でバンドをくみ、地下室で練習し、先週も馬蹄形入口の階段を観客席に芝生を舞台にコンサートを開いた。
 9歳の時に家族でここに越してきて(いまの住宅の隣の隣)、ブルーノ・タウト小学校にかよった。法学をアムステルダムやロンドンで学び、結婚して4人の子どもができ、プレンツラウアーベルクに住んでいたが、子どもの育つ環境としてはよくないので、ここで投資のために買っておいた住宅に入った。二つ買っておいてよかった。よくあることだが、妻と離婚することになり、もう一つの住宅には妻が住んでいる。子どもは一週間おきにここと妻の家のあいだを行き来しているが、近いし、どちらも間取りが同じなので子どもも落ち着く。2008年からこの家に住んでいる。
 壁の色の青かったところはそのまま青を残して絵画を付け足した。壁が茶色かったところなどは部分的に残した。もとはカッへルオーフェン(タイル張り暖炉)があったところに、いまはこういう暖炉をおいて使っている。
 たくさん住宅を買い占めて人に貸している会社はないが、金持ちでいくつか住宅を買って人に貸している人は数人いるようだ。それでも一人で10戸以上持っている人はいないだろう。ミュンヘンに住んでいる医者で、ここに何戸か買って貸している人を知っている。
 ノイケルン区というと貧乏な区というイメージがあるが、近所に住んでいるのは大学の教授や建築家などで労働者階層の人はいないし、多様性がない。政治的にもみんな社会民主党や緑の党に入れる人しか住んでいない。タウトが好きだからここに住んでいる、という人も多い。自分もその一人で、タウトにかんする本の初版本なども含めて集めていて日本で出たタウト関係の本も持っている。
 高校の教科書にもタウトと馬蹄形団地の記載がある。
 近所つきあいは、ありすぎて困る。子どもの頃には「大人になったら絶対にこういうところには住みたくない」と思った。たとえば、昼のみんなが静かにしていなければならない時間にピアノの練習をしていたら、隣の人が警察に電話して訴えたのが、すごくショックだった。隣人を見張り合い、上に言いつけるみたいな雰囲気があった。でも近所の人との距離のおき方に気をつけて暮らせば問題ない。
 世界遺産になったときに国からたくさんお金が出て、修復工事がおこなわれた。文化遺産なので外装は変えられないが、ここに越してきた人はこの建築が好きで越してきたので、変えたいとは思はない。ただ昔から住んでいる人でタウトになど関心がない人もいないわけではないので、世界遺産になったことを迷惑に思っている場合もある。おなじタウトが設計した「オンケルトムス・ヒュッテ」の建築も好きだが、あちらは「冬の庭」(ガラス張りのベランダ)などをつくるため元の壁を取り壊すなど、いろいろ元の建築を壊してしまったので世界遺産にはなれなかった。
 5月に馬蹄形住宅のフェスティバルがあるが、そのはかにも、ここに住んでいて1934年ナチスに殺された詩人エーリッヒ・ミューザムの詩を朗読するイベントなどもあの石段と芝生のあるところでおこなわれる(ミューザムの石碑は近くの道端に見かけた)。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



nice!(1)  コメント(0) 

地球千鳥足Ⅱ №31 [雑木林の四季]

マグロは渡った世界の架け橋
  ~パナマ共和国~ 

      小川地球村塾塾長  小川彩子  
 

 2012年の春は大変体調が悪く、めまい、転倒、頭痛、腰痛に悩まされていた。心配してくれた人々の中で「1か所に停滞し過ぎたのね。貴女はマグロのように回遊していないと病気になるのよ⊥と言った友人の言葉に暗示をかけられ、体調不良を引っ提げてママヨとパナマへ出かけた。「お前はマグロだ」と自らに言い聞かせて。道中めまいでフラフラ・ダンスをしつつも、頭痛もなく転倒もせず無事帰国できた。
 地球上最大の土木工事だったと言われるパナマ運河は、ご存じ、アメリカによって施工され、1914年に開通、富が流入して米国は潤った。20世紀末に多くの施設と共にパナマに返還され、返還後今年で12年目だ。運河は富を斎し景気は上々、現在拡張工事に忙しく、泥を掻き上げていた。道路も至る所工事中だ。「パナマは世界の架け橋、宇宙の心臓です」とタクシーの運転手フレディー君は胸を張り、「2年後にもう一度来てください。地下鉄が完成し、道路工事もきれいに終わっていますから」と続けた。パナマのタクシーにはメーターがないが、フレディー君は「日本がパナマで色々助けてくれた」と言っていつも安くしてくれた。パナマ運河は、太平洋側と大西洋側の間にあるガトウン湖の海抜が高いため他にも人造湖を造り、閘門(こうもん)を開閉して水位を上下させ船舶を通過させるシステムだ。船が来ると水門を開け、船を誘導して水門を閉め、プール状にして水を入れ水位を高め、船を持ち上げて通過させる。私は観光船に乗って実体験したが、世界の大型船が目の前で運河を通過して行った。この国では米ドルがそのまま使えるので旅行者には便利だ。
 チヤグレス川をモーターボートで遡上し原住民のエンベラ村を訪問した。自給自足の村で、男性はビーズでできた短い腰巻の上にふんどしを着装、男女でダンスを披露してくれた。提供された魚のフライと揚げバナナはとても美味だった。入村料は25ドルと高いが観光には不慣れな様子、観光業者にかなりぼられているのでは?と心配した。奇遇もあった。オハイオ州の中学生(11~15歳)の修学旅行団と一緒になったが、引率の校長先生はシンシナティの住人で、「生徒に国際体験させるのが目的」と語っていた。この村の小学校も訪問した。少人数の2クラスに立派な先生が2人いて、スペイン語で行儀よく授業を受けていた。
 パナマシティの重要な歴史地区、パナマ・ビエホはスペインが太平洋岸で最初に築いた都市の遺跡で壮大な廃墟だ。繁栄した都市を想像しっつ、一人で歩けば楽しかろう。この地をスペインの植民地としたバルボアの名を冠したビールでも飲みながら。このパナマ・ビエホは1519から1671年まで繁栄した都市だったが、海賊ヘンリー・モーガンに襲われ、首都は旧市街、カスコ・ビエホに移った。ここはコロニアル建築が並びまるでスペインだ。近年訪れたコロンビアのカルタヘナと相似のバルコニー付きの家が並ぶ。「ああ、カルタヘナと全く同じだ!」と叫んだらフレディー君、「当たり前ですよ。カルタヘナとほぼ同時に同じスペインが作った街なんですから」。美しい街並みは世界遺産だが、スラム化した地域が隣接しており、フランス広場からパナマ湾を見下ろした後、早々に引き揚げた。ガラス張りの展望デッキから運河沿いの風景やジャングルを楽しめるパナマ運河鉄道にも乗ってコロンまで。この鉄道はパナマ運河着工以前の1855年に開通、太平洋と大西洋を結ぶ連絡路として輸送に役立ったが、運河に役目をとって代わられ今は観光客集めに必死だ。
 暗示で体調不良を治してくれた友人は脳外科医以上の名医だったが、私も「動き続けているほうが健康だ」と自覚した。フラフラと千鳥足でマグロダンスをしながらも、六大陸を繋ぐ七つの海を死ぬまで回遊し続けるぞ!
                   (旅の期間‥2012年 彩子)

『地球千鳥足』 幻冬舎



nice!(1)  コメント(0) 

山猫軒ものがたり №24 [雑木林の四季]

春の招き猫 1

        南 千代

 夫の念願である田んぼが借りられることになった。場所は、三キロほど下った所にある狭い平野部である。広さ約一反の田は、五年近く使ってないという。枯れ草がぼうぼうと茂っていた。風のない日を見はからって、野焼きをすることにした。
 土手から火をつけて景気よく燃したが、燃え広がるスピードは意外に早い。アッという間に全面黒こげの田になった。
 野焼きを終えると、次は耕運機で土を起こす。夫が耕運機にスキをつけて田を起こしている間私は、耕運機では起こせないカヤの根などをスコップで掘り起こす。田は最初、スキで粗く起こした後、ロータリーをかける作業を三度ほどくり返し、土をならしていく。
 借りた田は、農道と小さな川に挟まれて四枚に分かれている。川の土手には、猫柳が銀白色のやさしい綿毛をたくさんつけていた。花穂を唇にあてると、柔らかな野辺の温もりがする。フキノトウもあちこちに黄緑の顔をのぞかせている。
 私は、自分の役割りであるカヤの根起こしがすむと、耕運機をかけている夫の周囲で、フキノトウやノビルを摘んだ。田のあぜのところどころには、セリも出ている。
  フキノトウは、刻んで味噌汁の吸い口にしたり、てんぷらやフキ味噌を作って楽しむ。春をまっ先に知らせてくれる山菜だ。ネギの子分のようなノビルは、土の中で白い球形になった鱗茎がおいしい。味噌をつけて生でかじるとピリッと辛く、エシャロットのようだ。青い茎の部分は薬味ネギ代わりにもなり、土地の人は、これをコジキネギと呼んでいた。
 茎が紫色の田ゼリは、水辺に出るセリと違って丈は低いが、香りがとても強い。私は、もっぱら白あえにするのが好きだ。
 これらは、春一番の代表的な食べられる野の草だ。しかし、食べられるかどうかでいえば、うまいかまずいかは別にして、ほとんどの植物は食べられる。間違いやすい約三十種ほどの毒草を覚えておくことは必要だけれど。
 春なら、スカンポやタンポポの葉のサラダ、カンゾウの芽の酢味噌あえ、スミレの花の甘酢あえ、つくしの玉子とじ、などもうまい。
 夫のロータリーかけがすんだ。この後どうやって田にするか。初めての経験なので、もちろん夫も知らない。すがるのは、隣の田をやっている赤岩さんと、「疎植のイネ作り」という本だけである。疎植とは、機械植えなら倍ほど植える苗を、間隔を開けた一本植えで坪三十六本しか植えないやり方である。
 なぜ、この植え方を選ぶかというと、化学肥料も農薬も使わず鶏糞だけで健全な稲を作るには、譜でなければならないと・夫の養鶏の師である中島正氏が提唱しているからであった。増収と省力をめざして、機械も農薬も石油もどんどん使うのではなく、収量は少なくてよいから、努力を払って健全な稲を作る、というのが基本姿勢の稲作りである。

 春がいっせいに咲き始めた。山間部では、梅、桜、桃といった順にではなく、梅も桜も桃もれんぎょうも、すみれ、たんばぼ、れんげ草も、全部がいちどきに花開く。
 まさに百花繚乱。桃源郷とはこんな所をいうのではないかという気分で、裏山に登って里を眺める。陽があたらない冬、私たちは、昼食をよく山で食べた。陽があたる斜面までおむすびとお茶を抱、蔓行き、そこでひなたぼっこをしなから食べていた。
 春になり、屋根に陽があたり始めても、この習慣は続いた。今度は、雷が花見弁当である。里では、越生梅林で盛大に梅祭りが行われているが、山の中に人知れず、警して花を開く梅もまた美しい。
 三月十二日の夜、町の虚空蔵さまの春祭りに行った。虚空蔵尊といえば、知恵と福徳の菩薩だが、この町では商売繁盛の福の神として親しまれているとか。昭和四十八年に、本堂のしも手にある方蔵寺の屋根からたくさんの小判が見つかったためである。
 私たちがこの祭りに出かけて行ったお目当ては、縁起もののだるまと共に売られている、招き猫であった。
 この町に来て、車の修理を頼んだ隣村の小輪瀬自動車の神棚に、ズラリと並んだこの猫を見つけた。瀬戸物しかお目にかかれない今の時代、猫は素朴な張り子である。表情もカタチも一匹ずつ微妙に違い、後ろ姿もしっかり猫背にしてある。聞くと虚空蔵さまの祭りの時だけに売られる猫だというので、この日を心待ちにしていた。
 祭りへ向かう人、戻る人虚空蔵さまに続く夜の野辺道では、人々が手にした懐中電灯の灯りがフワフワと一列に伸びている。ある、ある、大小さまざまな招き猫が露店に並んでいる。
 猫は、小さなものから始めて年ごとに、前の年より大きなものを買うのだそうだ。そして、七個になったら祭りの夜、寺に帰す。地元では、商売繫盛を祈願する商店主が、よく買っているとか。右手を上げた猫は一般商店用、左手を上げた猫は飲食店用だというので、右手招きの小さな猫を買うことにした。
 小サィズで三千五百万両と言われた値段を値切って、二千万両にしてもらった。値切った分だけご利益が減らないよう悔いながら、招き猫を山猫軒に連れて帰った。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



nice!(1)  コメント(0) 

BS-TBS番組情報 №288 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年9月前半のおすすめ番組

         BS-TBSマーケテイングPR部

~かわいいアニマルがいっぱい~しあわせ!どうぶつベイビー2

287①~かわいいアニマルがいっぱい~しあわせ!どうぶつベイビー2.jpg
9月3日(日)よる9:00~10:54

☆日本全国から届いた、超・超・超可愛い「どうぶつベイビー」がまたまた大集合!
笑いあり・涙ありの動物バラエティ

<キャスト>トラウデン直美、篠原梨菜(TBSアナウンサー)

全国から「どうぶつベイビー」が大集合! 
▼大好評「ウチのかわいいベイビーちゃん」
ついに撮った!しゃべる猫/タップダンスする犬/映えポーズをするチンチラなど…あまりの愛くるしさから、思わず動画サイトに投稿してしまったわが家の自慢の赤ちゃんペット映像もたっぷりお届け!史上最高のレベルと数でアナタを幸せにします。

▼MCのトラウデン直美さんがスタジオを飛び出し!番組初のロケ
保護ネコのミルクボランティアを体験。譲渡会にも密着して、赤ちゃん猫の未来を見守ります。

▼盲導犬物語2023
盲導犬を目指す子犬を1歳になるまで育てるパピーウォーカーに密着。普段はなかなか見ることができない子犬と家族の笑いあり・涙ありの映像が盛りだくさん。そしてカメラの前で奇跡も…!

▼特別企画!日本全国の動物園&水族館発
ご自慢のベイビー達の貴重な映像が大集合!飼育員さんだから撮影できた超かわいい瞬間が満載!

頬がゆるみっ放しの2時間です!!

中森明菜 女神の熱唱2 ザ・ベストテン不滅の歌声 

287②中森明菜 女神の熱唱2 ザ・ベストテン不滅の歌声-.jpg
9月5日(火)よる9時~10時54分 

☆ TBS「ザ・ベストテン」に残る中森明菜の数多く映像。その中から明菜の魅力が満載の珠玉の映像を一挙紹介!

<映像出演>
中森明菜
<インタビュー出演>
藤倉克己(音楽プロデューサー。ディレクターとして「ミ・アモーレ」「難破船1などを担当)
石川眞実(元「ザ・ベストテン」ディレクター)
遠藤環(元「ザ・ベストテン」ディレクター)

卓越した歌唱力に独創的なファッションとパフォーマンス。類まれな存在感で多くの人を魅了した中森明菜。その一翼を担ったのがTBSの歌番組「ザ・ベストテン」。第1位に君臨すること69週。第1位を獲得した曲は17にのぼる。いずれも歴代トップ。明菜は「ザ・ベストテンの女王」と謳われている。

アイドルからボーカリストへ。歌うたびに進化を遂げる中森明菜の貴重映像の数々。今回、その中から彼女の魅力満載の珠玉の映像を一挙紹介。着物、ボディコン、民族衣装など…華麗なるファッションも見どころ。「ザ・ベストテン」担当ディレクターが明かす秘話も。そして彼女の涙…。「ザ・ベストテン」の歴史は中森明菜の歴史でもある。今も多くの人の心を熱くする歌声。明菜伝説は終わらない。

【紹介予定曲】
♪スローモーション ♪少女A ♪セカンド・ラブ ♪1⁄2の神話 
♪トワイライト−夕暮れ便り− ♪禁区 ♪北ウイング ♪サザン・ウインド
♪十戒 ♪飾りじゃないのよ涙は ♪ミ・アモーレ ♪赤い鳥逃げた 
♪DESIRE -情熱- ♪SAND BEIGE -砂漠へ- ♪Fin ♪TANGO NOIR ♪難破船 ♪TATTOO ♪I MISSED "THE SHOCK" ♪LIAR ♪二人静

アン・ボヒョン Holiday in Bali ~ちょっと贅沢な旅~

287③アン・ボヒョン Holiday-in-Bali.jpg
9月9日(土)夕方5:30~6:00

☆今最も旬な俳優 アン・ボヒョンが、バリでやりたいことを満喫!
キャスト:アン・ボヒョン、イ・サンホン

『梨泰院クラス』『マイネーム』『ユミの細胞たち』、 2023年Netflixで配信がスタートした『生まれ変わってもよろしく』など数々のヒット作品に出演し、世界中から注目を集めるアン・ボヒョン。そんな彼が忙しい毎日から抜け出し、友人と一緒にアジア屈指の人気リゾート地・バリ島にバカンスへ! 現地の料理や文化を楽しんだり、初めてサーフィンに挑戦したり…とプライベートな時間を満喫。バリの大自然の中で、普段は見られない彼の貴重な素顔に出会える2泊3日のちょっと贅沢な旅へ♪アン・ボヒョンのことをたっぷり知ることができるファン必見の内容もお見逃しなく!


nice!(0)  コメント(0) 

海の見る夢 №60 [雑木林の四季]

       海の見る夢
          -セレナード第10番~モーツァルト~
                      澁澤京子

 野良猫に餌をあげる「猫オバサン」というものが時折いるが、最近の私は、野鳥の餌のひまわりの種をめぼしい場所に撒いて歩く「鳥オバサン」になっている。

以前、世田谷に住んでいた時うちの近所の遊歩道で、猫に餌をあげる「猫オバサン」が、おじさんにすごく叱られているのを目撃したことがあった。「アンタ、迷惑なんだよ!」おじさんはカンカンに怒っている。おじさんの家なのだろう、おじさんの背後には小綺麗な小さな芝生の庭が生垣越しに見える。チューリップ帽を被ったオバサンは、猫の缶詰の入った袋を手に持ってうなだれ、無言のままだったが、ある晩、犬の散歩をしていると、あの時叱られていた「猫オバサン」がしゃがんで猫に餌をあげていたのである・・「猫オバサン」は人目につかないよう、夜の暗さに紛れてコソコソと野良猫に餌やりすることに決めたのだ。それからだいぶたったある日、やはり犬を連れて遊歩道を散歩していると、「危険!この辺には猫に毒をまく人がいます!」という貼り紙が方々に貼られているではないか。マジックペンで大きく書かれたその字には怒りと恨みがこもっている。とっさに私は、あの時、カンカンに怒っていた小太りのおじさん(小綺麗な家に住んでいる)を思い出した。毒をまかれ、野良猫を殺された「猫オバサン」は復讐のために、お手製の貼り紙(雨に濡れないようビニールが被せてある)をあちこちに貼り付けて歩いたのに違いない・・

あの時の「猫オバサン」のように夕闇に紛れてコソコソと鳥の餌をまきながら徘徊する私・・ここは集合住宅なので勝手に庭に巣箱を設置したり、餌をばらまくわけにもいかない・・しかも、この集合住宅の庭やゴミ置き場を掃除するおじさんたちには、私は大変お世話になっている(一回、鍵を忘れて締め出された時、二階のベランダによじ上るはしごを持ってきてもらい、下で押さえてもらった。)この猛暑の中、長そでの作業着で真っ赤な顔をして一生懸命に庭を掃除するおじさんたちの目の前で、まさか鳥の餌をばらまくわけにはいかないだろう・・

世田谷の家の玄関の脇の水槽には、ギリシャリクガメがいた。いつも、ゴトゴトと水槽の中で動き回っていたが、子犬を飼い始めて間もないある日、突然カメは死んでいた。(世話を忘れたわけではない)・・近所の爬虫類マニアの人から、爬虫類は愛情の対象が他の動物に移ってしまうことを敏感に察知する、とてもデリケートな動物であることを教わった。(その人以外にも、世田谷の家の近所には、部屋に入った途端、まるで熱帯ジャングルのようにディスプレイされている爬虫類マニアの家もあったが・・)犬好きや猫好きは割と一般的だが、爬虫類マニアのように、鳥好きの世界もマニアックで奥が深いのは、思いがけない発見というものがあるせいかもしれない。あと昆虫マニアもいるが、ルーツが人類よりはるかに.歴史が古いと、マニアックになるのだろうか。(昆虫3億5000年前・恐竜2億2800万年前・鳥類1億5000年前・爬虫類3億1200万年前・哺乳類2億2500年前・ アウストラピテクス・・たったの420万年前・・)

世田谷に住んでいた頃、下北沢の町はずれに爬虫類、熱帯魚、珍しい鳥を置いてある小さなペットショップがあって、店内には「動物を見て、気持ち悪いなどという人は入店禁止!」という強烈な貼り紙がしてあった。店主はいつも無愛想で、淡々と動物の世話をしていたが、来店して爬虫類を見た客が、「キャー!キモ~い」とか言うのを,よほど苦々しい思いで聞いていたのだろう。ある日、私がスズメの雛を拾って相談に行くと、その育て方を丁寧に教えてくれたのも、この気難しい顔の店主だった。動物好きの人間に対しては、とても親切だったのである。(雛は立派な雀に成長し、ある日、群れに返した。幼い雀がベランダから飛び立つまで、多くの雀が電線に止まって見守っていたのには感動した。群れに戻ってから、一回ベランダに遊びに来てくれたことがある・・)

ギリシャリクガメはゴトゴトと音をさせるだけで、ひっそりと生きていたし、小鳥の食事なんかも実につましいもので、不気味なのはむしろ人間のほうかもしれない・・

スポーツで狩りをしていた欧米人のほうが、今では動物保護に熱心で、「法医鳥類学」という学問もあるらしい。鳥がどのように殺されたかを分析する、いわば鳥に関する犯罪を扱うもので、鳥が酷い死に方をしたことがわかると思わず感情的になってしまうらしい・・『ナショナルジオグラフィック(日本版)2018・1月号』より

迷い鳥のツイッターを見ると、「駅からオカメインコが付いてくるのでダッシュで逃げました」という投稿があり、その写真のオカメインコの薄汚れて弱った痛々しい姿に、鳥好きたちから「なぜ保護しない?」「かわいそう!」「鬼畜!」とさんざん罵倒され、投稿者はついにその投稿を削除してしまった。鳥好きと、そうじゃない一般人の間の溝は結構深い・・

最近の恐竜研究だと、ティラノサウルスの卵から孵った雛は鳩くらいの大きさで羽毛が生えていたとか(成長すると、うろこにおおわれる)、成年になって羽毛のある恐竜の化石は多く発見され、恐竜の直系の子孫は鳥類・・ということになっているらしい。福井で発見された羽毛恐竜の化石は始祖鳥の一種で、恐竜と鳥類の関係を示すものとしてとても貴重な発見だとか・・もともと羽毛は飛ぶためのものではなかったのである。抱卵する恐竜の化石もある。いつから恐竜は空を飛ぶようになったのかは、いまだ論争中らしい・・鳥というのはやけにカラフルだが、そうすると当然,恐竜もカラフルな羽毛を持っていただろう・・そういえば、オカメインコの冠羽や鶏のトサカはなんだか恐竜っぽいではないか・・ティラノサウルスの両腕は体に比べるとやけに細くて短いが、いったい何の役に立ったのだろう?・・とか、鳩くらいの大きさだったというティラノサウルスの雛を育てると、13メートルの体高になっても飼い鳥のように人になつくだろうか?・・とか、いろいろと空想すると実に楽しい。

恐竜→鳥類のミッシングリンクを解くカギは(鳥の巣)にあるんじゃないかという仮説を立てたのが鈴木まもる氏。芸大に通っている時、偶然、山道で見つけた鳥の巣の造形の美しさに魅せられ、世界中の鳥の巣を見て回った経験から、恐竜→鳥類への進化プロセスは一つに絞られず、多数のプロセスがあるんじゃないかというもので、鈴木まもる氏の書かれた本は絵本を含め、皆とても素晴らしい。確かに、ニワシドリの巣のディスプレイやダンスはオスがメスを引き寄せるためというにはあまりに洗練された見事なもので(you tubeで観ることができます)もちろん他の鳥も、その巣の造形の美しさといい、多様性といい、鳥というのは明らかに独自の「美意識」や「文化」のようなものを持っているとしか思えないのである。(鳥は視覚が発達しているから当然なのかもしれないが)

三畳紀(約2億年前)、活発な火山活動のため低酸素になった地球で、「インスリン耐性」を獲得したことが恐竜→鳥類への進化につながるのではないか、という仮説(そのために渡り鳥は長時間の飛行が可能だとか)を提唱したのは佐藤克己氏(応用生物学)

大型の恐竜は滅んでも、鳥類は空を飛んで外敵から身を守り、コンパクトな巣を作って雛を育てる事で生き延びてきたのだ・・「恐竜はなぜ空を飛ぶようになったのか?」はいまだ神秘のヴェールに覆われたまま。

昔、実家の近所に山階鳥類研究所が残っていた頃は、うちの庭にもキジやヒヨドリなどがよく訪れていたが、山階鳥類研究所の古い洋館はとうの昔にこわされ(千葉に移転)、今は高級マンションと新日鉄の迎賓館が建っていて、いつしか、渋谷近辺で観られる野鳥はほとんどカラスになってしまった。(渋谷は、特に駅周辺のネズミの数がすごくて、カラスはそれも狙っているのだろう。カラスはとても賢くて、うちの犬もよくからかわれていた。)昔、国木田独歩が住んでいたころの渋谷はまだ鄙びた、田園風景が広がるような田舎で、山階鳥類研究所ものどかな頃の渋谷に建てられたのだろう・・カラスの多い渋谷に比べて、ここら辺にはまだ野鳥が生息しているのがとてもうれしい。最近は隼のような猛禽類が明治神宮を中心に、都市部に侵出してカラスを駆逐しているらしい。(カラスがいなくなると渋谷近辺のネズミはまた増え続けるんじゃないだろうか・・近年、渋谷のネズミがやたらと増えたのは、カラスを大量虐殺し駆除した故・石原都知事のせいに違いないと思っている私・・)この間、吉祥寺の駅前のバス停の上空に、カラスよりずっと大きな鳥が悠々と飛翔しているのが見えたが、井の頭公園にも隼は生息しているのかもしれない。隼が都市部に現れるとともに、カラスと他の野鳥が結託して隼に対抗するというから鳥の世界は実に面白い。カラスは実に頭がいいから、そのくらいのことはするだろう。(隼を見つけたカラスが最初に警告して鳴き、雀など他の小さな鳥たちがまず逃げるらしい)

しかし、飛翔のスピードの速い隼に狙われたら、オカメインコのチルはひとたまりもない・・とオカメインコを探しているうちに、電線に止まっているシルエットだけで何の鳥なのだいたいかわかるようになってきた。野鳥の会の中西悟道や、鳥類研究所の山階芳麿など、鳥という賢い生物に、昔から魅入られた人は多い。人間に似た感情があったり、鳥ってすごく魅力なのだ。しかも自由で遊び好き、愛情深く、無欲で美しいのである。-

~命のことで何を食べようか、何を着ようか思い悩むな。・・種もまかず,刈り入れもせず、納屋も蔵も持たない。それでも神は烏を養ってくださる。あなた方は鳥よりもどれだけ値打ちがあることか。・・「ルカ12:22~」

モーツァルトのセレナードNo10の出だしには天上的な美しさがあるが、空を自由に飛び回る鳥の姿はまさにああいう感じなのである。


nice!(1)  コメント(0) 

住宅団地 記憶と再生 №20 [雑木林の四季]

12.ブリッツの大団地(馬蹄形団地)GroBsiedlung Britz(Hufeisensiedlung)(Britz.Fritz.Reuter-Allee,Husung,Onkel-Braisig-Str.u.a.12359Berlin)
 
      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

住人3名にインタビュー 2

●ルーデイ・マイスナーさん(男性、70歳代、シュタヴェンハゲナ一通り)
 この住宅は1930年の建設、2003年に入居した。気に入っているのは 部屋割り。3階建てで98I琉地階もいれると4階で使用面積は140㎡になる。台所と食堂は分かれていたが、壁を打ち抜いて一室にした。階段が急で老人には危険である。2階にシャワー、3階にバスタブを入れた。
 窓はこのように大きくなっているので明るいが、ここより前に建てられた住宅は、大きな一枚のガラスがまだ高価だったため窓が小さい。
 15年前に16万5,000ユーロで購入したが、世界遺産になって不動産価格は急騰し、いまでは約60万ユーロ、4倍近くになった。
 猫を飼っている人のほうが犬を飼っている人より多い。毎年5月のフェスティバルのちらしを配って歩くと、草ぼうぼうの家もあるし、すごく手入れをしている庭もある。しかしそれは個人の自由なので口出しする人は少ない。
 針葉樹が増えてしまった時期もあったが、モミなど陰になって他の植物が育たないし、落ちる木の実の始末が大変なので、かなり伐ることになってほっとしている。世界遺産なので記念物としての保護が重視され、役所が管理や修繕の状況を見回りに来る。高木の植樹、伐採は届け出制になっている。家の外形は変えてはいけないのだが、規則に逆らって変えてしまう人もいる。役所は見逃してくれることもあるが、窓枠は木と決まっているのにプラスチック製の窓枠をつくった人が、取り壊して木の枠にするよう通達をうけたことがある。
 同じ棟の人たちは毎日庭仕事をしながら自然と言葉を交わすので、顔見知りになり気が合えば友だちになることもある。子どもは2人が多いが、4~5人の家もある。ここ10年で世代交代があった。この棟だけでも4人の老人が亡くなり、子どものいる若い世代が入居した。

☆タウトは画一的な庭がいいとは思っていなかったので、最初の住人たちがそれぞれ好きな木を植えた。住宅ができる前はこの辺りは木が一本も生えてなくて畑だった。しかし重要文化財になってからは自分の庭の木を伐るときも新しく植えるときも許可がいる。この通りは白樺というように、通りによって植える木は決まっている。

☆ドイツで住居の広さをいうときは、地階とか屋根裏部屋の天井の低いところを面積に数えない(実際には地階にはたくさん物が置けるし、屋根裏部屋の天井の低いところにベッドをおいて寝ている人も多い)。

☆ここから歩いて行ける範囲に幼稚園やあらゆる種類の学校(小学校、実科学校、総合学校、ギムナジウム)があるので、子どものいる家庭にはとてもよい。ただしティーンエイジャーのたまり場となるようなディスコなどはまったくない。

☆家の外見を変えてはいけないという決まりは、文化財保護になったことによるもので、世界遺産になったからではない。

☆席蹄形住棟以外は民間売却になって、679戸のうち10戸ほどが借家として残っている。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



nice!(1)  コメント(0) 

地球千鳥足Ⅱ №30 [雑木林の四季]

歩いて走って万年青年

     小川地球村塾村長  小川律昭

  今年の冬は雨の日以外よく歩いた。吐く息が白く見える寒さの中、起伏の多い森の中の住宅街を大股で歩くことを心がけた。ここは我がコッテージのある、ワイオミングという住宅地。コミュニティーは大木に覆われ、丘に富み、どこを歩いても楽しいが、自然にお気に入りの散歩路が出来た。我が家からちょっと行ったところだ。百年を過ぎる、歴史的にいわくのある住宅の数々を見ながら最初は三十五分ぐらい歩いて軽く汗をかく程度だったが、今は一時間強歩いている。手や耳が寒さで痛くなる朝もあるが、慣れるとそれが普通になって辛抱出来るものだ。四月中旬までは木々は枯れ木同然だが、それでいて目に映る光景が素晴らしいコースだし、四・三キロのアップ、ダウンを繰り返す道もよい運動になり、結構楽しい。その理由は巨木の中にたたずむ家々にある。

 百年来の歴史が刻まれた、「風と共に去りぬ」のタラの家のような建築物から四台入る車庫付きの新しい豪邸まで散歩路から見えるのだ。年代家屋には重厚感があり外観も素材も複雑である。チムニー(煙突)の数も多い。集中暖房の現今は薪を焚く必要がないので、新しい家にはチムニーは大体一個だけ。やはり見かけは豪華で機能性はあっても新しい家には風格はない。新、古、いずれの建造物もこのあたりでは森に囲まれており、斜面に建てられているので、見る角度によっても、多彩な構造が目を楽しませてくれる。ヴィクトリア王朝、チユーダー王朝などありとあらゆる建築様式の住宅があり、蓮の花が咲く庭、立派な橋がある庭もある。歩く都度、新しいことを次々発見させてくれるので飽くことがない。木々が青葉に変わると、風景は目に一段と鮮明に映じ、脳裡に焼き付く。別荘的に見えても生活する住居なのだ。アメリカの豊かさ、象徴がここで見られるのだ。リンデン通りには計り知れぬ魅力がある。想像するにここの住民たちの別荘は、フロリダの海辺、ボート付きのしゃれた建物であろうと想像出来る。

 同じコミュニティーの中だが、我が家周辺は環境は良いが家々に風格がない。ちょっと小さくて隣家が比較的近いからだ。このあたりも散策してきたが印象に残っている建物は少ない。プールが併設されていて豪華に見えても、それを引き立てる周辺に変化が乏しい。やはり急斜面に建つ家屋は魅力的である。

 一九九〇年このシンシナティに来たが、その年の暮れから九一年にかけて早朝によくジョギングしたものだ。初めの住まいゴルフ場のど真ん中、十番ホールのティーショットを窓越しに見られるコース沿いの場所だったので、夕方プレイが済んだ後、カートが移動するコース内の道を走ったものだ。よく見かけたのは兎とロスト・ボールだった。起伏があり景色のとても良いコースだったので、結構よい運動と目の保養になり楽しめた。翌年ブルー・アッシュのタウン・ハウスに移ってからも、住宅街の道路を走った。ここは庶民的な家が中心だった。交通事故で怪我をした時も、警官にジョギングで転んだと弁明した。
ビールを一缶飲んで居眠りの挙げ句一人で石垣にぶつかったのだが、いつも走っていたコースだったので機転をきかせ、怪訝な顔をする警官たちを尻目に歩いて帰ろうと歩き始めていた。還暦直前だったがとても元気だった。

 ところが日本に帰って車山(長野)のマラソンを走った際、膝の半月板損傷と足の指二本を疲労骨折してからジョギングが出来なくなり、今に至っている。足にショックを与えない競歩的な歩き方で、散歩・プラス・アルファー的運動に切り替えた。これが齢七十歳の自分である。
 ジョギングを始めたのは四十二歳頃だったので二十数年走ったことになる。初めてトレーニング・ウエアを買った時、いつまで続くかなあと娘に言われた。お父さんは飽きっぽいからと、お母さんの言い付けで小学生の息子が後から走ってついて来たこともあった。もとはといえばギックリ腰を繰り返したので、その予防に腹筋、背筋を鍛えようと始めたもの。それが六十二歳の時の足の故障まで続いたのだから、健康には良かったのだろう。東京は府中から国立、そして神戸、岡崎と住まいを移りながらも走り続けた。青梅マラソンや前出の車山マラソンに参加し完走した。元旦の東京・府中市の浅間山へ向かう、往復二〇キロの初日の出マラソンにもある時期毎年参加していた。

 アメリカに住む以前、海外ではキリマンジャロも一番乗りだった。トレッキングに慣れた同行者から「韋駄天の父さん」の名で呼ばれ、誰よりも早く目的地に着いたことを思い出す。サン・フランシスコのゴールデン・ブリッジを霧の中で往復したことも。六千歳過ぎてのバック・パッカーでは重い荷を背負ってよく歩いた。吹雪のウシュアイア(パタゴニア)、冬期、雨のインバネス(スコットランド)、残雪のルーマニアはドナウ河下流の街、等、厳しい旅に耐えられたのも、足を鍛え体力を補強していたお陰である。走っていたおかげで強靭な精神力も養われたのだろう。現在体力維持の運動は、冒頭に述べたように、走りから競歩に切り替えた。日本では見られない豪華な建造物を楽しみながら。

 ところで、歩いていてもう一つ感じたのが犬だ。庶民的な家では吠えながら屋敷内を駈け、人間に近づいてくるのが多い。歩く人が珍しいのか。だから私は歩道ではなく路の真ん中を歩くようにしている。だがリンデン通りは静かでそのような犬が見うけられない。家の中から散策人を見守っているのだろう。アメリカの犬はたいていよく躾されているが、隣の犬、ゼンベイは家の中から私を見つけて吠え立てる。うちを出る時も帰って来た時もだ。五年以上私を見ているのに憶えない。美しいジャーマン・シェパードにしては頭が悪い。夫婦で忙しく働いている家庭だから躾に失敗したのだろう。それとも私の人相が悪すぎるのかな?                                                         (二〇〇二年三月)

『万年青年のための予防医学』 文芸社
 

nice!(1)  コメント(0) 

山猫軒ものがたり №23 [雑木林の四季]

囲炉裏とかまど 3

            南 千代

 ここ入組は、全九戸の家のうち、住んでいるのは七戸。鶏を放した柚畑を隔ててすぐ隣の一戸は空家、その隣の一戸は、私たちが借りた山猫軒の本家にあたる家だが、別荘として使われている。その下に三戸の家があり、川をはさんで、さらに三戸の家があった。山猫軒は、入組の中では川に沿って一番、かみ手の家となる。
 山猫軒から龍ケ谷川沿いに二キロほど登ると、途中、山の中腹に五戸の家がある。梅本の集落だ。ここは、山の中にぽっかりと聞けた小高い所にあるため、陽もあたり見晴らしもよい。越してきて最初につきあいを始めたのが、入組とこの梅本の人々であった。
 龍ケ谷では新開は宅配されておらず、集落ごとにまとめて一カ所に配達される。あとは、個々に、その場所まで取りに行く。夕刊の配達は、次の日の朝刊と一緒だ。梅本の新聞は、まとめて山猫軒に配達されていたので、話す機会も多かった。
 梅本の宗平じいさんが、ポッチラボッチラと歩いて下っていく。宗平じいさんは、もう八十に近い年齢だろうか。一人暮らしである。あいさつがてら声をかけてみた。
「こんにちは。今朝はいい天気ですね。お出かけですか」
 じいさんは、ニコニコ笑っているが、あまりしゃべる人ではない。
「ハァ。ちょっと、病院まで薬をもらいに」
 梅本からは、バス停まで約五キロ。そこから、一時間に「本あるかないかのバスに乗り、町に出る。
 いいのかなあ、そんなに歩いても。薬をもらいに行くからには、どこか具合が悪いのだろうに。車で送った方がいいのかな、余計なお世話かな。日暮れ時。また、トロリトロリと歩いて上がる。
「おかえりなさい。お茶でも飲んでいきませんかし
「ハァ、じゃあちょっとだけ、休ませてください」
 じいさんは、上がりかまちに腰をかけると、懐かしそうに家の中を見ていた。
「前にも、よくこの家では、寄らせてもらって、お茶をごちそうになってな」
「おじいさんと、おばあさんが住んでいたんでしょ」
「ああ、直治さんとナオさんというて。じいさんの方は、種まくにも定規できちんと間を測ってまくようなカタイ人で、ばあさんは、何だか難しい本ばい、えらく読んでたな」
 宗平じいさんは、それからは町へ出るついでに、ちょくちょく足休めに寄るようになった。カブやネギを、黙って玄関先に置いていってくれることもあった。
 こちらも、雨や雪の日にはバス停まで車で送ったりした。

 三月になったというのに、大雪である。春先の雪は、水分を含み重い。目の前の山では、杉の木が雪の重さに耐えかねてメリメリと裂けて折れ、木々は、道路の電柱に倒れかかり、電気も電話も通じなくなってしまった。
 写真館の山口さんが心配して、見にきてくれた。町でも、電気がストップして灯りはもちろん、店のシャッターは開かない、暖房のファンヒーターもつかない、水道も出ない、とたいへんな状況らしい。
「いやあ、ここはあったかいや」
 薪ストーブに手をかざして山口さんが言った。熱い茶を出す。
「水も出るんですね、そうか、井戸ですもんね。便利だなあ。水、もらってっていいですか」
 便利と不便が逆転してしまったようだ。町では、その後すぐに回復したらしいが、ここではそれから三日ほど電気も電話も通じなかった。暗い夜は、囲炉裏で燃えさかる炎のそばで過ごした。
 この家ができたのが、百十年前。桧五郎という人の代のときに、分家として建てたのだそうだ。ということは、その時代、一般家庭に電気などないから、この家の暮らしも、こうして囲炉裏やランプを灯りにしていたのだろう。炎を前に、私たちは、この家ができた当時のことをあれこれと想像し始めた。
 電気がなければ、テレビも映らないだろうし、家族はこうして明るく暖かい囲炉裏端に集まっていたに違いない。文字を読むほどには明るくないので、だんらんの内容は、いきおい、おばあさんが、孫に話して開かせる物語であったり、おじいさんが、囲炉裏の灰に火箸で書いて教えるイロバの綴りであったかもしれない。お父さんは、明日の山仕事に備えてナタの刃を研ぎ、お母さんは、糸車を繰っている……。
 家には、床下にたくさんの山仕事の道具が残っている。中二階には、大きな鋸や米びつ、釜などが置いてあった。米びつは、米ではなく麦を入れていたのだろう。この地域は、山間部のため、水田や畑にできるような平たんな土地はほとんどなく、木を伐り出したり、炭を焼いたりの山仕事に従事する人がほとんどだったという。それに、養蚕。
 現在、柚が作ってある斜面は、昔は小麦や、蚕に食べさせるための桑を作っていたそうだ。土間の横の物置には、石臼や糸車が。台所には、粉をこねる鉢やのし板、長年使いこんで刃がすっかりやせてしまった垣きり包丁などがある。
 停電の暗い囲炉裏端で、土地の人の話や残された生活具から、私たちの話はあれこれとつきなかった。電気がないと、おしゃべりの時間が増えた。時がすべて私の手の中にある。とても豊かな気分で夜が更けていく。
 電気が、三日目の夜に突然ついた。
「ワオ! 明るーい」
 私たちは、歓声をあげた。そしてまた、明るいということも、ほんとにうれしい暮らしだと思った。この家に電気が初めてついた時も、みんな喜んだにちがいない。
 でも、明るい囲炉裏端というのは何だかしらじらとして、あまり想像力をかきたててくれない。暗い時には見えなかった板の間のゴミまでしっかりと映し出す。夫と話しながら私は、たまには部屋の掃除もしよう、と急に現実的になり、話に夢中になれないのだった。

『山根軒ものがたり』 春秋社



nice!(1)  コメント(0) 

BS-TBS番組情報 №287 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年8月後半のおすすめ番組

      BS-TBSマーケティングPR部

関口宏の一番新しい中世史

286関口宏の一番新しい中世史.png
毎週土曜ひる12:00~12:54

☆現代社会に通じる“日本文化の基礎”が形成された<中世史>を覗きに行こう。

関口宏
加来耕三・・・歴史家・作家
大宅映子・・・評論家・公財)大宅壮一文庫理事長

▽8月19日(水)
#71「信長最大の危機 !信長&家康 vs 朝倉&浅井」

天下布武を目指す織田信長に対して、近江国の浅井氏と越前国の朝倉氏が反発。姉川の戦いで信長は両氏に勝利するも対立は続く。さらに阿波国から三好三人衆が摂津国に侵攻。信長は敵対勢力に徐々に囲まれていく…。

木曜ドラマ23「怪談新耳袋 暗黒」 

286怪談新耳袋「人形村」.png
毎週木曜よる11:00~11:30

☆数々のジャパニーズホラー作品に多大な影響を与えた「新耳袋」。
  その映像作品が今夏、10年ぶりに帰ってきた! 

原作:「新耳袋 現代百物語」木原浩勝・中山市朗(角川文庫)
脚本:加藤淳也 佐藤周
監督:鈴木浩介 佐藤周 川松尚良
プロデュース:丹羽多聞アンドリウ(BS-TBS)、山口幸彦(キングレコード)、後藤剛(シャイカー)
製作:怪談新耳袋 暗黒 製作委員会

ジャパニーズホラーのテレビドラマシリーズとして映像や心理的な恐怖に加えて、理屈の通じない恐怖、視聴者の想像に委ねる演出が高い支持を集めてきた「怪談新耳袋」。
今回は、”闇“をテーマにした新作8本を製作。
1話10分で構成される4話完結の連続ドラマと10分のオムニバスホラー(短編集)4本を放送。
また、これまでに放送した作品の中から、選りすぐりの傑作選も放送!

▽8月17日(木)「カズオ」
監督:川松尚良
脚本:加藤淳也
出演:本田剛文(BOYS AND MEN)、藤 夏子、白鳥 廉

闇金に手を出して、特殊詐欺の受け子になってしまった藤原健吾(本田剛文)。銀行の通帳とカードをだまし取るため、高齢女性の富永フサエ(藤 夏子)の家を訪問する。だが、一人暮らしだと聞かされていたフサエは、ひとりの少年・カズオ(白鳥 廉)と暮らしていた。
無表情で不気味な雰囲気を漂わせているカズオから、犯罪の証拠となるスマホを奪われてしまう藤原。必死で取り返そうとするが、そこで彼は、決して見てはならないカズオの正体を見てしまうのだった……。

▽8月24日(木)「人形村」第一話 /8月31日(木) 「人形村」第二話
監督・脚本:佐藤周
出演:吉澤要人(原因は自分にある。)、武藤潤(原因は自分にある。)、塩﨑太智(M!LK)、大倉空人(原因は自分にある。)、曽野舜太(M!LK)、金子早苗

動画配信グループ・アンリミッターズの5人は、人気低迷を打破すべくネットの都市伝説で有名な“人形村”を突撃取材することに。
“一度入ったら出られない”と言われている人形村…その幻の山村をアンリミッターズは
やっとの思いで発見。喜び合う彼らの前に、突如不気味な老婆が現れる。取材を試みようとするも老婆は凄まじい叫び声と共に姿を消す。老婆を追って森に入るアンリミッターズだが、そこで彼らは驚愕の光景を目の当たりにする……。

野球 侍ジャパン  高校日本代表 対 大学日本代表

286侍ジャパン.png
8/28(月)よる6:00~8:54

☆プロ野球ドラフト会議の注目選手たちが大集結!

10月26日に行われるドラフト会議のプロ注目選手たちが東京ドームに大集結!
8月31日から台湾で開催される「第31回 WBSC U-18ベースボールワールドカップ」に出場する侍ジャパン高校日本代表の壮行試合として、大学日本代表と対戦。
高校日本代表は、甲子園で日本一を争ったライバルたちが今度はチームメイトとして日の丸を背負い、世界一への力試しに臨む。
対する大学日本代表は大学No.1左腕・細野晴希(東洋大)、全国大学選手権MVP投手・常廣羽也斗(青山学院大)、プロ注目スラッガー・上田希由翔(明治大)らドラフト上位指名候補が勢揃い!

プロ野球の未来を担うスター候補たちの熱い戦いをお届けする!

(※出場選手は予定)


nice!(1)  コメント(0) 

海の見る夢 №59 [雑木林の四季]

             海の見る夢
        ―Summer Song ~Louis Arm Strong~
                                             澁澤京子

 若いころは五月になると海に行き、コパトーンを全身に塗って甲羅干しし、誰よりも早く小麦色の肌を目指したが(昔は日焼けしているのがオシャレ)、灼熱の陽射しの降り注ぐ今日この頃、そんなことする人はもう誰もいなくなった。ココナッツの匂いのするコパトーン(よく、ソニープラザで売ってた)も、街でまったく見かけなくなってから久しい・・昔、夏というのは私にとって最も楽しい季節だったが、温暖化の影響で、今や夏は楽しいどころか、人類にとって脅威となるような「過酷な季節」となったのである。暴風雨や洪水、干ばつ、異常な高温はもはや日常茶飯事。グリーンランド、南極、北極の氷がすごい勢いで溶けているという・・シベリアの永久凍土が溶けるとメタンガスが噴出し、さらに温暖化が加速するらしい。すると循環していた海流がついに止まってしまうというが、ひどい猛暑が何年も続いたあとは、まさか『デイ・アフター・トゥモロー』のように大寒波が襲ってくるんだろうか・・。

私たちは、まさに「ゆでがえるの法則」のゆでがえるになっているような気もするが・・

昔、J.G.バラードのSF『沈んだ世界』が好きだったが、生きているうちに気候変動を経験するとは思わなかった・・愚かな大衆が「まさか」と言って何もしないのを後目に、常にごく少数の賢人は、ちゃんと未来の危険を炭鉱のカナリアのように予測するのである、すでに1972年『成長の限界』で気候変動を警告した、メドウズ率いるMITチームがまさにその少数の賢明なカナリアだろう・・よくSF映画やパニック映画で、主人公(地道な研究者)の忠告を無視したあげくに自滅してゆく(その他大勢の人々)が登場するが、私たちはその愚かな(その他大勢の人々)なんじゃないだろうか。さらに、そうした映画では、危機を忠告して歩く主人公にやたらと反発し、敵対する人物も出てくるが、それに当たるのは、トランプをはじめとする(気候変動否定論者)?映画では、そうした敵対者は、たいてい死にそうなところを主人公によって助けられ、最後には和解するのであるが・・

気候変動により、方向感覚を失ったクジラが群れで座礁したり、各地で熊が暴れるのも(山に餌がないのか?)、不機嫌なイルカが海水浴場に出てくるのも無理はないと思う。猛暑によるミツバチの大量死のニュースもつい最近見た・・人はどれだけミツバチをはじめとする昆虫の媒介による果物や穀物に依存していることか。動植物のほうが環境と密接な関係にあるため、人間よりもはるかに気候変動に敏感だろう。異常気象の影響を人より受けやすい家畜やペットなどの動植物、そして、犠牲になるのは動植物や、たいしてCO2を排出してこなかった貧しい地域の人々だったりするのである・・海温の上昇により、珊瑚は死滅して白化し(海の森林である珊瑚がなくなれば海洋生物に相当な打撃)、昆虫学者E・O・ウィルソンによると、今後50年の間に動植物の四分の一が絶滅の危機になるらしい。花粉媒介者(鳥や昆虫)がいなくなることにより被子植物の絶滅→昆虫がいなくなることによって枯渇する土壌→細菌や菌類の爆発的増加→伝染病の蔓延と食糧危機・・(ウィルソンは、殺虫剤の乱用は有用な虫まで殺してしまうのでやめてほしいと言っている)このままいけば、私たちにはとんでもなく暗い未来しかないではないか~『創造』E・O・ウィルソン (2004年出版) FAOの予測だと2030年には6億7千万人が飢餓にさらされるらしいが、異常気象のダメージが大きければ、もっとすさまじい数字になるんじゃないだろうか・・

異常気象と、連日36~8度の厳しい猛暑しか知らない若い子(グレタさん世代より下か)・・今は夏休みというのに、猛暑のためか真昼の集団住宅の中庭で遊ぶ子はいなく、シンと静まり返っている。・・私たちの利便性追求と経済至上主義、虫一匹いないクリーンで快適な生活のツケを支払わないといけないのは子供たち。

エアコンがなければ、今の温暖化した夏の東京はとても過ごせない。しかもそのエアコンは二酸化炭素の1万4000倍の温室効果を持つフロンを大量に放出するという悪循環・・特に都会では、「地球にやさしく」が、ただの無意味なスローガンになっている今の私たちの生活。断捨離は、ゴミが増えて環境に負担がかかるだけであり(スッキリするのは捨てる本人だけ。ガーナや南米にはファストファッションの古着が山と積り、ガーナの海では生活に必要な魚よりも洋服が釣れるとか。本よりも衣服が安く買える時代だが、いらなくなった古着は発展途上国に押し付けられて、アフリカや南米には巨大な古着のゴミ山がいくつもあるのである・これは人災では?)。さらに、私たちは地球だけじゃなく、古くなった人工衛星などで宇宙にもゴミをまき散らしているのである・・

そうすると、いかに物を捨てないで大切にする生活をするか、水を汚さないように、なるべく洗剤を使わないとか、なるべくゴミを出さない、環境を汚染しない生活をするかを考えたほうが、ずっとエコロジカルだろう。私の通っている修道院では、野菜の切れ端や卵の殻は細かく刻み庭に埋めている。雑巾を使い、おやつも手作り。雑巾の代わりにウェットティッシュを使えば楽だがゴミは増えるばかり・・料理も、お惣菜などを買ってきたほうが自分で作るより楽なのだが、プラスティックの入れ物などのゴミが増えるだけ・・エコロジカルな生活って、かなり手間暇がかかるものなのである。

私が子供の頃は、多摩川の水の汚染がひどくて、問題になっていたが、今はずいぶん改善されてきれいになった。仙川にはカワセミがいるほどで、要するに行政や市民の努力によってそこまで回復できたのだ。だから環境問題も、一人一人が実行するだけでも、ずいぶん違ってくるんじゃないかと思う。福島の放射能汚染水垂れ流しで大失敗したが、水質に関しては日本は優等生だったのである。東京の多摩地区では水道水のフッ素化合物の値が基準値を超えていることが問題になっていたが(現在、水道局が対応中)・・昔、映画「ダーク・ウォーターズ」でPFOSの怖さを知った。テフロン加工の実際の被害を知った一人の弁護士が、デュポン社を相手に起訴を起こした実話を元にした映画。水俣病のようにすぐに兆候が出るわけじゃなく、長い時間をかけて体を蝕んでゆくから怖い。(家畜の牛がまず人より先に犠牲になる)いまだにテフロン加工のデュポン社との裁判は継続中らしい・・

気候変動についてとてもわかりやすかった本が『14歳からの気候変動』と『14歳からの水と環境問題』。気候変動に関しては、学研などからもっと小さい子供向けの本がたくさん出版されているが、今の子供は小学校に入学すると、「気候変動」や脱・炭素の問題、水やエネルギー問題について学習し、「将来何になりたいか」の前に、まず「どうしたらサバイバルできるか」について考えないといけないようだ・・温暖化が人為的に引き起こされたことはすでに明らかになのである。(AIが算出した自然の気候変動と今の気候変動はグラフで見ると大きくくい違う)野生生物の絶滅の原因の多くは人為的なものであることを考えれば、気候変動の原因が人為的であるのは十分に腑に落ちる話。絶滅危惧種の中でも、温暖化の影響を受けているのは哺乳類(12%)鳥類(33%)無脊椎動物(32%)で、圧倒的に鳥類と昆虫の絶滅する割合が大きい。鳥類と昆虫類に影響があれば、植物、穀物にも影響があり、それによって私たちの食生活がもろにダメージを受けるのは前述したとおり。

それにもかかわらず、街路樹の樹木をまるで粗大ごみかなにかのように徹底的に撤去する、ビッグモーター社長のような鈍感な人物もいるが。植物を生物とも思わない鈍感さは、当然人を人とも思わない鈍感さに通じるのだろう(鈍感というより野蛮のほうが適切な表現かも・・)かつての奴隷制度が廃れていったように、ブラック企業も、いずれ近いうちに自滅するんじゃないかと思う。

平均気温が2度上がるのを、些細なことのように思うかもしれないが、些細な違いによって物事は大きく変わってゆくのであり、調和は、本当に微細で複雑なバランスの上に築かれるものなのである。仲間を守るためには動物のほうが人よりも、よほど利他的なのではないかと思う。動物のほうが、環境を含めた全体のバランスというものに対して、人間よりも敏感だからだ。肉体的能力も頭脳も優れていたクロマニヨン人より、知力も体力も劣るネアンデルタール人が生き残ったのは、お互いに寄り添いあって助け合うことをわかっていたからだそうだ。(宗教の起源はネアンデルタール人からはじまる)

ちなみに「14歳から知る~」(太田出版)シリーズは自然科学系の本が多いが、なかなか優れたシリーズで、思わず他の本も注文した。今だにゴアの時代の噂話である「CO2は犯人じゃない」説を信じている頑固な人々より、このシリーズをよく読んでいる中高生のほうが確実に賢いに違いない。そうした中高生の中から、環境問題に本気で取り組む優れた技術者や科学者、哲学者などが登場することを祈るばかり。

それにしても連日38度の酷暑が普通の夏になるとは!(今年の夏は、教会の中で、電車の中で、突然、倒れる人を二度も見た)・・陽射しが強く、青空には、妙に立体的にくっきりとした積乱雲が浮かんでいる。昔の東京の住宅街には、まだ街路樹や、庭の樹木というものが生い茂っていたのでところどころに木陰があったが、マンションが多く、木陰というもののほとんどなくなった夏の午後の東京の住宅街は、まるで灼熱の砂漠を歩いているかのように暑い・・国連の報告によると2050年までに、1億4300万人の気候難民が出て、人口の68%は都市に集中して流入、そのため都市は治安が悪化し、スラム化するらしい・・

サッチモの「サマー・ソング」のような美しい夏は、もう二度と戻らないのだろうか?

※これを書き終わったとき、マウイ島、ラハイナの山火事のニュースを知った。連日、異常乾燥が続いたうえに、さらに強風が火事を大きくしたという。専門家は異常気象が原因と指摘しているらしい。多くの犠牲者のご冥福をお祈りします。



nice!(1)  コメント(0) 

住宅団地 記憶と再生 №19 [雑木林の四季]

12.ブリッツの大団地(馬蹄形団地)GroBsiedlung Britz(Hufeisensiedlung)(Britz.Fritz.Reuter-Allee,Husung,Onkel-Braisig-Str.u.a.12359Berlin)
 
      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

住人3名にインタビュー 1

 わたしは何としても、現にこの団地に住んでいる人たちの生の話を聞きたかった。事前に団地案内所に依頼して紹介された3人に案内人といっしょに2019年9月4日、この日はベルリンに住む娘に通訳をたのんで、それぞれ自宅で会うことができた。以下は、3人の話と同行した案内人コルヴインさんの補足(☆印)のほぼ全容である(3人目には同行しなかった)。

1.ヘルガ・シェーネフェルトさん(女性、91歳、一人暮らし、馬蹄形住棟)
 両親が馬蹄形住居に1926年に越してきて、1928年に生まれてからずっとここで暮らしている。他の住居で暮らしたことがないので、どこがいいかと訊かれても分からないが、ずっと「ここがわが家」という実感があって、他所へ引っ越したいと思ったことがない。
 子どもが多い場所だという印象はなく、むしろ遊び相手を探すのが大変だった。ただ、隣りに昔6人子どものいる家族が住んでいたことは覚えている。父親が労働組合運動か何かで逮捕されていた間は、母親が一人で6人の面倒をみるのが大変そうだったが、わたしは遊び相手がいて楽しかった。
 低地ドイツ語の難しい名前の通りなどもあったが、植わっている木が通りによって決まっているので、子どもの頃は勝手に「白樺通り」などと呼んでいた。
 父親は学校教師で、結婚していないとこの住宅に入れず、女性は結婚すると仕事をやめた時代なので、一人の給料では家賃は高かった。労働者住宅というが、実際に入ったのは会社員、公務員などで、工場労働者は少なかったと思う。
 入居した頃はフリッツロイター通りに薬屋、パン屋、牛乳屋、花屋、裁縫店など小売店がたくさんあったが、みんな車で遠くに買い物に行くようになってから店がどんどん姿を消して、買い物が不便になった。
 ここは台所と居間が南向きで庭に面していて明るく、北側の道路側の部屋は寝室に使っている。昔はそれがよかったが最近、夏が暑くなったので、居間が北側にあって涼しい、馬蹄形の真向かいの住宅がうらやましく思うこともある。
 庭へは地階からしか出られない。歩行器を使わないと歩けないので、もう2年も庭には出ていない。住居は1階なので不自由はない。

☆タウトは、収入にかかわらずすべての人が平等に光と空気と空間を受けることをめざしていたので、テラスになった庭を1階、2階、3階の人がすべて使えるように設計した。庭へは1階から直接出ることはできず、地階からだれでも出られるようになっているのもそのため。しかし実際に借家がはじまると、1階の人だけが庭を使えるかわりに割り増し家賃を払うことになった。

☆自治会はないが、市民のグループはいくつかある。われわれの「馬蹄形用地後援会」Freund und F6rderer der Hufeisensiedlungは、外部の人にここを知ってもらうための情報カフェを金曜と土曜に開き、ニュースレターをつくり、学校をまわって話をし、文化財保護団体賞をもらったこともある。はかに「右翼とたたかう蹄鉄」Hufeisen gegen Rechtsというグループもあって、右翼デモに反対したり、ユダヤ人追悼の「つまずきの石」を守る運動をしている。

☆馬蹄形内の住居はすべて賃貸住宅で、ドイチェ・ヴオーネン杜の所有になっている。家賃は上がっているが、いまだいたい9.50ユーロ/l㎡。
 この住居の広さは65㎡だから、日本円で約75,000円。空き家はゼロ、待機者がいる。

☆馬の蹄鉄は幸福のしるし、馬蹄形の入口は太陽が昇る東に位置する。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



nice!(1)  コメント(0) 

地球千鳥足Ⅱ №29 [雑木林の四季]

アマゾン滔々、日本人の血脈々と流れる国
  ~ブラジル連邦共和国~

     小川地球村塾塾長  小川彩子

 2011年の旅の最終地はブラジル、かつて地球の一角で会った人々とここでの再会を約束していた。私は約束にこだわる人間、気楽な口約束でも必ずメモする。遂にその時が来た。「ブラジルで会いましょう!」と交わした約束を果たせる日が。
 1組目の義理の弟。5人兄姉弟のうち1人だけ、野望に溢れ54年前に23歳で国を出たブラジル移民だ。当初は多様な職種に挑戦したが、後に日本の企業、パイロットに勤め、娘は日本の医科大学に留学させた。2人の孫は難関サンパウロ大学の学生だ。日本人会の役員を続け、今は悠々たる暮らしである。移民一世の苦労話はなく、「来てくれて嬉しい!」と。その娘さんいわく、「日本人はほぼ成功し、良い暮らしをしています。他の人々が『日本人は頭がいいのだ!』と言いますが、頭がいいというより日本人は必死の努力をするのです!」
 2粗目、ネルソンさんとの出会いは格別だ。ドミニカ共和国のプンタカーナに向かう飛行機で隣り合わせただけのご縁、彼はブラジル移民の二世、IEEE(米国電気電子学会)の世界大会にラテンアメリカ南部代表で臨むところだった。「きっとブラジルへ行きますー・」と伝えてから2年近く時が流れていた。が、Eメールに即返事が来て「再会嬉しいー」とサンパウロ市内、日本庭園もあるイビラプエラ公園、109年前日本人移民が笠戸丸で上陸したサントス市内、移民一世の父君が住んでいた家、さらにはサンパウロを見下ろす高級マンションの豪華な自宅も案内して頂き、そこから煌めくサンパウロの夜景を見下ろした。夫人の頼子さん共々秀才プラス努力組だろう。サンパウロ大学で出会い結婚、息子たちは留学体験ありのグローバル一家だ。移民二世のネルソンさんからも苦労話はなかった。
 ブラジルは移民の国、世界80か国以上から移民が来た。日本人は当初奴隷代わりに来たそうだが、その信用は次第に高まっていったという。不慣れな土地で日本移民たちが苦心して創った住居、農機具、生活器具は驚異的だ。余談だが日本人がサンパウロで与えられたリベルダージという地区は奴隷の売買が行われていた土地。だが今は東洋人街として発展、日本語新聞社、和菓子屋、仏壇屋、並ぶ居酒屋、そして赤い大鳥居……、一体ここは何処?と不思議な気分に陥る。本国では日本文化を捨てて平気な人種が増えている一方、ブラジル移民の子孫たちは日本文化への愛を土台に街作りをしたのであろうと感無量だった。
 アマゾン真っただ中の街、マナウスは長閑な街、サンパウロのように危険ではない。ここにも多く日本人移民が入植した。日系企業もあり、貿易港として、アマゾン観光の基地として賑わっている。この地でのハイライトは2河川合流点の見学と交響曲だ。コロンビアから発する黒色のリオネグロとアンデスの雪解け水を集めて来た茶色のソリモインス川が合流し、ここからアマゾン河となるのだが、2色の水は混ざり合わない。理由は2河川の流速と比重が異なるためだとか。私たちのボートの操縦士は川の交点辺りをぐるぐる回ってくれたが、黒色と茶色の水はミックスせず鋸の歯のようにぎざぎざだった。雄大かつ珍奇な水の芸術は必見だ。地元交響楽団もしかり。かつて天然ゴム景気で栄えたこのマナウス市が、あり余る資金で造った豪華なオペラハウス、アマゾナス劇場での迫力ある演奏。その楽団の名はアマゾナス・フィルハーモニカ。秀逸だ。
                     (旅の期間一2011年 彩子)

『地球千鳥足』 幻冬舎



nice!(1)  コメント(0) 

山猫軒ものがたり №22 [雑木林の四季]

囲炉裏とかまど 2

        南 千代

 新年早々、山猫軒に新しい犬がやってきた。放し飼いにする鶏をキッネやタヌキから守るために、牧羊犬としての血が流れているコリーを捜していたのだ。為朝も華も、小さい時から教えたので、山猫軒の鶏には手を出さなかったが、ポインターの血を引いているため、積極的に守るところまではいかなかった。
 コリーは、専門の繁殖家の所からもらった。血統がとても良い犬だとか。しかし、生後六カ月を過ぎても、耳が少し深く折れたままだという。コリーの場合、上三分の一からの折れ方でないと、展覧会では軽微欠点に入る。このため、繁殖家はコンテストに出すことをあきらめ手放すことにしたらしい。犬が大好きそうな繁殖家は惜しそうに言った。
「ほんとにいい犬なんで、手放さずにとっておいたんですがねえ」
 コリーは、基礎訓練を受けており、引き綱をつけると猫のようにおとなしくなって、人間の左横にピタリと並ぶ。一緒に歩いても、決して人より前に出ない。為朝と華には、躾をすることもせず、山を勝手に走り回らせて野放図に育ててしまったので、私はすっかり感心してしまった。
 引き取られてきて、山猫軒の土間にちょこんと座ったコリーは、生後六カ月とはいえ、体重はすでに三十キロ近い。名前は、ガルシィアと付けられていたが、これは通称で本名はダーリン・オブ・フローレンスリバー。長ったらしい本名はもとより、ガルシィアと呼ぶのもどうも山猫軒にはそぐわない。
 人のあとをチョロチョロと、どこに行くにもついてくるのでチョロ松、あるいは龍ケ谷からとって龍太、と呼んでみたが、キョトンとしていて反応しない。それに、コリー犬なのでチョロ松というのも何だかしっくりこずに、やはりガルシィアと呼ぶことになった。
 父犬、母犬共に五代前までさかのぼった血誓がついており、先祖三十匹の犬のほとんどいジャパンコリークラブのグランドチャンピオンやアメリカケンネルクラブのチャンピオンなどの肩書きがついている。人間の方が、気おくれしそうな家系、いや大系だ。飼主の私なんか、祖父母の名前までぐらいしか知らないというのに。
 しかし、当のガルシィアは、今日も、猫のウラに長い鼻の頭をひっかかれそうになって逃げ回っている。山に慣れていないため、浅い流れも渡れないお坊っちゃんであるが、性格は従順でやさしく、為朝や華ともうまく暮らしているようだ。鶏小屋に同居させて、鶏に慣らそうとしたが、その必要はなかった。
 目の前をヒヨコが歩いていても決して手を出さず、珍しいのかヒヨコの後を一日中ついてって遊んでいる。

 節分の日。地元の熊野神社から、いり豆が紙包みで届いた。二月になると、ようやく太陽がわずかな晴間劇をのぞかせるようになり、私たちは穴から出てきたモグラのように、まぶしさを感じながら、番が近づいているのを知った。
 裏の土手には、黄色い福寿草が小さな花をつけ、陽射しも、今日は庭の桃の木まで、今日は縁側までと、その手を伸ばしてくる。長い冬が終わろうとしている。夫の言った通りだ。後は日一日と暖かくなるのが楽しみだ。夜の間にバリバリに氷が張る台所からも、冷蔵庫に入れておかないと凍ってしまう牛乳からも、もうすぐ解放される。
 去年の七月に新しく仕入れておいたヒナも新たに卵を産み始めた。桜色のかわいい玉子だ。地元の人も、新しく越して来た私たちの様子を見ようと、やって来た。長年、よそから人が移り住むことなどなかった地である。珍しいのだ。
 「ちょっと、鶏を見せてくんな」
 と言ってのぞいていく。
 越して来る前に、養鶏は周囲に悪臭を放つからと、私たちが来ることに反対していたらしい一部の人も、越して来る前に説明した通り、企業養鶏と違って全く臭いがしないとわかると、感心しつつお茶を飲んで、手土産にと差し出した玉子を手に帰って行った。土地の人は皆、律儀なので、玉子を手渡すと金を払おうとする。
 金をもらうつもりはもちろんないので、「何かあまった野菜でもあったら分けてください」と言って渡していたら、ほんとに次に来てくれる時には、野菜や手づくりの漬物を片手にお茶を飲みに来てくれた。
 自然に生まれた物々交換である。金にすればその金で野菜を買えばよいのだから、同じように思えるが、マーケットで買う場合、直接の物々交換によって生まれるような会話はない。どうやって作ったとか、どう料理して食べるとうまいという話に加えて、地元のさまざまな話や情報を、玉子を介してごく自然に私たちは知ることができた。
 こちらも、なぜ龍ケ谷に来たのか、どういう仕事をしているのか、これからここで養鶏を中心に畑や田をやりたいことなど、私たちのことを知ってもらうことができた。玉子を間に置くと、地元づきあいがスムーズに運ぶ。
 私たちはうれしくて、これをひそかに「丸い玉子外交の輪」と名づけ、項きもののお返しや、集落の人々との会話の糸口にしたり、さまざまな人と知り合うために役立てた。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



nice!(1)  コメント(0) 

BS-TBS番組情報 №286 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年8月のおすすめ番組(上)

       BS-TBSマーケテイングPR部

美しい日本に出会う旅

285美しい日本に出会う旅.jpg
毎週水曜よる9:00~9:54

☆ボクたちと一緒に、出かけましょう。

旅の案内人・語り:井上芳雄、瀬戸康史、松下洸平

井上芳雄、瀬戸康史、松下洸平。3人の気ままな旅人が、あなたを美しい日本にいざないます。
花咲く春。青葉が繁る夏。紅葉に色づく秋。雪景色の冬。移ろう季節とともに表情を変えるふるさとの海や山。一度は見たい絶景と美食を堪能しましょう。
どこか懐かしい町並やかわいい手仕事。日本が誇る世界遺産に国宝の数々。大興奮の祭りに、温泉めぐり。美しくて美味しい日本を楽しくご案内します。
お気に入りのおやつとお茶を用意したら…ボクたちと一緒に、出かけましょう。

▽8月2日(水)
#401「夏の山形ひんやり旅 憧れ!竜王の将棋旅館と満開の紅花」
語り:井上芳雄
井上芳雄さんが案内する山形の旅。東北屈指の縁結びスポット・熊野大社では願掛け風鈴の音が響きます。暑い山形の冷やし文化を大調査。ちょっと変わった冷やしラーメン、冷やしシャンプー、すだまり氷とは?将棋の街・天童では駒作りを見学。凄腕職人の神業とは?お宿はタイトル戦の会場となった「滝の湯」。名勝負に思いをはせながら一風呂。最上川の川下り、スイカ入りの「だし」、花笠音頭など暑い山形の熱い文化をお届け!

木曜ドラマ23「怪談新耳袋 暗黒」 

285怪談新耳袋 鳩のでる部屋.jpg
毎週木曜よる11:00~11:30

☆数々のジャパニーズホラー作品に多大な影響を与えた「新耳袋」。
その映像作品が今夏、10年ぶりに帰ってきた! 

原作:「新耳袋 現代百物語」木原浩勝・中山市朗(角川文庫)
脚本:加藤淳也 佐藤周
監督:鈴木浩介 佐藤周 川松尚良
プロデュース:丹羽多聞アンドリウ(BS-TBS)、山口幸彦(キングレコード)、後藤剛(シャイカー)
製作:怪談新耳袋 暗黒 製作委員会

ジャパニーズホラーのテレビドラマシリーズとして映像や心理的な恐怖に加えて、理屈の通じない恐怖、視聴者の想像に委ねる演出が高い支持を集めてきた「怪談新耳袋」。
今回は、”闇“をテーマにした新作8本を製作。
1話10分で構成される4話完結の連続ドラマと10分のオムニバスホラー(短編集)4本を放送。
また、これまでに放送した作品の中から、選りすぐりの傑作選も放送!

▽8月3日(木) 「ハトの出る部屋」

監督:川松尚良
脚本:加藤淳也
出演:今井柊斗、前川 佑、倉田萌衣

大学生の望月俊平(今井柊斗)は、帰省する友人・郷田渉(前川 佑)に
部屋の留守番を頼まれる。
なんでも友人の部屋には、早朝ハトがやってきて、
枕もとで「クック……」と鳴くらしい。
そのハトの面倒を見てほしいというのだ。
留守番を引き受けた望月が眠っていると、
早朝、確かに「クック……」という鳴き声が聞こえてきた。
だが、これは本当にハトの鳴き声なのか? 
まるで人の笑い声のようにも聞こえないか?
それに気づいた途端、望月は身の毛もよだつような恐ろしい体験をするのだった…

▽8月10日(木) 「乗客」

監督:鈴木浩介
脚本:加藤淳也
出演:染谷俊之、下尾みう(AKB48)

タクシー運転手の由良翔平(染谷俊之)は、
夜の道でひとりの若い女性客(下尾みう)を乗せる。
どこか不穏な空気をまとった女性客に不信を抱きながらも、
由良は自分がタクシーの運転手になった経緯を語って聞かせる。
やがて異変に気がついた。このまま女性客の指示通りに車を走らせても、
その先には山しかない。そしてその山は自殺の名所として知られる場所だった。
もしかしたら、この女性客は自殺志願者ではないか……?
警戒する由良だったが、たどり着いた目的地では、さらに驚愕の事実が待ち受けていた!

ヒロシのぼっちキャンプ Season7

285ヒロシのぼっちキャンプ.jpg
毎週水曜よる10:00~10:54

☆ヒロシが自分のためだけにするひとりぼっちのキャンプ。ほんとうの自由がここにある。

YouTubeでキャンプ動画が大人気となっている芸人ヒロシが、愛車を駆って各地のキャンプ場へ。誰にも遠慮することなく、自然のなかで思う存分心と体を解き放つ。どこまでも自由な“ぼっちキャンプ”の魅力を紹介する。

▽8月2日(水)
#147・148「ユーカリの樹の下で(前編)」

晴れ渡ったオーストラリアの空の下、ひとりぼっちの時間を楽しむヒロシ。肉をじっくりと炙る焚き火の炎のゆらめきを見つめるうちに、自分が放浪の旅人になったような雰囲気に飲み込まれてゆく…。


nice!(1)  コメント(0) 
前の20件 | 次の20件 雑木林の四季 ブログトップ