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山猫軒ものがたり №31 [雑木林の四季]

米だ!米だ! 1

         南 千代

 パーン、パパーン。朝一番。花火の音が聞こえた。今日は、地区対抗の町の運動会。出場者と出場種目はあらかじめ決められており、回覧板で回ってくる。龍ケ谷は若い人が少なく、三十歳を過ぎてしまった私たちでさえ、若者の部類であったから、二種、三種と競技に出ることになっていた。
 運動会なんて、高校時代以来のことである。場所は、町の中学校だ。私はドキドキしながムバイクを走らせた。夫は、自称、カメラ粧。ここに来てからは、地元の行事や歳時を機会あることに撮っている。中学校に着くと、龍ケ谷のテントを捜した。区長や各組長、スポーツクラブの役の人たちが、お茶入れなどみんなの世話をしている。

 地元には、運動会もそうだが、さまざまな集まりや行事、共同作業などがある。元旦には、朝十時に集合して熊野神社に詣で、元旦祭。年に二回の小祭、一回の大祭もある。夏のスポーツクラブのカラオケ大会やバーベキユー大会。農事の行事、お日待ちの宿。
 共同作業では、夏場ひんばんに行う道普請、女の人だけが定期的に受け持つ集会場の掃除。加えて葬儀から法事などまで、組内の冠婚葬祭のおつきあい。集会場を建直すための解体といった作業や道路沿いの桜の木の手入れ、などなど。
 地区ごとの役職や農事の役も分担で行う。区長、組長、班長。祭りの役である大当番、小集め。体育委員や衛生係、道路係。農協との間を取り持つ支部庁、班長など。役を受け持つのは、龍ケ谷全五十数戸に対し四十人ほど。私たちも、来て一年目から衛生係になっていた。
 大祭、小蒔釣りくつ察などは日曜、平目に関係なく星間に行われる。参加する一家の主は、ほとんど高齢者で勤め人などの祭。また、お年寄りの一人暮らしのケースはあっても、核家族という構成はない。家には、基本的にはいつも誰かがいるのがムラなのであった。
 このような状況で、個人的つきあいはともかく、地元づきあいも同等に担っていくには、私たちのような者にはかなり無理がある。私たちは、ここが実家ではない。たとえば、ムラでは、元旦は実家に帰ってくる家族を迎える立場だが、私たちは他県の実家に帰る立場なのだ。冠婚葬祭にしても同じ。
 しかし、当初三年間は、私たちは本業の仕事を断ってでも地元のつきあいには参加しょうと思っていた。夫も私も自由業だからできたことで、会社勤めの共稼ぎだったらとても無理だったろう。地元づきあいを大変だと思うか、興味を持って参加しようと思うかはそれぞれの価値観だが、私たちは後者だった。
 自分たちが腰を据えて住もうとする土地の、歴史、風習、暮らしを知ることは、おもしろい。また、そうして長年ムラの景観や慣習が保たれてきたからこそ、私たちもいい所だと喜んで住むことができたのかもしれない。それを思えば、共同作業などをきちんと務めることは、移り住んで来た者の礼儀だという気がした。
 冠婚葬祭のつきあいなどは、私たちのような者が今後増えてくれば、自然に改善されてくるだろう。長い時間はかかると思うけれど。
 農協へは加入する意味も必要も感じしかなかったが、集落の全員が加入しているので、つきあいの意味でも入ったほうがよいだろうと紹介者からすすめられた。加入する前に念のため、と町の農協に出かけて行き、組合長に会った。大まかに自分たちの状況を伝えた上で聞いた。
「農協に加入すると、何か良いことがあるのでしょうか」
 組合長は、やや考えて、シンプルに答えた。
「別に、そのようなことは何もありません」
 私たちは、ガッカリして一万円払って組合員になった。

 つな引き、リレー、とプログラムは次第に進んでいく。近所のおばあちゃんたちがすすめてくれるきんぴらや漬物を楽しみながら、私が出たのは玉入れと、みんなでジャンプという集団ジャンボ縄飛び、夫は、ムカデ競走だった。
 夫は、カメラの仕事のときはワークブーツ、畑作業のときは長靴か地下足袋しか履かない。今朝になって、スポーツシューズを持っていないことに気づいた夫の足元は、地下足袋である。トレーナーなども嫌いだと言って、持っていない。
 作業ズボンに地下足袋姿、丸坊主にアゴ髭スタイルの夫は、いやが上にもムラでは目立つ運動会ファッションだった。
 運動会の龍ケ谷の成績は、どリから二番目。それでも終わると、集会場で酒の慰労会がある。夫は、酒があまり強くないので・みんなの写真を撮ったりする。カラオケ大会の席などでも、カラオケが大嫌いなので、照明係を引き受け、難を逃れていた。

 芋、小豆、大根。畑の収穫期である。里芋が穫れる季節になると、毎年二度は行うのが、芋鍋大会だ。東北地方では、芋煮会と呼ぶ。
 畑のゴボウ、ニンジン、ネギなどの野菜もたっぷり使い、味噌仕立ての鍋をみんなで愉しむ。今年はコンニャクも手づくりなのがうれしい。三軒隣のおシゲさんからもらったものだ。
 山猫軒前の河原に石で即席のかまどを作り、鍋をかける。芋煮会に集まったのは、越生町にできた新しい友だちが中心だ。写真館の山口さんをはじめ、岩間さん家族。木工家の真田さん家族や、鍛金と陶芸の草地さん夫婦、革細工の佐藤さん家族、など。越生にはモノ作りの作家たちも少なくない。皆、私たちと同じ年代だ。
 山口さんを除けば、地元出身の人は少なく、ほとんどが、よそから移り住んだ人々だ。私たちのように山暮らしをしている人はおらず、皆、町の周囲に住んでいる。それぞれの理由からこの町にきた経緯を持っているが、住みついた理由には共通する点があった。
 必要なときには、都心に気軽に出かけられる距離。それでいて、創作活動のための工房や住居が、そう高くない値段で確保できる点。
 ムラの人、町の人。若い人からお年寄りまで。この町では多くの友だちや仲間たちができそうである。

『山猫軒ものがたり』 春秋社


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台湾・高雄の緑陰で №38 [雑木林の四季]

      2024年の台湾総統と立法委員選挙について

        在台湾・コラムニスト  何 聡明

 台湾の前途を決める2024年1月13日の総統及び立法委員(国会議員)選挙は1ヶ月後に迫った。
親中国の両野党、中国国民党と民衆党の総統候補は今年の11月中旬まで結束して民主進歩党(=民進党)を与党より追い落とす協議を重ねたが、11月24日に野党二党の結束協議が決裂して、與野三党の巴合戦が最終的に決まったのである。4人目の無党派候補者であった鴻海集團(フォクスコン)の創始者で中国に多額の投資をしている郭台銘氏は中国政府に退陣を迫られて候補を断念した。
 野党二党の協議決裂は民衆党の党首柯文哲氏(医師、元台北市長)が自分を総統候補に、中国国民党の総統侯有宜氏を副総統候補に据える事を堅持したからである。そもそも民衆党は柯氏が台北市長在任中の4年前に創立した若輩の政党であり、中国大陸で創立以来112年目を迎えた中国国民党の総統候補を柯氏が副総統にすえると堅持したことを中国国民党が強烈に反対したのは当然であろう。
 機会主義者または投機主義者といわれている柯氏はアスぺルガー症候群者でもある。医学博士司馬理英氏はアスペルガー症候群者の特性の一つは:「相手の立場に立って考えるのが苦手、自分にされて嫌なことなのに、相手にしてしまう、相手を思って言ったつもりが、相手を傷つけることもある」と述べる。柯氏は若輩小政党の党首でありながら、大先輩政党の総統候補を次席に置こうと堅持したので在野二党連盟の協議が失敗に終わったのである。
三党鼎立が決まると、台湾本土派の与党民進党の現職副総統で総統候補でもある頼清徳氏は元駐米代表(大使相等)の蕭美琴女史を副総統候補に指名;中国共産党政府との和解を望む国民党総統候補、侯有宜氏は親中国で極右派の外省人(戦後台湾に住み着いた中国人)趙少康氏を副総統に指名;中国寄りの民衆党総統候補、柯文哲氏は同党の立法委員呉欣盈女史を副総統に指名した。これで三党対決の顔ぶれが揃ったのである。
 今回の選挙戦で私が特に気ずいたのは、台湾本土派陣営に外省人が増えたことである。これは10年前なら考えられないことである。今回の主要三政党の総統候補は3人とも台湾人であることも始めてである。民進党と民衆党の副総統候補は台湾人だが国民党の趙氏は外省人で長らく台湾人を軽蔑し、台湾は最終的に中国の一部であると信じている胡散臭い人物である。彼は副総統候補でありながら、選挙戦術や中国国民党の主張等では総統候補の侯氏を後輩のように扱っているのが見え見えであるので、一部台湾人党員の不満をかっている。
 総統選挙の見通しだが、中国国民党の侯候補は今回の選挙は「中国と戦争か、平和かを決める選挙だ」と主張;民衆党の柯候補は「今回の選挙で当選は難しいが、次回の総統選挙で勝つ基礎を造りたい」と述べている。民進党の頼候補は「中国との戦争は全く考えていないが、台湾の主権を守る力をつける努力をする」と決意をしめした。総統選挙の結果、軍配は頼氏にあがる可能性が高いと思われているが、油断大敵であるので、着実に選挙戦を進めるべきだろう。
 民進党が来年も与党として居残れば、立法院での総席次113席半数の57席以上を獲得して、与党の政策に基ずいた立法を続けなければならないので、是非議席の半数以上を獲得する必要がある。與野党共に立法委員の選挙は絶対譲れないとして、その選挙戦も日増しに熱気をおびているが、与党は苦戦を強いられているようだ。
 来年以降の台湾の前途を決める選挙の投票日はもう間近だ。さて、どのような結果になるだろうか?私は一生台湾のどの政党にも所属していないが、常に我が祖国は台湾であると認めており、本土政党が長らく与党に留まることを願い、これから8年以内に台湾が建国できることを願っている。


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BS-TBS番組情報 №295 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年12月後半のおすすめ番組

        BS-TBSマーケティングPR部

JUJU Xmas box - 20 YEARS STORY

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12月24日(日)よる9:00~10:54
☆JUJUの20年の歩みを、独占インタビューとライブパフォーマンスの映像と共に振り返る。

JUJUの珠玉のパフォーマンスを集めた、特別番組を放送します。自身の音楽人生に大きな影響を与えたジャズとの出会いから、現在に至るまで、これまでJUJUが歩んできた20年の歩みを、独占インタビューとライブパフォーマンスの映像と共に振り返ります。今年のクリスマスイブは、JUJUからの歌声のプレゼントをどうぞご堪能ください。

ペットドクター花咲万太郎の事件カルテ2~お隣さんは殺人犯!?~

294ペットドクター花咲万太郎の事件カルテ2.jpg

12月29日(金)よる7:00~8:54
☆坂本昌行主演の新作2時間ミステリードラマ 第2弾!
動物を心から愛するマイペースで個性的な獣医師・花咲万太郎が事件を解決に導く!

◆キャスト
坂本昌行、矢田亜希子、中山優馬、秋元才加、小宮璃央、近藤公園、朝井瞳子、羽瀬川なぎ
佐野岳、横山由依、赤ペン瀧川、大野泰広、津田恭佑、山口良一、関武、さくら 他

犬の散歩を兼ねた町内の防犯パトロールの途中、玄関のドアが開いている家を見つけた万太郎たち。呼びかけても応答が無く、中に入ってみると…そこには瀕死の柴犬が倒れており、さらに奥へ進むと、背中から血を流した男性が死んでいた。
男の名前は青柳秀夫、株などの資産運用で生計を立てている人物だった。蓑田玲子と嵐山健吾が事件を担当するが、嵐山は第一発見者である万太郎を疑う。

捜査が進む中で、事件発生時に現場付近に新進気鋭のメディア社会学者・唐沢智之がいたことが判明する。さらに智之の妻・菜摘も何かを隠しているようで…?

そんな中、第二の殺人事件が起こる…!

「吉田類の年またぎ酒場放浪記 
      ~酒は愛!飲んで、食べて、冬の東北めぐり~」

294吉田類の酒場放浪記 みちのくSP.jpg

12月31日(日)よる9:00~翌深夜1:00
☆「酒は愛」をテーマに、吉田類が東北の魅力をたっぷりとお届する、みちのく380キロの旅!

舞台は、東北エリア。
被災した福島から岩手の海岸沿いを北上し、被災地の町の老舗酒場や酒蔵を飲みめぐります。旅のスタートは、福島県いわき市から!いわき名物「めひかりのから揚げ」を地酒で堪能します。
浪江では元教師のご主人が営む酒場を訪問。大きな被害を受けた気仙沼では、とれたての海の幸を無添加手作りで出してくれる酒場で一献。釜石では、被災後、移転して営業を再開した、創業60年以上の歴史を持つ老舗居酒屋と小料理屋をはしごしちゃいます!宮古の酒場では、三陸の新鮮な磯料理を堪能!「食べて応援!飲んで応援!」をテーマに、吉田類さんが東北エリアの魅力をたっぷりとおとどけします!
 
今年の年またぎ酒場は進行役に日比麻音子アナが登場!類さんと一年を振り返ると共に、視聴者から募集した「もう一度見たい放送回」を紹介。さらに「年またぎ酒場放浪記」の放送に先駆け、よる7時からは、20周年特番として9月に放送された「祝20周年初海外SP 台湾グルメで乾杯!」の未公開シーンを追加したスペシャル再編集版も放送!
大晦日は計6時間の酒場放浪記づくしで年を越そう!


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海の見る夢 №67 [雑木林の四季]

       海の見る夢
           ―イカロスの失墜―
                     澁澤京子

 ・・さて、ヘロデは占星術学者たちに騙されたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を一人残らず殺させた。 マタイ2・16~(ユダヤ人の王が生まれるというお告げを聞いたヘロデは国中の幼子を殺した。幼子イエスとその母マリアはヨセフと共にエジプトに逃れていたので助かった)

もうすぐクリスマスなのに気持ちが沈むのは、やはりパレスチナのことがあるからだ。古代に、疑心暗鬼となったヘロデ王が起こした虐殺より、比較にならないほどひどい虐殺が同じ場所で行われているとは・・空爆が再開され、たった一日で700人以上のパレスチナ人が亡くなった。おそらくその半数は子供だろう・・イスラエル政府は、パレスチナ側が赤ん坊の人形を使って騙している、フェイクだと、公表したらしいが、それがイスラエル政府のウソに過ぎないのは、たとえばツイッターでGAZAあるいは「UNRWA」「国境なき医師団」で検索して流れる実際の映像を見れば一目瞭然。イラク戦争のころから、見え透いたプロパガンダに人があまり騙されなくなったのは、SNSの登場によって現地の映像を私たちも瞬時に見ることができるからである・・

イラク戦争の時は、脳みそを吹き飛ばされた子供を抱いた父親の写真に衝撃を受けたが、(5年間の間、イラク人死亡者は4万人)しかし、今回のパレスチナでは毎日そういう写真が次々と流れてくる。二か月もたたないうちにパレスチナで殺された子供の数はおよそ10000人以上、平均年齢5歳(およそ、になるのはカウントする4人が殺されたから)もはや、イスラエルの言い分とか、パレスチナ問題は複雑とか、右派とか左派のイデオロギーの話ではなく、今の状況はとてもシンプルで、ジェノサイド(特に子供の)を容認できるか、できないかの話だと思う。

日本のメディアはイスラエルメディアを真に受けた偏向した内容のものが多い。数少ない良心的なジャーナリストのひとりはTBSの須賀川記者。

瓦礫に埋もれたまま、まだ行方不明の子供、空爆により手足を失い、身体障害者となった子供の数を合わせればさらに膨大な数になるだろう。他の国の子供たちは、もうすぐやってくるクリスマスを楽しみにしているというのに、両親を失い、さらに自分も片足、片腕を失って血だらけで病院の床に寝かされているパレスチナの子供たち。

フランクルは『夜と霧』の中で「・・最も善良な人々は、みな逝ってしまった」と書いたが、半数の犠牲者が子供の今のパレスチナがまさにそうではないか。イスラエル政府の、どんどん土地を奪いながらパレスチナ人を追放し、追放できないとわかれば封じ込めて虐殺というのも、ナチスのやり方と似ている。相手の評判を落とすためにプロパガンダをばらまくという、卑劣なところも。

アウシュヴィッツも、パレスチナの民族浄化も、突然起こったことではない。長い期間にわたる人種差別、そして隔離があった。それらをごまかすために相手を悪党と決めつけて吹聴するという卑劣な手段も皆、プロパガンダの巧みなナチスのやったことと同じ。そして、それを薄々知りながら、世界は黙っていたことも。(最初、報告を受けたルーズベルトは強制収容所の話を捏造として一蹴した)

なぜホロコーストが起こっているときに、世界は沈黙していたのか今の状況を見ると本当によくわかる。ナチスを恐れていたように、イスラエルに他の国々が気兼ねし、そして周囲に歩調を合わせ、見て見ぬふりか「無関心」であるほうが、人は生きやすいということが。

・・昔の巨匠は「受難」について間違っていなかった
  -中略―
  農夫はイカロスが失墜して悲鳴を上げたのが聞こえたかもしれない
  だが、彼にとってそんなことはどうでもいいのだ・・
                           「美術館」オーデン

ブリューゲルの「失墜するイカロス」を見て書かれたオーデンの詩。私たちは、みんなこの絵に出てくる(無関心な)農夫なのかもしれない,他人の痛みと無関係にのんきな農夫。しかも、今、空から墜ちてくるのは、ブリューゲルの絵のように一人のイカロスではなく、無数の血だらけの小さな子供や赤ん坊たちなのである。

ベツレヘムもエルサレムも聖地どころか、パレスチナ人大虐殺の地となってしまった。イスラエルはパレスチナのみならず自身をも滅ぼしているとしか思えない。

通常は歴史を遡ると中立的な立場になることが多いけど、イスラエル・パレスチナの場合、まず75年にわたる想像以上に過酷なアパルトヘイトがある。それがどんなにひどいものだったのか、書物を読んで知れば知るほど、とても中立な立場はとれなくなる。そして、それを裏付けるかのように、ツイッターで流れてくる衝撃的な映像。イスラエル兵に目隠しをされ、まさに「人間の盾」とされている少年。サッカーをして遊んでいただけで、いきなり銃で撃たれて倒れる少年、狙撃の練習にパレスチナの子供をフェンス越しに撃ち殺すイスラエル兵・・ほとんどが、面白がってパレスチナの子供をいじめている、あるいは面白がって殺しているという吐き気を催すような映像ばかり・・そうした残虐を行う人間にイスラエル兵士が多いのは、よほど抑圧の大きいヒエラルキー社会なのかもしれない。パレスチナでは10月7日以前、いやもっと前からこうしたことは日常茶飯事だったのだ、と衝撃を受ける。そして、多くのパレスチナ人は訴えることもできずに泣き寝入りするしかなかったのだ。ハマスが人質を取ったというが、イスラエルが拘束しているパレスチナ人は1500人。(子供が多い)路上でもこれだけひどい残虐な行為、遊び半分の殺しをするくらいだから、果たしてどんなに恐ろしい拷問があることか・・

パレスチナ人を嘲笑し、差別する過激なシオニストと、韓国に対するヘイトスピーチを平気で行う日本のネット右翼の人々には共通するものがある。ゆがんだ愛国心と他国を見下してプライドを維持する幼稚なメンタリティ、そして厚顔無恥。1948年以来、イスラエル政府がパレスチナ人を虐殺、追放したことを見て見ぬふりし、正当化するために逆に相手にテロリストのレッテルを貼って責めるのは、南京大虐殺や朝鮮人慰安婦問題を否定してし、逆に相手が悪いとしてなじる「美しい日本」のネット右翼のやり方にそっくり。自分の都合の悪いところは見ようともせず、他人の痛みは平気で踏みにじり、悪のレッテルを貼りつけて吹聴するので、差別しているという罪悪感すらないのかもしれない。意図的に密入国者と女性タレントを決めつけ侮辱する区会議員、差別発言して堂々と開き直る自民党議員。両方とも女性とは・・他人を汚い言葉で侮辱することがストレス発散になっている人びと。

アメリカの大学では、親パレスチナのデモをした学生は就職できないようにしたり、仕事を首になったりしているらしいが、言論の自由とは、汚い差別発言は許されて、イスラエル政府批判は許さないものだったとは・・(反シオニズム=反ユダヤ)と、アメリカ議会で決議されたそうだが、実に姑息なやり方をする。イスラエル政府批判=反ユダヤとすることで、今のイスラエル政府に反対するユダヤ人や、他の国のシオニズム批判に対する口封じと脅しだろう。何度も書くが、反シオニズム≠反ユダヤなのである。

かつて、故・安倍総理とネタニヤフ首相が握手しているとき、二人の傲慢そうな笑顔に嫌な予感がしたが、一人は日本をダメにし(今、安部派は裏金問題で化けの皮がはがされているが)、一人はパレスチナを滅ぼそうとしている、そして、道義を踏みにじっても、品位を落としても恥じないほど、自己防衛心の強い拝金主義者であるところも二人は似ている。もちろん、その取り巻き・支持者も同じ穴のムジナで、今、イスラエルや日本、世界中で失われつつあるもの、それは人としての道義心と品性だと思う。

時折流れるツイッターでは、瓦礫に埋もれて動けなくなったロバを賢明に救助しようとしたり、配給された貴重な水を犬とわけあったり、鳩に食事を分ける子供たち、生き残った猫たちに餌をあげるジャーナリスト(彼はその後殺された)、そうした窮状にあるパレスチナの人々の、お互いに助け合ったり、動物を助けている映像が流れてくる。自分たちも水が不足し飢えていていつ死ぬかわからない状況なのに、他を思いやることを忘れない、パレスチナの人々の繊細さとやさしさ。パレスチナのドキュメンタリーを見ても、自分も大変なのに、まず他人を助けるために身体が動いてしまうような人が多い。「人権」から疎外されたような人々が逆に真の「人間らしさ」を見せるのは皮肉な話。一緒に空爆から逃れた犬を優しくいたわるパレスチナの少年の輝くような笑顔・・泣き叫ぶ母親・・悲しみと怒りの表情で天を仰ぐパレスチナの男・・人は真実であるときが最も人間の崇高さを見せるのかもしれない。パレスチナ人を見殺しにすることは、私たちが失いかけている人間のやさしさ、窮状にあっても道義を失わない品性、そうした人間の美しさを土足で踏みにじっているような気持ちになる。

・・鳥にはアイデンティティがない、そうだろ。国境も規則も持たない・・鳥は何を持つ?そう、自由だ、自由は最も素晴らしいものだ・・鳥が仲間を大切にするように、自由であるためには、他の人を尊重して大切にすることだ・・・
             ~ジアド・カダシュ先生(パレスチナの男子校の教師)
           『これはわたしの土地』2014仏制作ドキュメンタリー映画

どんなにパレスチナ人が閉じ込められて不自由か、どんなに過酷な日々を生き抜いてきたことか。もちろん、パレスチナの人々の「自由」と私たちの「自由」は違う。パレスチナの人々にとっての「不自由」は物理的なものであり、人間の尊厳を奪われた占領下の差別と不自由であるが、世界のあちこちで、政治力による圧力がかかり、ファシズムの足音が聞こえてくる今、この言葉は心に響く。偏見に凝り固まった不自由な心のほうがむしろ問題なのである。(いまだにハマス=テロリストを撲滅せよと騒ぐ人など)

今、私たちがパレスチナの人々を救うのではなく、むしろ我々のほうが彼らから学んでいるんじゃないかと思う。

カダシュ先生と教え子たちが、どうか今も無事でいますように・・また、『ガザの救急車』は2014年の空爆を記録したドキュメンタリー映画で、まるで悪夢のような映画だが、まさに今はこの数倍もひどい状況なのだと思うと言葉を失う。

※「アジアンドキュメンタリー」で優れたイスラエル・パレスチナのドキュメンタリー映画を見ることができます。

10月7日以後、あまりに衝撃的なニュースが毎日連続しているが、どうかもうこれ以上、パレスチナ人を殺さないでほしい。そして、エジプトに逃亡中に馬小屋で生まれたイエス・キリストのように、難を逃れた赤ちゃんの中から、暴力のない、新しい世界を再建するような、素晴らしい若者が出てくることを祈るばかりである。
 

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住宅団地 記憶と再生 №26 [雑木林の四季]

16・森の団地オンケルトムス・ヒュッテWhldsiedlung Onkel Tbms Hdtte(Zehlendorf.  Argentinische Alle,Onkel-Tom-Str.,Riemisterstr.14169 Berlin) 2

       国立市富士見台団地地自治会長  多和田栄治

 団地のあるツェーレンドルフは1900年ころからベルリンの別荘地、高級住宅地として知られるようになり、またグリューネワルトをひかえ行楽地としても開発がはじまっていた。この地で早くから行楽客に人気のあったビア・レストランがその名を、当時ドイツ語に訳されてよく読まれたストウの小説『アンクル・トムの小屋』からとった。
 マルテイン・ヴァグナーが1925年に馬蹄形団地の建設に着手し、次なる団地を探しにかかっていたとき、ツェーレンドルフの企業家アドルフ・ゾンノーフェルトからグリューネワルトのはずれの所有地の住宅開発をもちかけられ、26年にゲハーグ社が34.4ヘクタールの土地を取得した。ヴァグナーがブルーノ・タウトに託して団地設計にはいるや、市区当局がこれに干渉してきた。中流階級の住宅地に低所得者向けの集合住宅は許せない、という。市区がめざしたのは、税金が払える階級のための、高級住宅地にふさわしい三角屋根の絵のような邸宅であった。ヴァグナーとタウトたちのねばり強い戦いとヴァイマル憲法155条の支えが功を奏し、ツェーレンドルフの団地建設がはじまった。建築主はゲハーグ社、設計はタウトのはか、第1工期(1926~27年)のみフーゴ・ヘリンクとオットー・ルドルフ・ザルヴイスベルクが加わった。2人は南地区の連続戸別住宅を担当した。屋外設計はレベレヒト・ミッゲとマルタ・ヴイリングス=ゲーレ。工期は7期にわたり1931年に完成した。総戸数は1,915戸(アパート型式1,105戸、棟割り型式810戸)であり、うちタウトが設計したのは1,591戸(1,105戸と486戸)である。建物面積7.4ヘクタールにたいし庭と緑地は27ヘクタールと広く、まさに「森の団地」の名にふさわしく、団地名は地下鉄の駅名とともに人気のビア・レストランにあやかった。地下鉄の延伸と駅の開設は計画どおり1929年に実現し、33年にはザルヴイスベルクが駅中商店街を大改装した。
 団地建設の着手から完成までのあいだの市区当局と建築家たちの干渉、これとの戦いの経過についてタウトは、日本に亡命してきて著わした『ジードルンク覚え書』にくわしく書いている。このころすでに平屋根反対論は克服してきていたが、「しかしツェーレンドルフは特別な例外であった。美しい森の住宅区を建設しなければならなかった。この事実が世間に知れると、多くのツェーレンドルフの人びとは大真面目に泣いたそうである。この綺麗なな森にぞっとするような新しがりな平屋根の箱をおくとは、と。それなら、屋根が山形でも平形でも、同じように森と自然を楽しむことができるということを一般の人や役所の人に証明できたのか。その森がなぜ美しいかというと、それは数列の美しい大きな白樺がいくらか平凡な松林のなかに縫うていたからである。そこでわれわれは一本の白樺も伐らないような計画を立てた。この計画を役所に申しでると、この美しい白樺の列は全部伐り払えという。こうなると今度はわれわれ自身が森の美を保護する番になる。」
 「ところが1929年になると、ツェーレンドルフにおいて屋根論争がふたたび蒸し返された」一団地に隣接する地で、のちにナチスを支持する保守派の住宅会社GAGFAHが17名の建築家を糾合して博覧会をひらき、トンガリ屋根だけがみな同じの住宅団地をつくり、反「ノイエス・バウエン」のプロパガンダをはじめたことをさしている。「ツェーレンドルフ屋根戦争」はヴァイマル末期からナチス政権にいたる政治闘争の表われでもあった。平屋根形式はその後も普及していったが、「1930年および31年は、ジードルング建築の波も退潮の時期にあった」とタウトは書いている(タウト全集第5巻、283~286ページ)。
 きびしい財政条件のもとで、労働者・低所得者層向けの住宅を短期間のうちに大量に、しかも「戸外住空間」のコンセプトをもとに、いかに安価かつ美的に建設するか。これをやりぬくために、住宅設計や資金づくりはもとより、都市計画や交通行政との折衝など、どれだけの戦いと連携、計画の練り上げと説得を要したかは計り知れない。私的所有と戸建てを基本とする伝統的な観念から公共的所有の集合住宅への転換を求めつつ、たとえば三角屋根を平屋根にかえることへの抵抗、建物の彩色、配色へ異論、団地内の道路の幅員や強度、舗装、原生の樹木の伐採についての行政の干渉をはねのけてい 国難な道のりについてタウトは語っている。
 ただし、とくにオンケルトムス・ヒュッテ団地についていえば、「戸外住空間」を実現し、住生活近代化の試みを重ねてその方向性を示唆することはできたが、「労働者・低所得者向け住宅」の供給には程遠かったと言わざるをえない。入居者は官吏や職員といった中間層が中心で、タウト自身「中産階級への住宅」に終わったことは認めている。同時に「ジードルング建設の終焉」が近いことも感じとっていた。
 1932年にタウトはモスクワに仕事にでかけ、翌年ベルリンにもどるが、トトラー政権下となり、社会主義者ないしはシンパであったタウトもヴァグナ-も亡命をよぎなくされ、タウトは日本に逃れ、ヴァグナーはトルコに亡命した。タウトが1935年に建築学会の依頼をうけ、幻燈映写つきでおこなった講演記録『ジードルングス・バウ(集落計画)』、日本滞在中33年と36年に書いた『ジードルング覚え書』はタウト全集第5巻で読むことができる。
 オンケルトムス・ヒュッテ団地は、第2次大戦でほとんど戦禍をうけていない。戦後この地区はアメリカ軍の占領下にあって、団地の多くの住宅が、もとの住民は転居させられ、アメリカ軍関係者の宿舎になった(北村昌史論文『二十世紀の都市と住宅』中野陸生編、2015年山川出版社、239ページ)。わたしが最初に訪ねたのは1990年だから築後60年たっているが、70年代未から80年代にかけて総点検・修復がおこなわれてきているから、比較的原型に近い状態で見たことになる。ベルリンの記念建造物に指定され、ユネスコの世界遺産登録をもめざしたろうが、2008年の決定からは外れている。中流家庭が住み、専用庭も広いことから、ましてアメリカ人が住んだとあっては、室内外の改造、ペンキの塗り替えばかりか、テラス、物置きの増設などをして、世界遺産登録の条件である「原型に復す」状態にはなかったであろう。しかもその間、ゲバーク社が管理する賃貸住宅は民営化され、ドイツ住宅不動産業界2位のドイチェ・ヴオーネン社の所有に変わり、持ち家として売却されている。「買い取りができない住人は引っ越しを迫られている」(田中辰明『ブルーノ・タウト』2012年中公新書、45ページ)。公的保護と規制をはずされ個人所有になると、建物の様態どころか敷地用途さえも変貌をとげることになろう。わたしの「理想の原点」はどうなっていくか、たいへん気になる。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂
 

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地球千鳥足Ⅱ №37 [雑木林の四季]

料理と亡き母

      小川地球村塾村長  小川律昭

 半年以上も別居していると、自分で料理して食べるということが重要な行事になってくる。今までは与えられるものを無意識に食べていたのだから、料理人、つまりワイフが苦心していた気持ちなどわかっていなかった。時々形を変えて昨日のものが食卓に並んだので、残り物を食べさせられているという印象さえ持った。味より経済でいただく食事と理解していた。
 四十代の単身赴任の頃――そう長くはなかったが――は最初は自炊したが半年もすると嫌になって半分以上外食になってしまっていた。自炊だって簡単なフライパン妙めで作るものが多く、煮物や手の込んだ料理などしたことがなく、する意志もなかった。母親から食べさせてもらったものを思い出して作ったりした。

 自炊してみると、料理って何だろうと思う。食べさせる人がいるから作るものではないか。家庭もレストランもそうだ。自分だけで食べるのは何となく面倒だし、手間暇かけることなくィンスタント食品で間に合わせたくなる。今は電子レンジという重宝なものがあるのだから。
 趣味で料理を楽しんでいる人もいるのだろうが、男性の場合家庭で食べさせてもらっている限り作りたくないのが本音だろう。ところが私は今はやらざるをえない。最初の頃は妙める、ゆでる、焼く、チーン、の単純な料理であったが、繰り返しのメニューには飽きてきた。そこで食べさせる人がいなくったって、暇だし、自分のためにでも作ることにした。が、料理の本を繙(ひもと)く気分にまではいかず、煮ることから始めた。これは下準備に手間がかかる。魚の場合はイカ以外は切り身を使うから時間もかからないが。ワインと生妻を入れることでまあまあの味になることがわかった。調味料は計ったりしない。適当に使う。煮付けものはすべて味だしのため肉類を入れて作ることにした。昔は肉がなかったので母は前もって油で妙めてから煮込んでいたようだ。ゆでものは胡麻、ナマものは酢を使って調理するようになった。いずれも子供の噴、母親の作るのを見ていたから出来るのだろう。

 母親に可愛がられてずっとくっつきまわっていた。針仕事をする母のそばでいつも針のミミへ糸を通してやった。「おまえは女の子に生まれりやよかったな」と、よく言われたことを思い出す。この優しい母も、茶碗を床に落とすとこつぴどく叱った。そのくせ自分が落とした時は黙っていたこと、子供心によく見ていた。私たちは当時としては珍しく、靴を履いてテーブルで食事をした。アメリカ帰りの父が止まり木みたいな椅子を作ってくれていた。床はコンクリートだったから子供たちの手が滑って皿が床に落ちるとガチャンで泣き別れだったのだ。同じアヤコという名のワイフが私の失敗には目くじらをたて、自分の失敗には沈黙するが、その度に私は今は亡き母と子供の頃の食事テーブルを思い出す。

 母親は天ぷらもよく作っていたが、自分はまだだ。当時は油は注ぎ足して使っており、酸化などの知識はなかったようだ。油の粘度が目安だったのか。重曹を使っていたがその目的はわからない。料理は母に教わったような気がするが、ただ見ていただけでなく質問もしていた。あの頃のご馳走といえば鶏肉のカレーライス、とろろ芋、あご(飛び魚)のだんご煮、等ではなかったろうか。母は正月、鶏のガラでスープをとってそれを雑煮や煮物に使っていたが、その味は今でも忘れられない。米もかまどで炊いていたことを覚えている。美味しい材料のない中で、あるものだけを使って調理する母親の気持ちが、七十歳の今伝わってきたのは不思議にも懐かしくも思うが、これが別居の功徳というものだろう。
                         (二〇〇二年三月)

『万年青年のための予防医学』 文芸社


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山猫軒ものがたり №30 [雑木林の四季]

迷子のガルシィア

         南 千代

 木立ちをぬい、大地を渡ってくる緑の風。足元に冷たく透き通る、渓流のせせらぎ。夕立ち。蝉しぐれ。飛びかう蛍を眺めながら、縁側で食べる西瓜。線香花火の懐かしい硫黄の匂い。
 冬が寒かった分だけ、山猫軒の夏は快適だ。地元ではクーラーの入っている家はどこもなかった。
 西瓜やビールは、川で冷やす。小さな道をはさみ、山猫軒の前を流れている川には、この家の洗い場があった。渓流は、少しだけ溜りになるように川辺に引き込まれ、洗いものができるようになっている。たくさんの泥つき野菜を洗ったり、障子の貼り替えに戸板などを準っには格好の洗い場である。
 渓流は、私たちや動物にも天然の涼を与えてくれた。水は、暑い季節でも素足を五分もつけているとしびれてくるほどに冷たい。犬たちは、山を走り回って帰ってくると、まずこの洗い場にトコトコおりて、流れに腹ばいになって身体を冷やしている。
 川には、石を返すと小さな沢蟹たちもいた。この沢蟹は、時には家の土間まで這ってきて、猫たちのオモチャになっていた。小野路と変わらず、蛍がいたのもうれしかった。
  雨の日、ガルシィアが行方不明になった。為朝と華は山の中で育ったので、たまに自分たちだけで山を駆けて、一日中遊んでくることがある。朝、連れて出た散歩の途中で、スキを狙って姿を消すこともあれば、日中、フッと気が向いて遠出することもあるらしい。
 こちらのスキとは、歩きながら、何か他のことを考えたりしてしまう時。そのほんの瞬間をついて、二匹でいっせいに猛スピードで脱兎のごとく、走り去る。ハッと気づいて大声で呼び戻そうとするが、こんな場合は全く無駄。ふだんは、呼ぶと素直に、しつぼをふりふり来るのだけれど。つないでいなくても、常に犬たちの動きに関心を払っている時は、絶対に脱走しない。
 ガルシィアは、呼べば必ず来る犬で、脱走を企てる犬ではない。が、その日は、二匹の悪友にそそのかされて、ついフラフラと山へついていってしまったらしい。
 為朝と華が一緒だから大丈夫だろうと思っていたが、泥んこになって夕方帰ってきた二匹のそばに、ガルシィアの姿がない。
「ガルシィアはどうしたの?」
 と聞いても、為朝と華はしらんフリ。
 実は、ガルシィアが来て間もない時にも、同じようなことがあった。その時は雪。やはり、二匹についていき、迷子になったのだ。さんざん貼り紙をして、親切な人の電話で見つかった。場所は山ひとつ隣の集落である麦原の山奥。ムラの家の土間に、縄でつながれていた。
「また、ガルシィアを捨ててきたんじゃない?」
 私は、二匹の犬に言った。特に為朝は、夫と私が、賢く素直なガルシィアをいつもほめるのをおもしろく思っていないようだった。ほんとに、捨ててきてるんじゃないだろうか。そんな気もチラリとしたが、思い直して、ガルシィアを捜索することにした。
 名を呼びながら、パイクで山中捜したがいない。麦原にもいない。地図を広げて、考えてみた。
 龍ケ谷の山を沢沿いに最後まで上がると、地元の人が龍ケ谷富士と呼ぶ飯盛峠に出る。犬たちが、ここらまで上がったとする。そして、やがて腹もすき、家に帰ろうと思ったとする。
 しかし、近接している沢筋を一本間違えると、龍ケ谷ではなく麦原に降りてしまう。飯盛峠の下からは数本の沢が下っているが、さらにもうひとつの沢を降りると隣村の都幾川(ときがわょの氷川辿ることになり、椚平(くぬぎだいら)に出る。
 沢沿いの地形は、どこもよく似ている。ガルシィアが一度目に麦原で見つかった時、もしかして降りる沢を間違ったのでは、と感じていた。
 飯盛峠を中心に、またあちこち貼り紙をして捜すことにした。峠を尾根伝いに走るグリーンラインにも、また安原にも、隣の都幾川村の川沿いにも、貼り紙をした。南側の猿岩林道や窯山の集落も捜しに歩いた。
 今度は、なかなか見つからない。首回りの毛がライオンのように長く、毛玉になるので首輪もしていなかったのが、余計悪かった。それにしても、犬なのだから自分で帰ってきてもよさそうなものなのに。
 やはり、お坊っちゃんのせいだろうか。川の水にはようやく慣れたけれど、相変わらず、栗林は、散歩の時も遠回りをしてついてくる。栗のイガが嫌いらしい。でも、これは小さい時の環境なので、仕方がない。為朝と華にしても、社会見学をさせようと、小野路の山から初めて町へ連れ出した時には、道を走り抜ける車が怖くて、通路にはりついて伏せたまま、一歩も動こうとしなかったではないか。
 心配なままに、あれこれ思い巡らせ捜し歩き車を走らせ、ガルシィアがいなくなって、一週間が過ぎた。雑種ではなく毛並みも性格もよいし、どこかでかわいがられているに違いない、とあきらめかけた頃、電話があった。
「あの、お宅が捜してらっしやるようなコリーが、最近、近所のバス停で寝泊りしているんですが」
「バス停で?」
「バスの折り返し地点で、屋根のある待合所があるんですよ」
「場所はどこでしょうか」
「都築川の奥で……」
 やっぱり。今度は椚平だった。ガルシィアに違いない。私は、ていねいに礼を言い、夫とすぐに車を飛ばした。
 山の上なら、龍ケ谷川の源流から水川の源流まで、約一キロしか離れていない距離も、それぞれの里に下り、ここから椚平を訪ねるには車で三十分の距離となる。教えてもらったバス停をめざす。着いた。
 が、ガルシィアはいない。また、どこかに行ってしまったのだろうか。ゆっくり車を走らせつつ、あたりを捜す。見つけた。日も暮れかけた山道を、心なしか後ろ姿も情けなく、肩を落としてトポトボと山に向かい、歩いている。
「迷子のガルシィア君、どこいくの?」
 安心した私は、車を降り、ガルシィアの後ろから声をかけてみた。ガルシィアは、その声に立ち止まり一瞬キョトンとして周囲を見回し、後ろの私たちに気づくと、走り寄ってきた。
「どこ行ってたの、バカたん」
 夫と二人でそう言いつつ頭や体をなで始めた次の瞬間、ガルシィアは鼻先を私たちに必死で擦りつけ、すすり泣きともうれしさともつかない、かすれた声を立て続けた。
 電話をくれた家を訪ねて礼を言い、ガルシィアは無事に山猫軒に帰った。しかし、以降しばらく後遺症が残った。三匹を連れて山に出かけても、家から二キロほど離れるとガルシィアだけは、そこから一歩も前に進もうとしない。
 今日は一緒だから大丈夫だと、いくら言い開かせてもダメ。それでも私たちが、先へ行こうとすると、自分だけはくるりとUターンをして、すたすたと一人で家に帰ってしまう。迷子になったのが、よほどこたえたらしい。これだけは、言うことをきかなかった。
私は、迷子の貼り紙をはがして回った。二度までも、親切を好意の電話で救われたガルシィアも、私たちもほんとにラッキーである。感謝。
【山猫軒ものがたり』 春秋社



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BS-TBS番組情報 №294 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年12月前半のおすすめ番組

      BS-TBSマーケティングPR部

「クイズ!薬丸家のSDGs生活」#23

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12月3日(土)よる6:30~7:00

☆個性豊かな薬丸家がクイズ形式で学び、地球の未来を考える。
  新感覚SDGsクイズバラエティー!

◆キャスト
父:薬丸裕英 母:山内あゆ(TBSアナウンサー)息子:ナダル(コロコロチキチキペッパーズ) 娘:岡田結実 娘の友達:藤江萌
◆ナレーター 丸山未沙希

前回に引き続き、神奈川県立海洋科学高校で「豊かな海を守るためのSDGs」を学びます!

近年カワハギや車海老など、様々な生物が減少しています。
その対策として、生物環境科の学生さんたちが取り組む「種苗生産」に密着!

さらに温暖化などの影響で、
海底から海藻がなくなる「磯焼け」という現象が起こり、“海の砂漠化”が問題に。
実際に海底はどうなっているのか…学校の実習船で小田和湾の海洋調査を行いました!

※今回も娘・結実がお休みのため、お友達の藤江萌ちゃんが再登場! 

「噂の!東京マガジン」#136

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12月3日(日)ごご1:00~1:54

☆1989年創刊!テレビの週刊誌「噂の!東京マガジン」

◆出演者
森本毅郎/小島奈津子/井崎脩五郎/清水国明/山口良一/深沢邦之

【噂のあの人】
今回の「噂のあの人」は、東京から四国に移住した5人家族。人口約360人の過疎化が進む村で空き家を調査して、村の移住者を増やす活動をしています。しかし、この村へ来る前一度、移住に失敗したことがあったそう。あこがれの田舎暮らしにも、実際に住むと様々なトラブルがありました。挫折を経験し困難を乗り越えるために奮闘する家族の物語です。

「SASUKE甲子園」

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12月3日(日)よる7:00~8:54

☆「SASUKE」史上初、高校生を対象にした「SASUKE甲子園」開催!
高校生3人が1チームとなり、ステージごとに“SASUKE能力”を競う!優勝校には、SASUKE第41回大会の出場権が!

◆キャスト
スタジオ出演:兼近大樹(EXIT)・近藤夏子(TBSアナウンサー)
出演:山田勝己・漆原裕治・日置将士(※スタジオにも出演)・森本裕介
実況:杉山真也(TBSアナウンサー)
リポーター:佐々木舞音(TBSアナウンサー)

1997年から放送を続けるTBSの大型特番「SASUKE」。その番組史上初めて高校生を対象にした「SASUKE甲子園」を開催!

同じ学校の高校生3人が1チームとなり、ステージごとに“SASUKE能力”を競う。優勝校には、SASUKE第41回大会の出場権が優勝チーム3人全員に与えられる。
各校からは同級生や家族を中心とした応援団が集結し、同じ学校の仲間のチャンレジに応援を届ける。この各校のオリジナリティのある応援も見どころ。


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海の見る夢 №66 [雑木林の四季]

     海の見る夢
        ―ピエター
                  澁澤京子

 わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかどちらかであってほしい。熱くもなく冷たくもなくなまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出す。・・ヨハネ黙示録3:15~

 イスラエルの攻撃が始まってから、SNSを毎日見ているが、イラク戦争の時と比べ、会話が成立しない人々が大幅に増加した。イラク攻撃のころはまだ、「私はアメリカを支持する。なぜなら~」の三段論法で自分の立場をきちんと説明できる人間が多かったので会話ができたが、ひたすら「テロリストを擁護しているのか?」とか「中立じゃない、偏っている」などと他人に文句をつけるだけで自分の意見や立場を述べず、会話というものが成り立たない人が増えた。あるいは、「ひっしですね」「頑張ってますね」などと上から目線で茶化してみたり、どういう人だろう?とプロフィールを見ると日の丸や神社の写真などが掲げてある。いずれも「人間のクズ」を連発する日本保守党(百田尚樹代表)及びその支持者の自称保守の人々が多い。AでなければBと決めつける単純な図式しか頭になく、パレスチナの停戦を求めれば、即ハマス=テロリストの擁護と決めつけるのである。(イスラエル政府を批判し、親パレスチナで、かつ反ユダヤではない)という立場が彼らにはどうも理解できないらしい。

「・・熱くもなく冷たくもなくなまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出す」・・かつて一度も何かに夢中になったこともなく、一度も真剣に怒ったり反対したこともない「なまぬるい」人間が増加したような気がする。そうした(何をしたらいいのかわからない)人々が、トランプや日本保守党に、まるでカルト宗教にはまるようにはまってしまうのかもしれない。

居ても立っても居られない気持ちでイスラエル大使館の抗議デモに参加。地下鉄の麹町駅を出たとたん、すごい警備でこの風景は既視感がある、そう、集団的自衛権のデモに参加した時もこのようなものものしい警護だった。デモの参加者より警備の警官の人数のほうが多い。平日の昼間のせいか、参加者は私と同年代の中高年~高齢者か、あるいは学生のような若者。若い女の子が多く、しかも賢そうな美人が多かったことも一言書き添えておく。

国会で、パレスチナ情勢について鋭く突っ込んだ大石あきこ議員(れいわ)といい(この動画はアラビア語、スペイン語、英語などに翻訳されて瞬く間に世界中に拡散され何百万回も再生され称賛されたが、同時に大石あきこ議員にヤジを飛ばした自民党のおじさんも世界中に広がった・・)、イスラエルとの関係を断つバルセロナ市議のアダ・コラウ氏のスピーチといい、国連で見事なスピーチをしたパレスチナ大使の女性、そしてエジプトの女性ジャーナリスト、仕事を失うのを恐れず抗議したアンジェリーナ・ジョリー・ケイト・ブランシェット、スーザン・サランドン・・今回、とにかく勇敢で、頭の切れる女性が目立つのは、やはり圧倒的に子供の犠牲数が多いせいだろうか。

現時点(11月25日)、パレスチナで殺された子供の数は8176人。(欧州ヒューマンライツより)休戦のあと、イスラエルがまたどれだけパレスチナ人を殺戮するのかと思うと本当にやりきれない。

ツイッターにはあらゆる映像が流れてくる。自分の子供を探して瓦礫をトンカチで掘り続ける父親、白い布にくるまれた小さな亡骸を抱いてうつむく母親、亡くなった小さな娘を抱きしめる父親、両親を失い、自分も片足を失った小さな女の子の笑顔、爆撃の衝撃でバラバラになってしまった子供の遺体を抱きしめて病院を夢中になって走る父親・・そうした正視に堪えないガザの映像を次々とみているうちに、不謹慎かもしれないが、人間はなんて気高くて崇高なんだろう・・と一種の感動すら覚えたのである。ミケランジェロの「ピエタ」がなぜあんなに美しいのかやっとわかったのである。

人は「死」が身近な極限状況の時に、最も神に近い崇高な存在となるのだと思う。


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住宅団地 記憶と再生 №25 [雑木林の四季]

16・森の団地オンケルトムス・ヒュッテWhldsiedlung Onkel Tbms Hdtte(Zehlendorf.  Argentinische Alle,Onkel-Tom-Str.,Riemisterstr.14169 Berlin)1

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 「住居の理想は」と問われてもすぐには答えられないし、頭に描くこともできないが、ある光景に出会って「これだ」とひらめき、イメージが開けることはある。そんな経験をしたのが、1990年10月ツェーレンドルフのオンケルトムス・ヒュッテ団地を訪ねたときである。魅せられたのは、住宅の建物だけでなく、家並みをとりまく環境、地域の雰囲気をふくめてである。それから20年たって2010年と16年にも訪ねて団地のなかを歩きながら、その魅力は何なのかあれこれ考えてきたが、いまも筋道立てては言いあらわせないでいる。しかしわたしの「理想の原点」であることに変わりはない。世界遺産には登録されていないが、それとは別にこの団地だけは印象を書きとめておきたい。
 森の団地オンケルトムス・ヒュッテ(アンクル・トムの小屋)は、ベルリンの南西部、森が広がり、湖が点在するグリューネワルトに近い。最初に訪ねたのは、秋の日の夕暮れ、写真家のマリオがあそこが母校とベルリン自由大学を指さしながら連れていってくれた車から降り、しばしその光景に呑み込まれたように眺め、つよい印象を脳裏に刻みつけただけで、いまとくに記すべきことはない。

2回目は2010年1月6日、雪が降りつもっていた。都心から地下鉄U3で30分はどの、駅名は団地と同じである。地下鉄といってもこのあたりは掘割になっている。プラットホームから中地階、地上まで駅構内はそのまま長い商店街でもあり、花屋、菓子屋、文房具屋、雑貨屋、八百屋、洋品店、コーヒー店、クリーニング店、等々なんでもある。この日は団地の、線路をはさんで南側しか見ていないが、おそらく北側もふくめ商店街は近辺ではこの「エキナカ」しかないのだろう。
 アカマツ林のなかに白樺の並木、木々は雪をかぶり、雪のなかを歩いた。歩いていて、道路や植樹は新たに設計したのではなく、もとからの道や樹木はそのままに、その空閑地に住棟を設計したように思えた。カープした道にはそれに沿って住棟も曲線をえがく。住棟は木々と、雪がとければ緑地のあいだに疎らに建ち並んでいる。

広い道路沿いには3階建てアパート、狭い路地沿いは屋根裏部屋のある2階建ての連続戸別住宅である。その配列は非対象的というか変化をみせている。すべて平屋根の低層、各棟は比較的短く、とくにテラス住宅各戸の裏庭は広く、その日はいちめん雪におおわれ、住棟が疎らに感じられた。雪景色のなか、サンタクローズがやってくる煙突をまだ見かける。カッへルオーフェン(タイル張り暖炉)は撤去しても、タイルの一部は残しているにちがいない。

戸別住宅もアパートもその裏庭、中庭は低い金網か生垣、鉄扉で閉じられているが、外からうかがうことはできる。裏庭に小屋や遊具を備えたり、テラスを改造したり、サンルームを増築している家もある。これまで見てきた他の団地にはないバラエティ、風情を印象づけられた。
 訪問3回目の2016年11月19日は、秋も深まっていた。団地は地下鉄に沿って東西にはしるアルゼンチン通りと駅前で交差し南北につうずるリーマイスター通りに四分されている。この日は団地北側の東区画を歩いた。この区画は第3工期(1929~30年)に造成した第5区画にあたり、もっぱらブルーノ・タウトの設計として有名であり、くわしい設計資料が入手できたので参考にした(ビッツ他『ッェーレンドルフのオンケル団地』Pitz,H.u.a.=Bezirk Zehlendorf. Siedlung Onkel.)。
 概ね東西400メートル、南北250メートルの長方形をなし、西はリーマイスター通りに面し、北はアム・へ-ゲヴインケル、東はホルツングスヴェク、南はホーホズイツヴェクにかこまれ、そのなかを5本の道路が南北につうじている。南の道路沿いには10~15戸ユニットの住棟が6棟、間隔をおいて1列に、北は2~4戸の短い住棟が何棟も千鳥(ジグザグ)に並び、内側は5本の道路をはさんで6~8戸の住棟が3棟ずつ向きあっている。なかでも住棟の端の住戸はそのタイプや配置、高さ、色彩などに変化をつけ個性化することで、家並みに立体的なリズムをあたえている。この様式は、タウトが同じ時期に着手していたカール・レギーン団地でも見せた。またここでは、道路に接した端の住戸を半戸分ほどセットバックさせて、道路が交差あるいは曲折するあたりの空間を広くとっている。すでに1920年代にタウトはクルマ社会の到来を予見していたのであろうか。道路に面した玄関口沿いは低い植裁が連なり高木は少ないが、裏の金網にかこまれた専用庭には思いおもいの草木を植えている。春夏になれば緑いっぱいになるのだろう。わたしが歩いたのは木の葉が落ちてしまった季節、ぐるりを見通すにはちょうどよかった。
 住宅はすべて屋根裏部屋つき2階建ての連続戸別住宅であり、それに地下室があり、道路側玄関の裏側はガラス屋根のあるテラスにつづいて専用庭になっている。住宅タイプは2つとその若干のバリエーションがあり、この区画の総戸数419戸のうち最多の305戸のタイプは、戸あたり専有地面横は170.00㎡、建物面積42.50㎡、庭園は125㎡の広さである。居住面積は3室と物置き、キッチンと浴室、廊下で85.99㎡、テラスは12.18㎡である。もう1つは88戸、専有地350㎡、5室その他で居住面積106㎡、テラス14.68㎡のタイプである。
 この区画の住宅のタイプは、より経済性、合理性をもとめたのか、他の区画にくらべてもむしろ画一的、単調であるが、それだけに画一性、単調さを破って多様性をつくりだし、個性美を高めるために、タウトは、とくに玄関と窓のデザイン、全体としての色彩設計に意欲を燃やしているのが分かる。南北に並ぶ住棟の色彩は、東向きの外壁は灰緑色に、西向きは赤褐色に塗られている。冷たい朝の陽の光と午後の暖かく快い陽射し――日照と色彩がかもし出し、住空間を彩る効果をタウトは追及した。

北のジグザグ住棟は外壁すべて黄色、南に並ぶ住棟は、南面は白、内向きは黄色、各棟両端だけは青色に塗り分けられている。外壁の色とともにその窓枠のデザインと彩色は、住戸を個別化し、道行く人を楽しませてくれる。赤褐色の外壁にある窓枠は外枠から白、黄、赤、外壁が灰緑色なら窓枠は黄、赤、白の3色が使われている。黄色やベージュの壁面に黒白黒で彩った窓枠も、デザインの明確さを際立たせ、図形的な印象を強めている0玄関の扉とその枠取りも、外壁の色とのとりあわせで多彩に塗色されているが、扉の上部の欄間の横木だけはすべて鮮やかな赤色に統一され、統一性のシンボルのように多様性を引き締めている。色彩建築のマイスターとしてのタウトの本領は、この区画でもっとも体系的、集約的に発揮されていると思う。
 さきにフアルケンベルクの色彩、ブリッツの平屋根にたいし市区当局、建築業界からの反発、抵抗がいかに執拗で、タウトが「堅忍不抜の闘争と無際限の談合」をよぎなくされたかは書いた。しかし団地が完成すると「絵具箱ジードルング」と有名になり、ベルリン市長ベッスが「宗旨替え」をしたことをタウトは快くむかえた。とはいえタウトと「ノイエス・バウエン(新しい建築)」派による団地建設への攻撃が止んだわけではない。オンケルトムス・ヒュッテ団地も、その建設着手から完成後も、干渉、攻撃は絶えなかった。タウトが亡命した後、ヒトラーとシュペーアは、タウトの近代建築と色彩を「退廃芸術」と排斥し、「オウムの団地」と名づけて非難した。
 わたしがオンケルトムス・ヒュッテ団地を訪ねるときは、近くのダーレムやリュッケ(橋)」美術館にも立ち寄ることが多く、閑静な雰囲気のなか小豊かな体験をするばかりで、団地ができるまで、できてからの経過は、記録にたよるほか知る由もない。少しずつ分かってくることで、木立ちのなかの古びた家並みも、甦ってわたしのまえに出現する。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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地球千鳥足Ⅱ №36 [雑木林の四季]

おばちゃんあの時、有難う!
 ~アルゼンチン共和国②~

       小川地球村塾村長  小川律昭

 カンタス航空でシドニーからブエノスアイレスに到着、翌日ウシュアイアに飛ぶ旅程を組んでいたため、ブエノス空港案内所で近郊の宿を探してもらった。車での送迎付き88ドル、なんと鶏の鳴き声で起こされる田舎だった。13年前のカラファテ行きはリオガジエゴスからバスでしか行けない場所だったが、今はカラファテ経由、ウシュアイア行きの飛行機便がある。無断でカラファテで降りようと考えたが、再度乗る時にわかって乗機拒否されても困るので乗務員に訊いたらやはり駄目だと言う。飛行機は列車のように途中降りはできないシステムと知り、ウシュアイアに着いてからカラファテ行き航空券を買い直した。
 翌日、タクシーでぐるぐる探し回って、13年前に泊まったモニカおばちゃんの宿へ。周辺や宿はすっかり変わっており道路も舗装されていた。おばちゃんは覚えていた。抱き合った。劇的な再会であった。13年前、宿を取り、背中に激痛が走り、5日間お世話になった懐かしの宿である。背中をさすり、病院に案内してもらった。
 現在のカラファテは氷河観光ブームで街も大きく膨れ上がり、宿も35軒から153軒へと増えて様変わりし、おばちゃんの宿も大きく増改築して立派になっていた。かつて彼女は遠距離バスが着くたびに客を勧誘するためバスターミナルへ行っていたが、インターネットの発達でその必要もないらしい。2泊したが、初日におばちゃん夫婦をレストランに招待した。「13年前お世話になりました!」と。レストランの経営者は感動してシャンパンをプレゼントしてくれた。おばちゃんは喜んで会う人ごとに私との経緯を語り、お礼にやって来た日本人の義理堅さ、奇特さを自慢していた。過去にない体験でよほど嬉しかったのだろう。私も長年の心の負担が収まった。やるべきことはやっておかないとね。今度は 「貴方の100歳の祝賀会に日本にお祝いに行くよ!」とおばちゃんは言った。ペリト・モレノ氷河には立派な観覧席が新しく作られており、高さ60メートルぐらい、全面の幅100メートルぐらいの氷柱が連なった絶壁を見上げたり見下ろしたりして楽しめる。
  地球最南端の街、アルゼンチンのウシュアイアは山々が雪に覆われ強い風が吹く港街。南極まで1000キロ、ピーグル水道を通ってロボス島、ハハロス島、エクレール灯台に船で行く。島々にアザラシの集団あり、ペンギンの群れも飛ぶ厳寒の地だ。フリーポートゆえ、輸入品が氾濫している。
3回目の訪問である。真下にせせらぎを聞きながら雪の山中を歩いたり、美味しい海産物を頂いたり、ウインドーショッピングも楽しめる所。とあるお店で日本人のいることを知り訪ねてみた。近くまで来ると通りがかりの人が「日本人の店」と知っていた。石段を上がる見かけは普通の家、中には所狭しと食品や日用品があった。彼は最初怪訝そうに私たちを見たが、電話をしておいたので奥に通してくれた。沖縄出身のシニア、玉城さん、この地球の最果てに来た経緯や年齢など訊いたがそれには答えず、「人間、歳ではない。今何をしているかが重要なのだ。なるべく人のためになりたい」と人生観を語った。彼はいつも地の果てから日本を見ている。
「日本人は無から有を生み出す人種だ。戦後の復興を考えれば、今回の大震災からもいずれこの辛苦を肥やしにして立ち上がるはずだ。私も多難の生い立ちだったが小さい店を持って25年、合気道や日本語を教えている」と。家族のことは語らなかったが、言葉の端に悩みも垣間見えた。会話中次々と客が来て忙しく立ちまわり、繁盛している店と感じた。煙草のバラ売りもやっていた。帰る折、我々が店でビール、果物、水など買おうとしたら、「計算は済んだ」と言ってお金を受け取らなかった。苦労されたであろうに、その人間性に頭が下がった。人のために生きようとする意欲に彼の生き甲斐を見た。
          (旅の期間‥2012年 律昭)

※玉城さんは「世界の村で発見!こんなところに日本人」というテレビ番組 に出演されたご本人です。

『地球千鳥足』 幻冬舎



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山猫軒ものがたり №29 [雑木林の四季]

草取りゲーム 2

         南 千代


 稲も野菜も順調に伸びている。ついでに草もスタスク。除草剤や農薬の類は、いっさい使わないので、夏の恐怖はもっぱら草取りとなる。
  特に苦労しているのが、田んぼと小豆畑だ。小豆畑はマメに草取りに行けないため、行くと、この前草を抜いた筈なのにと、驚くほどの成長スピードで草が生えている。感心するほどに元気だ。
  別に草に恨みがあるわけではないけれど、作物のためには抜きたくなる。最初は、タッタッタッとピッチも速く    すすむが、夏の炎天下で一日中やっていると、さすがにまいる。
 が、頻繁に往復できないだけに、やれる時にがんばってやっておかないと、と思うと涼しい時間だけを選んでなどと悠長なことも言ってられない。もう最後は、地面に這いつくばっての草取りとなる。
 ヒザをついて這いつくばれる地面がある畑は、それでもまだよい方だった。田んぼになるともう最悪。稲の根元にしっかりしがみついたコナギやカヤツリグサを、泥田の中を這いずりながら取っていく。疲れても水の中では気軽に腰も下ろせない。かがんだ顔の頬のあたりを、稲の葉がチクチタさして、汗がしみる。
 草は抜いても抜いてもまた生える。ようやく全部の田や畑を一通り抜き終わった頃には、最初に抜いたあたりの草がまた育つのだ。まさに抜きつ抜かれつの草取りゲームとなる。
 夫は朝夕の涼しい時を選んでの草取りができるが、私はできない。この一帯には涼しい時間にはブユが多い。二ミリほどの、ほんとに小さな虫なのだが、私はこの虫に刺されると、小指の先を刺されただけで、腕中パンパンに腫れ上がるほどかぶれてしまう。一度など、唇を刺されてタラコどころかゴムタイヤのように唇が腫れ上がり、仕事で人に会うこともできなくなったことがある。
 「ブユでは、こんなにまでは腫れないんだけどねえ」
  病院では、最初、疑わしそうにそう言った。しかし、何度も駆け込むうちに信じてくれた。地元の人や夫は刺されても、腫れやカユミは蚊より多少大きいかな、の程度なのだ。
 田のあぜで時おり見かけるマムシなどは、こちらが注意して避けさえすれば、むやみに人を襲ったりはしない。その点では、ブユよりマシだとさえ私は思う。
 ブユは、蚊と同じで雌だけが、その生理的欲求から吸血する。こういう虫は、こちらが何も害を加えなくても刺してきて、始末が悪い。なるべく、出現する時間帯を避けるか、肌を出きないのが唯一の防御法であった。虫よけスプレーは、汗で流れたり、ときに私はカブレるので使えなかった。
 結果、ブユの少ない時間、つまり日中の最も暑い時間に、万一の用心のために長袖に長ズボン、靴下、軍手をし、首は襟を立ててタオルを巻き、頭は蜂よけのネットつき帽子をかぶっでの作業となる。炎天下、完全防備ファッションで草取りをしながら、私はブユを呪った。ほんとに、血ならいくらでもやるから、毒を入れないでほしい。
 よその田や畑では、涼しい顔をして除草剤や農薬散布。二、三時間もすればさっさと引き卜げる。いいなあ。
 あまりにも疲れ果て、畳のサイレンが鳴っても、家にもどって食事を作る気にもなれないときがあった。田んぼから二キロほど先にあるうどん屋で昼をすまそう、ということになった。
 軽トラックで向かう途中も、ふと私は思った.夫に言った。
 「ねえ、自給白足をめざす田畑仕事に忙しくて、疲れて外食するって、いいのかなあ?」
 「……。言われてみれば、そうだけど。あんまり疲れた時は、いいんだよ」
 夫はそう言ってくれたが、私は疲れた分だけ、意地でも家の台所で作らなければ気がすまなくなってしまった。そうしなければ、何のためにこんな思いをしてまで草取りをしているのかわからない、と思ってしまった。素直にうどん屋に行けばよいものを。
 その日の外食は結局、なしとなった。私は考えた。頭は使わないとはいえ、体が疲れすぎるのも、やはり精神衛生上よくない。田畑仕事は楽しくやりたい。意地になったら辛くなる。
 私は、草取りをエステクラブだと思うことにした。何しろ、特に田の草取りは、一時間もすれば全身玉の汗。まるで屋外サウナだ。一日やれば確実に一キロはウエイトダウンに泥んこパック。しかもタダ。おまけに、米や野菜まで提供してくれる。一石三鳥だ。何の生産性もないエステクラブよりマシな気がする。その上、まるでグアムかハワイで焼いたような小麦色の肌まで約束してくれるのだ。
 そう思い込んでしまうと、田に出かけるのもいく分かは楽しくなる。背中には、シャツを通してビキニの跡がもうクッキリついていた。ただし、上半身だけだったけれど。やはり、エステクラブの設定は、ちょっと無理だったかな。草取りにひと息つき、腰を伸ばそうとしても痛くてすぐには伸ばせず、姿勢はいきおい、ばあちゃんスタイルのまま泥田の中からあぜに這い上がる始末となった。
 この私たちの不恰好な様子は、近所の百姓の同情を少なからずかっていたらしい。ある日、田んぼに、近くの島田水道のヨツちゃんがやってきて田車をくれるという。田車とは、手押しでツメのついた金属の輪を回し、稲の条間の草を取っていくことができる、昔ながらの草取り機である。除草剤を使う現代では、不要品だ。納屋に眠っているから、使えと言う。
 ゴロゴロゴロと、泥田の中を押していけば、ツメに草がからまって抜ける仕組みだ。助かった。それからは、夫が田車を押し、私が田車では取れない稲の根元の草だけを、抜いて回った。
 少しラクになると、田の周囲の夏の植物にも、目がいくようになった。薄紫色の花をつけた草の葉をちぎってみると、ミントの香りがする。赤岩さんに聞くと、ハッカだと教えてくれた。やはりミントだ。自生しているのだ。でも、ここではハッカの名がふさわしい。さっそく摘んで、ハッカティーにする。ヤギのチーズや天然酵母のパンによく合った。
 田に引いた水路のそばに生えているのは、どう見てもクレソン。和名では、オランダ水からし。これもサラダや肉料理の付け合わせに、そのホロ苦い味がおいしい。

『山猫軒ものがたり』 春秋社



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BS-TBS番組情報 №293 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年11月後半のおすすめ番組

         BS-TBSマーケテイングPR部

「関口宏の一番新しい中世史」#83

292関口宏の一番新しい中世史.png
11月18日(土)ひる12:00~12:54

☆現代社会にも通じる“日本文化の基礎”が形成された<中世史>を覗きに行こう。
  司会・関口宏の歴史シリーズ第3弾!
  
◆キャスト
関口宏
加来耕三・・・歴史家・作家
大宅映子・・・評論家・(公財)大宅壮一文庫理事長

今回は、織田信長、明智光秀がいなくなった後、羽柴秀吉が天下統一を見据え、「清洲会議」などで主導権を握っていく様子を見ていく。

「本能寺の変」から約2週間後、信長時代の象徴
ともいえる安土城が炎上する。いったい誰が何のために火をつけたのか。信長の死を機に、かつて武田信玄が治めていた領地が混乱すると、北条・上杉・徳川による争奪戦が始まった。そこに登場するのが「真田家」だ。旧武田領は誰が治めることになるのか…。

「いぬじかん」#4

292いぬじかん (1).jpg
11月21日(火)よる11:00~11:54

☆犬好きMC関根⿇⾥&岡部⼤(ハナコ)が送る犬が主役のワンワンバラエティー! 
犬にまつわる役立つ情報から感動のストーリーまで、1時間まるごとワンコだけでお送りする超癒し系番組です!

MC:関根麻里 岡部大(ハナコ)

今回は代々木にある「犬だらけのドッグカフェ」を訪問。そして、MCの2人が犬と気持ちが通じ合う「ドッグヨガ」を体験!子どもたちのアイドルになった保護犬の物語も紹介

「歩道・車道バラエティ 道との遭遇 BSに進出スペシャル」

292メイン画像.jpg
11月25日(土)よる11:00~11:30

☆全国の廃道マニアの皆さん必見。
ユニークな「道」を巡るCBCの人気番組が、BS-TBSで全国進出!
【スタジオMC】ミキ
【道マニア】 鹿取茂雄 石井あつこ
【道のお供】 馬場裕之(ロバート)
 
個性的な“道マニア”が“旅のお供”を引き連れて、全国のユニークな「道」を巡る番組。
BS-TBS初登場ということで『走る別荘!車中泊の旅』でおなじみの馬場ちゃん(ロバート)が“道マニア”に!
今回の「道」は岐阜県飛騨市にある廃道。昭和中頃に計画されていたリゾート開発の痕跡が、現在も残っている場所へ向かいます。廃道の魅力を1時間たっぷりご堪能下さい!


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海の見る夢 №65 [雑木林の四季]

     海の見る夢
        -アルビノーニのアダージョ~Dマイナー~                       
                  澁澤京子

だいぶ前に、イスラエルの女性兵士がドローンを操作する写真を見て、とても嫌な気分になったことがあった。安全な場所で椅子に座ってボタンを押せば起こる爆撃・・ゲームではなく殺されるのは生身の人間なのである。今、パレスチナで起こっている残虐は、虚構と現実があいまいになった時代の、先進国に生きる私たちの無関心と残虐さの現れでもあるのかもしれない。

今、ツィッターでガザの様子を知ることができるが、凄惨な映像の合間に、瓦礫から救い出された猫の手当てをする医者、空爆で死んだセキセイインコを泣きながら植木鉢に葬る少女、配給されたペットボトルの水を犬に分け与える青年、オカメインコ3羽と亀一匹を連れて爆撃から逃れたおばあさん・・厳しい状況にあるのにもかかわらず動物を大切にして、乏しい食料や水を動物に分け与えるパレスチナの人々の姿を知ることができる。常に死と隣り合わせだからこそ余計に、動物の命を大切にするのかもしれない。どこの国にもある、ほのぼのとした日常を、大切に育てられた子供の命を、一瞬にして破壊されてしまったパレスチナの人々。

 ・・今、影を現しつつあるのは 全世代パレスチナ人の抹消です。そしてもしそれが現実に起きてしまったら、その代価を支払うのは私たち全員なのです。
                       サラ・ロイ 2009年東大講演会

政治経済学者であるサラ・ロイが東大の講演でこのように警鐘を鳴らしたのが2009年。そして2023年の今、まさに私たちの目の前でそれは起こっている。毎日138人の子供たちが殺されながら、こんなにも無力を感じた事はない。イスラエルかハマスかというレベルをはるかに超え、今は、目の前で起きている民族浄化を容認出来るか、出来ないか、といった状況で、私たちの人間性そのものが問われているような気がする。

私はイラク戦争でも、イラクの死傷者数の多さからイラク側を擁護したし、パレスチナ問題でもパレスチナサイドの立場だった。パレスチナ関連の本はずいぶん読んだ、サイードの『パレスチナ』をはじめとして。それでもサラ・ロイの本を読むまでは自分の認識が甘いことに気が付かなかった・・今までお念仏のように冒頭で「ハマスも悪いが・・」といちいち断っていたが、サラ・ロイの本を読んでからはそういう気も起きなくなった・・「天井のない牢獄」どころか、イスラエル兵の気まぐれによって、一日にパレスチナ人が何人か殺されようが、パレスチナの子供が拷問されようが何とも思われないような、まさに強制収容所のような場所だったのである・・

サラ・ロイはなぜ今起こっていることを予想できたか?それは、彼女が念入りにパレスチナとイスラエルの歴史を調べ、実際にパレスチナに赴き、イスラエルのウソと欺瞞を徹底的に暴いたからだ。イスラエルの欺瞞を暴いたサラ・ロイの勇敢さと、誠実な知性は称賛に値する。チョムスキーといい、サラ・ロイといい、こういう優れた批判能力を持つ学者が出てくるアメリカは、やはり民主主義に自浄能力のある自由の国なのだと思う。イスラエルの欺瞞はオセロ合意からはじまった・・合意とは名ばかりで、現実はパレスチナは西岸とガザに分断されパレスチナ人の行き来は禁じられ、さらに検問所でいちいち許可を取らないと病院にも行けないほど、パレスチナ人の自由は奪われた。パレスチナ農民のオリーブの林は勝手に伐採され、立ち退かないと嫌がらせと暴行によって、入植者の土地は次々と増えていった。古くからの街道は破壊され、パレスチナ人の失業は増え、低賃金でイスラエルで働くことになるがそれも次第になくなり、今や90パーセントのパレスチナ人が失業状態。かろうじてパレスチナ人に食料は配給されるが、これこそイスラエルの望むことであったのだ。つまり、合意や、イスラエル撤退は表向きで実際パレスチナはイスラエルの過酷な占領下にあった。イスラエルに抵抗しない西岸に比べ、イスラエルの圧政に抵抗して、ガザに生まれたのがハマス政権なのである。「和平を望むイスラエル」と「テロリストのハマス」というプロパガンダが流布されたのはシャロン政権の時から。イスラエルは巧妙なやり方で「ハマス=テロリスト」のイメージを大衆にばらまいた。「人間の盾」もイスラエルの捏造した口実に過ぎない。今、私たちが目撃している暴力は、仮面をかなぐり捨てたイスラエル政府の真の姿かもしれない。

‥我々は恥辱を清らかな日光の下にさらし消毒して、きれいにするのではなく、恥を隠して深い穴に埋めて死んでいこうとしている・・『ホロコーストからガザへ』サラ・ロイ

ホロコーストで生き残った両親を持つユダヤ人学者サラ・ロイの書いたこの本は、フランクルの『夜と霧』に匹敵する名著だと思う。ティーンエイジャーの時、イスラエルの叔母のところに遊びに行ったサラは、ホロコースト時代のユダヤ人を(弱い)として軽蔑しながらも、政治的には被害者としてホロコーストを利用するイスラエル人にとても違和感を覚えたという。そして実際、パレスチナに行ったとき、初めて彼女はパレスチナ人がイスラエル人兵士からどのように侮蔑的に扱われているかを知り衝撃を受ける。(老人が孫の目の前で、イスラエル兵士たちからロバの尻にキスをしろと強要されるとか・・)イスラエルがホロコーストを恥辱の歴史とみなし、きちんと過去と向かい合えないまま、それが侮蔑と嘲笑という形で今度はパレスチナ人に向かっていくのを目の当たりにしたのである。

・・誤った方向へ行ってしまった世界を立て直すために、異論を唱えるということの倫理性と重要性こそは、ユダヤ教の教義の核心でもあるのです・・『ホロコーストからガザへ』

若い時から敬虔なユダヤ教徒で保守的なサラの母に比べ、叔母は無宗教の自由主義者で、叔母はイスラエルに住むことを選び、母親はアメリカに住むことを選んだ。その後、二人の立場は逆転し、叔母は視野の狭い保守的なイスラエル人になり、母親のほうがオープンでリベラルな人間となったのは、イスラエルとアメリカの文化の違いもあるが、何よりサラの母親がイスラエルの教義「共感、寛容、救援、犠牲者の声を聴くこと・・」など他の人間性を大切にするユダヤ教の教えをしっかり守っていたからだと分析している。つまり、それが宗教の教義であれ、人は自身の倫理基準をしっかり持っているほうが逆に家族を超えた横のつながり、普遍性につながってゆく、ということなのかもしれない。実際、今回の紛争で、正統派のユダヤ教徒がパレスチナを支持し、イスラエル兵に抵抗する映像も観たし、ニューヨーク、ワシントンの多くのユダヤ人もまたイスラエルのパレスチナ侵攻に反対してデモをしている。

・・自責の念を持たないことによって、傷を癒しているのです。・・『ホロコーストからガザへ』

この本の最後のところには、徐京植さんとサラ・ロイの対談が載っていて、在日朝鮮人である徐京植さんの受け答えが素晴らしいのだが、かつて中国人、朝鮮人を差別・虐殺した歴史を持つ日本人としては、その言葉は棘のように心に突き刺さる。しかし、こうした自国の差別と暴力を、まず受けいれない限り、平和は訪れないだろう。個人でも民族でも自分に都合の悪い歴史を見たくないのはわかるが、過去を受け入れないとそれはねじれた状態となって大きな禍根を残すことになる。おそらく、イスラエルはパレスチナを存在しなかったことに、あるいは抹殺することによって、自身のホロコーストの過去(弱いユダヤ人)も一緒に葬りたいのだろう。

原爆を落とされ敗戦国となった日本人の差別心が、加害国ではなく、むしろ日本の被害国である中国や韓国に向かうのも、シオニストにも通じる屈折した心理にあるのかもしれない。過激なシオニストがパレスチナ人を侮辱するのと、ネット右翼が嫌韓・嫌中国でヘイトスピーチをするのはとても似ている。侮辱したり迫害しながらパレスチナ人のせいにするイスラエル人と、かつて侵略した中国・朝鮮半島を侮蔑する日本人の心理は似ている。弱みを持つ人間ほど、誰かを見下す、あるいは否定することによってかろうじて自身のプライドを保とうとするが、両方とも過去の歴史ときちんと向かい合えなかったために起こったことではないだろうか?

過去を隠した「強いイスラエル」とか、歴史修正主義の「美しい日本」のような、美辞麗句でごまかしたナショナリズムがいかに危険かということは今のイスラエルを見ればよくわかる。

自民党議員がイスラエル応援で日の丸の旗を皆で振っている映像を見たが、SNSで「ハマスはテロリスト」と騒いでイスラエルを支持する日本人は、やはりネット右翼なんだろう・・

信頼というものを持たない人間同士の関係は「仮想敵」やヘイトスピーチによって、特定の民族を差別することによって、安易につながる。それが「愛国心」の表明としても、そうしたネガティブな連帯は貧しく脆弱なものでしかない。それより、「弱者に寄り添う」「共感」、そうした「倫理」による連帯のほうが、人間関係としては明るく健全だし、一緒に同じ方向を目指すことによって、そこに本当の連帯が生まれてくるだろう。それはアメリカ人であるとか、日本人であるとか、韓国人、ユダヤ人、イスラエル人であるとかは全く関係ない、国境を越えた連帯になるだろう。だから今、若い世代を中心に世界中で起こっている「Free Palestine」運動が、私には一筋の希望の光に見える。パレスチナがどんなに長いこと苦しい状況にあったか、今や多くの人々に可視化されている・・それはあまりに悲惨でむごいものではあるが・・しかし、パレスチナがどんなに破壊されても、すでに正義の女神はパレスチナ側にいる。そして、いつかきっと幸福な日常が再び戻ってくるだろう。

アルビノーニのアダージョはGマイナーが有名だが、夜明けのような、再生を感じさせるDマイナーのほうを選んだ。パレスチナ人のみならず、傷ついたイスラエル人にも、いつかまた立ち直る日が訪れることを祈っている。

                 参考
   『パレスチナ人は苦しみ続ける』高橋宋瑠
                    『ガザの空の下』藤原亮司
                    『パレスチナとは何か』エドワード・サイード
                    『ホロコーストからガザへ』サラ・ロイ

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住宅団地 記憶と再生 №24 [雑木林の四季]

 15.大団地ジーメンスシュタットGroBsiedlung Siemensstadt(Ringsiedlung).
(Siemensstradt Goebelstr.,Jungfernheideweg u.a. 13627Berlin)

     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 ベルリンの世界遺産団地ではいちばん新しい、6番目の大団地ジーメンスシュタットを訪れたのは2010年1月7日である。この日は雪が舞い、積雪もかなりあって十分に見回れず心残りがあり、19年9月にも出かけた。
 団地はベルリンの北西部にあたり、シャルロッテンブルク区の北端、西のシュパンダウ区にまたがる。南にジーメンスの大工場群と労働者住宅が広がり、北に広大なユングフェルンバイデ公園をひかえる位置にある。
 環状線のユングフェルンバイデ駅をへてU7バーンのジーメンスダム駅で下車し、「世界遺産ジーメンスシュタット団地」の案内板をみて北にむかうとすぐ、左手に扇状にひらいた住棟群があり、木々の生い茂った築堤を抜けると大通りの両側に団地が広がっている.。築堤の北側には東西にいくらか曲線をえがいて延々と柵メートル以上もの住棟が城壁のようにつづき、その向うには、南北にまっすぐ延びる長さl㈱~150メートルの住棟が十数棟平行に並んでいる。
 団地の敷地面積はけ3ヘクタール、建潮間は1929~31年、総戸数は1,370戸である。住戸の規模は1室から3・5室までだが、2・5室が90%を占める。
 この団地についてまず気づくのは、どの住棟も長いこと、ブロックごとに建築様式に変化がみられたことである。建物は平屋根、4階建ての似たような型式だが、ブロックごとに住棟のレイアウト、階段室やバルコニー、窓枠のデザインなどに際立った変化があり、全体は白色、薄クリーム色を基調にしながらも、特徴的な部分には馳系の色彩を豊富に使い、見る目を楽しませてくれる。建物のデザイン、色彩の変化がみせる景観は、すべて画一的が特徴の団地に住むわたしには、とても印象的だった。
 住棟間は30メートル近く、広々とした芝生の庭に植樹、そして中央にはグリーン・センターが団地を南北に二分して幅50メートル、長さ250メートルにわたって延びる。かなりの大木が枝をひろげ、幼児の遊具類のほか、サッカーやバレーボール、卓球などして遊べる公園にもなっている。ブルーノ・タウトに代表される1920年代半ばまでにできた団地が、専用庭があって、あるいはごく身近に自然環境を享受できる設計に重きをおいていたとすれば、とくにこの団地は、共同的な、よりオープンな空間づくりを重視した設計といえようか。高木群を大きくまとめ、連続する緑の空間をつくる設計に特徴がみられる。団地の北側は、景観保護地区の広大な「民衆公園ユングフェルンバイデ」につづく。森林のなかの団地ともいえよう。
 かつては王室の狩猟場であったこの線の地帯の南に、19世紀半ばジーメンス会社Siemens AGが創業、工業地帯として発展し、まわりはごみごみした労働者住宅が密集していった。この地域に集合住宅を大量に建設するのがベルリン市の急務だった。設計者たちの念頭には、騒音と煤煙、労働の疲労から解放し、癒しと生活の安息をあたえる居住空間づくりへの想いがあったのだろう。地下鉄のすぐ北側を、いわゆるジーメンス鉄道がはしり、その北に土堤が築かれている。さきに「4榊メートル以上もの住棟が城壁のように」
とのべたその住棟は、南にひろがる工場や鉄道の騒音から、団地とその北の「乙女の原野(ユングフェルンバイデ)」を守る障壁の役割を想定して設計したものと思われる。
 団地建設を主導したのはベルリン市都市建設参事官マルテイン・ヴァグナ一、施主はプリームス社である。かれは設計者に「ノイエス・バウエン」のリーダーたち、ハンス・シャルーン、ヴァルター・グロピウス、フレット・フォルバート、オットー・バートニング、パオル・ルドルフ・へニンク、フーゴ・へリンクを起用した。その多くは「デア・リング(輪)」Der Ringグループのメンバーだったので、「リング団地」とも呼ばれている。しかしグロピウスとへリンク以外は住宅建設には未熟だったので、室内設計にマックス・メンゲリングパオゼンを雇った。キッチンと浴室は合理的に、家具調度は経済的にと請け負わせた。庭園設計はレベレヒト・ミッゲにゆだねた。ヴァグナ一にとって、まえに述べたようにヴァイセ・シュタット団地と同時に着手したベルリン最後の仕事であり、大都市における社会住宅の新しいスタイル創出に情熱を燃やし、気鋭の建築家をあつめ、かれらに担当地区をふりわけ、大いに多彩な個性を発揮させた。
 用地建設にあてられた敷地は広大ではあったが、すでにジーメンス会社がこの地域を支配し、貨物鉄道が敷かれ道路も開かれていて、地形上の制約もあっただろう。ヴアグナーは6人の設計者たちに環境、条件の異なるプロツクを指定し、各人がそれぞれその制約をのりこえ創意を生かして個性的な住宅群を競ってつくった。
 1929年から31年にかけて建設されたこの団地は当時、大規模な建築展示陽といわれ、国際的に評判になったという。建物はすべてほぼ同じ高さの中層で、長くのびた住棟ばかりであるが、そのデザインの多様性、住棟と道路の配置、緑の空間設計、道路沿いの植樹と樹木の多い広場に、これまでにない設計思想が生きており、20世紀の団地づくりの道標と評価された。
 ジーメンスはドイツ工業の中核のひとつ、第2次大戦で壊滅的打撃をうけ、周辺の住宅地はもちろんこの団地も空爆の被害にさらされた。その補修、再建はほぼ1956年には終わっていたが、原型に復するレベルの作業ではなかった。原型復元・保護の本格的な取り組みは、1982年に記念建造物保護の指定をうけて以後である。
 わたしが見ているのは21世紀の、いま在る団地である。90年をへた建物とは思えない真新しさ、輝きを放っている。いくらか厚化粧をしたにせよ、これが90年前に、ほぼこの姿で存在したと思うとき、感慨はひとしお深い。
 ここからシャルロッテンブルクの旧市街は近い。19世紀の建造物もまだ数多く見ることができる。第2次大戦時には空爆にあい、かなり修復され改造されて今日あるのだろうが、それでもけっこう往時が想像できる古さを残している。旧市内に残る20世紀はじめまでに建った傾斜屋根の建物、マンションを思い浮かべると、紹介してきた一連の団地をユネスコが「モダニズム」と名づけたその意味が丸ごと分かるような気がするし、なかでもジーメンスシュタット団地は、さらに第2次大戦後の集合住宅建設への先駆けと国際的にも評価されていると知り、なるほどと思った。
 団地の所有は2006年にドイチェ・ヴォーネン社に移り、今日にいたっている。

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地球千鳥足Ⅱ №35 [雑木林の四季]

コリーとトレッキング
  ~アルゼンチン共和国①~

       小川地球村塾村長  小川律昭

 氷河観光の拠点、南パタゴニア(アルゼンチン)のカラファテには、リオ・ガジエゴスからとチリ側プエルト・ナターレスからと、いずれもバスで行ける。どちらも半分はジャリ道で揺られることになる。カラファテで氷河を歩くつもりだったが、突然の、横腹から背中にかけての痺痛で3晩苦しんだ。旅に出て以来、長引いていた風邪で咳が続き、その咳による身体への衝撃で呼吸も止まらんばかりの激痛に襲われ、体をすくめてその痛さに耐えてきた。そのため当初予定していた氷河歩きを取りやめた。病院での医師の診断による注射と投薬が効いたのか、それとも安静からの免疫回復力が強かったのか、痛さが和らぎほっとした。
 翌々日、カラファテから奥地のチャルテンまで150キロのジャリ道の道程を、バスで4時間強かけて上った。丘陵地帯の原野をビエドマ湖に沿うようにして道は走っていた。地面にへばりついたような枯れ草以外植物らしきものはなかった。何千年後も変わらぬであろうこの風景、夏季・冬季や乾期・雨期の相違こそあれ、厳しい環境の中に耐えられる植物のみが育つようだ。放牧させるための柵が今は用をなさなくなったのか、壊れたままになっていた。湖に通ずる川沿いを選んでかつて人が住んでいたであろう家屋も、半壊状態で置き去られていた。自然の厳しさが人間の居住を否定したのだ。万年雪に覆われた山々と、氷河の解けた水を溜めた碧い湖の美しさ。風雪に耐えた枯れ草の中に、ときおりヤマを見かけたが、人間を含め、生きものには厳し過ぎる大自然の環境だ。
 チヤルテンは50軒足らずの村落で氷河登山の基地である。チヤルテンからのトレッキングでは氷河に削られた尖峰がひと際高く天を突くフィツツロイ山(3441メートル)を目前に見ることができる。残雪と山肌との色合いの調和が陽光を浴びて一際美しかった。
鋭角に尖った峰は雲に覆われ、瞬時のみその姿を現した。
 ふと鼻息を感じ振り向くと、宿のコリー犬が知らぬ間について来ていて「帰れ」と言っても開かない。もともと野兎を追っかけて走っていたが、いつの間にか方針を変えて私について来ていたのだ。トレッキングの最後まで私の前になり後になりして坂道を上り下りした。川の丸木橋は渡れないからザンブリ入ってついてくる。私が腰を下ろして休むと一緒に休む。私を主人に決めたようだ。昼はビスケットを分け合った。最初は遠慮していたがそのうち食べた。テントを担いだ若者も、中年の日帰り組もいて、犬連れの私を羨ましがった。
 小さい氷河が押し出された湖まで行った。奥深くに登るほど湖の紺碧度はさらに濃くなり、吹く風も冷たい。眼前に迫ったこの奇怪な山々、現実離れのした未知の世界に引き込んでくれる魅力に溢れたチヤルテンの情景から去りがたい思いでいっぱいであった。フィッツロイの麓まで行けたらなぁ。おそらくそこは氷河に囲まれた神秘の氷界、人など決して寄せ付けないだろう。
 翌日はジープのツアーでチャルテンの奥地37キロまで行くことにした。朝起きた時私を見て嬉しそうに飛びついてきたコリーと今日も行動を共にしたかったが、宿主の許可もなく昨日客と出歩いた罰なのか、私が出かける時には繋がれていた。私の顔を見ると、ちぎれるほビシッポを振り飛びついて来た。その両目が『今日も一緒に行きたい!』と語っていた。その日の行程はすれ違いもできない道とも川ともつかないジャリで固めた川底を登って行くのだが、山間から水が流れ込むので、水のある川底を走っている時が多かった。約1時間半で終点。そこには氷河に直接繋がる青緑色のデシェル湖があった。湖の左側を山頂に向けて急な坂を登ること30分、そこには氷河が押し出され、幻想の中に引き込まれそうな自淡青色の池を見た。その名はウエルマ湖、小さな氷河を源泉としていた。氷の妖精が棲んでいるのか、誘い込まれそうに魅了する湖の表情、吹く風は氷河の表面で撫でられるように冷たく、せせらぎの音が異様に周辺に響き渡り、現実を超越した幻想の世界を肌で感じた。            (旅の期間一2008年 律昭)

『万年青年のための予防医学』 文芸社



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山猫軒ものがたり №28 [雑木林の四季]

草取りゲーム 1

            南 千代

 田の準備が始まった。
 まず、田自体の準備の前に、開普請がある。これは、一帯に田を作る人々が共同で行う作業で、田に水を引く水路の修理や清掃などの普請である。
 みんなが集まったところで、田の「お隣りさん」たちにあいさつをし、同じ水路から水を引かせてもらうことの了承を取り、開普請に参加する。
 最初に水を入れるのは、苗代にする田だ。苗代を作りながら、一方で種モミの準備をする。種モミは、田を作り続けている場合なら前年のものを保存しておくが、初めてなのでもちろん、ない。農家から分けてもらった。農協で買う場合は一年前から予約が必要だ。分けてもらった種モミの品種は「日本晴れ」。
 この地区は、平野とはいえ山間部で水温が冷たく、田植えの時期も遅い。「日本晴れ」は、そうした気候風土に合う晩生種である。私たちは、うるち米と餅米を八対二の割合で作ることにした。
 あらかじめ水を吸わせ、目を覚まさせた種モミを苗代にまき、苗が出そろうまでに田植えをする水田の用意をする.田には、すでに鶏糞や待機ミネラルを含んだ貝化石の粉を入れ、スキやロータリーで耕してある。ここに水を入れるのだが、水は共同で使うので、自分の田ばかりに水を引くことはできない。
 周囲の田への水の入り具合いなどに充分気を配った上で、引いたり止めたりしなければならない。私たちは新入りなので、皆が水を引いた後に、田に水を入れる。ここは「水争い」や「水掛け論」「我田引水」のことばができるほど、何かとトラブルが起きやすい場面なので、気を使う。
 水が田に入ると、代かきをして泥面を平らにする。田の水深を一定にし、苗の根が空気にさらされたり、逆に溺れたりするのを防ぐためだ。機械で荒くかいた後、今度は熊手の先を平たくしたような代かき道具で、水平にならす。これらの道具は、隣近所の人が使っているのを見よう見マネで作った。
 毎年米作りをしている田なら、すでにある程度、地面は水平になっているのでラクだけれど、何年も使われていなかった田なので、代かき仕事は予想以上に手間どり、作業も大変だ。
 「いやあ、きついなあ。田植えまでの田にするのに、こんなにきついとは思わなかったよ」
 夫は、このところ毎日、全身泥だらけのクタクタになって田から帰り、夜は、まさしく泥のように眠りに落ちる。
 田植、蔓での作業は、まだまだある。あぜ塗りだ。ここからは、私も手伝える。代かき後の泥土をあぜに少しずつすくい上げ、水もれしないように塗り固める。私たちは、隣の田の赤岩さんがやることを終始眺めつつ、マネした。
 いよいよ田植、冬だ。夫のカメラマン仲間である柳田さんが加勢に来てくれた。彼は、出身が福島の農家であり、家の田植を手伝ったことがあるという。田植えの日、前の日に水を抜いておいた田の表面に、三十センチ四方にマス目の筋を引いた。
 苗代から、苗の腰と根を痛めないように苗を抜き、束にしてワラで縛る。縛り方も要領も、赤岩さんが実際にやってみせ、教えてくれた。赤岩さんは、龍ケ谷の下の大満という地区に住んでいる。とても温厚で親切な人だ。
 泥田に素足をそっと踏み入れる。足の裏でグニュグニュうごめく土を、指でしっかりつかみこんで歩く。くすぐったいような、気持ちが悪いような、いいような。慣れると、田の中やあぜ道をはだしで歩くのは気持ちがいい。
 束ねた苗を持ち、マス目の筋の交点に、一本または二本の苗を構、葺いく。三十センチ間隔に苗が、整然と並んでいく。時々腰を伸ばしては後ろをふり向き、進み具合を確かめつつ、植ぇていく。植え方にもコツがある。ただ土に苗をさしていけばよいのではなく、根をしっかりと土に押し込む。かといって、深植えは禁物で苗が浮き上がらない程度に浅く植える。なかなかむずかしいものだ。
 最初は爛れずに、スピードも出ない。四枚に分かれた田の、二枚目にとりかかる頃からようやくコツがわかってきた。
 機械植えのよその田は、植えた後は、田が青々としている。山猫軒の田は、疎楢の一本植えなので、植え終わっても田が青々としていない。ヒョロヒョロと細い一本の苗が、泥水の上にまばらに並ぶだけだから、茜色より泥色の方が勝ってしまう。
 しかし、密植を避けて稲自身が、その力を充分に出せる植え方にすることで、丈夫な稲が育つ。どの株も陽あたりや風通しが良ければ、病気にもかかりにくく、従って農薬散布の必要もない。と、なるはずだが、うまくいくかなあ。
 中島氏がすすめるだけあって、基本的な考え方は、自然卵養鶏法と同じである。後は、稲の力を信じるしかない。
 それにしても、まさか田植えまですることになろうとは、夢にも思わなかった。大半は夫の労力と努力とはいえ、自分の手で米まで作れるようになるなんて。
 田畑仕事をしていると、お茶の時間はほんとにうれしい。土手に腰をおろして、むすんできたおにぎりを食べるのは何よりの楽しみだ。今度は、このおむすびも自分たちで作った米になるのだ。よし、田植えは、あと半分。昼からもがんばろう。
 田植を終えたからといって、それで稲が育つわけではなかった。夫は、植えた次の日から朝に一回、夕方一回と田を見にいった。
 田植え後の三、四日は苗の根が土に活着するよう水を深くするが、上手に植えていなかった苗が水面にプカブカと浮いている。補植をする。水も暖かい日は浅く、寒い日や風の強い日は深く、と入れたり引いたり深さを管理する。水を入れておいたのに、引いてしまったのは、あぜにモグラが穴をあけ、水がもれてしまったせい。急いで埋める。などなど。田植え後の約一カ月は、毎日、目が離せない。
 私は、米作りというと、田植えと稲刈りしか想像していなかったが、その前後の田作りや苗育ての方が実際には、ほんとに手間がかかるのだと知った。

『山猫軒ものがたり』 春秋社


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BS-TBS番組情報 №292 [雑木林の四季]

BS-TBS 2023年11月前半のおすすめ番組

      BS-TBSマーケテイングPR部

「クイズ!薬丸家のSDGs生活」#23

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11月4日(土)よる6:30~7:00

☆個性豊かな薬丸家がクイズ形式で学び、地球の未来を考える。
新感覚SDGsクイズバラエティー!

◆キャスト
父:薬丸裕英 母:山内あゆ(TBSアナウンサー)息子:ナダル(コロコロチキチキペッパーズ) 娘:岡田結実 娘の友達:藤江萌
◆ナレーター 丸山未沙希

薬丸家が神奈川県横須賀市にある海洋科学高校を訪問!
マグロ漁における乱獲や他の生物の混獲を防ぐ取り組みについて伺ったり、魚の伝道師・ウエカツさんと一緒に、生徒が作った“未利用魚グルメ”を頂いたり…持続可能な開発目標14[海洋資源]にまつわる“海のSDGs”を学びました。
ちなみに息子・ナダルは大学の水産学科出身なので、今回のテーマは得意分野!

※今回は娘・結実がお休みのため、お友達の藤江萌ちゃんが代わりに来てくれました。

「いぬじかん」#3

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11月7日(火)よる11:00~11:54

☆犬好きMC関根⿇⾥&岡部⼤(ハナコ)が送る犬が主役のワンワンバラエティー! 
犬にまつわる役立つ情報から感動のストーリーまで、1時間まるごとワンコだけでお送りする超癒し系番組です!

MC:関根麻里 岡部大(ハナコ)

今回は愛犬と楽しむための豪華な温泉ヴィラをご紹介。大型犬二匹とのドタバタライフに密着!関根・岡部がドッグヨガに挑戦。目が見えない弟を守るワンコの兄弟愛に迫ります!

「木曜ドラマ23 天狗の台所」第6話
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11月9日(木)よる11:00~11:30

☆田中相さん原作の人気コミック「天狗の台所」が待望の実写化!天狗の兄弟とその仲間たちの、ファンタジックで美味しいスローライフ。ネクストブレイク必至の若手俳優が続々登場!
リアルな自然の風景が隠し味となり、心に美味しい“癒し時間”を提供します。
風光明媚な田舎の日本家屋をはじめ渓流や畦道など、美しい景色の中、美味しそうな料理が瑞々しく描かれる。自分の畑や集落で育った食材を使って、素朴だが丁寧な料理を作る兄・基と暮らすうち、弟・オンは何気ない瞬間や季節の食材をたのしむことを知り、かたくなだった心をあたたかくほぐしていく。

キャスト: 駒木根 葵汰、塩野 瑛久、越山 敬達、白鳥 晴郎、市村 優汰、村山 輝星
      浅茅 陽子、本田 博太郎、角田 晃広[東京03]、渡辺 真起子、原田 泰造 ほか
 
第6話内容:足のケガの回復が思わしくないオン(越山)を心配した基(駒木根)は、湯治に行くことを提案する。温泉に浸かりながらの会話で、オンの夢がプロゲーマーだと知った基は、微笑ましい気持ちで満たされていた。しかし、同時にオンの身体の異変にも気づいた基は、一抹の不安を覚える。そんな中、村の収穫祭の日がやってきた。村人たちが飯綱家に集まり宴を楽しむ中、偶然オンの背中を見た有意(塩野)は・・・



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海の見る夢 №58 [雑木林の四季]

      海の見る夢
          -グールドの「ゴルトベルク変奏曲」-
                      澁澤京子

   1948年(イスラエル建国)以降、私たちの存在は、ずっと軽視されてきた。
                      E.W.サイード『パレスチナとは何か』
   
 ずいぶん前のことだった。「武器輸出三原則」が廃止されたとき、故・安倍元首相が満面の笑みを浮かべてイスラエル・ネタニヤフ首相と握手している写真を見た‥それと前後してかその後まもなく、ガザの大空爆が起こったから、あれは2014年だった。日本から輸出された武器の部品が、イスラエルの兵器として使われたとすると、パレスチナ問題は日本人にとっても他人事ではない。2014年のガザ空爆では、国連施設の学校、そして病院も幾つか攻撃されたので、今回のキリスト教系病院の爆発も、イスラエルの仕業としても少しもおかしくない。(イスラエル側は否定)ガザのキリスト教教会も爆破されていて、今のパレスチナ紛争というのは宗教対立ではなく、明らかに政治的なもので、それはイスラエル建国,さらに遡ればオスマン帝国の衰退と英仏による中東分割から始まったものだろう。(・・オスマン帝国時代はユダヤ教もキリスト教もイスラム教も争うことなく共存していた)

 われわれにとっての真理と理性の基準は、自分が住む国の意見や習慣という規範や観念しかないというのは本当のことだと思われる。『エセ―』モンテーニュ

500人以上の死傷者の出たアル・アハリ病院の爆撃後、「Stand With Palestine」の声は次第に増加していった、中東諸国はもちろん、ロンドン、パリでのデモ、ハーバードなどアメリカの大学生のデモ。グレタさんをはじめとして、パレスチナを支持するのは若い世代が多い。ハーバードの学生の「沈黙するのは共謀すること」というシュピレヒコールが印象的だった。

ラファ検問所まで自ら赴き、ガザまで人道支援のトラックを通すように説得したグテーレス国連事務総長(元・ポルトガル首相)は、国連安保理では堂々とパレスチナの置かれた窮状と歴史的経緯を演説し、イスラエル外相を激怒させたが、実に公正な人間らしい態度と思う。

イラク戦争の時にインターネットで知り合ったKさん。当時は国際刑事裁判所にいたが今はフリーの翻訳家になっていて、何年か前にツイッターで、久しぶりに再会。Kさんの発信する情報は有益なものが多い。専門の国際法の知識と情報分析はさすがに的確で、イラク戦争の時、ずいぶん彼から教わった。今回、発信したツイッターの情報(Kさんが翻訳)の中の、エジプトの検閲所でエジプト人ジャーナリストの女性が、CNNの女性キャスターに啖呵を切る映像はすごい迫力。エジプト人女性の「・・あなた方(欧米)のカスタマイズされた民主主義がハマスを作った」という訴えは切実で、アラブ=テロリスト、あるいはイスラム教=テロリストというステロタイプの刷り込み。そうした偏見の中でパレスチナは見捨てられたまま、ハマスは生まれたということだろう。今の若い世代にパレスチナ支持者が多いのは、そういった偏見を持たないせいかもしれない。偏見や短絡的な決めつけというのは視野を狭め、人の思考や感受性を不自由にし、いつしか暴力的なものとなる。イスラエルの政治家はハマスをモンスター、ケダモノ呼ばわりしているが、いったいどっちがモンスターなのか。

モンテーニュは16世紀、南米インディオが「野蛮」と言われていた時代に、「野蛮なのはむしろ我々(フランス人)のほうじゃないか」と批判した。こういう柔軟さは、優れた「知性」の証だろう。モンテーニュは高い地位にありながら、自身をその地位の高さと同一視するような愚かさは決して持たなかった。(モンテーニュは政治家だったから余計に、自分の地位と自身を切り離す必要があっただろう)彼は、人にとって最も大切なものは肩書や階級、国や民族といった外側にある属性ではなく、内側にあるその人の「徳」と「品性」にあると考えていた、だから南米インディオに対しても決して偏見を持たなかったのだ。このモンテーニュの態度は、肩書など外側ばかり気にしているうちに中身が空っぽになってしまった人間(こういう日本人が最近増えたんじゃないか?)とは正反対なのである。

さらに偏見が容易に暴力になるのは、パレスチナ=テロリストという漫画のような単純さで、イスラエルといえば、イスラエルやユダヤ人全員のように短絡的に捉える愚かさにある。イスラエルと言っても、ガザ侵攻に反対したイスラエルの正統派ユダヤ教徒とか、アメリカでイスラエル政府に反対してデモするユダヤ人、平和主義のまともなイスラエル人、ユダヤ人はたくさんいるのである。命がけでガザ侵攻に抗議するイスラエル人、ユダヤ人は少なくない。日本人にもいろいろな価値観の人間がいて、決して一括りにできないように、パレスチナ人、イスラエル人、ユダヤ人、日本人、どこの国にも偏見の強い浅薄な人間から平和主義者までいろんな人がいるだけ。

今のパレスチナの状況についてとてもわかりやすいのが『パレスチナ人は苦しみ続ける』という本。(この本もKさんの紹介)著者の高橋宋瑠さんは2009~2014年まで国連人権高等弁務官事務所のパレスチナ事務副所長として5年間、エルサレムに在任され現場をよくご存じの方。イスラエル兵によるレイプや拷問は日常でも頻繁に起こり、想像以上のパレスチナ人の置かれた劣悪な状況に、目からうろこだったという。日本から遊びに来た友人を案内すれば、何も説明しなくとも「アパルトヘイト」という感想を誰もが述べたのは、イスラエル側はプールのある立派な住宅が少なくないのに比べ、パレスチナ側は飲み水さえ不足するような劣悪な貧しい環境だからだ。

さらに、イスラエル国内でも貧富の差は激しく、まるで戦前の日本のように一握りの財閥だけが裕福な格差社会。IQが高ければ空軍か諜報員になれるが、低いと国境警備員というようなヒエラルキー社会で、要するに、新自由主義経済を具現化したような格差の激しい国なのだ。新自由主義経済、イスラエル、軍需産業、ネオコン、キリスト教原理主義とのつながりが詳しく書かれていて、イラク戦争の時からパレスチナ問題に興味を持った私には「なるほど」と納得させられる本だった。ネオコンとキリスト教原理主義(キリスト教右派)の関係は、安倍政権とネット右翼との関係に似ている。

冒頭で、「武器輸出三原則」が緩和された際の、ネタニヤフ首相と故・安倍総理がうれしそうに握手している写真の話をしたが、パレスチナ問題に、軍需産業が絡んでいるのは間違いないだろう。

かつて私が読んだ小説の中でも、最も救いのない小説がガッサーン・カナファーニーの『ハイファに戻って・太陽の男たち』だったが、あの小説はパレスチナの現実そのものなのだと今更ながら納得する・・(1972年・36歳の若さでイスラエル諜報員によって殺されたパレスチナ人作家)

・・愛国主義は、他の土地に火災・疾病・飢饉をもたらすための口実となり、その結果、効力を持つものと言えば、疑心暗鬼と、他者の行動や動機に眼を光らせる偏狭で嫉妬深く詮索好きな警戒心ばかりである・・ウィリアム・ハズリット

サイードの文章から又引用したハズリットの言葉は、今のイスラエル政府やハマス、ロシア、そしてどこの国にも存在するタカ派、仮想敵によって団結する大衆、そして、ゴシップなど詮索好きな今の日本人にもそっくりそのまま当てはまるのではないだろうか。ネタニヤフ首相はついに、光と闇の戦いと言い始めたが、光と闇の戦いは己の心の中にとどめてほしいものだ。今のイスラエル政府のやっていることは、民族浄化じゃなくて何なのだろう?
これを書いている今もガザに対する攻撃は続いている。殺された子供の数は今の時点で3595人。瓦礫の下には、まだ1000人以上の子供が埋もれたまま。(ガザ保健省による)電気はなく病院は機能せず、しかも今、すべてのガザの通信網は切られ、密室の大虐殺がはじまったらしい。これからいったいどれだけパレスチナ人が殺されないといけないのか・・どんなに恐ろしい悪夢だって、今のガザよりはずっとましだろう・・

・・悟りや幸福や洞察は、苦しみや混乱という土台があって初めて生み出されます。ティク・ナット・ハン

ベトナム戦争の泥沼を潜り抜けた、ティク・ナット・ハンというベトナムの禅僧がいる。彼は「深く吸って」「息を長く吐く」という呼吸法と瞑想によって、戦争によっておこる怒りや憎しみ、悲しみを乗り越えた。彼の師は、焼身自殺という形で世界に反戦を訴えたベトナム人僧侶。ベトナム戦争、自身の暗殺の危険、死線を幾度も乗り越えただけに、ティク・ナット・ハンの言葉は深くて説得力があり、クリスチャンにもファンが多い。余程、鍛錬されたお坊さんだったのだろう、戦時中、負傷した人を手当するときにもこの呼吸法を行っていたという。ニュースや映像を見ればどうしても怒りと悲しみが沸き起こってしまう今のこの状況で、ティク・ナット・ハンの本は、私自身の救いになっている。

・・グレン・グールドは音楽におけるどんなことでもやってのける最後の人物だと思う。
                                 E.W,サイード

パレスチナ人のサイードは音楽を愛した。(一時期、プロのピアニストになろうかと考えていた)特にグレン・グールドを絶賛して、グールドの「ゴルトベルク変奏曲」については長い賛辞を書いている。サイードにとって、グールドの「ゴルトベルク」を聴くことは、祖国パレスチナのつらい現実を乗り越えるための瞑想のようなものだったんじゃないだろうか?

黙って「聴く」という行為はとても大切なこと。私たちに必要なのは、殺されたイスラエルとパレスチナの市民、今も瓦礫の下に埋もれたままの多くのパレスチナ人の沈黙、そして、電気も水も食べ物も不足しているガザの人々の声なき声に、じっと耳を傾けることなのかもしれない。

これを書いている今、国連総会で人道的休戦を採る決議案が採決された。賛成120ヵ国。反対はイスラエル・アメリカなど14ヵ国。予想はしていたが、欧米の顔色を窺って日本が棄権したのは、本当に情けない。ジャニーズのようなスキャンダルには「人権」と目の色変えて大騒ぎ、こうした国際社会でのひどい「人権」問題になると、日本人はなぜ寡黙になるのだろうか?

最後に、ツイッターの匿名投稿を引用しておく。

「(ロンドン、パリ、ニューヨーク、その他の国々で起こっている大規模デモの写真・・パリでは罰金が科せられているのにもかかわらず多くの市民がデモに参加)なぜ日本ではこれだけ大規模のデモが起きないのか?目の前で大勢のパレスチナ人の子供が殺されているのを平気で傍観できる感性には、人間として何か、欠けているものがあるのではないか?」



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住宅団地 記憶と再生 №18 [雑木林の四季]

14.ヴァイセ・シュタツト団地 WeiBe Stadt(Reinickendorf. Aroser Allee,Emmentaler Str,Romanshorner Weg u.a. 13407 Befhn) 2
 
     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 アローザー・アレーをまたぐ住棟は長さ100メートル、幅40メートルの鉄筋コンクリート構造の橋のうえは4階、その両翼は5階建てでひときわ高く、棟の中央上部には南北両壁に大時計をとりつけ、団地の正面入口を思わせる。その南側が、見るからに団地のセンターであり、建物の1階と周辺には、公共的な施設や商店が多い。

 商店はセンターばかりでなく団地の各所に数多くあり、当初から日常の生活必需品すべてをまかなうことができた。幼児施設、診療所、カフェ等もつくられた。1930年代には、セントラルヒーティングが各戸に暖熟、熱湯を供給し、洗濯工場もあった。当時はもちろん、今日みてもきわめてユニークな水準をしめしている。屋外設計をしたレツサーは、団地内に人びとがふれ合うエリアを数多くつくり、それは狭く住民向けスペースというより、広く公共利用の緑地帯、遊園地の機能をめざしたという。

 橋上住棟の大時計は、当初は時報を告げていたにちがいない。ヨーロッパでは1920年代に懐中時計にかわって腕時計が普及しはじめているが、労働者団地の住民が各自どれだけ時計というものを持っていたかどうか。この時計は住民の生活になくてはならないものだったはずである。団地の中心、正面を誇示する装飾品ではなく、教会や市役所の時計と同じ役割をはたしていた。そんなふうに思えた。

 団地の南端はエメンターラー通りにかこまれ、アローザー・アレーの両側に3階建ての住棟が建ち並んでいる。南からみて左は中庭をかこむ方形に、右は扇状と台形の配置になっている。通りが交差する両端の建物は高く、l階が店舗ノ刷舗等で上が住宅の5階建て、南の団地入口をなしている。この両建物の上には旗ポールがとりつけてある。旗ポールは労働運動のパトスの表現といわれ、ここでは団地コミュニティのシンボルとなっている。

 ヴァイセ・シュタットが完成して1930年代のはじめ、現代団地建設のシンボルと国際的にも大いに話題になった。新たな都市構造にあわせ、かつ伝附勺なさまざまなモティーフを結合させたとの評価である。ブルーノ・夕ウ卜たちの「ノイエス・バウエン(新建築)」のコンセプトから出発しながらも、人口稠密のインナーシティの都市計画パターンとも、農村的な田園都市パターンともちがう。ゲハーグ社が建設したブリッツやツェーレンドルフの団地とたしかにコントラストをみせている。

 ヴァグナーがベルリン市の都市建設参事官をつとめたのは1926年から7年間、33年には追われ、35年にはトルコに亡命してるから、この団地と同時に着手したジーメンスシュタット団地が、かれのドイツ最後の仕事となったのであろう。20年代後半に財政が困窮するなかでこれら2団地のためにヴァグナーは苦心して特別予勘,500万ライヒスマルクを獲得し、資金を確保したと記録されている。困難な時代のなかでの戦いと、創りあげられた作品との響きあう関係が具体的にどう表われているのか、わたしには分からないが、世界遺産登録をめざした人びと、評価して登録を決めた人たちはその「何か」を確認しているにちがいない。

 ヴァイセ・シュタット団地は、工場地帯に近いせいか戦中の空爆で一部被害をうけ、1949年から54年にかけ原型への修復、改装がおこなわれ、82年には記念物保護の指定をうけて本格化した02000年代になって、住宅の私有化がはじまり、団地の所有も2006年にゲハーグ社に、17年にはドイチェ・ヴオーネン社にうつり、民営化・私有化が進められている。

 帰り道、団地の掲示板に賃貸住宅の募集案内を見かけた。〈2階、2室51.96㎡、基本家賃301.37ユーロ、雑費137・97ユーロ(暖房費52・26ユーロ)、保証金904.00ユーロ〉とあった。

 はじめ来た大通りの北側には、黄葉の雑木林があり、小さな古い教会のまわりには瀟洒な戸建ての住宅が散在している。近くに学校もあった。いちめんの落葉を踏みしめながらしばらく散策し、この地に別れをつげて、ファルケンベルクにむかった。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂


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