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浅草風土記 №13 [文芸美術の森]

吉原附近 6

       作家・俳人  久保田万太郎

          七

 ……が、わたしは失望しなくってもよかった。入谷と山の宿とをつなぐ新開道路の、自転車、自動車、貨物自動車のはげしい行きかい。――その瀬戸の荒い波の中を乗越したとき、急にわたしは、いままでのあかるい日のいろの代りにしずかな月のひかりを感じた。
しずかに可嘆(なげか)しい夕月の旬を感じた…… とは何か?
 古着屋である、堅光地蔵のほとりの古着屋である、そこに四五けんかたまって並んだ「確実正札附」の古着屋である。
 その店さきに下った双子縞(ふたごじま)、唐桟柄(とうさんがら)、御召縮緬(おめしちりめん)。――黒八のいろのさえた半纏(はんてん)、むきみや、丹前。――帯の独鈷(とくこ)、献上、平ぐけ、印半纏(しるしばんてん)、長襦袢(ながじゅばん)、――その長襦袢の燃え立つようないろにまじった刺っ子、刺っ子半纏……
 その刺っ子である、刺っ子半纏である。――その刺っ子半纏の紺のいろの褪せである、その背を抜いた朱の色のっ古びである。そのまた主の色をつぶした紺のいろの――その紺の糸のいろの情の強さである…… はッきりそこに「三の酉」のあくる日をわたしは感じた。すでに来すぎている「冬」を感じた。浅草という土地を支配する「吉原」のいのちを感じた。――そうしてしずかに可嘆しい夕月の句を感じた。
「……通ふ子供の数々に或は火消鳶人足、おとっさんは別橋の番屋に居るよと習はずして知る共通のかしこさ、梯子のりのまねびにアレ忍びがへしを折りましたと訴へのつべこべ、三百といふ代言の子もあるべし、お前の父さんは馬だねえと言ほれて、名のりや辛き子心にも顔あからめるしをらしさ、出入りの娼家の秘蔵息子寮住居に華族さまを気取りて、ふさ附き帽子面もちゆたかに洋服かるぐと花々しきを、坊ちゃん坊ちゃんとて此子の追従するもをかし、多くの中に龍華寺の信如(しんにょ)とて、千筋となづる黒髪も……」 ……「たけくらべ」の第一章である。

『浅草風土記』 中公文庫



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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №116 [文芸美術の森]

      奇想と反骨の絵師・歌川国芳      
       美術ジャーナリスト 斎藤陽一
      第11回 反骨と風刺の錦絵 その1

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≪厳しい出版統制の中で≫


 天保12年頃(歌川国芳45歳頃)から、老中・水野忠邦によって、風俗粛清、奢侈禁止、出版統制を主軸とする「天保の改革」が行われます。
 これより50年ほど前の寛政5年(1793年)には、既に時の老中・松平定信による「寛政の改革」が行われており、同じような主旨の禁止令や統制政策が実施されましたが、今度の「天保の改革」は、浮世絵業界にとって、まことに手厳しいものでした。
 すなわち:
◎役者絵や遊女、芸者風俗を描いた錦絵の禁止
◎出版・浮世絵は専ら「忠孝・貞節」を主題とすべし
◎色摺りの回数は7回から8回に制限
◎浮世絵の値段も16文以上は禁止(華美で高価な錦絵は禁止)
◎既に行われていた検閲制度をさらに強化する・・・

 このような厳しい監視のもとで、浮世絵師や版元は仕事をしなければならなくなった。そんな「お触れ」が出ている最中の天保13年頃に、歌川国芳は下図のような錦絵を描いています。

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 「源頼光館土蜘作妖怪図」(みなもとよりみつやかた、つちぐも、ようかいをなすず)、大判3枚続きの錦絵です。病に伏す源頼光と宿直をする4人の家臣たちが描かれる。

 病床にいる源頼光のうしろには、背後霊のように不気味な土蜘蛛がおり、頼光を糸でからみとろうとしている。土蜘蛛はさらにたくさんの妖怪を生じさせ、館を怨念で包み込もうとしている。
 頼光の前にいる家臣、卜部季武(うらべすえたけ)は妖しい気配に気づいている。その左には三人の家臣。真っ赤な顔をしたのが「金太郎」こと坂田金時。囲碁の相手は渡邊綱。一番左の碓井貞光も、ひしひしと押し寄せる妖怪たちの気配に気づいている・・・
 こんな具合に、国芳は、土蜘蛛が操る糸の端がつくる対角線を境に、右下部分に頼光主従を、左上部分に妖怪軍を描き分けています。
 しかし、この絵の面白さは、国芳がつぎつぎと創りだしたさまざまな妖怪たちでしょう。国芳は、いかにも楽し気にひとつひとつを描いており、まさに百鬼夜行。現代なら水木しげる描く「ゲゲゲの鬼太郎」の世界。国芳はま
116-3コピー のコピー.jpgた、コミッククリエイターの先駆とも言える絵師です。

116-4コピー のコピー.jpg ところがこの絵が、思いもかけない社会的現象を引き起こしました。
 卜部季武が着ている衣装の紋様が、「天保の改革」を進めている老中・水野忠邦の家紋と同じ「逆沢瀉紋」(さかおもだかもん)だったため、116-5.jpgこの卜部は「水野忠邦」を暗示するものであり、病床の源頼光は、病弱な将軍・徳川家慶である、といううわさが広まりました。

 さらに、たくさんの妖怪たちは、厳しい改革によって取り締まられた人々の怨念である・・・という評判も高まり、江戸っ子たちは、妖怪のひとつひとつが何を示しているかという謎解きに熱中したのです。

 あまりに世間の騒ぎが大きくなったので、版元は絵を回収するとともに版木を削ったため、版元にも国芳にもお咎めは無しに済みましたが、これ以降、国芳は、当局の要注意人物となりました。
 もしかすると、版元も国芳も確信犯だったかも知れない、という気もします。

≪遊郭は雀のお宿≫
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 上図は、弘化5年、歌川国芳50歳の時に制作した三枚続きの絵「里すずめねぐらの仮宿」。これは「動物見立て絵」ともいうべきジャンルの絵で、雀を人間に見立てて、遊郭の様子を描いています。

 「天保の改革」以降、しばらくは「遊女」や「芸者」など、花柳界風俗を描くことを禁じられていたことを想起してください。版元と国芳は、「それならば」と、雀の世界に置き換えて、吉原の様子を描いたのです。

 「仮宿」とは「仮宅」のこと。この絵が描かれる前の年、弘化2年(1845年)暮に吉原遊郭は火災に遭っていました。その時、廓の外の民家を借り受けて「仮の営業」をすることが許されました。これを「仮宅」と言った。ところが、これがかえって人気を呼ぶ。民家という遊郭には無い雰囲気や独特の風情、格式張らない応対などで、結構、繁盛したのです。
 この絵はおそらく「仮宅営業」の宣伝のために制作されたのでしょう。

 ところがこの絵は公儀に問題視されました。
 当時の検閲制度では、検閲を担当する掛かり名主が見て「検閲印」を押すことで出版できるというものでした。
 このときの掛かり名主は渡辺庄右衛門だったのですが、庄右衛門が病気だったために、代わりに息子が「検閲印」を押すのを代行しました。
 ところがその息子は、版元に請われるままに、着物の紋のように、絵の中の雀の着物に押してしまったのです。名主の息子にも、洒落っ気や遊び心があったかも知れない。

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 この絵に出てくる3人の「雀」の背中や袖のところに「渡」という文字が見えますね。これが「検閲印」なのです。それがいけなかった・・・

 言い伝えによると、当時の北町奉行・遠山左衛門尉景元(あの遠山の金さん)の勘気に触れ、「そんなことで検閲が出来るか!」と名主はけん責を受けた上、「検閲の資格」を剥奪されたという。登場人物の紋所として「検閲印」を使うというのは、なかなか面白い趣向ですが、奉行所から見れば「この御時世に悪ふざけが過ぎる!」ということなのでしょう。

 幸い、今度も、版元や国芳にはお咎めは無かったようですが、相変わらず、公儀からは「要注意人物」として目をつけられていたらしい。

 次回もまた、世間を騒がせた国芳の錦絵を紹介します。
(次号に続く)


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妖精の系譜 №60 [文芸美術の森]

イギリス児童文学と旅 7

     妖精美術館館長  井村君江

フェアリーランドへの旅 2

 今世紀に入るとC・S・ルイスがナルニア国を造りあげた。七巻から成るナルニア・サガである。この国へ子供たちは古い洋服箪笥の奥から入っていくのである。ナルニア国ではライオンの王アスランという善の支配と、白い魔女という悪が戦っている。ルーシーほか四人の兄妹は力を合わせナルニアの王と女王となってこの国を治めるが、カロールメン国との最後の戦いの末に滅びてしまう。神であるライオン、アスランの声に応え、時の巨人が角笛を吹くと星は落ち世界は暗黒となる。生きものはすべてその国を逃れ去る。竜やとかげが、草も木も一つ残らず食べつくしてしまう。海水がおしよせ、国は一面の水にひたり、夜が明けると空には太陽がのぼる。このナルニアの国は聖書の創世紀の世界を見る思いがする。ノアの洪水以前のこの世界の初めに存在した幾世紀も前の原始の国のような感じがある。ド・ラ・メアのティッシュナーにも魂の憧れる理想郷を象徴的に示したような感じがあったが、このナルニアはより寓意的にとれる。人間の魂の永遠の世界かも知れないし、人間の心の裡に存在する世界の原型かも知れぬし、また端的に言えばキリスト教的な世界ともいえよう。ルーシーたちはタイム・マシンによって時間を逆行し、古い伝統の世界へ旅したようでもある。
 一方、アーサー・ランサムは『女海賊の島』(一九四一)を作りあげた。一見リアルな中国ふうの島を設定しながら、主人公ミシイ・リーの性格には現実離れのしたフェアリーめいたものがあるし、虎島と竜島と亀島という三つの島は、形を変えたネヴァネヴァランドであるともいえるであろう。そしてまたここには探検、宝探し、逃走と追跡、遭難という要素を付け加え海とヨットを舞台に物語は展開していく。ランサムの『ツバメ号とアマゾン号』(一九〇三)以下の一連の海洋ものは、スチーヴンソンの冒険ものの系列をひきながら、その冒険のテーマが子供たちの心の中の空想の遊びの中におり込まれていることによって、あまり特殊な事件や人物を登場させずとも、子供たちの日常生活と密接に結びついた地点で出来事が起こっていく、という独自の物語の世界を作りあげたのである。そして『女海賊の島』などは、その海洋冒険の要素と未知なるものとの出会いという、フェアリーランドの要素も合わせ持った物語であると言えよう。
 さて重点的に現代児童文学におけるフェアリーランドへの旅を見てきたが、これはファンタジィの世界とも言い換えることができるように思う。ファンタジィについては別の角度から論ずる必要があろうが、ただここで述べておきたいことは、ファンタジィの世界とは単なるとりとめのない無統一な空想や幻想を羅列してできた世界などではなく、あくまで作者の想像力によって意図的に築かれた有機的に統一性のある世界だということである。ネヴァランドでもワンダーランドでも、ティッシュナーやナルニアでもわかる通り、それぞれの世界はこの普段の世界とは異なる独立した存在としての論理と現実観を持っているのである。前にフェアリーランドは子供のユートピアだと言ったが、確かに夢を抱かせ、子供の心をこの世にない楽しい国に遊ばせはしても、往々にして現実に欠けているものの裏返しとしての充足できる国であり、それ故に現実諷刺を含んだりする大人のユートピアのような積極性は持たない。ネヴァネヴァランドなどは、いつまでも子供でいられるという条件があるところは日本の「常世」に似ているし、ティッシュナーの静かで神秘的で美しい一つの山を描写するところは、「蓬莱山」と類似した理想郷でもあろう。この日本の「常世」観というものは、神話から辿ってこなければならぬ古語であるが、桃源郷とか楽園とは違って「常世」とか「常世ノ国」は、海の彼方の異郷、あるいは理想郷を指しており異国的な不老不死の夢幻の理想郷を指すという点で、もっともフェアリーランドの考えに近いものを持っていると思われる。
 もちろんこの語を語源的に辿っていっても、海の彼方が外来文化(仏教も含めて)の渡来する別世界なのか、渡来民の持っていた異郷観が日本流に変化してできたものか、あるいは自然発生的に育った観念なのか明らかでないし、神仙思想が日本に土着した説話である「浦島子」や「竹取」「七夕」といったものから連想され成立してきたものであるかはっきりしない。しかし「常世」は「常夜」という常闇や地下の黄泉(よみ)の国に通じるものとは違い、他界観ではなく異郷観であることははっきりしている。童話のフェアリーランドでも、死後の世界を重ねたものはあまりない。「北風のうしろの国」が半ば意識不明の状態で描く天国という、死との境のような国であっても地下ではないし、地の下にあるといっても、ワンダーランドは死者の世界ではない。天に登って行くものではマクドナルドの『黄金の鍵』が虹をつたって登って行く国であるが、死後の世界―天国や地獄―といぅ設定は現代童話ではあまり見られない。たいがい空を飛んでも海を渡っても、現実世界と同次元にある水平的な別世界に行くのである。「常世」も空間的にいって原初は「水平表象」であり、いわば「水平(海の彼方)の夢幻理想郷」である。フェアリーランドは民間伝承として存在したものであるが、これまで見てきたように現代になってもさまざまに創作者たちの手から独自のものになって生まれ変わっている。しかるにこの日本の「常世」観というものは、『古事記』『万葉』『風土記』の世界から継承されて現代文学に生かされている例をみない。中国の神仙詩や伝奇物語などとの連関でも、考えてみる必要があろう。
 また子供のフェアリーランドは、大人の理想郷が地上楽園として願望を満足させてくれる楽しい場所として、動物的幸福や感覚的逸楽に耽る退廃的場所になるような傾斜は持っていない。官能の陶酔にひたれる「ヴィーナスの山」や食欲を満たしてくれる国コカーニュなど、大人の文学には人間の欲望を満足させてくれる本能充足や一種のデカダンスな放逸を許した国として描かれた文学も多い。もちろん子供の童話にも「お菓子の国」の物語はあっても(『ヘンゼルとグレーテル』や『くるみわり人形』)、それは単なる楽しい愉快な国の道具立てであって、食欲におぼれ感覚的放逸さや楽しさそのものを示すのが目的ではない。もちろん、「こうしたい」、「ああだったらいいな」という子供の願望をかなえてやる物語もなくはないし、最近でもネズビットが『砂の妖精』(一九〇二)で、小人のサミアッドが子供たちに一日に一つ願いごとを実現させてくれているが、それも夜になってその魔法の力は失せた時のギャップの方が問題となっているのである。そしてそれぞれのファンタジィの国への旅をしたトムでもルーシーでもダイアモンドでも三匹のサル達でも、その途上の体験から何かを得て大きく成長していくのであって、ファンタジィの作者たちはその変化を描くことが一つの意図である。とまれ、今日の子供たちが送っている日常生活はもはやフェアリーの棲息を許さないであろうし、そうだとすれば子供たちの方がこの日常生活の制約から逃れて、一時フェアリーランドへ赴くほかはないであろう。そのへんにこの未知の国へ、ファンタジィの国へ旅をするというパターンが今日でもなおもてはやされている理由があるのかも知れない。

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №243 [文芸美術の森]

チンパンジー 1953年/日曜日 1954年

     画家・彫刻家  石井鶴三

1953年チンパンジー.jpg
チンパンジー 19453年 (203×140)
1954年日曜日.jpg
日曜日 1954年 (141×202)


*************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』 形文社


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武州砂川天主堂 №35 [文芸美術の森]

第十章 明治二十・二十二年 1

         作家  鈴木茂夫

一月十三日、御殿場・鮎沢村。
 木造二階建ての家屋が完成した。聖堂は、四世紀に殉教した若いギリシャの工女の名にちなみ、フィロメナと命名した。ジェルマンは、この聖堂でミサを執行し、説教した。会衆は六人の患者である。

一月二十日、御殿場・鮎沢村。
 大家(おおや)の男がジェルマンに訴えた。
 「神父さん、実はお貸しした家を空けて欲しいんです」
 「何があったんですか」
 「袖父さん、この家には、ハンセン病患者を一人だけ住まわせるのだと思って貸したんですが、六人もの患者が入っていて、村の衆が気味悪がっているんです」
 「あなたとお話しして、借用証書を作った際には、私がどのように家を使うがは、何一つ問題になっていませんよ。それにハンセン病患者は、きちんと治療すれば、恐ろしいものではありません」
 「そりゃ、神父さんの言うとおりです。村の衆は、ハンセン病患者がいることが気に入らないんです」
 「大家さん、あなたが村の衆に、どのような賃貸契約になっているかを説明すれば、済むことじゃないですか」
 「それもその通りです。ただ事情は、もう少しこみいっているんです。恥を忍んでぶちまけますが、私は村の衆に借金があるんです。村の衆の言い分は、借金を返済しろ、それができないなら、神父さんに家を空けてもらえと言っているのです」
 「大家さん、あなたの借金は、あなたの問題で、私とは関係がありません。それに、私は約束した家賃をきちんと支払っています。ですから、あなたの借金は、あなたと村の衆とで話すことですね」
 「村の衆は、私が借金を返済できないのを知っているんです。だから、家のことと借金を関係づけて言っているんです。それに私は病気がちなので困っているんです」
 「突然、家を空けろと言われても、困りますし、あなたの言い分は筋が通りません」
 「神父さん、私の弱い立場も考えてくださいな」
 ジェルマンは頭を抱えて考えた。大家の申し出は、まるで筋違いのものだ。それが理不尽であることを大家にも主張した。問題は、大家の借金にあるのではない。ハンセン病患者の収容施設が村に出現したことにあるのだ。その方便として、村の衆は、大家に借金を返せと言い続けるだろう。愛と慈(いつく)しみを説く宗教者として、どうあるべきかを考えねばと思う。
 気の弱い大家を追い詰めるような状況にしておいてよいものだろうか。それに、ハンセン病施設が非難の対象となるのは、家を借りているからだ。自分の所有地に、自分の施設を建ててさえいれば、どれほど無理解な人びとから非難されても、追い出しの対象となることはない。
 それと、一軒の農家に収容できるのはせいぜい十人だろう、それ以上は無理だ。大勢の薯を受け入れて、ハンセン病書救済の展開をはかるには、新たに病院を建築することが何よりだ。大家の申し出がキッカケとなって、ジェルマンは、自らの土地を確保することを決意した。
 それには、相当な資金が必要だ。パリ外国宣教会には、それに応じる財政的余裕がない。
 内外の多くの信徒の寄付に待つことになる。

『武州砂川天主堂』 同時代社


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浅草風土記 №12 [文芸美術の森]

吉原附近 5

       作家・俳人  久保田万太郎

      五
 
 そのあと三四年してである、いうところの「十二階下」という一区画の出来たのは……
 これよりさき公園の中の、玉東だの、剣舞だの、かっぽれだの、郡桶だの、浪花桶だの、
そうした「見世物」の一部にすぎなかった「活動写真」がその前後において急に勢力をえ
て来た。そうしてわずかな間にそれらの「見世物」のすべてを席巻し「公園」の支配権をほとんどその一手に掌担しょうとした。と同時に「公園」の中は色めき立った。新しい「気運」は随所に生々しい彩りをみせ、激しい、用捨のない響きをつたえた。――幸龍寺のまえの溝ぞいの町も、そうなるとまたたく間に、「眠ったような」すかたを、「生活力を失った」その本来の面目をたちまち捨てて、道具屋も、古鉄屋も、檻襟屋も、女髪結も、かざり工場も、溝を流れていた水のかげとともにいつかその存在を消した。そうして代りに洋食屋、馬肉屋、牛肉屋、小料理屋、ミルクホール、そうした店の怯(め)げるさまなく軒を並べ看板をつらねるにいたった。――ということは、勿論そのとき、その横町の、しずかな、おちついた、しめやかなその往来の、格子づくりのしもたやも、建仁寺の植木屋も、「三番組」の仕事師も、いつかみんな同じような恰好の小さな店。――それは嘗て「公園」の常盤座の裏、でなければ、観音堂の裏で念仏堂のうしろ、大きな榎の暗くしずかに枝をさし交していた下に限ってのみ、み出すことの出来た小さな店……銘酒屋あるいは新聞縦覧所……にたち直っていたのである。
 その後また大きな火事があって「公園」の大半を焼いた。「公園」ばかりでなく、その火は「広小路」の一部をさえ焼いた。――それまではまだ隅々に幾分でも「奥山」の相(すがた)を残していた「公園」がそれ以来根本から改まった。すなわち猿茶屋がなくなり、釣堀がなくなり、射的がなくなり、楊弓場がなくなった。松井源水の歯みがきを売る人寄せに、独楽をまわしたり居合抜きをしたりすることも再びそこにみられなくなった。――十二階株式会社の、余興と称して入場者に小屋かけの芝居をみせたり、最上階で甘酒の接待をしたりしだしたのもその火事以後のことである……
 で、「公園」は、そこで完全な活動写真街になった。――曰く電気館、曰く富士館、日
く三友館、日く大勝館、日くオペラ館、円く何、日く何……
 かくして可哀想に「千束町」は……つみも報いもない千束町という町は、浮気な、悪性
な、安白粉の句の骨の髄まで浸込んだ町として天下に有名になった。-そうして、それ
は、それ以外の存在の何ものでもなくなった……

      六

 と、震災である。十二階は十二階劇場……嘗てのかの小屋かけの余興場から出発した十二階劇場をだけ残して亡びた。-が、幾ばくもなくいまの昭和座が出来、その十二階劇場もまたわたしたちのまえから永遠にそのすかたを消した。
「けど、では、十二階のあとはどうなっている?」
 そう思って今日……昨夜の今日である……晴れぬいてさびしい青空の下、いとおしく輝くあかるい日の中をわたしは御苦労にも古なじみの幸龍寺のまえに立った。――どうしてそう助かることの出来たものか、幸龍寺の門、焼けないでもとのままの……震災以前のままの古い、大きい、すべり落ちそうな瓦屋根をもったそれである。
 そのくせ境内はみるかげもない。
 その往来を……むかしのその溝ぞいの往来をあるくことはわたしにとって決してめずらしいことではない、三月ほどまえにもあるいた、一ト月ほどまえにもあるいた、必要によってつねにわたしはあるいている ――が、つねに、いつもは、そこをあるくのが目的ではない。――それだけにわたしは、空にいつもみてすぎていたその往来のうえを、しげしげといまみ守ることによって軽い驚きを感じた。――整ったからである、おちつきが出来たからである、ヒレがついたからである……
 いいえ、その家ならびのうえに。1町としてのそのいとなみのうえにといって当年の洋食屋、馬肉屋、牛肉屋、小料理屋、ミルクホール、そうしたものの妨げるなく立並んだ光景を再びそこにみるよしのなくなったわけではない。牛島御料理、鮮魚御料理、酒場、喫茶店、カフェエ(馬肉屋とミルクホールとはいまにして完全に「昨
日」の存在になった)そうした店々の、競ってその両側に、それぞれのその看板をかかげていることは、むかしの光景にまさるとも劣らない位である。――が、いえばその家づくりに、店飾りに、嘗てのような「街(てら)い」がなくなった。「焦慮」がなくなった。……しかもそれらのその水稼業(みずしょうばい)に立交って、自動車屋だの、ラジオ商だの、なにがし金融事務所だの、そうした堅気(この場合の水稼業に対してである)の店々のそこにそういう適当な配置をもつにいたったことが否むことの出来ない堅実感を与えている。……それにはまた倍余り広くなった道幅がそうした光景を許す機縁になったこともたしかである……
 狂燥な「新しい町」にも年月はふりつもった。
 わたしは薬屋と小料理屋とを両角にもった「昭和通り」という狭い横町を入った。そこがむかしの、しずかな、おちついた、しめやかなあの往来のあとに違いないと思ったからである。が、そこには、こまごました商店の、平凡な規則ただしい羅列があるばかりだった。
「こんなはずでは?……」
 そう思いつつわたしはさきへすすんだ。――と、わたしは、いつかその往来を出外れていた。――いつかわたしは「米久」のまえの、人通りのいそがしい往来の中に立っていた
「此奴は……」
 やや狼狽(あわ)ててわたしは引っ返して。――左へ曲れる道を発見して試しにそれをえらんだ――飽っ気なくわたしは昭和座の横へ出た。
 縦横十文字。――整然とした十字路……
「そうかなァ」
 ひそかにわたしは嘆息した。分り切った話の、「十二階」のあとは「昭和座」になったのである。
 ひそかにわたしは嘆息した。分り切った話の、「十二階」 のあとは 「昭和座」 になったのである。――はッきりそういえばいいのである。――よけいな心配をする必要はないのである。
 ぼんやりわたしは踵(きびす)を返した。――空は青く日のいろは濃い……


『浅草風土記』 中公文庫


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №115 [文芸美術の森]

        奇想と反骨の絵師・歌川国芳
         美術ジャーナリスト 斎藤陽一

第10回 「パノラマ大画面の武者絵」その2

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≪見どころは巨大な鰐ザメ≫

 歌川国芳は、弘化期(50歳)頃から、三枚続きの全部を使ってワイドなパノラマ画面とし、そこに「武者絵」を描くということをやり出しました。
前回は、そのような大胆なワイドスクリーンの構図で描いた「相馬の古内裏」と「宮本武蔵の鯨退治」を紹介しました。
 今回紹介する「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」(上図)も、三枚続きの和紙を大きく使って描いた錦絵です。

 この絵は、曲亭馬琴の読本『椿説弓張月』から題材をとり、時間の異なる三つの場面を「異時同図法」によって一枚の中に描いています。
 平安時代末期、保元の乱が起こり、後白河天皇、平清盛らに敗れたのが崇徳上皇、源為朝らの陣営。その結果、崇徳上皇は讃岐に流され、源為朝は伊豆大島に流されました。
 国芳の絵の題名にある「讃岐院」とは讃岐に流された「崇徳上皇」のこと。

 やがて源為朝は伊豆大島を脱出、九州から平家追討のために船で出帆したところ、暴風雨に遭った。同行していた為朝の妻・白縫姫(しらぬいひめ)は、海を鎮めるために身を投じる・・・
 「最早これまで」と為朝が自決しようとした時、讃岐院(崇徳上皇)が配下のカラス天狗たちを遣わして為朝を救う。
 一方、為朝の一子・舜天丸(すてまる)を守る忠臣・八町礫紀平治(はっちょうつぶてのきへいじ)を救ったのは、巨大な鰐(わに)ザメ。
 三枚続きの画面には、これだけの場面が「異時同図法」によって描かれているのです。

115-2.jpg この絵からも、国芳のパノラマ画面の特質であるダイナミックな運動感が伝わってきますね。

 しかし、国芳が何よりも描きたかったのは、巨大な鰐ザメと荒れ狂う浪でしょう。
 鰐ザメの金属的な光沢のある鱗肌にご注目!
 この見事な質感表現は、絵師の力だけではなく、彫師と摺師の超絶技巧があって実現したもの。
 当時の木版技術は、世界的にみても最高水準に達していました。

≪またも平家一族の亡霊が≫

 もうひとつ、国芳の大判三枚続きの絵を紹介しましょう。

 「大物之浦(だいもつのうら)平家の亡霊」と題する錦絵です。(下図)
 平家滅亡後、兄の頼朝に疎まれた源義経は、再起を図ろうと摂津の大物之浦から西国に向けて船出をしますが、暴風雨に遭い、平家一族の亡霊も現われて船を襲うという場面が描かれる。

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 実は国芳は、まだ若かった24歳頃に、同じ主題の絵を三枚続きの大画面に描いているのです。その絵は、「歌川国芳」の項の第1回(「はじめに~国芳登場」で紹介していますので、ご参照ください。

 それから30年後に描かれたのが、この「大物之浦平家の亡霊」です。
 国芳初期の作品でも、義経一行の乗った船が、奇怪な大波に翻弄されていましたが、こちらの絵では、中空に亡霊たちがシルエットで表わされ、様々な仕草で船に襲いかかろうとしており、幻想性が一層強まっています。
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 船の上では、義経を中心に家来たちが緊張した面持ちで、亡霊たちをにらみつけている。
 船の舳先には、武蔵坊弁慶が突っ立ち、何かを差し示している。物語では、このあと、弁慶が数珠を揉んで祈祷を行い、法力によって亡霊たちを退散させることになっているが・・・国芳は、中空で踊り狂うかのようにして義経一行を脅かせている亡霊たちのひとつひとつを嬉々として描いている。
 これらの亡霊たちは、日本伝統の幽霊やお化けというより、どこか西洋的であり、たとえば「ハロウィン」の妖怪たちのような雰囲気があります。

 大波の描写も尋常ではない。まるで巨大な岩の塊が船を襲うような描き方であり、これまでに見た「宮本武蔵の鯨退治」(先回:第9回)や「讃岐院眷属をして為朝をすくふ図」の波の描写とは異なります。
 義経一行に襲いかかる大波と嵐は、平家の亡霊が船のまわりにだけ起こしたものであり、右端の背景にはわずかに陸地と海が描かれていますが、そちらの海面は平らかで静かなのです。
 国芳絵画の特質のひとつは、このような「怪奇趣味」だと言えるでしょう。

 次回も、歌川国芳の三枚続きのパノラマ画面を紹介します。
(次号に続く)


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妖精の系譜 №59 [文芸美術の森]

イギリス児童文学と旅 6

     妖精美術館館長  井村君江

フェアリーランドへの旅

 前にも述べた通り、旅といっても陸を行くものや海を渡るものや種々あるのだが、イギリスの場合、海を渡っての旅が物語のテーマとして多く用いられているので、その系列の考察に限って見てきた。ここでもう一方の旅として架空の国へ行く旅、すなわちフェアリーランドへの旅を少し見てみよう。イギリスには古くからフェアリー・テイルの信仰があり、広く各地に波及していてその伝統は根強い。この妖精信仰に関してはすでに考察してきた。第一章、第二章で中世の民間伝承としてのフェアリーの発生と伝播、またとくに文学作品の中にとりこまれたフェアリー像を、『ベオウルフ』からチョーサー、スペンサー、シェイクスピアと辿ってみたので、ここでは詳しく触れない。ただ国家の形成以前の村落共同体を単位とする農耕狩猟生活の中から発生し、民間伝承として中世まで伝わってきた「超自然的な生きもの」の言い伝えは、どこの民族にもあるわけだが、本来ならばキリスト教が入ると悪魔として、文明の到来とともに、あるいは迷信として、その影がうすくなり斥けられるはずのこれらフェアリーやエルフが、イギリスの場合のみは非常に異なった運命を辿ったということを指摘しておきたい。
 中世末期に、都市生活の隆盛と、それに伴う合理精神とが人々の心の中に生きていたフェアリーたちを追い出そうとしたとき、イギリスでは何人かのすぐれた詩人たちがフェアリーを自分たちの庭へ導き入れ、そこにフェアリーの棲息の場を作ったわけである。その先鞭をつけたのはチョーサーであるが、フェアリーたちにもっとも大きな貢献をし、現在われわれの描く映像を作りあげたの は、なんといってもシェイクスピアで、『夏の夜の夢』と『嵐』とはそれ以後のフェアリー観を確立した作品である。けれどもスペンサー以後の作品に現われるフェアリーは、もうシェイクスピアにおけるほど人間と親密なものでも素朴でいきいきとしたものでもなくなり、美の象徴とか寓意の道具とかになってしまっている。そして、これ以後は詩人たちがいかにフェアリーを取り上げてみても、それは生気に乏しい、詩篇の小さな額縁のなかに収まってしまった精密画にすぎないもので、パックやエアリエルのように元気に飛び回る姿は見られなくなる。こういう経路を辿って近代に至ったイギリスのフェアリーに、再び生気をふき込んで妖精復活、フェアリー再生ともいうべきものをもたらしたのが子供たちであり、児童文学であったわけである。死にかけた妖精ティンカー・ベルは、妖精を信じる子供たちの拍手で生命を取り戻し、息をふき返すのである。
 このフェアリーが児童文学へ導入される場合にも、やはり「旅」の概念が大きな役割を果たしている。すなわちフェアリーランドへの旅である。この型はすでに、古い民間伝承の中にも少なからず見られる。例えば「ジャックと豆の木」で豆の木を登って行きつく巨人の国などがそうであろう。また男の子が巨人や怪物退治の冒険や宝探しに旅立つ話は数多くあるし、女の人が人里離れた妖精の家へ連れて行かれ帰ってくる(不意の旅)の話もある。あるいはフェアリーやエルフ、ピクシーや人魚などに誘われて、地底や水中のフェアリーランドに行き、楽しい思いをするというパターンも民間伝承物語の中に多く現われている。近代の児童文学にフェアリーが現われる場合も、フェアリーランドへの旅という形式がとられることは注目すべきことであろう。
 このフェアリーランドは言ってみれば子供の一つの夢の国を実現したものであり、子供のユートピアとも言えよう。近代の創作童話では、いろいろな型の国がさまざまな作家によって造りあげられている.例えばジェイムズ・バリの『ピーター・パン』(一九〇六)では「どこにもない国」が出てくる。これはケンジントン公園の中にあるサーペンタイン(蛇)池の真申にうかぶ秘密の島で、いずれ人間の子供として生まれ出るはずの小鳥たちと妖精しか住んでいない楽園である。ここは普通の公園と地つづきであるが、人々がいなくなってからだけしか存在しない場所である。前身は人間の子であったピーター・パンはこの島で永遠に子供であって、夢と現実との間の半端ものの存在(Betwix and Between)である。彼が現実とこの非現実の夢の世界の橋渡しの役をして、人間の子供ウエンディたちを連れてくる。その旅の方法彗妖精の粉をふりかけて「空を飛んで」である。そしてウエンディは再びピータ-ー・パンに案内されてわが家へ戻ってくることができるが、一年に一度春の大掃除にこの「ネヴァネヴァランド」にくることになる。しかし、次第にウエンディにはピーターが見えなくなる。これは子供は成長するにつれて「ネヴァネヴァランド」が遠い存在になってしまうことを示していよう。
 またアリスの行った「不思議の国」は兎の穴から入る地下の国であり、「鏡の国」は鏡の向こう側のあべこべの国である。しかしアリスの場合、この二つの国はトランプとチェスの国であり、また夢の国でもあるという三重の構造を持っており、夢から覚めればアリスはわが家の暖炉の前にいるわけである。そしてこの国には奇妙な生き物が住んでいて奇妙な論理が支配し、アリスの常識とぶつかって面白い事件が展開する。
 ジョージ・マクドナルドの『北風のうしろの国』では、少年ダイアモンドは北風の背中に乗って空中高く飛ぶ旅をするのだが、北風の体をつきぬけて、北風のうしろの国へ行ってしまう。この国はダイアモンドと詩人と農家の娘の、それぞれの体験から語られるが、いつも五月のように美しく、愛に満ちた幸福な心を抱くことのできるような国である。ダイアモンドがこの北風のうしろの国に行っているときには現実では、生死の間をさまよう大病にかかっている状態になってしまうので、一種の天国のようなところともとれる。死後の世界に近いわけである。
 チャールズ・キングスレイの『水の子トム』(一八六三)は、トムという煙突掃除の子が親方に叱られて逃げ、そのあげく川にはまって水の子となり、水の中で暮らすことになる。この場合は水中に水の子の家や美しい宮殿があり、トムは魚のように泳いで行く。水の底にはまた「紙くずの国」とか「悪ものの国」「うわさの国」「ばかものの島」などがあり、トムはその「世界のはてのその彼方」のところへ親方をたずねて旅をして行く。またド・ラ・メアの『三匹のサル王子たち』が求めて旅をつづける「ティッシュナーの国」は陸地の果てにあるが、不思議な国である。谷間のアッサシモンの宮殿が父の家であったがその死後、三匹の王子はさまざまな冒険や経験を重ねつつ、この国に辿りつくのである。このティッシュナーは人の求める理想郷のような、あるいは彼岸の国のような、また三蔵法師の求めて旅をした釈迦の国のような感じもある。ド・ラ・メアは「口では言い現わせぬ不思議な秘密のしずかな国」とか「風や星やはてしない海や、その向こうの未知のくに」とか「片手につぼ、もう片手には青い衣のすそをもち、首をかしげている女神さま」と表現したりしている。非現実的な夢幻の世界を表現しようとする場合のド・ラ・メアの筆致は精妙であり、そこにかそけき未知の国が立ち現われてくるようである。楽園というものを表わすとき、花咲き小鳥唄い美味しいものが食べられ、いつも年をとらないといった具体的な楽しく作りあげられた夢の世界を思い描くが、このティッシュナーはとらえどころがなく、かえって人間の心の内なる世界に近い。マクドナルドの『北風のうしろの国』に描かれている、北国の精が少年ダイアモンドを連れて行く北風のうしろの国は、この天をもっと人間にひきつけて、夢うつつの状態、あるいは熱にうかされた離魂状態にある人間の精神状態に近いため、より現実感はあるが、自由に心を解き放てる楽園からは遠くなっている。

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №242 [文芸美術の森]

鹿 2点 1953年

       画家・彫刻家  石井鶴三

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鹿 1953年 (201×142)
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鹿 1953年 (201×142)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』 形文社


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武州砂川天主堂 №34 [文芸美術の森]

第九章 毎時十八、十九年 3

       作家  鈴木茂夫

九月十二日、築地・聖ヨゼフ教会、皇居。
 午前十時、宮内省からの貴賓用の馬車二両が築地の聖ヨゼフ教会に差し向けられた。一両目には、オズーフ司教とミドン副司教が同乗、二両目には浅草教会主任司祭プロトランドが乗り、一旦、永田町のフランス国公使館に寄り、公使キエウイツと書記官を同乗させ、二名の騎兵の先導によって赤坂の仮皇居に向かった。
 仮皇居に到着した一行は、午前十一時、式部頭(しきぶのかみ)の案内で参内、フランス国特命全権公使ジョセフ・アダム・シエン・キエウイツが、天皇にオズーフ司教を紹介し、表一の間で謁見が行われた。続いて
日本政府側からは外務卿井上馨、宮内卿伯爵伊藤博文、式部長官侯爵鍋島直大(なべしまなおひろ)らが出席、待立する中でオズーフ司教は、次のような挨拶を天皇に申し上げた。
 「天皇陛下、レオ十三世教皇が、陛下の治め給う日本国に起こりし進歩を視し、他の世界中の大なる国々の帝王の如く、陛下に親密なる交際を結びたく思っておりました。ことに教皇は、陛下の政事(まつりごと))の大なる高き望みをどこまでも大切に思い、また格別に陛下の御身(おんみ)に対してその心にいかなる親愛の情を懐けるかを、陛下に直ちにお知らせしたいと今、陛下に書簡を差し上げるため、教皇がオズーフを召し、その代理としてこの書簡を陛下にさしあげることを命じられたのであります。願わくば、陛下の治め給う日本国に起こった進歩がますます進歩し栄えていきますよう、また、陛下の誉れと日本国民の幸福を切に祈念するものであります」

 オズーフ司教は、レオ十三世の親書を天皇に奉呈した。

 神聖なる天皇陛下、海山遠く隔たるとはいえ、私は陛下がひたすら日本国の隆盛に努力なさっていることを存じております。そもそも天皇陛下が国民の風俗、教育に力を注がれるのは、陛下の聡明英知を証明するものであります。社会秩序が安定しているのは、最も国民をして知意と誠実さを享受する徴(しるし)であります。また、私は日本国におけるフランス人神父と日本人信徒を温かく受け入れていただいていることに感謝いたします。国の基礎は、正しき道にあります。日本人信徒は、信仰を深めると共に、国の君主に忠義をつくし、国法を守り、平和を大切にするものであります。

 明治天皇は、日本におけるキリスト教宣教師の保護と、日本人信徒も他の国民と同様の保護が与えられると言葉をかけられた。十一時三十分、謁見が終わり、別室で茶菓子、巻
きたばこなどが差し出され、正午、仮皇居を退出。

明治十九年十月四日、御殿場・鮎沢村(あゆさわむら)。
 収穫を終えた鮎沢村の稲田には無数の切り株が残っている。田の土が乾いていた。刈り取られた稲の束は、田ごとに稲架(はさ)にかけられ乾燥している。
 秋の日差しの中をジェルマンは歩いていた。歩き続けた体がほてって喉の渇きをおぼえた。目の前に、水車小屋があった。小川のせせらぎの水を受けて、水車が回っている。ジェルマンは、水車からのこぼれ水を掌に受けて口に含んだ。
 その時、小屋に付属した物置と見えるところで、何かが動いた気配がした。
 ジェルマンは、しゃがみ込んでのぞき込んだ。丸まった布地が僅かに動いている。ジェルマンは瞳をこらす。大きい丸と小さい玉が二つある。よく見ると、小さい玉は頭だ。髪の毛が乱れたままになっている。どうやら女性らしい。大きい玉はポロ布のかたまりのようだが、それはうずくまった人間だと分かった。そこからは、悪臭が洩れてくる。
 ジェルマンは声をかけた。
 「今日は」
 「……‥…l
 「今日は」
 ゆっくりと頭が回り、顔があらわになった。傷つき、ただれた顔がそこにある。眼は半ば、閉じられていて視線が宙に浮いていた。盲目なのだ。ジェルマンは、思わず息をのんだ。
 「今日は」
 「こんにちは」
 初めて返事が返ってきた。しわがれてはいるが意外と若い声だ。
 「ここに住んでいるのですか」
 女は、とつとつと語りはじめた。
 「あたしが、こんな病にとりつかれたので、家を出され捨てられて、ここにいるんです」
 「あなたのお名前はなんと言いますか」
 「あたしはこの村の生まれです。名前を言うと家の恥になりますから、申せません。あなたはどこの誰ですか。聞いたことのない話し方をされる」
 「私はフランス人です。カトリックの神父です」
 「キリストさんは優しい。あたしのような者に声をかけてくれるなんて」
 「神様は、どんな人にも優しいのです。私はその神様の声を取り次いでいます」
 「神父さん、あたしの身の上話をしましょう。あたしは、村で産まれて二十歳になった時、嫁にいきました。亭主は良い人でしたから、幸せでした。子どもにも恵まれて暮らしているうち、三十歳になった頃、病気が出たんです。はじめは顔の吹き出物と思っていたんですが、だんだん、顔が崩れてきたんです。医者に診てもらいましたら、ハンセン病と言われました。この病気は直ることはないと言われました。親戚や近所の人たちが、伝染するといけないと、あたしを避けるようになりました。やがて、優しかった亭主も冷たくなりました。家を守るためには、お前を捨てるしかないと、この水車小屋の横に、小さな小屋を建て増してて、入れられたのです。病気が進み、眼が見えなくなりました。そのため、自分で炊事もできなくなりました。今では、一日に一回、飯を届けてくれるだけです。あたしの兄は、僧侶です。兄は、お前のような者がいるおかげで、みんなが迷惑していると叱ります。命をちぢめようと思いましたが、体が不自由でそれもできないのです」
 そう言い終わった女の眼から大粒の涙がこぼれでた。
 ジェルマンの背筋に、戦慄が走った。これは神の手引きによる出会いだと直感した。「神の国は微少なる者のためで、偉大なる者のためではない、貧しき者、謙遜なる者のためで、富める者、倣慢な者のためではない」という聖旬が浮かぶ。神の慈悲を社会のどん底に喘いでいる人に伝えるのだと悟った。

『武州砂川園主導』 同時代社


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №114 [文芸美術の森]

                 奇想と反骨の絵師・歌川国芳
           美術ジャーナリスト 斎藤陽一

    第9回 「パノラマ大画面の武者絵」その1

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≪巨大な骸骨が襲いかかる≫

 大判サイズの紙を3枚つなげて、三枚続きの大きな画面に仕立て上げるという趣向は、それまでの役者絵や美人画の世界にはあったのですが、その場合、一枚だけ切り離しても鑑賞できるような工夫がなされていました。
 ところが国芳は、三枚続きの全部を使ってワイドなパノラマ画面とし、そこに「武者絵」を描くということをやり出しました。弘化期(国芳50歳)頃から、このような大胆なワイドスクリーンの構図が増えてきます。

 上図は、山東京伝の読み本『善知(うとう)安方忠義伝』にもとづいて歌川国芳が制作した三枚続きの錦絵「相馬の古内裏」。
 平将門が滅びたあと、その遺児の滝夜叉姫は、廃墟となった古内裏を巣窟として徒党を集め、亡父将門の遺志を継いで謀反を企てる。しかし、源頼信の家臣で武勇の誉高い大宅太郎光国によって、滝夜叉姫の陰謀はくじかれるという話です。

 山東京伝の読本では、大宅太郎光国の前に数百の骸骨が現れるという場面ですが、国芳はこれを巨大な骸骨に置き換え、それが光圀に襲いかかろうとする画面にしています。
左では、滝夜叉姫が妖怪を操っている。読本の設定では、大宅光国と滝夜叉姫の遭遇の場面と、骸骨たちの出現場面とでは、時間が異なるのですが、国芳はここで一つの場面に創り上げ、物語性を高めています。

114-2.jpg 国芳描く骸骨は、解剖学的にも正確なものとされています。国芳は、手もとにたくさんの西洋の図版を所蔵しており、日頃、熱心に研究していたという。その努力の成果が出ています。

 それに加えて、構図的にも、太郎光国をにらみ据えながら襲いかかろうとする巨大な骸骨には、ダイナミックな動きが表現されています。画面を斜めに走る破れた御簾(みす)も、画面に流れを生み出して効果的。まことに大胆な発想と構図ですね。

 この形式の錦絵には、三枚続きのワイドな画面全部を思い切り使って「見世物的スペクタル」を演出するという国芳の才能が示されています。

≪宮本武蔵の鯨退治≫

 下図も、大判サイズの紙を3枚つなぎ合わせたワイドなスペースを生かして、巨大な鯨を退治する宮本武蔵を描いた錦絵。これこそ、三つに分断することが不可能な、3枚でひとつのパノラマ画面です。
 画面の隅々まで効果的に使い、波しぶきをあげてのたうち回る巨大な鯨のエネルギーを迫力満点に表現している。江戸っ子たちの度肝を抜いたことでしょうね。

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 鯨の背中に乗って剣を突き立てている宮本武蔵は小さく描かれる。あまりに凄い鯨の迫力に、見る者は武蔵のことを忘れてしまうほど・・・これがまた国芳のねらいでしょう。

114-4.jpg ところが鯨の顔をクローズアップで見ると、笑いながら悠々と泳いでいるようにも見える。なんと、鯨の口が赤い紐に変身し、その端が豆絞り模様の手ぬぐいを縛っているので、まるで首に赤いリボンでもつけているかのよう。どことなくユーモラスで、国芳の遊び心が感じられます。

 鯨の身体全体に見られる白い点々は、どうやら牡蠣殻のようです。というのは、研究者によれば、国芳は、この鯨を描くにあたって、先行する出版物のいくつかの図版を見たらしく、そこには身体に牡蠣殻のついた鯨が描かれていたというのです。
 いかにも国芳らしい旺盛な研究心ですが、とは言え、暴れまわる鯨の躍動感と、せり上がる大波がつくり出す緊迫感ある構図は、まさに国芳ならではの独創的な絵画世界となっています。

 次回も、歌川国芳の大判三枚続きのパノラマ画面を紹介します。
(次号に続く)


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浅草風土記 №11 [文芸美術の森]

吉原付近 4

      作家・俳人  久保田万太郎

     四

 「……十二階のまえをつきあたって左へ切れ、右へ曲ると、片側は辛龍寺の古い筋塀の、片側は幅六尺あまりの大きな溝のまえに、屋根の低い、同じような恰好をした小さな古家ばかりずっと立続いていました。――店に堆くがらくたを積んだ道具屋、古鉄をならべたふるがねや、襤褸屋(ぼろや)、女髪結、かざり工場。――そうしたうす暗い陰気な稼業のものばかりがその溝の上にかたちばかりの橋をわたして住んでいました。」
 わたしはかつて「ふゆかすみ」という文車のなかにこうしたことを書いた。

 「その家つづきの尽きたところにやや気ましな橋があり、そこを右へ入ったところに、狭くはあったが、しずかな、おちついた、しめやかな感じの往来がありました。右手には格子づくりのしもたやが二三軒ならび、左手には、めぐらした建仁寺のかげにいくつもの盆栽棚の出来ている植木屋の広い庭と、古い、がっしりした格子をおもてに入れた三番組の仕事師の住居とが並んでいました。-その往来の行きどまりは十二階の裏門で、仰ぐと十二階の巨人のようなすがたがすぐその眼のまえにそそり立っていました。」

 ……というのは十二三の時分、わたしは、半年ほどその近所で毎日をくらした。――その時分、その仕事師のうちの前をまた入ったところの細い道に、わたしの祖母の姉にあたる人が住んでいた。わたしはこの人のことを「大きいおばァさん」と呼んで祖母につぐ好きな人としていた。その関係で始終わたしはそのうちに入浸った……とはいうものの、それに上越すもう一つの大きな理由は、その「大きいおばァさん」という人が、意気な、華奢(はで)な、婆婆っ気の強い人だっただけ、唄の師匠は来る、芸妓は来る、役者は来る、始終うちのなかが賑やかだったのである。それがわたしにうれしかった。「夜学」へ通うのに近いということを理由にしてしまいには泊りッきりにとまり込んだりした。……どんなにそれが親たちの機嫌をわるくしたことだろう……

 「……馬道の学校から帰ると何をする間もなく夕方になります。あたりが刷かれたように暗くなります。――と、近所に用のあるものでない限り、でなければ松井源水のほうからの近みちの露地を抜けて来るものででもないかぎり、そこを往来するものといっては絶えてないその道のうえを――そのしらじらとした道のうえを植木屋の建仁寺について溝のうえの橋に出ると、吉原のおはぐろ溝のほうから来る水が、ことに雨上りででもあると、岸を浸して、深く、寂しく、おもいかさなるさまに流れていました。――その水に、そこの紺屋の店さきに咲いた爽竹桃の未練らしい影を映していたのを昨日のようにしかまだ思わなくっても、風はもうしみじみと身にしみて、幸龍寺の、新谷町のほうまで長々とつづいた塀も、塀の角に屋台を出している団子屋の葭簣っ張(よしずっぱり)も、その蔭貸っ張のまえに置かれた人力車も、すべて末枯(うらがれ)の、悲しく眼をふせ額をふせた光景でした。――わたしの記憶にもしあやまりがなければ、空は毎日、日の目をみせずどんより曇ってばかりいました。」

 そういうそこは寂しい土地だった。「眠ったような」とでもいえれば「生活力を失った」とでもいえるすかたをした所柄だった。そうして、その溝について真っ直にどこまでも行けば、吉原の、前記「検査場の門」のまえにおのずから出られた。
 さすがにもうその時分には一めんの田圃もだんだん埋められ、以前のように太郎稲荷(「たけくらべ」の第六章「……鰐口ならして手を合せ、願ひは何ぞ行きも帰りも首うなだれて」畦道(あぜみち)つたいに美登利の帰ってくる中田圃の稲荷とはこれである)の森もみ通しにはみえず、道の両側に拡った水田の影もすでにみられなくはなったものの、すすんでその「検査場の門」のまえくらいまで行けば、田圃の名残の、枯れ枯れになった蓮池が夕ぞらのいろをしずめているといった風の光景を寂しくなおそこにみ出すことが出来た。

 「夕飯をたべると、わたしは包みをかかえて宮戸座の近くまで『夜学』にかよいました。包みの中にはナショナル読本(リーダー)と論語とが入っていました。――すがれた菊の鉢のかげにほそぼそと虫の鳴いている夕あかりのなかを、抜けみち伝いに『米久』のまえの広い往来へ出ました――そのまえ、通りすがりに萩野という酒屋のうちの友だちと、石川という比羅屋のうちの友だちとをいつもさそいました。」

 「宮戸座の近く」とそういっていえないことはないけれど、その毎晩「夜学」にかよったさき、ほんとうをいうと宮戸座よりもずっともっと手前のとある横町の露地の中にあった。もと浅草学校の先生で、其ころ本所の江東小学校の先生をしていた三木さんという人のところへ通ったのである。江東小学校といえば亡き芥川君のいた学校である。ことによるとだから芥川君もこの先生を知っていたかも知れないと思った。聞いてみようみようとおもいながらいつも忘れてとうとう聞きはぐった、惜しいことをしたと思っている。
 一しょにその「夜学」へかよった仲間の萩野という男は第三中学を出たあと京都の高等学校の一部へ入ったが、在学二年にして世を早くした。石川という男は、いまは他姓を名乗り、帝展派の聞えた画かきになっている。
 「ほんとうにすればそこから千束町の通りをぐるッと廻らなければならないのを、土地っ子の勝手を知っているままに近みちをして『草津』の裏の芸妓新道をわたしたちは抜けました――行きは三人ですから何のこともなかったものの、『夜学』の暗いランプの下で一、二時間すごしたあと、待合せて同じ方角へ帰るものばかり六七人、その同勢で再びその新道を抜けるとき、必ずそのなかの一人が『草津』の離れの、ほの明るく燈火のかげのさしている障子めがけて石をぶつけました。それと一しょに、わたしたちは、大通りさして一散に、呼吸もつかずに逃げました。――そうしたいたずらを毎晩のようにつづけました。」

 「草津」といえば公園切っての大きな料理屋である。――「大きな」という意味は「資本主義的色彩のそれほど濃厚な」というほどの意味である……

 「…が、秋の深くなるにつれてそれもいつとはなしに止みました。草津の離れにも燈火のみえない晩がだんだんとふえました。――両側にしつッこく立並んだ同じょうな格子づくりのうちの、土間のうえに下げた御神燈のかけがいたずらに白く更け、どこからともなく聞えて来る三味線の音じめがすでに来た夜寒のさびしさを誰のうえにも思わせました。」
 そのころ「米久」の向っ角に、当時はまだめずらしかった支那料理屋が出来た。「支那料理」といえば横浜しか思わなかった時代である。必ずわたしたちはその「夜学」の帰りその店の芝に引ッかかった。なぜならその店のまえで売る揚饅頭の白い湯気が冬の近い燈火のいろをいつも明るくつつんでいたから。――そこにはかけ声いさましい「吉原通い」の陣の音が、狭い往来の上をれきろくと絶えず景気よく響いていた。
 で、十一月は来た。1そうしたなかに「酉の市」の季節は来た……

『浅草風土記』 中公文庫



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妖精の系譜 №58 [文芸美術の森]

イギリスの児童文学と旅 5

       妖精美術館館長  井村君江

海と想像力

 『ロビンソン・クルーソー』と『ガリヴァー旅行記』を書くときに、作者たちが気軽に航海記や漂流記という形式を用いた裏には、こうした海洋もの、旅行記ものの伝統があった。そして子供たちの強い好奇心と興味とはそうした中から自分たちに面白い部分をとりあげ、彼ら特有の空想力で自分をとりまく環境以外の経験を取り込んだのである。
 「海は ― とくに子供にとっては ― 未知のもの、未踏のもの、これまで人に語られたことのない不思議な世界の持つ魔力をたたえている」リリアン・スミスは童話の物語の舞台としての海が持つ特殊性をこう述べている。確かに海は人の心を無限の彼方に誘う魅力を持っている。想像力と可能性とを限りなくかき立てる力を持っている。海の彼方に楽しい国があるかも知れぬという夢を描かせる。波路はるかな国へ行こうとすれば、旅の手段は船である。「船」というものは一つの限られた場所である。ある意味では小さな一つの島に等しい。あるいは無人島と同じような条件を備えていよう。一つの限界状況の中で、人間の能力は試される。その中でも発明と工夫の能力が要求される。制限ある物質や環境の中で、人間関係の中での我慢と忍耐とが必要となってくる。船の上の事件、例えば天候や海流の急変や嵐にあったり、火事が起こったり乗組員の間に反乱が起こったりすると敏速に対処せねばならず、陸の上での事件よりもことの重大さは強調され、一人一人の力が試されることになる。能力と心の明暗とそういったものがはっきり浮き彫りにされてくる。一つの出来事に対しては船に乗った人がみな力を合わせて当たらねばならず、個人の勇気、機転、工夫の才と他との調和を図ることも要求されてくる。
 こうした海の上の制約ある場所である船の生活に馴れることに、人間としての成長をからませて物語を書けば、リチャード・アームストロングの『海に育つ』(一九五四)のような作品になる。それを軍隊という集団の中にもってくればフレデリック・マリアットの『海軍士官候補生イージー』(一八三六)や『ピーター・シンプル』(一八三四)など一連の作品になろう(現代で言えば、フォースターの諸作品)。
 海とそこに起こり得る可能な事件、要素をつけ加えてさまざまな物語がこれまでに書かれているが、例えば海の底を探険し調査するという科学的発見の要素をそこに入れれば、ジュール・ベルヌの『海底二万哩』(一八七〇)のようなものになる。だが七つの海の底を放浪するこのネモ船長は、海の誘惑に虜になったというよりも、海の旅に呪われた放浪者のようであり、永劫に海に漂う「さまよえるオランダ人」の映像が入っている。
 難破と探検の物語としては、南太平洋の島に上陸する三人の少年を主人公にしたロバート・バランタインの『珊瑚礁の島』(一八五八)があるし、漁村の生活をそこに結びつけたものならばルドヤード・キプリングの『勇敢な船長』(一八九七)がある。これはアメリカの裕福な家庭に育ったわがままな少年が航海中に海に落ち、漁船に助けられてニューファウンドランドのグランド・バンクスの漁村で生活するうちに、勇気ある少年に変わっていく物語である。密輸事件をからませればジョ ン・メイスフィールドの『ジム・デイヴィス』(一九一一)のように、偶然洞穴に財宝を発見したことから、捕えられて脱出するまでのジム少年の物語となる。
 海賊物語の要素を入れた作品はとくに多く、チャールズ・ホウズの『ダーク・フリゲート』(一九二三)は十七世紀の海賊船を設定し、そこに海に憧れて家出した少年が巻き込まれ、逃れるまでの出来事が語られている。しかしなんといってもこの分野の創始的位置を占める代表的な作品は、R・L・スチーヴンソンの『宝島』(一八八二)であり、『かどわかされて』(一八八六)である。『宝島』で、偶然のことから海の宝探しの旅に巻き込まれ、「ヒスパこオーラ号」で船出する少年ジム・ホーキンズの口から語られる海賊たちの異様な行動や出来事は、作者の巧みなストーリイの運び方で次々と興味深く展開される。残忍なのっぽのジョン・シルヴァーの性格が、木の片足のコトンコトンという音とともにリアルに迫ってくる。海を背景に繰り広げられる息もつかせぬ事件の展開と人物たちの動きとは、この種の海洋冒険ものの古典としての不動の位置を今に至るまで保っている。
ここでは少し立ち入って『かどわかされて』の方を見てみよう。
 これは孤児のデヴィッド・バルフォアが遺産相続の問題から叔父の計略で「コヴエナント号」で連れ去られ、スコットランドの海でさまざまな危険にあい、難破してからは山野で苦労し、ついに本家にたどりつき財産を継ぐまでのスリルに富んだ海洋冒険物語である。舞台は前半が海、後半は山野である。この少年は地味でおとなしく勇気と義侠心に富んだ性質を持っているが、これに対してもう一人の中心人物である登場人物アラン・プレック・スチユワートは対照的に、派手でおしゃれで詩も作り、剣も上手な行動的な人物として描かれている。このアランは当時の支配者であるイングランドに反対し、兵を挙げようとして敗れたハイランダー(スコットランド高地人)の一人で、国外へ亡命し移住した者たちとの間に連絡をとる隠密の一人である。従ってこの物語は海の冒険のストーリイという要素に、ジェイムズ二世派の最後の敗北につづく十九世紀のスコットランドを描いた歴史小説としての要素も備えているわけである。
 筋立ては当時よく知られた「アピン殺人事件」をもとにしている。そしてまたこの物語はそこに生活している人々の性格を作りあげた岩礁が多い霧のかかった海や、ヒースの草原や沼地といった自然と気候を持つスコットランドそのものを描いてもいる。ハイランダーのアランが燃える忠誠心と勇気と誇。高い心を持ち、どんな困難にも堪え忍ぶ粘り強い性格を持っているとすれば、デヴィッドは健全で真面目で、がんこなまでの公明誠実さというものを持ってローランダー(低地人)の性格を代表している。縛られたままエライアス・ホージャスンを船長とする二本マスト船「コヴェナント号」に乗せられ海に出たデヴィッドは、この船で寝たり働いたりして暮らすこととなり、次第にいろいろな船のきま。を覚えていく。荒くれ船乗りたちは気ままだが、一つの船を動かしていくために舵手や航海士や水夫という自分のポジションを守って働いている。その人たちとの友情やかけひき、船室甲板の様子、船での食事や規則のある日常など、デヴィッドは警戒しながらもその生活に馴れていく。ある日、霧の中で他の船にぶつかり、相手はすぐに沈んでしまうが、その乗組員のうち一人だけが空中に投げ出された瞬間、「コヴエナント号」のともから出ている柱につかまって助かり、この船に入ってくる。それがアランである。「コヴエナント号」は海賊船ではないが、海を越え北アメリカに売られる奴隷を運ぶ船であって、デヴィッドも叔父から船長への頼みで売られにいくのであった。アランとデヴィッドの二人は、船長ホージャスンとその部下十五人を向こうにまわして戦いを始める。後甲板船室を中心に繰り広げられる戦闘は、船の中、海の上という状況を充分に利用し考えられた戦略による激しい戦いである。アランとデヴィッド側が勝利をおさめるのであるが、その終結の仕方も陸上のそれとは事情を異にする。船が破損し、また一等航海士と水夫がやられてしまったために船を操る人数が少なくなり、協力して船を動かさざるを得ないために、船長が和睦を申し入れてきて、結局協力して船をすすめ最後は岩礁にぶつかって難破してしまう。
そしてデヴィッドは丸太につかまって浮かび、イアレイド島海岸に流れついて助かるのである。
 そして後半は、山や野の冒険となる。こうした海での経験はこの少年に勇気をつけ、判断力を適切にし強く大きく成長させていく。この作品も『宝島』もそうであるが、主人公の少年の一人称の語り口で客観化され、物語は進展してゆく。従ってこの少年の目に映りこの少年の立場からの解釈によって、事件は印象深く語られていくので、より真実味が物語に加わっている。物語全編に海の風と潮の香りが満ちている。
「イギリス人は恐れを知らぬ強い国民である。彼らは忍耐強い身体と粘り強い意志とを愛する。彼らは国外に出ること、旅をすること、征服者となること、遠くの地を植民地とすることに情熱をかける。土をいじることは好きではない、しかし海は、船で行けるところはどこでも支配したいと望んでいる」。フランスの英文学者ポール・アザールはイギリス人の気質をこう述べているが、島国であるという地理的な事情がこうした海外への進展を望む国民性を養ったのであろうし、また安定した国内では冒険や異常な出来事はもはや起こらず、海と船の上とがその恰好の舞台を提供してくれるものとなったこともあろう。

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №241 [文芸美術の森]

碌山遺作展 1953年/さる 1953年

     画家・彫刻家  石井鶴三

1953碌山遺作展.jpg
碌山遺作展 1953年 (142×201)
1953さる.jpg
さる 1953年 (133×199)

*************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』 形文社


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武州砂川天主堂 №33 [文芸美術の森]

第九章 明治十八・十九年 2

        作家  鈴木茂夫

九月十二日、築地・聖ヨゼフ教会、皇居。
 午前十時、宮内省からの貴賓用の馬車二両が築地の聖ヨゼフ教会に差し向けられた。一両目には、オズーフ司教とミドン副司教が同乗、二両目には浅草教会主任司祭プロトランドが乗り、一旦、永田町のフランス国公使館に寄り、公使キエウイツと書記官を同乗させ、二名の騎兵の先導によって赤坂の仮皇居に向かった。
 仮皇居に到着した一行は、午前十一時、式部頭(しきぶのかみ)の案内で参内、フランス国特命全権公使ジョセフ・アダム・シエン・キエウイツが、天皇にオズーフ司教を紹介し、表一の間で謁見が行われた。続いて
日本政府側からは外務卿井上馨、宮内卿伯爵伊藤博文、式部長官侯爵鍋島直大(なべしまなおひろ)らが出席、待立する中でオズーフ司教は、次のような挨拶を天皇に申し上げた。
 「天皇陛下、レオ十三世教皇が、陛下の治め給う日本国に起こりし進歩を視し、他の世界中の大なる国々の帝王の如く、陛下に親密なる交際を結びたく思っておりました。ことに教皇は、陛下の政事(まつりごと))の大なる高き望みをどこまでも大切に思い、また格別に陛下の御身(おんみ)に対してその心にいかなる親愛の情を懐けるかを、陛下に直ちにお知らせしたいと今、陛下に書簡を差し上げるため、教皇がオズーフを召し、その代理としてこの書簡を陛下にさしあげることを命じられたのであります。願わくば、陛下の治め給う日本国に起こった進歩がますます進歩し栄えていきますよう、また、陛下の誉れと日本国民の幸福を切に祈念するものであります」

 オズーフ司教は、レオ十三世の親書を天皇に奉呈した。

 神聖なる天皇陛下、海山遠く隔たるとはいえ、私は陛下がひたすら日本国の隆盛に努力なさっていることを存じております。そもそも天皇陛下が国民の風俗、教育に力を注がれるのは、陛下の聡明英知を証明するものであります。社会秩序が安定しているのは、最も国民をして知意と誠実さを享受する徴(しるし)であります。また、私は日本国におけるフランス人神父と日本人信徒を温かく受け入れていただいていることに感謝いたします。国の基礎は、正しき道にあります。日本人信徒は、信仰を深めると共に、国の君主に忠義をつくし、国法を守り、平和を大切にするものであります。

 明治天皇は、日本におけるキリスト教宣教師の保護と、日本人信徒も他の国民と同様の保護が与えられると言葉をかけられた。十一時三十分、謁見が終わり、別室で茶菓子、巻
きたばこなどが差し出され、正午、仮皇居を退出。

明治十九年十月四日、御殿場・鮎沢村(あゆさわむら)。
 収穫を終えた鮎沢村の稲田には無数の切り株が残っている。田の土が乾いていた。刈り取られた稲の束は、田ごとに稲架(はさ)にかけられ乾燥している。
 秋の日差しの中をジェルマンは歩いていた。歩き続けた体がほてって喉の渇きをおぼえた。目の前に、水車小屋があった。小川のせせらぎの水を受けて、水車が回っている。ジェルマンは、水車からのこぼれ水を掌に受けて口に含んだ。
 その時、小屋に付属した物置と見えるところで、何かが動いた気配がした。
 ジェルマンは、しゃがみ込んでのぞき込んだ。丸まった布地が僅かに動いている。ジェルマンは瞳をこらす。大きい丸と小さい玉が二つある。よく見ると、小さい玉は頭だ。髪の毛が乱れたままになっている。どうやら女性らしい。大きい玉はポロ布のかたまりのようだが、それはうずくまった人間だと分かった。そこからは、悪臭が洩れてくる。
 ジェルマンは声をかけた。
 「今日は」
 「……‥…l
 「今日は」
 ゆっくりと頭が回り、顔があらわになった。傷つき、ただれた顔がそこにある。眼は半ば、閉じられていて視線が宙に浮いていた。盲目なのだ。ジェルマンは、思わず息をのんだ。
 「今日は」
 「こんにちは」
 初めて返事が返ってきた。しわがれてはいるが意外と若い声だ。
 「ここに住んでいるのですか」
 女は、とつとつと語りはじめた。
 「あたしが、こんな病にとりつかれたので、家を出され捨てられて、ここにいるんです」
 「あなたのお名前はなんと言いますか」
 「あたしはこの村の生まれです。名前を言うと家の恥になりますから、申せません。あなたはどこの誰ですか。聞いたことのない話し方をされる」
 「私はフランス人です。カトリックの神父です」
 「キリストさんは優しい。あたしのような者に声をかけてくれるなんて」
 「神様は、どんな人にも優しいのです。私はその神様の声を取り次いでいます」
 「神父さん、あたしの身の上話をしましょう。あたしは、村で産まれて二十歳になった時、嫁にいきました。亭主は良い人でしたから、幸せでした。子どもにも恵まれて暮らしているうち、三十歳になった頃、病気が出たんです。はじめは顔の吹き出物と思っていたんですが、だんだん、顔が崩れてきたんです。医者に診てもらいましたら、ハンセン病と言われました。この病気は直ることはないと言われました。親戚や近所の人たちが、伝染するといけないと、あたしを避けるようになりました。やがて、優しかった亭主も冷たくなりました。家を守るためには、お前を捨てるしかないと、この水車小屋の横に、小さな小屋を建て増してて、入れられたのです。病気が進み、眼が見えなくなりました。そのため、自分で炊事もできなくなりました。今では、一日に一回、飯を届けてくれるだけです。
あたしの兄は、僧侶です。兄は、お前のような者がいるおかげで、みんなが迷惑していると叱ります。命をちぢめようと思いましたが、体が不自由でそれもできないのです」
 そう言い終わった女の眼から大粒の涙がこぼれでた。
 ジェルマンの背筋に、戦慄が走った。これは神の手引きによる出会いだと直感した。「神の国は微少なる者のためで、偉大なる者のためではない、貧しき者、謙遜なる者のためで、富める者、倣慢な者のためではない」という聖旬が浮かぶ。神の慈悲を社会のどん底に喘いでいる人に伝えるのだと悟った。

『武州砂川天主堂』 同時代社



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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №113 [文芸美術の森]

          奇想と反骨の絵師・歌川国芳
           美術ジャーナリスト 斎藤陽一

            第8回 「奇想の展開」

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≪国芳は妖怪好き≫

 日本美術研究家の辻惟雄氏が昭和45年(1970年)に出版した『奇想の系譜』の中で、岩佐又兵衛や伊藤若冲とならんで歌川国芳が取り上げられていたことから、国芳もまた「奇想の画家」と言われるようになりました。これまで紹介した絵の中にも、そのような国芳の特徴はいたるところに見られましたね。

 上図は、国芳の奇想がよく出ている「道化化もの夕涼み」(天保13年頃)。
 北斎をはじめ他の浮世絵師も妖怪や化物をよく描きましたが、とりわけ国芳は妖怪が好きな絵師であり、しばしば画題にしています。

 この絵は化物を描いたシリーズの1枚で、化け物たちが浴衣を着て、茶店で夕涼みしている光景を描いたもの。さまざまな化物がおしゃべりしながら楽しそうにくつろいでいます。

113-2 のコピー.jpg 左上に書き出された茶店のメニューも変わっている。
 右から、生姜湯、真っ暗湯、化物くづ湯、不気味湯、天狗の卵湯と読めます。
 その横には「千客万来」をもじって、化物たちの世界だから「千化万出」と書かれている。
 屋台に置かれているのは、お湯を沸かす「分福茶釜」。狸の顔と尻尾がついている。どこまでも人を食った絵です。

113-3 のコピー.jpg 縁台には、いずれも化物の男たち。
 右端に立つ男が着ている浴衣には「ドロドロ」というカタカナも文字が書かれ、その前に座る男の着物には「卒塔婆模様」が描かれるという具合。

 茶店の客たちは、いかにも「江戸っ子」そのもののような姿で、夕涼みを楽しんでいる。何よりも、こんな化物たちをつぎつぎと画面に創り出す国芳自身が楽しんでいることが伝わってきます。

 現代の漫画にもつながる国芳得意の戯画です。

≪国芳の遊び心「寄せ絵」≫

 次は、国芳の遊び心にあふれたこんな絵を見よう。

113-4.jpg
 これは、いくつもの人間の姿を合成して描いた男の顔。「寄せ絵」とか「嵌め絵」などと呼ばれる戯画です。
 この男は、一見、強面(こわもて)で恐ろしそうに見えますが、右上の赤い囲みの中に「見かけは怖いがとんだ114-4.jpgいい人だ」と書かれており、実は「見かけによらずいい人なのだよ」というひねりをきかせている。国芳は、こんな「遊び心」の溢れた絵をいくつも描いています。

 近寄ってこの顔を見ると、さまざまなポーズの人間の身体が見える。
このように、変形した人間の身体を組み合わせて、いかに巧みに面白い顔つきを作り出すか、国芳自身がにんまりと楽しみながら描いています。

 国芳のこのような「寄せ絵」は、西洋で「奇想の画家」と言われた16世紀イタリアのアルチンボルド(1527~93)を思い起こします。アルチンボルドは、右図のような、野菜や果物で合成された人間の顔をいくつも描きました。

 勿論、アルチンボルドは国芳よりも150年も前のイタリアの画家なので、鎖国時代の日本の国芳がアルチンボルドの絵を見たことは考えにくいのですが、どこか共通したユーモアと怪奇趣味が感じられて面白い。

≪猫好き国芳の「当て字」≫

 国芳は大の猫好きでした。

 下図は、少年時代に国芳に入門した河鍋暁斎が、のちの明治時代になって思い出して描いた「国芳の住まい」。猫をふところに抱いて少年・暁斎に教えているのが国芳。そのまわりにも何匹もの猫が描かれています。
 ときには、懐の子猫に物語を聞かせたりしたともいいます。
 国芳のざっくばらんな気性と、一門のアットホームな雰囲気が伝わってきます。

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 そんな国芳が、猫たちの身体で、好物の魚の名称を表わすという趣向の「猫の当て字」シリーズを描いています。全部で「ふぐ」「たこ」「うなぎ」「かつお」「なまず」の5点ぞろい。
 そのうち、左図が「ふぐ」、右図が「たこ」ですが、読めますか?

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113-8.jpg それぞれ左上にはシリーズ名の「猫の当て字」が描かれていますが、ふぐのほうは「ふぐと網」、たこのほうは「たこと網」でデザインされており、なかなか洒落ている。

 「ふぐ」の「ふ」は3匹の猫と1尾のふぐで合成されていますが、「ぐ」の字は、右図のように、7匹の猫で組み立てられ、柔軟な猫の身体をうまく使っています。

 歌川国芳が、現代に先駆ける「グラフィック・デザイナー」と言われるゆえんです。

 次回は、国芳の独壇場ともいうべき、三枚続きのパノラマ画面に描いたワイドな「武者絵」を紹介します。
(次号に続く)


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浅草風土記 №10 [文芸美術の森]

吉原付近 3

       作家・俳人  久保田万太郎 
 
                     

  わたしたちは角町の非常門を千束町のほうへ出た。――お歯黒溝がなくなって幾年、その代りともみられた千束堀(その大溝にそうした名称のついていたことを(つい最近までわたしは知らなかった)も覆蓋工事が施されて暗渠になったいまでは、そこはただ、いたずらにだだっ広いだけの往来をよこたえた、無味な、とりとめのつかない裏通りになった。
(嘗て、その蓋をした溝のうえに青いものを植える計画のあることをわたしは聞いた。が、間もなく、またそうした器用なことの出来るわけのものでないことが分って止めになったということを聞いた。真偽は知らない)が、また、そこのそうした往来にならないまえから住んでいる人たち、例えば竹細工だの、袋物製造だの、帽子の洗濯だの、自転車の修繕だの、あるいは比羅屋(びらや)だの、建具屋だの、せんべやだの、つつましく、寂しく、決して栄耀を望むことなしにその毎日を送っている人たちに(ここに限っての光景ではない。が、すぐその眼のまえにそそり立った廓内の大きな建物に対して、何というそれが不思議な取合せをみせていることだろう)立交って、このごろ、暖簾を下げたり、ビールの瓶を棚の上に並べたりしたような小料理屋のちらほらそのあたりにみえ出して来たことをわたしは何とみたらいいだろう? 勿論その暖簾のかげに、棚のまえに、白粉の厚い女たちが立ったりすわったりしているのである。……心許なきは半年あと一年さきである。
 わたしたちはすぐその往来を左へ切れ、おでんやだの汁粉屋だのの煽情的な真っ赤な提燈(いかにそのいろの所柄の夜寒さをおもわせることよ)の下っている細い道を表通りへ出た。――わたしたちはみんなまだ夕飯を食べていなかった。――なればこそどこへ行こう、何をたべようと、わたしたちは、そこもまた区画整理の完了して以前とはみ違えるように広くなった往来を、前方から後方から間断なく来る自動車のヘッドライトを避け避け熱心に評議した。
 やがてその評議の、仲見世の「金田」ということに決着し、それなら少しいそぐ必要がある、あすこのうちは店を閉めるのが早い、そうしたことをさえお互のいいかけたとき、急にわたしの連れの一人は嘆息するようにいった。
「お酉さまの帰りといえば、だまってむかしは大金だったもんだがなァ」
 と、おなじわたしの連れの一人はすぐそれに同じた。
「あのうちさえあればいさくさはないんだ」
 ……というのはいうまでもなく田圃の「大金亭」のことである。公園裏にあったあの古い鳥料理屋のことである。もと浅草五けん茶屋の一つ、黒い塀をたかだかと贅沢にめぐらした、矮柏(ちゃばひば)が影のしずかに澄んだやや深い入口への、敷石のつねに清く打水に濡れていたその表構えについてだけいっても、わたしたちは「古い浅草の黄昏のようなみやびとおちつき」とを容易にそこにみ出すことが出来たのである。一ト口にいえば江戸前の普請、江戸前の客扱い、瀟洒(しょうしゃ)な、素直な、一トすじな、そうしたけれんというものの、すべてのうえに、それこそ兎の毛でついたほどもみ出すことの出来なかったそのうちの心意気は、空気は、どういう階級の、どういう育ちの人たちをでも悦喜させた。そうしたうちをもつことを「浅草」のほこりとさえわたしは思った。――が、惜しくも震災でそのうちは焼けた。――そのままそのうちはわたしたちの前からすかたを消した。 ――古くいたそこの女中の一人に、その後、築地の「八百善」でゆくりなくわたしは邂逅(めぐりあ)ったりした。
「行こう、じゃア、大金へ」
 二人にこたえてわざとわたしはいった。 ――というのは、もとのそのうちといかなる関係をもつうちか知らない、おなじ「大金亭」という家名の、もとのうちで調理したとおなじ種類のものばかり調理するうちの、富士横町の裏通りに出来たことをわたしはおもい出したから……  が、それ以上わたしは説明する必要はなかった。だれもその存在だけは聞いて知っていた。そうしてわたしたちの気紛れはすぐその「金田」説をそのうちに搗替(つきか)えた。すなわちわたしたちは、それと一しょに、いまはただわずかにそこの交番の名乗にだけ名残をとどめている「小松橋」を象潟町のほうへ急にまた左折した。――うッかりしている間に雲はすっかり切れ、さえざえとあかるい月の光は水のように空に満ちていた。わたしは喜んだ。なぜなら熊手はもたなくっても、唐の芋は下げなくっても、黄金餅は買って来なくっても、それによって、その冷え冷えとした「月夜」をえたことによって「酉の市の帰り」という心もちをはッきり自分に肯うことが出来たから……。「年の市」の雪に対して、「酉の市」はつねに月である……。
「が、いけない、もっと陽気が塞くなくっちゃァいけない」
 わたしの連れの一人はいった。
「そうとも。――もっと下駄の音が凍てて聞えなくっちゃァうそだ」
 すぐまた一人が賛成した。
「そんなことをいったら吉原に菊の咲いているのが一番間違っている。――あれじゃァ秋の光景だ。――『冬のはじめ』でなくって『秋の末』だ」
 それに対してまたわたしはいったのである。「酉の市」というもの、いままでわたしにとって冬の来たという可懐(なつか)しいたのしい告知以外の何ものでもなかった。「酉の市という声をきくとすぐに、霜夜ということばを、北風ということばを、火事ということばを誰もが思い遣った」の「霜のいろと一しょに寒さは日に日に濃くなり、ほうぼうにもう夜番の小屋が立って、其時分から火事の噂が毎晩のように聞えだしました。――ことに今年は三の酉まであるから火事が多いだろうということがいつものことで誰にも固く信じられました」のと、いままで始終そうしたことを書いて来たわたしである。
 本街道はいかほどにぎやかでも、一卜足そこをあきへそれるとうそのようにしずかになるのがそうした晩(「年の市」の場合でもそうである) の習いである。象潟警察の角を一トたび富士横町へ入ると、月の光にうかんだ広い道はただもう森閑とすみずみまで霜げていた、いッぱしもう更けたように火の番の拍子木の音ばかり高かった。――間もなくわたしたちは、大ていこのあたりと当てずッぽうに曲った細い道の、あかりのぼやけた、人通りの全くない中に、めざすその「大金」の――以前のそのうちとは似ても似つかない恰好の、どう贔屓目(ひいきめ)にみてもむかしのそのうちの後身とはおもえない作りの、一卜坪にも足りない土間のうえにすぐ階子口のみえるといった風の、浅い、むき出しの、ガランとしたその「大金」の門口をみ出した。――宵からまだ一ト組の客もなかったらしい心弱さを、月の中、もり塩のかげは蒼くしずんだ。
 わたしたちは三間ほどしかない座敷のその一つを占めた。わたしたちは、ごまず、やまとあげ、やきつけ、そうしたむかしながらの言い方の、むかし可懐しいしなじなの運ばれて来るのをみながら盃をふくんだ。――しずかに、寂しく……。
 で、わたしは、もう一度そこで「吉原」を思った。

『浅草風土記』 中公文庫

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妖精の系譜 №57 [文芸美術の森]

イギリスの児童文学と旅 4

       妖精美術館館長  井村君江

旅は魔法の行為      

 「旅」というものはこれまで見てきたように、日常生活の延長上において想像的なものが可能になるという不思議な機能を持っている。従って純文学においても旅をテーマとした作品は、容易にフィクション化されやすいこともあって、数多く作られてきている。いまここで問題にしようとするのは、旅をテーマとした旅の文学、旅行文学と、十九世紀のロマンティシズムの作家たちの持った造かな遠い国への憧れ、というものである。児童文学における海洋文学やファンタジィものは、こうした純文学の作品との関わりをもって生まれてきていると思うからである。
  まず旅行文学を考えてみると、これはもちろんイギリスばかりでなく、西洋には古くから伝統がある。マシュー・ホガートが詳説しているので、それを参考にまとめてみると、まず文学史の一番初めに出てくるホメーロスの『オデュッセイア』がすでに漂流の話である。ラテン文学においてもタキトゥスやストラボの書いた地理の書や旅行記が、その本来の学問的な、あるいはルポルタージュ的な目的を離れて文学作品として読まれた。これらの作品の系列は、ギリシャ神話のイアソンの金羊毛皮を求める航海「アルゴノート」やヘラクレスの冒険行に端を発し、事実と虚構もしくは幻想の境界の上に立つものである。やがて、地中海が知りつくされ、アラビア人相手の交易に終始した中世はともかく、十六世紀になって新世界が発見されて、東洋への航海もさかんに行われるようになると、また実録のかたちでさまざまの航海記が流布された。
 この系列に対してもう一つ、紀元二世紀初めのルキアノスの作品『本当の話』に端を発する旅行文学がある。これはちょうど第一系列のパロディのような位置を占め(ルキアノスのものがすでに『オデュッセイア』のパロディである)、これ以後フランソワ・ラプレーの『パンタグリエル第四の書』(一五五二)とかシラノ・ド・ベルジュラックの『月世界旅行』(一六五七)、『ミュンヒハウゼン男爵の冒険』といった作品を生んでゆく。いわばこれらは誇張された空想癖の強い旅行文学である。サミュエル・バトラーの『エレホン』(一八七二)やトマス・モアの『ユートピア』(一五一六)、あるいはウィリアム・モリスの『ユートピア便り』 (一八九一)やオールダス・バックスリイの『すばらしい新世界』(一九三二)などの「ユートピア文学」ものもこの系列に入るであろう。「ユートピア」(Utopia)という語は、トマス・モアがギリシャ語〈ou〉(無)と〈topos〉(場所)から自分の描いた空想の鳥の名として作りあげた言葉であり、サミュエル・バトラーの「エレホン」〈Erewho〉が〈Nowhere〉(どこでもない所)を指すと同じように、この世には存在しない場所である。ただここは地上楽園といった場所ではない。ホガートはこれをうまい言葉で表わしている「ユートピアは、諷刺家たる旅人が冒ざす目的地であり、荒野の彼方に開けた文明である」。
 十六世紀以降のイギリスの文学は、この分野に大変大きな寄与をしている。これはやはりイギリスが島国であり、イギリス国民が積極的に海外へ出ていったことと関連が深いのであろう。国民の中に船乗りになる者が多く、東洋や新世界へ旅をした者の数も相当数にのぼっている。船乗りたちの興味深い体験談は、しばしばパンフレットの形で広く人々に読まれた。シェイクスピアの『 嵐』(一六一一)が、このようなパンフレットの一つである『バーミューダ島遭難記』に想を得たものであることはよく知られているし、『ロビンソン・クルーソー』もまた同じようにアレクサンダー・セルカークの漂流体験記『サン・フエルデナンド島』 をもとにして成立したのである。初期のこうした航海者たちの記録を、バクルートが刊行したりパーチェスやベルトラムのような人々が公けにしたことも、国民全体の興味をそちらの方向へむける大きな原因となったであろう。そして、これら
がのちにキャプテン・クックの『航海記』(一七七三)やチャールズ・ダーウィンの『ピーグル号航海記』(一八三九)のような本来科学的な内容のものが、一般読者にも広く読まれるようになった基盤を作ったともいえよう。そして初期の、船乗りや商人だけが海外へ行った時代が過ぎると、植民地の確立とも相まって、直接創作にたずさわる文学者たちも各地へ旅に出て、旅行記を書いた。その体験に根ざした小説や詩を書いたりすることも多くなり、それはとくに十九世紀に盛んになる。
 一方、旅に出たいという衝動、その変形ともいえる見知らぬ国への憧れはとくにイギリス十九世紀の詩人や作家により、その作品のなかにさまざまに展開される。例えばペックフォードの『ヴァテック』(一七八六)、ロバート・サウジイの『サハラ』(一八〇一)、トマス・モアの『ララ・ルーク』(一八一七)、コールリッジの『クブラカーン』(一七九八)などの傑作が生み出されたのも、この他郷、異界、未知の国への憧れと旅からである。この普段の世界以外の国に憧れを抱くことは、ロマンティシズムの一つの特色でもある。ここになると「旅」 の問題は想像力の問題と重なってくる。現実にないものを欲すればそれを手に入れるためにそこに行かねばならぬ、探さねばならぬ、それが実在するにせよ非現実的存在であるにせよ、そこへ行くという手段がとられる。これを旅とすれば想像力にとってもこの操作は必要となってこよう。
 見方を変えれば「旅」 というものは、非現実をあらかじめ措定しておいて、それを実現化する一つの過程といえるかも知れない。思うに、思惟が生んだものを実在化するという過程は、人間の精神がもつ機能のうちでももっとも基本的なものの一つである。従って詩作も発明も精神の創造に属し、この限りにおいて先に述べた営みの一つの例に他ならない。こうした特別の場合のみならず、日常生活の思惟が生んだものを、日常生活の中で現実化しようとする時、その思惟を支えている想像力が強いものであれば、その意図は旅という形をとることになろう。端的に言えば、「旅」はすべての満たされぬ思いをかなえてくれる魔法の行為である。旅は人が思い描き得るすべてのものをもたらす(現実化する)可能性を持っている。旅へ出発する前の期待の中には、目前の現実を離脱し、非現実の世界、架空の存在を志向する心的状態があるわけで、これほとりもなおさずサルトルの説
く映像化の不可欠な構成図であり、ここをすすめていけば想像力説の問題となってくる。
 このように「旅」という問題、そして童話におけるファンタジィ論というものもそうであるが、根本的には、どうしても想像力論と関わってくるのである。ただここで考えられることは、浪漫主義者の抱く旅の映像には、目的地あるいはそこで生じた事件というものより、そこへ行こうとする志向性、心の傾き、期待というものを強調する傾向が見えることである。これは作家たちの自意識と陶酔の強さと関わりがあろう。とまれ、児童文学はこうした十九世紀浪漫派の作家たちに見られるような異常な旅への関心とか、それへの関わり方を見せてはおらず、また現われ方も異なってはいるけれども、童話の形式を用いた作家たちも多く、ファンタジィの作品はどうしてもこれら浪漫派の作家との連関において考える必要があると思うわけである。具体的にはのちにふれたい。
 この旅と文学とが結びつく傾向は、イギリスにおいて二十世紀に入るとますます助長され、思い出してみてもサマセット・モームやグレアム・グリーン、そしてイヴリン・ウオーやローレンス・ダレル、E・M・フォースターと、外国を旅した体験を書いた興味深い旅行記の傑作や、旅の形をとった小説を書いた作者がいくらでも挙げられる。一方で地方貴族の変化の少ない生活を精密に描写することによって、大陸とは別の種類のリアリズムを完成したイギリス文学は、他方ではもっとも変化に富んだ生活体験「旅」というものに大きな関心を払っていたわけである。

『妖精の系譜』 新書館



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石井鶴三の世界 №240 [文芸美術の森]

婦人座像 2点 1953年

      画家・彫刻家  石井鶴三

1953裸女座像.jpg
訃音座像 1953年 (196×142)
1953裸女座像2.jpg
婦人座像 1953年 (196×142)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三』 形文社

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武州砂川天主堂 №32 [文芸美術の森]

第九章 明治十八・十九年 1

        作家  鈴木茂夫

三月十二日木曜日、武州砂川村・聖トマス教会。
 朝七時、島田角太郎は、晴れの日を迎えた教会の前に立った。教会は、砂川村二番組の五日市街道から四十メートル南に奥まった義父泰之進の屋敷内にある。あたりに人気はない。角太郎は、十字を切って深く頭を下げた。
 建物の正面には門柱が立てられ、玄関まで背丈ほどの樹木が何本も植えられている。教会は間口四間(七二二メートル)奥行き八間(十四・五メートル)、白塗りの瓦葺き平家建てだ。正面の屋根には、十字架。天主堂の標札。角太郎は、教会の内部に足を運ぶ。北側にしつらえられた玄関を入ると、そこから朝日が五色に染まって射し込んでいる。聖堂の南端に十字架と燭台のある祭壇が設けられ、その両横には、小さなステンドグラスが入っているのだ。東側に張り出しの廊下、信徒の座る身廓は板張りの床だ。また、祭壇の右手に小さなオルガンが置いてある。それはジェルマンのものだ。故郷テイヴエ村の信徒たちの寄付金で買い求め、ジェルマンが教会を創った時に、役立てて欲しいと贈ってくれたのだ。ジェルマンは砂川の教会の基盤を固めた。
 砂川村では、八王子の聖璃利亜教会に次いで懸命に伝道に励んだ。だから格段の思い入れがある。そこで、ぜひオルガンを贈りたいと申し出たのだ。
 砂川村で神の教えが初めて説かれたのは、角太郎が十二歳の明治九年のことだった。角太郎も二十一歳となっている。
 それから九年、信徒たちは、いつかは教会を創ろうと、集まりのたびに少しずつ献金し続けてきたのだ。
 午前九時過ぎ、人びとが集まりはじめた。
 三ツ木村の比留間邦之助が荷物を積んだ大八車を引かせて姿を見せた。
「めでたいことだ。私は神父さんが教会に泊まった時に、よく眠れるようにと夜具を持ってきたんだよ」
 荷物をほどくと、絹布(けんぷ)の布団が現れた。
 羽織で正装した男女の信徒約八十人がつぎつぎと訪れ、教会の堂内には、小さな話の輪がいくつもできた。
 黒い法服の四人の神父が元気に歩いてきた。エブラル、ロコント、リギヨル、レーだ。
 村の人たちも、見物に詰めかけてきた。教会を取り巻いて人垣ができ、五日市街道まであふれ出る始末だ。
 午前十時、ミサを、主宰するエブラル神父が祭壇に立った。
 「きょうここ武蔵国北多摩郡砂川村に、わが主イエス・キリストがわれら人間の罪をつぐなう教会が完成いたしました。この教会はキリストの十二人の使徒の一人であるトマスの名を冠します。聖トマス教会であります。トマスは、インドに赴き、異教徒たちの奥地まで分け入り、神の教えを説き、その地で満身に槍を受け殉教したと伝えられます。私たちはトマスの熱烈な信仰に学んでいきたいと思います。さて、今日の慶びの目に到る道筋には、テストヴィド神父がしっかりと礎を固め、伝道士一条鉄郎さんのたゆみない努力があったのです。さらに信徒の皆さんの信仰心が一つとなって燃え上がった結果であります。教会は、私たちの心のよりどころとして、ますます堅く強く結ばれ、また神の教えを一人でも多くの人たちに伝えて行くことにしたいのです。ここに、教会の誕生を祝い、ただ
今から献堂式のミサを執り行います」
 ロコント神父がオルガンを弾く。

   天使祝詞(アヴェ・マリア)
   めでたし聖寵(せいちょう)充(みち)満(み)てるマリア、
   主(しゅ)御身(おんみ)と共にまします。
   御身は女のうちにて祝せられ、
   御胎内の御子(みこ)イエズスも祝せられ給う。
   天主の御母(おんはは)聖マリア、
   罪人(つみびと)なるわれらのために、
   今も臨終の時も祈り給え。
    アーメン

 柔らかいオルガンの旋律にあわせ、信徒たちは歌う。そのメロディは二番組の集落を包み、梅の花を撫で、麦畑の上を転がっていった。
 八王子の聖瑪利亜教会を代表して榎本いん子が祝辞を述べた。
 「カトリックの教えは、われわれが天国に到る道を明らかに示して下さいます。この尊き教えを、それは私がことさらに、述べ立てるまでもなく、既にみなさまは、よく理解されているところでございます。ただか弱き女の身でこの教えを人びとに伝える力の乏しいのを、嘆かないではいられません。きょう、砂川村に新たな聖堂が建設されたのに際し、大いなる慶びを禁じえません。本臼お集まりの信徒のみなさんは、百人を超えておられます。これから教会がますます発展されることを祈念いたします」
 ミサが終わると、洗礼を希望していた志願者十九人の洗礼が行われた。
 式典が終わると、赤飯が振る舞われた。教会の中は賑やかな話し声に満たされた。
 夜に入り、エブラル師による説教が行われた。

 幸福(さいわい)なるかな、心の貪しき者、天国はその人のものなり。幸福なるかな、悲しむ者、その人は慰められん。幸福なるかな、柔和なる者、その人は地を嗣(つ)がん。幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者、その人は飽くことを得ん。幸福なるかな、憐憫(あわれみ)ある者、その人は憐憫を得ん。幸福なるかな、心の清き者、その人は神を見ん。幸福なるかな、平和ならしむる者、その人は神の子と称へられん。幸福なるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり。我がために人なんちらを罵(ののし)り、また貴め、詐(いつわり)りて各様の悪しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。
                   マタイ伝福音書・第五章第三節~第十一節

 「ある時、主イエス・キリストは、山に登り大勢の群衆に話しかけられたのです。今読み上げた聖句の中で、イエスは八回『幸福なるかな』と祝福の言葉を投げかけています。一瞬、これには謎めいた不可解な印象を感じます。しかし、これは外見的な充足感ではなく、イエスの慈しみの愛に満ちているのです。たとえば、『心の貧しき者』とは、自らの貧しさを心から認めて、ひたすら神を信頼する人のことです。まさにそうした人こそ、天国に迎え入れられるのです。この八項目を心静かに味わって下さい。そこにはイエスの姿とイエスが命を賭けて実現されようとする至福の心を汲み取ることができるはずです」
 これから教会は、堺幸助、内野茂兵衛、堺周平、境弥兵衛、それに伝道士一条鉄郎の五人が信徒代表としてとりしきる。
 教会は単に教会であるばかりでなく、宣教学校として付属の小学校を運営する。村の小学校の月謝を支払えない家庭の子どもたちを無料で教育するのだ。すでに三十人が希望している。宣教学校は、宮城県から来た一条鉄郎が教師を勤める。
                      *
 この目、ジェルマンは小田原を歩いていた。足腎も軽い。オルガンが聖トマス教会の警式に賛美歌を奏でるとうれしかった。また、角太郎からのはがきが手元にある。そこにはかならず、オルガンの音色を確かめに来て欲しいとあった。

『武州砂川天主堂』 同時代社



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