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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №42 [文芸美術の森]

第七章 「小説なれゆく果て」6

         早稲田大学名誉教授  川崎 浹   

大義名分

十二月十三日
  番頭きて十五日までに越すかという。家もまだここと同様にはなっていない。ここの便所を見よ。ここは写真の暗室にもなるように出来ている。写真は研究に必要だ。その他のこと帽子かけの釘一本でも打たないのならここと同様ではない。前にここの地主大工等にひどい目にあわされている。二度とこんな目にはあいたくないということ、コブタにも話をし、手紙にも書いてやっている。これをこのままヘリコプターでつり上げて持って行くような、ここにこのまま仕事をつづけて居られるような風に万事が完備しなくては引っ越し交換にならない。
 それから最後に最も必要大切なことがある。一つはあの工事をやるとき材料を海のほうから運んだらしく、隣接の畑地をふみ荒らしているそうだ。そのままだとその地主、ひいては村の人達への不義理とうらみは全部その住居者にふり向けられる。
 だからその畑主の処に行って謝罪して相当の金で弁償してくること、この金は高島が出してやる。行くなら今ここで渡しておくがどうしますか。第二にこれは高島があの家に転居するには絶対必要な大切なことだ。あの地所や建物一切を千葉県か館山市に寄付すること。寄付したらその番人としてか管理者としてか高島という画かきの研究室に使い住居することを許可、認可すること。公務員ではない、その地所、家についての義務と責任は完全に負う。例えば納税、損害バイショウ等、町会費、電気水道等支払い、その義務責任にっいては詳しく書いてやる。ただそれには、どんな家を建てるかしらないが、もし租末で市のほうでこんな家は受けないというなら、川名地区か又はあの辺のなんらかのグループに寄付すること。寄付した以上はもはや釘一本無断で打つわけにいかぬ。だから家の住居に完全運行できるように仕上げること。これで高島入居、死亡又は一ヶ年行方不明になった場合は川名地区の公共建物として使うこと、ただし海水浴客等のダンスホールなどに便わぬこと、くわしくは後で書いてやる。この寄付が大切だ、こういうことにすれば大義名分が成り立つ。大義名分とはなんですか。分からなければいい。外の者にはこれだけですぐ分かる。番頭帰って行った。

十二月十四日
 コブタと番頭来る。昨日は体中が急に具合が悪くなって吐いたりした。体中がムカムカすると言って、今度は急にドナリ出す。この絵は皆インチキだ、見るのも気持ちが悪い。
 ここの家は何もかもインチキだ、ペテンだ、エゴイスト、馬鹿、畜生、恩知らず、義理知らず、とあらゆる罵声を張り上げてドナル、外の労務者たちに聞こえるようにか、身を乗り出して今にもナグル姿勢で迫ってくる。番頭は何のためか立ち上がって、コブタに加勢する気かイライラした様子。もう止める、あの家に移るのは断然止める。この高島をあの家に移そうとするなら首にツナをかけて車の後に引きずって行きあの家に放り込んで釘づけしておくより方法はないぞ、教えてやる、と宣する。コブタはこの野郎手のつけようのない野郎だとすてせりふを投げて帰って行く。

十二月十五日
 コブタには昨日言っておくべきだったことを手紙に書いて速達で出す。「提案した二つの件、隣接畑を荒らしているのをあやまること。家、敷地を寄付して入居を許すことの二件は最早必要なくなったので、その提案取り消す。このこと念のため申し送る。

十二月十八日
 コブタと社員とが田端氏夫妻を連れてきた。今度はコブタお世辞だらだら、田端は高島のいう通りにする、寄付するということはりつばなことだから市長に話す。受けるに決まっている。それで五日位の内に引っ越すようにしてやってくれないかと。そうしてもいい。しかし寄付はだれの名義になっているのか。実は先日館山市から建築出願の許可書を渡すから取りにこいという通知がきていたが、私に関係ないから放っておいた。
 ▲以下省略するが、新アトリエの名義問題、絵画の輸送方法、現在土地を借りている地主との貸借関係などで、高島野十郎の移転にはなかなか決着がつかない。

十二月二十日
 夕方地主の酒田来た。久しぶりだ。地代は大晦日に東京に行って電報カワセで送っておいた。工事が進んでいるようなので一体どうなっているのか見にきた。借地人にはそれぞれ相応の義務がある。例えば境界を守ること、又借りた時の状態で返さねばならぬことなど、貸し主の権利を並べていた。借り主の義務は一応心得ているつもりですが、それは貸借をやめる時の問題で、今は何もそんな時ではない。地所を荒らしていると言われるが、この自然に雑草や篠竹を繁らせているのは昨年からで、これは少し都合あってのことです。一体義務とか権利とか言いますが、義務と権利とは元来同じものなのです。例えば人間の一面が義務だとすれば、その反対の一面が権利とあるような事で。人の前向きが権利で背中が義務ですね。いいえ前後ではないのです。丸いゴムマリの日当たりがどちらかで、その暗い方がそのどちらかになるというのです。ええ、分かりました、とやっと分かったらしい。権利ばかりを主張しつづける奴等、いや死守している奴等、それでもやっと分かったらしく、さすが苦労している男だけある。帰って行く。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社




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祖道傳東Ⅱ №33 [文芸美術の森]

第三十四図「祖道傳東」

     
画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

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《紙本墨画》 九〇×.二丘 軸装

道元禅師の『山居(さんご)』の中にあるこの詩の一節は、道元禅師の心の姿を写し取ったものといえます。
  西来祖道我博東
  釣月耕雲慕古風
  世俗紅塵飛不到
  深山雪夜草庵中
   西来(せいらい)の祖道 我れ東に伝う、
   月に釣り、雲に耕して古風を慕う。
   世俗の紅塵 飛んで到らず、
   深山の雪夜、草庵の中。

 ここでは、道元禅師の教えるところの仏教は西来のみならず、いまは全世界に向けて、その教えが伝えられています。
 真実の坐禅の命脈は、確実に伝播されていることを喜びといたします。

『祖道傳東』大本山永平寺


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №49 [文芸美術の森]

         葛飾北斎≪富嶽三十六景≫シリーズ

          美術ジャーナリスト  斎藤陽一

       第15回 印象派に与えた影響

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≪「連作」という形式≫

 葛飾北斎の連作「富嶽三十六景」が西洋絵画、特に「印象派」に与えた影響については、これまでの回で、折々に紹介してきましたが、今回、「富嶽」シリーズの最後に、これまで触れなかったことをいくつか押さえておきたいと思います。

 先ず、「連作」という絵画形式です。
 言うまでもなく、北斎の「富嶽三十六景」は、ひとつの山を主人公に、各地の景物を織り込みながらシリーズとして展開した「連作」です。
 ところが、西洋絵画には、19世紀後半、明治開化期の日本から流出した日本美術を知るまで、このような発想による「連作」形式はほとんど見られませんでした。

 ですから、北斎の「富嶽」シリーズなどを見た近代西洋の芸術家たちは、これに衝撃を受け、「このような絵画形式もあるのだ!」と気づいて、そこから重要な示唆を受け取りました。特に、当時の絵画主流であった古典主義に立脚するアカデミックな絵画に反発し、新しい絵画を模索していた若い画家たちのグループ「印象派」のメンバーは、西洋絵画にはないさまざまな特質を持つ日本絵画に、希望と活路を見出しました。

 その特質のひとつである「連作」形式について見れば、たとえば、印象派の代表的な画家であるモネは、北斎や広重などの連作から啓発されて、「睡蓮」をはじめ、「積みわら」「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」シリーズなどの連作に取り組み、新しい西洋絵画の世界を切り開きました。

 また、セザンヌは、故郷である南仏・プロヴァンス地方の山 サント・ヴィクトワール山を生涯にわたって何枚も描いた画家ですが、彼にとってこの山は、日本人にとっての「富士山」にあたる「心の山」でした。
屈折した心情の持ち主であるセザンヌは、彼が唯一心を許した印象派の長老ピサロが手放しで浮世絵を賛美したようには、あからさまに浮世絵を賞讃する言葉を残していませんが、おそらく、彼の「サント・ヴィクトワール山」シリーズには、北斎の連作「富嶽三十六景」がひとつの着想源となって反映しているのではないか、と思います。

≪ゴッホの敬愛する“聖人”≫

 もうひとつ、北斎の「富嶽三十六景」を代表として、古来、日本美術にひんぱんに描かれる「富士山」という、特別な山の意味について触れたいと思います。

 印象派の画家たちは、たくさんの浮世絵を見ているうちに、北斎をはじめ、日本の多くの絵師たちが、繰り返し、“独特の美しい姿を持つ、凛とした風格を示す山”を描いているのに気づき、そこから、「この山は日本人には特別な山であり、日本人にとって“聖なる心の山”である」ことをただちに理解したに違いありません。

 その“発見”がどのような絵になって現われたか、ここでは、ゴッホを例に挙げたいと思います。

 ゴッホは、浮世絵と出会い、画風を一変させるほどの影響を受けただけではなく、浮世絵を生み出した「日本」という国に対する熱い憧れをつのらせた画家です。

49-2.jpg 右図は、1886年にオランダからパリにやってきたゴッホが描いた「タンギー爺さん」の肖像です。
 タンギー爺さんは、パリでゴッホが知り合った画材店の主人。寛大で心やさしい人物で、店にやって来る若く貧しい画家たちに、作品と交換で画材を与えたり、時には無償で絵具やカンバスを与えたりしていました。
 ゴッホは、このようなタンギー爺さんを心から敬愛し、ゴッホが憧れていた“素朴で心の寛い日本の老人”に重ね合わせて描いたのが、この肖像画です。
49-3.jpg ゴッホはまた、タンギーを、正面向きの姿勢でこちらに慈愛のまなざしを向ける仏像のように描いています。その周りには、自分の愛する日本の浮世絵を並べて、爺さんを荘厳(しょうごん)荘厳しました。

 特に、タンギーの頭上にある絵に注目(右図)。「富士山」ですね。
ゴッホは、この“聖人”のような爺さんの頭を富士山で飾ったのです。あたかも、西洋宗教画の聖人の頭上に「円光」が描かれるように。仏像の背後の「光背」にも同じような「頭光」がありますね。

49-4.jpg パリに出たゴッホは、熱心に浮世絵を研究する中で、多くの絵師たちが繰り返し描いている、格別に美しい姿を持つ富士山こそ、「日本人の心の霊峰」であることに気づき、“仏のごときタンギー”にふさわしい冠と考えたのでしょう。

≪「富嶽三十六景」の終わりに≫

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 これまで、No.35からNo.48までの回で、葛飾北斎の連作「富嶽三十六景」(全46図)の中から、14図を選んで紹介してきました。

 この「富嶽」シリーズの最初の回(No.35)で申し上げた通り、北斎の90年に及ぶ生涯は「絵ひとすじ」の人生であり、あらゆる絵画のジャンルに挑戦し続けました。その中で、「富嶽三十六景」を始めとする「風景画」の傑作を次々と生み出したのは、彼の晩年、七十代に入ってからでした。
 その時期に入っても、北斎の造形力は大胆でみずみずしく、そこが当時の江戸の人々のみならず、時代や国境を超えて、普遍的な共感を呼んでいるのだ、と思います。
北斎は、まことに類いまれなデザイン感覚を持った造形家であり、斬新な構図と鮮やかな色彩を駆使したその絵画世界は、現代もなお、色あせることはありません。
 次回からは、北斎の後輩にあたる歌川広重の代表作「東海道五十三次」シリーズからいくつか作品を選び、北斎とは一味ちがう広重の絵画世界を紹介していきたいと思います。
(「富嶽三十六景」シリーズ・終: 次号「広重:東海道五十三次」に続く


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ケルトの妖精 №41 [文芸美術の森]

ブラック・アニス

           妖精美術館館長  井村君江

 ブラック・アニスは、ディン・ヒルズという丘陵地帯の洞窟に住んでいた。背が高く、一つ目で顔は青く、長く白い歯をして、鉄の爪で人をさらった。棲み家の洞窟の入り口には大きなオークの木が立っていた。あたりが暗くなると外に出かけて、道に迷った子どもや子羊を取って食べた。そのためにブラック・アニスは人食いアニスとも呼ばれた。
 ときとして、ブラック・アニスは家のなかにも入ってくることがあった。風がごうごう鳴る音と一緒にブラック・アニスの歯ぎしりが聞こえたら、人々は家の戸口にかんぬきをかけ、窓のそばから離れて身をすくめていた。
 むかし暖炉は家のまんなかにあって、家のものはそのまわ。で暖をとりながら眠った。ブラック・アニスが窓から手をさしのべ、赤ん坊をつかみ取っていかないように、この地方の家には大きな窓がなかった。人食いのブラック・アニスが家のなかに片腕しか突っこめないようにするためだった。
 ブラック・アニスが吠えだすと、八キロ先まで聞こえ、家財道具が何もない掘っ建て小屋に住む貧乏人さえ、窓を豊な皮の布でしっかりふさぎ、魔女よけの葦を塗りこめて、恐
怖の一夜を過ごしていた。
 ブラック・アニスは冬にしかみんなを恐れさせなかった。だから春を迎える復活祭の翌日には、ブラック・アニス狩りの風習があり、この地では十八世紀までつづいていた。
 それはアニスの実の汁に猫の死骸を浸して、ブラック・アニスの隠れ家から人里まで引きずっていくという行事である。

◆スコットランドの冬はきびしい。雪も多くて寒さはひとしおである。
 人々は暖炉の暖かい火のまわりに集まっては、岩山を吹くはげしい風の音に耳を澄ませ、、「あれは青い顔をした冬の老婆が、地面を杖で叩いてかたく凍らせているのだ」と、いまでも話し合っている。
 頬の肉の落ちた一つ目の青い顔をしているとされている冬の老婆は、イングランドではブラック・ァニス、スコットランド高地地方ではカリアツハ・ヴエーラと呼ばれ恐れられていた。
 ケルトの暦にはベルテナ祭(五月一日)からサウィン祭(ハロウィーン、十月三十日)までを照らす「大きい太陽」の季節と、サウイン祭からベルテナ祭前日までを照らす「小さい太陽」の季節がある。
 サウィン祭からはじまる「小さい太陽」の季節になると、カリアツハ・ヴューラは、夏のあいだ石になっていた姿から息を吹きかえし、手にした杖で秋の葉を叩いて落とし、岩山や川を凍りつかせて生き物を凍え死にさせてしまうのだった。
 春も近いあるとき、カリアツハ・ヴエーラは山羊を守っているうちに、疲れて泉のそばで休んだ。眠っているあいだに雪がとけて泉の水があふれだし、ブランダー渓谷にすさまじい勢いで流れだした。その轟音で目を覚ましたカリアツハ・ヴエーラは水を押しとどめようとしたが、勢いは止まらず、洪水となって平野まで流れだして多くの人や動物たちを潰れ死にさせてしまった。スコットランド西部地方のストラスクライドにある湖ロッホ・オーができたのは、このときだといわれている。
 春になって「大きい太陽」が照りはじめ、ベルテナ祭の前夜になると秋のうちにせっかく落葉させた木々に芽が吹きはじめ、みずみずしい自然がよみがえってくるので、カリアツハ・ヴューラは、不機嫌になってしまう。そして手にした杖をヒイラギの根元に投げ捨て、石に変わってしまうのだ。ヒイラギの根元に緑の薬が生えないのは、こうした理由からだとされている。
 カリアツハ・ヴューラが一つ目なのは、冬の太陽の擬人化だからであるといわれている。とすれば、自然を破壊し動物の生命を滅ぼすとともに、いっぽうでは冬のきびしい自然のなかで動物たちを守護し新たな生命を育みながら守るという、二面的性格をそなえた存在であることもうなずける。
 きびしい自然を支配しているカリアツハ・ヴエーラは、ケルトの母なる女神アヌ、もしくはダーナから派生したものとも考えられる。

『ケルトの妖精』 あんず堂


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渾斎随筆 №71 [文芸美術の森]

陶磁器の鑑賞

              歌人 会津八一                                         

 こんど小山富士夫君が、東京からやって来て、懸下の数ヶ所で、われわれのために、陶磁器の講演をしてくれられることになった。ことに今回は、ただのお話だけでなく、最近に小山君が、大へんな苦心をして、最近式の天然色の寫眞機で、歴代の陶磁器を撮影された、そのフィルムを持って来て、それを映寫しながら、説明をして下さるといふので、これはほんとにありがたいことだ。
 私は二十だいに國を去って、ずつと東京に暮らしてこんど引上げて新潟へ歸つて見ると、四萬の人口が二十何萬かに増してゐるし、その人たちの風俗なり、言葉なり、町の區畫なり、だいぶ變ってゐるが美術の趣味のことも、昔なら應擧や文晃の繪とか、海星や山陽の書幅でもいぢくり、そしていくらか茶器でもひねくれば、それで一かどの趣味家のやうな顔をしたもので、その頃は、陶磁器の鑑賞などいっても、至って幼稚なものであった。これは新潟だけがさうであったといふのでもないが今になって見ると、新潟では、もう應撃だの文晁だのといっても、誰もちっとも気乗りがせぬばかりか、いつそ佛蘭西の名書でも欲しいといった顔をしてゐる人もある。そして、もつと目につくのは、陶磁器の知識と趣味が、この地方でも、かなりの程度高まってゐることだ。
 陶器の歴史は古い。これを世界的にいへば、千年、二千年、もつとずつと昔にさかのぼっても、早くも立派なものが方々に出来てゐた。そしてそれらについて、文献や傳説も、かなり豊富に遺ってゐるが、その文献や傳説が、果してどの安物に、どんな具合にマッチするのか、そのところが、よく解決されぬままに、それぞれ、そのままに傳はつて来てゐる。そしてその貿物も、昔あつて、今は無くなつたものもあるし、時代の移り行くうちに、これまで見覚えのなかつたものが、時々土中から出て来たりする。そして同じ品物でも、まるで達ふ思ひがけもない地方から出て来るのもある。それをみんな、一人の力で整理して、その道の宿題をすっかり解決するわけには行かない。そして、もともと東洋のものでも、今では世界中の學著や研究者たちが、皆で総がかりで研究し始めた。欧米の博物館にもあちらの個人々々の手もとにも東洋のものが相當に集められてゐるし、正倉院の品物なども、世界の各地から見學にも来る。そして国境を越えて意見が戦はされ、そして落ちつくべきところに結論が落ちつく。かうした明るい今日の大勢であるから、田舎物識りの口傳だとか、内のおやぢの覚え書などを虎の子のやうに秘蔵してゐても、今の世の中へ、そんなものを持ち出すことは出来ない。古證文の出しおくれといふものだ。
 小山君は、たしか一橋の商科大學の出身であった。この人が落合村の ― その頃はまだ村であつた ― 私のところへ訪ねて見えたのは、今から二十何年も前であった。たしか料治熊太君が案内役であつた。その頃の小田君は、まだ随分お若かつたのに、もう日本中の主な窯跡、それに朝鮮の窯跡まで巡りつくしてをられ、それから自分で土をひねって、焼物を作ってをられた。私は大森のお宅までその作品を拝見に出かけて、折からご在宅のおとうさんにお目にかかったことがある。するとおとうさんから「せがれは、銭にもならぬものばかり作ってゐますが、あんなことをさせておいても、いいものでせうか」といふご相談を受けた。そして私は「大變立派なものです。大にやらせて下さい」と保讃して歸つたことを覚えてゐる。
 これだけのことは何でもないやうで、決してさうでない。文化史とか美術史とかいふものを研究する人たちは、まづ参考書や寫眞をあつめて、最後に一度見學旗行でもすれば、なすべきことは、みんなしてしまったやうに思ってゐるのが多いが、もしその人たちが、製作の心境、その實技、かういったところに、自分の體験から来たところの、しみじみとした同感がないなら、用意として一番大切なものが放けてゐる。私はさう信じてゐる。小山君は今日の大成のために、その頃から、この大切な下地を作ってゐられたのである。
 その後小山君は駒込の東洋文庫へ通って、文献の勉強が始まった。そのために、自分だけその近くに下宿して、この有名な圖書館のたくさんの書物の中から、数年の間に古陶磁に関する文献を二萬件あまりを抄出された。これは惜しいことに、その下宿が近火で焼けた時に、全部亡くしてしまはれたけれども實技以外の、この文献の研究は、今日の小山君の博大な知識の基礎をなしてゐるにちがひない。
 それから後、小山君の學問と、識見と、實技とは、平行して進んで止まずに、今日に及んでゐる。その間に発表された、いろいろの研究は、随分たくさんあって、その中でも、正倉院にある陶器の系統を考定したり、中国の青磁の起源を追求したり、定窯の位置を危険を冒して踏査して決定したり、そのほか陶磁器の全分野にわたって、その業績は廣く深く、著述もいろいろあっていづれも世に重じられてゐる。そして今では文部省や國立博物館で、この方面の取調を据任してゐられる。
 私はさきほど陶磁器の研究は國際的協力の姿になってゐるといったが、この點からいつても、われわれの小山君は大立物で、たとへば米国のウォーナー博士とか、佛蘭西のグルッセー博士か、そのほか外國から来る文化方面の學者たちは、陶磁のことは、きまつて小山君が引きうけで相談に應じてゐる。
 この小山君が新潟へ来て、一部の人たちのために講義をしてくれたのは、實は今に始まったことでなく、昨年が、もう二三度目で、おなじみも多くなってあると思ふが、この小山君が、従来の黒インクで印刷した寫眞版の貧しさに気づいて、鮮明な天然色の映畫による解説を、日本の各地で試みようとされる時に、われわれの地方が、その封切を拝見してゐるうちに、世界の水準の上に、正確な説明を聞きながら、陶磁史の正確な認識を得られることは、何よりもありがたいことだ。個人々々のためにも、文化生活向上の意味から、こんないい機會を見遁すべきではない。
                                   「新潟日報夕刊」昭和二十五年九月二十七日

『会津八一全集』 中央公論社

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石井鶴三の世界 №177 [文芸美術の森]

唐招提寺金堂 1952年/金太郎と熊 1952年


            画家・彫刻家  石井鶴三

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唐招提寺金堂 1952年 (144×202)
1952金太郎と熊.jpg
金太郎と熊 1952年 (126×178)


**************  

【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。

画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。

文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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じゃがいもころんだⅡ №36 [文芸美術の森]

おばあさん、頑張れ。

               エッセイスト  中村一枝

 食べ物には旬のものというのがよくある。寒ブリとか大根とかその時宜に応じて、旬という言葉を使う。人間にだって旬のときというのがあって、役者さんなども、ああ、今、旬だな、という気持ちが自然に湧いてくる役者さんがいる。
 でも、おばあさんの旬というのは聞いたことがない。だいたい旬の中にはどこかいきのいいというニュアンスがあるから、おばあさんのイメージにはあまりそぐわないのだろう。自分がおばあさんになって、改めておばあさんというものが、こんなにも世の中の新しいものから離れているものかという、情けなさの方がいや勝さって、おあばあさんの優越感なんて少しも浮かんでこない。おばあさんが華やかなものではないことはもとからわかっていたにしてもだ。
 おじいさんにはなぜか、年輪を経た智恵とか、古びたものが持っている一種のみやびみたいなものもがるようだ。全部のおじいさんがそうだというわけではないが、なぜか、おばあさんより高尚に見えてくるから妙である。昔話などでも、なぜかおじいさんは清貧に甘んじ、どこか高潔で品よくみえるが、おばあさんには、ずる賢さとか、欲張りとか、いうイメージがついて回って、おじいさんに比べて点数が低い。実生活では、みごとなおばあさんがたくさんいるのにと思ってきた。
 考えてみると、「おばあさん」と呼ばれて、はい、よっとにこにこ登場してくるおばあさんなんて果たしているのだろうか。おばあさんという言葉がずっとつなできたイメージは、どうしても清新さとか、柔軟性とか、進歩的とかいというものと遠く離れているように見えるのは私のひがみだとうか。 自分がおばあさんになったからといって、急におばあさんをより高尚に見せようというわけではないが、どうも私くらいの世代にはおばあさんという名称がおじいさんにくらべて価値が低いような気がしてならない。意地悪ばばあは数多くあるのに、意地悪じじいは少ないのもこれまた不思議なきがする。この際、おばあさんのイメージアップをはからないと、おばあさんになりかかりの女性たちは、決していい顔でおばあさんにはならないと思う。
 実際、世の中の利権にからんでいるのはほとんどが男たちで、女性はそのうちのごく少数に過ぎないことは周知の事実である。おじいさんは決して、清貧ではないのである。
 コロナで世の中が変わり、いろんんな変事がはじまろうとしても、男と女の地位を逆転するようなことはまだまだ起きてはいない。
 私が育った時代はまだまだ男女の同県の意識が低く、下手にそれを訴えても逆に女性のおろかしさにすり替えられてしまうこともあった。でも、本当に優れた人間は男であっても女であっても、認められる。実際、いい男も、いい女も、先ず人間としての誠実さや謙虚さに裏打ちされた人間であることを、私はずっと見てきた気がする。

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №41 [文芸美術の森]

第七章 「小説なれゆく果て」5

         早稲田大学名誉教授  川崎 浹

井戸水にボーフラが湧く

 ▲八月末に画家の友人一家がドライブして現地に行くと、やっと柱がたっている程度。井戸水を汲んで持ってきてくれたが緑色ににごっている。四、五日してボーフラが湧いた。
 九月十二日に「番頭」来て、十五日に家が完成するのでいっしょに行くように告げる。画家が「見ないでも、まだ出来上がっていないのは分かっている」と言ってボーフラを見せると番頭驚いて帰る。数日して番頭と社員が来訪、完成した家を見に行こうと言うので、画家は自分が望んでいるのは建て売り住宅ではなく、このアトリエとそっくりの家であると言って、流しや流し台のはき口などいろいろ見せると、彼らは驚く。井戸の水の話をすると、社員は大工は現場の水を飲んでいる。一度水さらいをするので新しく湧いた水は大丈夫だと答えるが、十日後に画家の友人が井戸水を汲んで持参してくれたがさらに濃くなっていた。
 十月は野十郎、十三日間ほど八ヶ岳に写生旅行して留守。

 十一月四日
 番頭来る。家すっかり完成したから見に行ってくれと。まだまだだめだ。窓に雨が吹きっけたらしみ込む。これはガラスの四方をすっかり目づめすることだ。そして四方から水をぶっかけてみて少しもしみないようにすること。雨漏りは画には絶対禁物。この画室はそうなっている。カーテンはどうしたか。家の床下を見たか、ここは木片もカンナクズも鋸クズ一つないようにはじめに掃除してあるが、それはどうしたか、と言って追い返す。

 十一月十日
 友人が井戸水を汲んできてくれた。それを相の保健所に持って行って検査たのむ。五日で結果が分かった。水素イオンが八十五もあって全く使用にたえず、手のつけようなしとの答え。団地のほう許可もでてないのに工事やっているので中止命令が県からきたとのこと。

 十二月六日
 コブタと番頭がきて、水はなるほど駄目だ。田端氏に頼んで水道を引いてもらった。十万円のところ、少し遠いので二万円追加、重役たちはそれは本人に出させろというが自分がケンカして会社で出させることにした。とにかく十五日までに移転するようにと会社は言っている。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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祖道傳東Ⅱ №32 [文芸美術の森]

第三十二図 「承陽永春」

     
画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

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《紙本墨画彩色》 九〇×二一五 軸装

 「承陽(じょうよう)」は、道元禅師の廟所、塔頭の名前です。
 『学道用心集』の中に、「直下承当」とあって、道元禅師自身がご命名されたことも考えられます。
 道元禅師七百五十回大遠忌を迎えた今日、道元禅師の教えは、色褪(あ)せることなく、より輝きを増して伝えられて来ています。
 道元禅師が歩まれた同じ道程を歩んで、今日まで永遠と伝えられています「坐禅によって到達できる至高の境地」は、これから先、未来永劫にわたって教え、伝えられて行きます。そして、人々の心の中に永遠と生き続けていくことに違いありません。
『祖道傳東』大本山永平寺


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №48 [文芸美術の森]

                      葛飾北斎≪富嶽三十六景≫シリーズ

          美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                第14回 「諸人(しょにん)登山(とざん)」

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≪富士山頂・止めの一点≫

 この連載:「日本美術は面白い!」シリーズは、2019年1月に「琳派」(No.1~No.34)からスタートしました。
 「琳派」のあとは、これまで、No.35から前回のNo.47までの13回にわたって、葛飾北斎の連作「富嶽三十六景」の中から選んだ作品を重点的に紹介してきました。

今回は、この連作の“止めの1点”と考えられる「諸人登山」(しょにんとざん)を紹介したいと思います。

 「富嶽三十六景」は、当初、36点が制作・刊行されましたが、その後、10点が追加制作され、合計46点の連作となりました。「諸人登山」は、後の10点のグループの中に入っている作品であり、連作中、唯一、富士山頂を描いたものです。おそらくこの絵は、連作の“止めの一点”として構想されたもの、と考えられます。

 画面に描かれているのは、江戸を発ち、はるばると徒歩で山麓までやってきて、そこから難儀をしながら山道を登り、やっと山頂にたどり着いた人たちです。皆、白装束を身にまとっているので、「冨士講」の人たちでしょう。前回、“江戸では「冨士講」が流行していた”と申し上げましたね。

48-2.jpg 現在の富士登山は、軽量で暖かい衣服やしっかりとした登山靴などの装備も整っていますし、その上、山腹の途中までバスに乗り、堅牢な山小屋に泊まってから山頂をめざすという“観光登山”です。

 しかし、この絵に描かれているのは霊峰への“信仰登山”であり、人々は信仰と修行のために、はるばる江戸から歩いてきたのです。

48-3.jpg 現代と違って、ろくな防寒衣も身に着けず足袋はだしで険しい山道を登っていくのですから、山頂にたどり着いた時には、疲労困憊の状態だったことでしょう。夏とは言え、高山の寒さも尋常ではありません。

 北斎は、疲れ切って座り込んでいる人たちや、寒さを避けるために狭い岩室の中で身を寄せ合っている人たちの様子を描いています。画面の右下には、険しい尾根を金剛杖に頼りながら「お鉢巡り」をする人たちの姿もあります。

 全体の画面の左上の空が赤味を帯びているので、間もなく「御来光」を迎えるという時刻でしょう。その一瞬をみんなが待っているのです。

 人々の様子が、結構リアルに描かれているために、“北斎自身も富士山に登ったのではないか”という議論もありますが、連作「富嶽三十六景」を描いた時には、既に70歳を超えていたので、いかに老年に至ってもなお頑健・達者だった北斎と言えども、富士に登るのは無理かと思います。もしかすると若い頃に登ったことはあるかも知れませんが、確証はありません。

 「富嶽三十六景」のそれぞれの作品について、しばしば「この場面は、実際のどの地を描いたのか」とか「北斎は現地に行ったことがあるのか」という議論があります。
(このような議論は、次のシリーズで紹介したいと思っている歌川広重の連作「東海道五十三次」についてもありますし、それだけでなく、浮世絵の風景画ではよく言われることです。)

 それを研究・検討することは、学問的には大いに意味はあると考えるのですが、私たち鑑賞者は、それにあまりこだわり過ぎないほうがよろしいかと思います。優れた研究の成果を享受させていただきながら、それぞれが自由に楽しめばいいのではないか、と思います。

 北斎は、想像力豊かな上に、卓抜した構成力(デザイン力)を持つ絵師です。豊富な学識もありました。そのような特質を最大限に発揮したのがこのシリーズなのですから、それぞれの作品は、北斎が、実際の地についての知見を素材にしながらも、自由に創り上げた絵画世界なのだ、と考えます。現実通りに描いていないからと言って、その芸術的価値が下がるわけではないのは当然です。これは、絵画のみならず、すべての芸術創造に言えることですね。

 少々寄り道をしてしまいましたが、ともあれ、「諸人登山」は、連作中の他の作品と異なって、富士山の姿の全容を描かず、山頂だけを描き、難儀の末にたどりついて御来光を待つ人々を描いた唯一の作品です。それだけに、連作「富嶽三十六景」の“止め”の一点にふさわしい作品と言ってもいいでしょう。

 次回は、葛飾北斎の「富嶽三十六景」シリーズを語る最後の回として、この連作が西洋絵画、特に「印象派」に与えた影響について、あらためて、触れておきたいと思います。

                                                             

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ケルトの妖精 №40 [文芸美術の森]

パドルフット

           妖精美術館館長  井村君江

 スコットランドのバースシャーに、家事好きの妖精が住んでいる村があった。
 夜になると村の一軒の家に現れて、台所の汚れた皿を洗ってくれたりするのだが、ときには戸棚にしまってある皿を放りだして散らかしたりする、気ままないたずらものだった。
 この妖精は、陽が沈むと、どこからか家の前の小川を渡ってやってくる習慣をもっていた。
 小川のなかをバシャバシャと歩いてきて、そのままぬれて汚れた足で家のなかに入ってくるのだった。そこで村人たちは、いつのまにか彼のことをパドルフット(泥んこ足)と呼ぶようになった。
 ある晩のこと、パドルフットがいつもの小川で水をやたらとはねかえしているところへ、街から戻ってきた男が通りかかった。男は街の居酒屋で一杯やってきたところだったから、酒のいきおいで、こう呼びかけた。
「よう、泥んこ足。そこにいるのは、おまえさんかい?」
 すると、パドルフットは怒って言った。
「なんてこった、まったく。おいらのことを、泥んこ足なんて言いやがって」
 そして、くるりと踵を返して走り去ってしまい、この村へは二度と現れなくなったということだ。パドルフットは、泥んこ足と呼ばれるのが大嫌いだった。

◆ パッドフット(ばたばた足)という、パドルフットと似た名前の妖精がいる。これは日本の「ひたひたさん」や「べとべとさん」のように、道を行く人の後ろからどこまでもついてくる。
 ヨークシャーのリースに現れたパッドフットは、羊ぐらいの大きさをした毛の長い犬のような姿だった。うめき声をあげたり、ジャラジャラと鎖のような音をたてたりして、人の後ろをついてくるので、気味悪く思った男が杖でつついた。ところが杖はその身体を突き抜けてしまい、パッドフットに皿のような目でにらまれた男は、その恐ろしさから床についてしまったということだ。
 こうした道ばたに出没する妖精たちには、声をかけるのはまだよいとしても、さわったり手を出したりはしないほうが賢明のようである。


『ケルトの妖精』 あんず堂

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渾斎随筆 №70 [文芸美術の森]

新潟だより                    

                    歌人  会津八一

 早稲田と新潟を結ぶ線の上に、大きく浮び上るのは、古いところでは、大先輩の市鴫春城さん、それにつづいて吉田東伍さん、それから、大學の職員ではなかつたが、市嶋さんとは兄弟のやうに親しく、政治家で、詩人で、能書家で、ことに護国寺畔の大隈老侯のお墓の底深く、遺骨とともに埋められてゐる、金属板の墓志銘を揮毫した坂口五峰さんが思ひ出される。そしてこの人の長男で、早大出身の獻吉君は、「新潟日報」の前社長として、稀に見る徳望家で、現に校友會の柱石でもある。その弟が、小説家の安吾君であるが、この人は早大には関係はない。
 市嶋、吉田、坂口といふところを下ると、相馬御風といふ順序であらう。この相馬については、前號に舊友たちが、いろいろ賑かに噂をしたばかりであるが、私も少し書く。
 私は相馬といっしょに明治三十九年に早稲田を出たものの一人であるが、年は私の方が二つ上であつた。
 同期のものが二人同じ越後に引っ込んでゐるといふので、毎日のやうに往乗して顔をつき合せて茶のみばなしでもやってゐるものと、東京の人たちは思ってゐるらしかったが、越後は随分廣い國で、たがひに三十里も離れてゐるので、そんなわけには行かない。私が東京で丸焼けになつて、越後へ帰つて五年になるけれども、一度こちらから訪ねたことがあるきりで、そのほかは、時折、手紙でたよりを交ほすぐらゐのことであった。
 その時も私が訪ねて行くと、いつも居間にしてゐるらしい二階から下りて来て、私の通されてゐる玄関わきの客間に現はれた彼は、全く白髪の老翁になり切ってゐるのに、年長の私の万でずゐぶんびつくりした。たがひに久方ぶりの封画で、むやみになつかしく、いろいろと話が盡きない。ずつと前に、私がまだ東京に居るうちに、ある日早稲田の校庭を歩いて詠んだ歌が十首あって、それをどこかの雑誌に出した。その中には
   ともにゐてまなびしともはふるさとに
   いまかおゆらんおのもおのもに
   たちいでてとやまがはらのしぼくさに
   かたりしともはありやあらずや
こんな風の感傷を述べたものだが、その時相馬はすぐ手紙をくれて、あの歌を、繰り返し讀んでさめざめと泣いたといって来た。この日も相馬は、初つから涙に頬を光らせてゐた。
 私はその日は御ひる頃に宿屋へ引き上げたが、またその翌日もやつて行つて、たあいもなく談り合った。そしていよいよ私の帰るといふ時になると、彼は門前まで出て、ハンケチを振りながら私を送ったものだ。
 先日私は平泉で津田左右吉さんを訪ねて、それから二人で仙臺へ出て、「河北新報」の主催で講演をして、東京を廻って国へ帰つた。ずゐぷん気をつけたつもりであったが、新潟へ帰つて少し目が経ってから、疲れが出て困った。それから間もなく新潟で、良寛没後百二十周年の記念として遺作展をやることになった。その會の顧問として安田靫彦、相馬御風、會津八一、三人の名を列ねることになってゐたので、私から相馬へ手紙を出して、その連絡のために四月の末に一人の青年を上げるから、よろしく頼むといってやった。私自身こまかなことは党えそ居ないけれども、その筆のついでに、仙臺での疲努がまだ抜け切らなくて因るとでも書いてやったものと見えて、相馬からの返事には、その疲弊をひどく気にかけたらしく、見舞の言葉があって、その後に、實は自分も近頃は、全くからだの調子が悪いから、人をよこすのは、五月になってからにしてほしいとあった。
 會期が迫ってゐるので、五月という月になるのを待ちかねるやうに、その青年は糸魚川に向つた。すると相馬の方では、その人の行くのを待ちかねてでもゐたらしく、その青年が、決してうかうかと、のんきに長坐をしたのでなく、いく度も暇乞ひをしかけても、押して引きとめるやうにして、相馬は大機嫌で、大好の良寛の話を、ものの三時間もたてつづけにやって、それから夜もだいぶ遅くなるので、その人は振り切るやうに宿屋へ引き上げると、間もなく二番中気が出て、十れで亡くなったのだといふ。
 見やうによると、私が人をやって相馬を殺したやうにもなる。けれども先日ほかで相馬の長男といふ人に邁つた時に、その事をいふと、父が一生をかけて、何よりも心を打ち込んでゐた良寛さまの話で、往生させていただきまして、内では皆が大満足。死顔もほんとににこやかでございましたといって、あべこべに禮をいってゐた。これでやうやくほつとした。
 その後、私は朝日新聞社にたのまれて、金澤大學へ講演に行った。その帰りに汽車は糸魚川を通ったけれども、私の方にも急ぎの用を控へてゐたので、下りられなかった。いづれゆっくり見舞って、記念碑でも出来るなら字でも書いてあげようと思ってゐる。
 この序に私自身のことを少し書くならば、私の古稀の覗賀のために、奈良と東京と新潟とで、同時に記念事業が進行して、早稲田では日本美術院同人の喜多武四砦の手で、私の大きなリリーフの宵像が出来、奈良では東大寺の中門のわきに、一丈あまりの大歌碑が出来、新潟では縣立圖書館の前庭に歌票一基、八月一日に除幕をやった。この前庭には数年前に有志の建てた良寛の筆で「一二三」「いろは」の六字を書いたものを、大きく引き伸した石碑が立ってゐる。この良寛さまの碑と左右に對立して、いささかまぶしいやうな気拝もあるが、もつと手短かに考へてみれば、年をとると、つまるところは、あちらにも、こちらにも、位牌のやうなものや、墓のやうなものを、人が造ってくれる。これも如何ともいたしがたいことだ。まぶしいどころか、だいぶ冷え冷えとした話だ。「古人今人流水ノ如シ」といふ句を、しみじみと味はれる年齢になったのに、今更ら気がつく。
 相馬と私との関係については、彼の訃音に接したとたんに一文を書いて、私の新聞ー!「新潟日報」に載せておいた。それも讀んでいただきたいものだ。
                       『早稲田學報』昭和二十五年九月


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石井鶴三の世界 №176 [文芸美術の森]

イ・えび 1952年/しか・めす・おす 1952年

            画家・彫刻家  石井鶴三

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たい・えび 1952年 (142×203)
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しか・めす・おす 1952年 (141×201)

 **************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №40 [文芸美術の森]

第七章 「小説なれゆくはて」 4

          早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「金は一切受けない」

六月二十七日
 コブタの処に行って設計図と説明書きを渡す。今の家より三坪ほど広くしてあるが、病気をして動けなくなった時暫くじっと寝ていれば又元気になれるようなときには看護婦に来てもらえて、その時の居室にカーテンを引いて三畳の寝泊まり室を作る必要あるため、自分の寝室に三畳を別にすること、今はトタン屋根だが一番安いのでいいから瓦にすること、潮風がひどいから必要、これらの費用のオーバーする額はこちらで払うこと、(省略)現在の家は地主、材木屋、大工等からひどいことをされた、そのためどうにも住まえないので百日自分で大工をして何とかやっと住まえるようにした。今は老年にもなってそれだけの気力がない、そんな工事に暇と精力を使いたくない。二度とそんな目にあいたくないことを話す。また一切の費用を高島に渡して地主や大工等に払うようにするらしいが、それは断る。金は一切受けない、と言ったら税金の関係があるからとコブタ主張する。公園に建築出願するのだから、またあんな猫の額ほどの地を大会社の東急の名で買ったりすることは東急の名誉と信用にかかわるからできない。道路も四間幅、土地もだれはばからない、正々堂々たる処でなくては手をつけない。だがどこの馬の骨だか分からないようなルンペン絵描きが小さな犬小屋みたいな小屋を建てるとの出願なら必ずすぐわけもなく許可してくれる。高島の名で出すより外にない、万事田端氏が市役所に知人がいて、うまくやってくれるように頼んだから田端氏から出願の印など言って来ると思うのでうまくやれ、と主張する。そんなことなら止めると言ったら、世の中は一人勝手なことばかり言ってもだめだ。凡て相持ちよって事が運び生活が成り立つのだから、ことに東急のような大資本には黙って従うがいい。印を押すなんてわけないことじゃないか、としきりに人生論を始めて滔々としゃべりつづける。ものうくなって帰りがけに、これからが事はむずかしくなるぞ、コブタさんはコブタさんでうまくおやりなさい、と言って出てくる。
 ▲高島さんは帰りがけに「これからが事はむずかしくなるぞ」と言うが、画家はもう半ば、ことによっては新築のアトリエには引っ越さない気持ちがあったのではなかろうか。

 七月十五日、田端旅館に主人の田端氏、画家、コブタ、「番頭」、東急本社員二人、建設業者、大工らが集まり、土地の最終的な選定にとりかかる。いよいよ大がかりになってきた。海のちかくにドライブウェイが出来るからずいぶん便利な処になると、画家が望んでいることとは正反対の考えでわいわいがやがや。しかしかれらが良いと勧める土地が細長くアトリエが入らない。翌日また画家ひとりきて、地点を変更、その旨コブタに伝えに行くと、コブタ再度の人生論で画家をさとし、現金をかれに渡すという。それならこの一件これでうち切ると言って画家は帰宅した。
 その後「番頭」が来て、明後日田端旅館で地主や大工たちがくるので印鑑証明を柑奪するようにと告げたが、画家は同意しない。ここで整理すると、画家が要求しているのは新しいアトリエを現在のものとほぼそっくりに作ること、それを画家の死後、市の行政に寄付するので、生きている間本人は行政の管理人のような形で住みつくこと、画家が現金の授受に直接タッチしないこと。

八月九日
 館山市から建築申請の認可書を渡すから出頭されたしとの通知書来る。放っておく。

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍社


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祖道傳東Ⅱ №31 [文芸美術の森]

第三十一図 「渓聲山色」

     
画  傅 益瑤・文  曹洞宗大本山永平寺

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(紙本墨画彩色)九〇×一二五 軸装

 道元禅師の『正法眼蔵』の「渓聲山色(けいせいさんしょく」は、四季それぞれの表情を見せる目本の山河、あるいは中国の水墨両の風景がそのまま絵巻のように見えてきます。
 中国に渡っての弘法救生による諸山巡遊の旅は、文字通り身をもって学び、心をもって学んだ姿でありました。道元禅師の感動の深さがそのまま書きしるされた多くの言葉は、言ってみれば「言(こと)」と「言霊(ことだま)」から成り立っています。
 さらに「正修行のとき、渓聲山色、山色山声、ともに、八万四千偈をおしまざるなり」とあって、正しく修行をしておれば、渓谷のせせらぎも、山の景色も、風の音、静けさそのもの、それら全て偈(げ)を惜しまない。つまり、名利身心を捨てたとき、山の本当の姿が見えると言います。
 悟りを得るきっかけになった自然との交流の感動を説いているものが、この「渓聲山色」の意味するところです。
 道元禅師は、目の前に聳えている山の姿は、そのまま仏の姿であって、山の清浄身そのものであると言います。
『祖道傳東』大本山永平寺


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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い」 №47 [文芸美術の森]

                        葛飾北斎≪富岳三十六景≫シリーズ

                           美術ジャーナリスト 斎藤陽一

                   第13回 「五百らかん寺さざゑどう」

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≪帯状・格子状構成≫

 今回は、葛飾北斎「富嶽三十六景」中の「五百らかん寺さざゑどう」と、印象派の代表的画家モネが描いた絵「サン・タドレス~海辺のテラス」との近似性について、探ってみたいと思います。

 北斎が描いた五百羅漢寺は、江戸時代、亀戸(現在の江東区大島)にあった黄檗宗の寺です。この寺の境内には、内部が三層のらせん状構造を持った「さざゑ堂」があり、その最上階のテラスは眺望が良いことで知られていました。

 この絵には、テラスから遠くの富士山を眺める人々が描かれています。彼らの視線に導かれて、私たちの目も富士山に誘われます。

 また、テラスの床やお堂の壁、屋根のすべての線が、遠くの富士山に向かって収斂しています。ここには、西洋風の遠近法が使われていますね。北斎も、そのあとに登場した広重も、西洋の「線遠近法(透視画法)」を習得していました。

 さらに、本来なら、テラスから富士山との間には、家々や田圃、森と言ったものがあるはずですが、北斎は、そういったものはすべて省略、一面を墨色に塗り、あたかも水面が広がっているような帯状の層にしています。富士山を際立たせるためです。従来の日本絵画ならば、そこに「すやり霞」(No.44、第10回「隅田川関屋の里」を参照)を描くところでしょう。

 このように、この絵のすべてが、はるかに見える富士山を中核として構成されているのです。

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 もうひとつ、この絵には、独特の構図が潜んでいます。

 横に広がるテラスの層、墨色の“水面”のような層、空の層という三つの横の層による「三層構成」となっていることが分かります。「帯状の構成」と言ってもいいと思います。

 その上、欄干とお堂の壁にあるいくつもの格子の形に着目すれば、ここには「格子状の構成」も潜んでいます。

 また、この絵では、右側に大きな屋根を持つお堂が配され、左側にはそれに匹敵するような大きさをもったものが何も描かれていないため、左右がアンバランスとなっています。ここには、西洋美術が好む「左右相称(シンメトリー)」の美学に対して、日本美術が好む「アンバランスの美学」とも言うべき「左右非相称(アンチ・シンメトリー)」の構図も見られることにも留意しておきましょう。

≪モネの絵の近親性≫

47-3.jpg 次に、モネの絵を見ましょう。

 右の絵は、1886年、モネ26歳の時の作品「サン・タドレス~海辺のテラス」です。

 夏の光が降り注ぐ明るいテラスと海の風景を描いていて、いかにも「光の狩人」モネらしい絵です。ここには、この明るさと色彩の鮮やかさをもたらす「色彩分割」や「補色対比」といった印象主義の技法が使われているのですが、ここでは「構図」に注目してみたいと思います。

 下図をご覧ください。

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 この絵は、「テラス」と「海」と「空」の三つの層が水平に描かれ、はっきりと「三層の帯状構成」が読み取れます。

 それだけでなく、テラスの左右には、本来、このようなところにありそうもない旗のポールが2本描かれているため、このポールが作る垂直線と、三層の水平線とにより、画面は「格子状構成」にもなっている。北斎の「五百らかん寺さざゑどう」との近似性が見られますね。 

 モネのこの絵では、西洋風景画の鉄則とも言うべき、水平線(または地平線)の一点(「消点」)に向かってすべての線を収斂させていくという「線遠近法」は、意識的に外されています。

 モネは若い頃に日本の浮世絵に出会って強い感銘を受け、生涯を通じて浮世絵を収集しました。それどころか、浮世絵は、彼がそれまでにない新しい絵画を生み出すための重要な触媒になったのです。

 モネが、北斎の「五百らかん寺さざゑどう」を実際に見ていたかどうかは分かりませんが、「海辺のテラス」というモネの絵を見ると、若き彼が、西洋とは異なるさまざまな特質を持つ浮世絵に触発されて、西洋絵画の伝統の呪縛から脱しようとしていることが感じられるのです。

≪江戸の富士講ブーム≫

 もう一度、北斎の「五百らかん寺さざゑどう」に戻ると、そのテラスには、裕福そうな商家の旦那、侠客風の男とその子分、粋な姉さん、子ども連れのおかみさん、風呂敷を背負った男などが描かれ、すべての視線が富士山に向かっています。言うまでもなく、富士山は単に日本一高い山というだけでなく、はるかな昔から、日本人の心の山であり、聖なる山であり続けました。

 当時、江戸では、霊峰富士を信仰する「冨士講」が流行っていました。文政末期には、江戸市中に約300もの富士講が出来ていた、と言われます。

富士講というのは、参加者がお金を積み立て、毎年順番で富士山に登るという「信仰登山」の仕組みです。年配者や女性、子ども、体の弱い人など、登ることが出来ない人たちのためには、近くに富士山の形に似せた小山を築きました。これが「富士塚」ですね。

 このような状況の中で、「富嶽三十六景」は刊行されたのです。そして、版元のねらいどおり、このシリーズは大評判となりました。

 次回は、北斎の「富嶽三十六景」の締めの作品とも言うべき「諸人登山」を紹介します。

                                                             


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往きは良い良い、帰りは……物語 №89 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語 №89
コロナ禍による在宅句会 その4

               11月こあみ句会幹事

◆投句締切は令和2年11月15日でした。
◆当番幹事は大谷鬼禿、永井舞蹴、大取下戸の3氏でした。
◆兼題は「冬に入る」「酉の市」「鯨」「枇杷の花」でした。

◆全句発表?      (18名72句)
【冬に入る】
会いたさがぶんぶんふくれて冬に入る(華松)
万華鏡回せど寂し冬に入る(弥生) 
うたた寝のいびき一発冬に入る(下戸)
人恋し巣ごもりのまま冬に入る(尚哉)
グツグツと鍋の音冬に入る(珍椿) 
夜半から冬に入るビニール幕の向う側(鬼禿)
牡蠣と蟹ぼたんにてっぽう冬に入る(一遅)
隣家の犬毛が膨らんで立冬を知る(兎子)
蒼穹を切り裂く一機寒に入る(虚視)
身ひとつの魚も鳥も冬に入る(舞蹴)
注す水の指先の赤今朝の冬(小文)
爪を切る疾く日暮れて冬に入る(玲滴)  
包丁の青く光りて冬に入る(矢太)
冬に入る北海道の友のこと(可不可)
君の手の 今日の冷たさ 冬に入る(茘子)    
冬に入る顔見世役者の勘亭流(紅螺) 
立冬や街に揺るる灯またたく灯(すかんぽ)
厨房に物きざむ音冬に入る(孝多)   

【酉の市】
熊手持つ肩車の子頬赤く(一遅)
妻と手を繋ぐは久し酉の市(舞蹴)
薄暮れや灯り寂しき酉の市(小文)
熊手欲し密は避けたし酉の市(玲滴)
今年の熊手誰と行ったの酉の市(兎子)
売声の主厚き爪酉の市(虚視)
今年もまた小さな熊手三の酉(可不可)
酉の市声高々と夜を飛ぶ(矢太)
禍福みな一炊の夢酉の市(弥生)
酉の市あすは行きたや写植拾う(下戸) 
酉の市マスク・マスクに決意あり(孝多)
酉の市おかめに惑う不甲斐なさ(華松)
ひとり行く倒産前の酉の市(鬼禿)  
繁盛より持続化ねがう酉の市(尚哉)
お多福はプラスチックぞ御酉様(すかんぽ) 
酉の市 かき集めたる 欲の顔(茘子)  
白髪眉手締めキレよく酉の市(紅螺)
手締めもディスタンス今年の酉の市(珍椿)

【鯨】
太地町の朝雨もよう鯨くる(珍椿) 
これきりになるやも知れぬ鯨食ふ (尚哉)
破れ苫屋朝焼けの海に勇魚立つ(一遅)
大海の一点鯨遠去かり(虚視)
大海の鯨潮吹く孤独かな(舞蹴)
紺碧の大海原に鯨跳ぶ(玲滴)
飛べ鯨 難民キャンプの子らの上(鬼禿)
勇魚追ひw.cニコルは森に逝く(矢太)
大統領選鯨潮吹く夢を見る(可不可)
海深く連れて逃げてよ鯨になって(紅螺)
若冲の クジラ潮吹け 京の空(茘子) 
守り継ぐ鯨の墓とや風やさし(孝多)
教科書に資源と習ふ鯨かな(すかんぽ)
ハワイでは鯨元気か凍えて思う(兎子)
寄せる肩鯨尾の身により寄りて(小文)
アルマイト皿を鳴らした鯨の日 (下戸)
散骨すマッコウ鯨に続く海 (弥生)
鯨にも女系家族があるものを(華松)

【枇杷の花】
杖停めて母仰ぎ見る枇杷の花(可不可)
芳香に尼僧の撫で行く枇杷の花(孝多)
退屈な日々にたいくつ枇杷の花 (すかんぽ)
枇杷の花 口重き母の 色に似て(茘子)
廃屋に枇杷の花咲く島の道(紅螺)
枇杷の花玄関の鍵錆びたまま(矢太)
床を上げし姉嫁ぐ日の枇杷の花(鬼禿)
故郷まで一年の旅か 枇杷の花 (下戸)
枇杷の花母はますます祖母に似て(一遅)
夕闇は水底のごと枇杷の花(虚視)
海へ出る猫の近道枇杷の花(舞蹴)?
みっちりと荒地の奥の枇杷の花(兎子)
青天に誓う告白枇杷の花(小文)
人知れぬ思いひそやかに枇杷の花(玲滴)
長髪の若き庭師や枇杷の花(弥生)
肩寄せてひそひそ話 枇杷の花(華松)
我に似て目立たず咲くか枇杷の花(尚哉) ?
枇杷の花の華東の窓から(珍椿)

◆天句と鑑賞短文
●舞蹴 選  君の手の 今日の冷たさ 冬に入る(茘子) 
一生懸命水仕事をしてくれる優しい人の、細く長い美しい手が目に浮かびます。「今日の冷たさ」がいい。

●尚哉 選  売声の主厚き爪酉の市(虚視)
売主の手元に視線を寄せる。厚い爪。
どんな人生を送ってきたのだろう・・・そこまで想像させます。

●鬼禿 選  海へ出る猫の近道枇杷の花(舞蹴)?
どうも作り過ぎの句の多い中 岩合の島の映像のような気持ちのいい句だ。兎角 うるさい昨今、息の注ぎ方を教えてくれる。

●珍椿 選  海へ出る猫の近道枇杷の花(舞蹴)
何時もの様に枇杷の枝を器用に潜り抜け塀の上を海へ散歩か。
そのすました顔が可愛い。

●一遅 選  海へ出る猫の近道枇杷の花(舞蹴)
このご時世、なんとものどかな風景が胸にしみます。
俳句は、人の心をゆるめる文学でありたいものです。

●すかんぽ 選  海へ出る猫の近道枇杷の花(舞蹴)
地味な枇杷の花と猫の近道(しかも海に続く)の取り合わせが響き合っていて、素敵な情景が目に浮びます。

●華松 選 包丁の青く光りて冬に入る(矢太)
兼題の鯨で包丁を考えましたが、これほどスッパリとは切れませんでした。妬けます。

?●可不可 選  枇杷の花母はますます祖母に似て(一遅)
母の句が何句かありましたがこの句が一番よかったと思います。

●茘子 選  枇杷の花玄関の鍵錆びたまま(矢太)
玄関の鍵さびたまま=この言葉によって景色が一瞬のうちに、目の前に浮かび上がる。言葉の持つ広がりの素晴らしさ。

●小文 選 白髪眉手締めキレよく酉の市(紅螺)
キレッキレの白髪眉の手締め、元気が出ます。見てみたいと思いました。

●玲滴 選  身ひとつの魚も鳥も冬に入る(舞蹴) 
平易な言葉で冬入りの森羅万象を思わせていいなと思います。

●下戸 選  身ひとつの魚も鳥も冬に入る(舞蹴)
生きとし生けるもの皆、体を縮めて冬に入るのだなぁ、と17文字で数段上の境地にもちあげてくれる。これは名句と膝を打ちました。

●矢太 選  君の手の 今日の冷たさ冬に入る( 茘子)
身近な小さな情景で、大きな自然を表象した。

●虚視 選 ? 福禍みな一炊の夢酉の市(弥生) 
一炊は一睡で、下記の様な句では?
  福禍みな一睡の夢酉の市

※ 後日訂正のメールがありました

虚視が天句に選んだ弥生さんの、「福禍みな一炊の夢酉の市」の「一炊」は「一睡」では無いかとメールしたのですが、私の誤りでした。中国の故事に、願いが叶うと言う枕で昼寝をしたら立身出世の夢を見て、夢から覚めたら丁度ご飯が炊き上がっていたと言う事から引いているので、「一炊」が正しいのです。弥生さんから指摘されました。うろ覚えで恥ずかしい思いになりました。弥生さん、句会の皆さん申し訳ありませんでした。

●孝多 選  君の手の 今日の冷たさ 冬に入る(茘子)
愛の句。繰り返し読んでいると涙が出て来ます。佳句をお示し頂き、有難うございました。

●弥生 選  守り継ぐ鯨の墓とや風やさし(孝多)
浜に打ち上げられた鯨。先祖から守り継がれる、その鯨の墓。素材そのものが美しい。

●兎子 選  廃屋に枇杷の花咲く島の道(紅螺)
寂しさと底抜けの明るさが同居しているようで、ハッとさせられました。

●紅螺 選  牡蠣と蟹ぼたんにてっぽう冬に入る(一遅)
一読して幸せな雰囲気に包まれました こういうの好きです?

◆11月の表彰 ベスト8
総合『天』   舞 蹴   総得点 54点

    代表句=①? 海へ出る猫の近道枇杷の花   34点  
       =②? 身ひとつの魚も鳥も冬に入る  18点(+2)  

総合『地』   茘 子   総得点 31点
   代表句=君の手の 今日の冷たさ 冬に入る   22点(+9)  

総合『人』   矢 太   総得点  28点
    代表句=枇杷の花玄関の鍵錆びたまま    14点(+14) 

総合 次点  虚 視    総得点  27点
    代表作=売声の主厚き爪酉の市       12点(+15))

総合 次々点  弥 生   総得点 25点
    代表作=禍福みな一炊の夢酉の市      10点(+15) 

総合6位  紅 螺     総得点 21点
    代表句=白髪眉手締めキレよく酉の市   ? 11点(+10)

総合7位  一 遅     総得点 20点
    代表句=枇杷の花母はますます祖母に似て  11点(+9) 

総合7位  孝 多     総得点 20点
    代表句=守り継ぐ鯨の墓とや風やさし    10点(+10) 

以上、11月のこふみ会の記録でした。 (令和2年12月1日up)      
                               文責 孝多

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ケルトの妖精 №39 [文芸美術の森]

トロー

           妖精美術館館長  井村君江

 暗い夜だった。人間から恐れられていたトローがひとり、「オレもそろそろ結婚して子孫を残しておくころかな」と地下の棲み家から出かけてきた。
 トローが人間に恐れられていた理由のひとつは、結婚相手として人間の女を選ぶからだった。トローの世界には女のトローというものがいなかったのだ。
 このあたりでは、日が沈んで人気のないさびしい場所を歩いていると、泣いたり身悶えしたりしているトローの姿を見ることがよくあった。たしかに、まわりに女がひとりもいないというのでは暗くて陰気な性格にもなるだろうし、夕暮れどきのさびしさに叫び声もあげたくなるだろう。
 その夜、トローが木かげにうずくまって待っていると人間の女が通りかかったので、卜ローはその女と結婚することにした。
 トローに見初められた人間の女は、赤ん坊のトローを産むと、役目がすんだとばかりにさすぐに死んでしまった。相手がトローだから結婚生活を楽しめる期間がきわめて短いのはかまわないして、この世にトローをひとり誕生させてしまうことにはたまらない思いがしたにちがいない。
 不思議なことに、この結婚で女の子が生まれることはなかった。そのためにトローの社会には女がいなかったのだから、トローは人間の女と結婚するしかなかったのだ。
 子どもが生まれると、父親のトローは息子を成長させるまではぜったいに死ぬことがなかった。しかし、子どもが一人前になるとトローの寿命がくるということだった。
 ところで、ある独り者のトローが命に限りのあることを恐れていた。
 するとトローのなかにも知恵のあるものがいたらしく、
「結婚して子どもをつくらなければ命は永遠であるはずだ」と言った。
「それならずっと独身で通せばすむこしこだ」と、独り者のトローは考えた。
 しかし、こういう不届きな考えをするトローはほかにもたくさんいたらしく、トローの社会ではそのようなことが頻繁に起きないように取り決めができていた。
 それは、人間の花嫁をいつまでも連れてこないでいると、トローの社会から追放される、というものだ。
 このことを知っていた独り者のトローは、どうせ追放透れるのならと、さっさと逃げだして廃墟となっていた土塚にひとりで住むことにした。
 こうして死ななくてすむことになった独り者のトローは、数世紀にわたってその土塚で孤独に生きていた。
 いつのまにか、このトローのことはシェットランド諸島の人々に知られるようになった。
「廃墟の土塚になにかわからない生き物が住んでいるようだ」とか「土を食らっているようだ」という噂は、数世紀ものあいだ、シエツトランド諸島の人々の恐怖の的となった。トローの食べる土はほんものそっくりに型どった魚や鳥や赤ん坊で、それぞれはんものの香りと味があったといわれていたからだ。
 ところが、数百年もひとりで生きていると、さすがの独り者のトローも孤独の生活に耐えられなくなって、人恋しい気持ちが頭をもたげてきたらしかった。近くに人間が来るとうれしそうだった。それでも人間とのつきあいにまでは発展しなかったのは、やっぱり結婚をして死にたくはなかったからだ。
 そこにトローの社会の秘密を知りたがっていたひとりの魔女がやってきて、この独り者のトローに言い寄った。
「わたしの魔術で永遠に死ぬことのないようにしてあげるから」
 ともちかけて、結婚を承諾させた。
 ところが、独り者のトローの心をとらえたこの魔女も、トローとの結婚生活では幸せだったわけではないらしかった。というのは、この魔女もこっそりと魔女の母親を訪ねては、「母さん、娘さらいのトローがやってきて悪だくみをするから、世間知らずの娘たちには気をつけてやらなきゃあだめよ」と注意したり、娘たちがトローの罠にはまらないように、魔術を防ぐ方法を教えたりしていたと、語り伝えられているからだ。
 それでも魔女とトローのあいだには、ガンファーとフイニスという子どもが生まれた。
 フイニスは、死にかかっている人と同じ格好で現れ、死を告げる妖怪になった。
 ガンファーは、人間の体に入って肉体に結びつく機会をたえずうかがっている、今日で言うアストラルになった。

◆ トローは、優雅で小さな生き物という、妖精の属性のひとつであるかわいらしさからは遠い。小柄で灰色の衣服をまとい、人に見られると自分たちを見つけた運の悪い相手をにらみつけながら後ずさりしていくのだが、逆に人間にしっかり見据えられると動けなくなってしまうこともある。
 日が暮れてからしか地上に出てこず、もし運悪く日がのぼってから一瞬でも地上に残っていたら、日没までそのままの姿で身動きできずにとどまっていなければならない、という。
 太陽の光に弱いシエツトランド諸島のトローは、J・R・R・トールキンの『ホビットの冒険』に登場する北欧のトロルの性質に取りいれられている。

『ケルトの妖精』 あんず堂

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石井鶴三の世界 №175 [文芸美術の森]

夢殿観音 1952年/百済観音 1952年

            画家・彫刻家  石井鶴三

1952夢殿観音.jpg
夢殿観音 1952年 (188×132)
1952百済観音.jpg
百済観音 1952年 (202×144)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №69 [文芸美術の森]

 古建築の火災                 

                歌人  会津八一

 法隆寺が焼けてまだ日が浅いのに、金閣寺が焼けたといふ。何といったものか、私はたまらない気特だ。
 法隆寺の前に、まだ戦争のさい中であったが、同じ奈良懸で法隆寺にすぐ近い法輪寺といふ寺の三重の塔が焼けた。これは一般の人たちにはあまり知られずにしまったが、この塔などもこれを見る學者によつて時代の認定がいくらか達ふにしても、どのみち日本では一番古い時代の様式を持つものであったのに落雷のために、たつた二時間のうちに焼け落ちたといふ。その時、そのありさまを見て来たといふ人が、それから眞直ぐに東京の私の宅にやって来て、大聾を上げて泣きながら、そのありさまを報告した。この塔のことを私が研究して論文に書いたりしたことがあつたからだ。けれども、私は泣けなかつた。あまり悲しくて泣いてはゐられなかつたのだ。
 こんな調子に矢つぎ早に焼かれては、もともとあまりたくさんも無い日本の古建築は、遠からぬうちに、一つも無くなるにちがひない。その火もとを査べると、やれ避雷針がとりつけて無かつたとか、電気座布園がよくなかつたとか、火災報知機が不完全であつたとか、または、坊さんの一人が気ちがひであつたとか、そんな査べが何所まで進んでも焼けた建物はもとへ返らない。つまるところは日本人がかうした国賓ものの貴さを、まだよく理解がとどいてゐないから起つたことだ。原因は国民の不心得より外にもとめられない。
 いつか、何かの機會に私が云ったやうに、日本人は、とかく國自慢をしたがる。そして美術國だ美術國だといひ立てるが、遠い先租の作って遺してくれたものを、自分の手柄にして自慢するばかりで、なかなかそれ以上のものを作り出すだけの働きを見せない。そしてその遣物を自慢にはするが、それほそ大切にもしてゐない。そのくせ急にそれが無くなると大へんにくやしがるけれども、それほど常の日には大切にしてゐない。先租ほどに偉らくない子孫、いつも先租を笠に着る子孫といふ姿だ。
 日本で古美術の中心として誰しも指を折るのは京都や、奈良や、日光や、鎌倉であるが、あの烈しい大戦争の間にも、アメリカの飛行機は、どう間違っても一つの焼夷弾もそこらへは落さなかった。日本の古美術であるから、焼くときには日本人の手で焼かなければならないと思ってゐるなら、大變のことだ。
 今朝も、東京のある美術笠からアンケェトで、近頃の金づまりのためにとかく古美術が海外へ流れ出る。それについての感想を問ふのであつたが、私はこれに答へた。出来ることなら海外へは出したくないものだが國内に引きとめておいても先租の遺産を死蔵するだけで、ろくろく保存も出来ぬといつたありさまならば、いつそのこと手放して送り出してもその物のためにはかへつていいかも知れない。しかし書畫や彫刻などとちがつて、建物を海外へ持ち出すといふことは少しむつかしいが、解きほどいて、材木にして、詳細な圖面を附けておけば持ち出してから組み立てられねことはない。片っ端から焼いて灰にしてしまつたのでは何のためにもならない。
 世間には、ともすると法隆寺あたりの建築は、どこの隅々までも、創立の時のそのままの材木で組み立てられてゐるものだと信じ切ってゐる人が多い。しかし實際はそんなものでない。遠い昔から今に至るまでの間に折々の修繕に、材木は次第に取り換へられて、創建の時のままの材木はほんとに少い。いつまでも同じ所に立ちながら、弱ったところから少しつつ若返ってゆくといふことは木造建築の一つの強みでもある。もし周密な、正確な實測圖が出来て居れば一たん焼けてしまっても翌日から、もとのままの再建にかかることも出来るといふものだ。けれども今の日本の古建築には、焼いてしまっても安心して再建に頼りかかれるほどの實測圖が備はってゐるものはいくらも無いであらう。
 法輪寺の塔なども、それが無かったために、焼けつばなしになってゐる。もし日本の古い建築物をいつまでもこの國土の上に立てておきたいなら、かうした方へも充分に行きとどいた用意をしてもらひたいものだ。もちろん莫大な金はかかるであらうが、そんなことをけちけちしてはゐられない。
               『新潟日報』夕刊昭和二十五年七月四日

『会津八一全集』 中央公論社


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