知の木々舎
立川市長20年のあとに№4


 お昼になると、一番組から四番組の子は、自宅に戻り、大急ぎで昼食をすませて戻ってくる。私は1分もかからないで帰宅していた。一方、学校から遠い西砂、松中の子どもたちは弁当じさんだった。その中味は、麦めし、おかかに醤油かけ、梅干しだった。卵焼きなどは珍しかった。

 昭和初期の人口約5000数百人、戸数約1000、90パーセントの人たちは農業に従事している。村には昔の名主だった砂川家以外には、水田がない。したがって主食は麦だ。暮らし向きは楽ではない。昼飯を食べに帰るのも、改まって弁当を作る余裕のない家が多かったからだ。

 学校に貧富の差を持ちこまない。これが創立以来の教育方針の一つだ。このため、着物は男女ともに、木綿のメクラジマ地、弁当を作れない家庭への配慮が、自宅への駆け戻りだったのだ。

金毘羅山へ初めての遠足                                                     学校の校庭には、校舎増築の資材が山積みされていて遊び場がなかった。
 そこで先生は、初めての遠足に行こうと、金毘羅山へ連れて行ってくれた。それは玉川上水の金毘羅橋のたもとにある盛り土した小山だ。砂川四番と三番の境に位置する。ふだんの遊び場の一つだ。でも、学友と来ると違った感じがした。先生や五番組の子を案内すると、感心してくれて得意になれた。 
とにもかくにも学校は愉しかった。二番組以外の友だちもできた。みんなと教室で学ぶことで、新しい世界を知る。隣の席と話していて、よく先生に叱られたけれど、先生は優しかったから、叱られるのも嫌ではなかった。
兵隊ごっこで負傷して学校から帰ると二番組の仲間とのつきあいに忙しかった。

 私の入学する1年前の昭和6年(1931)、満州事変が起こり、世間は戦時色に彩られてきていた。正義の日本が、中国の不正を糺す戦いだと教えられた。
 兵隊さんに負けないよう、子どもたちは、兵隊ごっこに夢中になっていた。

 兵隊ごっこの芯となるのは隊長だ。部下の兵隊が従う。二番組の隊長は児童長だ。私は一年生だからもちろん部下。隊長はクワゼンボウを刀にして、
 「突撃、進め」
と命令する。10人ほどの部下
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(ふるさと立川・多摩・武蔵)09-07-26 13:06


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