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海の見る夢 №93 [雑木林の四季]

    海の見る夢
        -修道院の庭で―
                澁澤京子

・・目的へとひた走る意識が目指しているのは精神の全体ではなく、そこから切り取られた非循環的なシークエンスである。~中略~ 意識のやり方には、確かに高い効率がある。しかし意識にとってのコモンセンスに従うことは、智を欠いた貪欲な生き物に滑り落ちる効率的な方法ではないか。私の言う「智」とは、「生き物であるところの全体から差し出される知識を受け止め、それに導かれる心」という意味であります。 
                    ~『精神の生態学』グレゴリー・ベイトソン

三鷹市に移り住んでから驚いたのは、カラスより野鳥が多い事。実家のあった渋谷にはやたらとカラスが多く、野鳥などはめったに見られなかった。先日、胸の羽毛が玉虫色に輝く美しいハトがベランダの手すりに止まっていて、それが渋谷ハチ公辺りに生息する薄汚れたドバトと同じ種類であることに気が付いて驚いた。ドバトがこんなにきれいなハトだなんて・・

毎朝ベランダにリンゴを細かく刻んでおいておくと、あっという間になくなってしまう。今朝起きると、すでにヒヨドリが何羽か木の枝に止まって、リンゴを待っていた。ヒヨドリのほかにムクドリ、ツグミ、メジロ、尾長、シジュウカラなどがベランダにやってくる。リンゴを置くと、すぐに食べるわけではなく、まずピイ~と他の仲間を呼びに行く。ヒヨドリの鳴き声につられて、シジュウカラや尾長もやってくる。

三鷹市に引っ越してきてから、にわかバードウォッチャーになった。毎朝、野鳥を観察していると、鳥の動きに見とれて思わず時間がたってしまうのは、野生生物の動きというものが、全体と見事に調和がとれているせいかもしれない。人のように人間中心の視野しか持てないのではなく、あくまで彼らが全体の部分であり、また全体(環境)に対して常にオープン敏感であるからに違いない。人は言葉で世界を経験するが、うちのインコを見ているとまず環境(特に音)の模倣から始まる。どんな微かな音も聞き逃さない、窓の外を見ていて、突然飛び立つのは視覚で何かをキャッチしたからだろう。常に周囲全体に神経を拡大しているような感じである。ちなみに飼っているインコは、私が彼女の環境世界の一部なので模倣の対象になっていて、窓の外の野鳥の鳴き声を聴くと、自分も鳥なのに「トリちゃん・・」とつぶやく。

子どもの時から、遊園地は好きではなく、海や山のほうがずっと好きだった。人混みが苦手だったのである。自然のほうが、遊園地のような人工的なものよりもずっと贅沢なのにと子供心に思っていて、それは今も変わらない。遊園地でも唯一の例外が、東横線の多摩川駅の近くにあった「多摩川園」。夏になるとよくお化け屋敷が開催されていて、敷地の半分がほぼ自然化した空き地のある、人気のない寂れた遊園地だった。

「自然との共存」というテーマで建てられ、壁面のガラスの鏡にくっきりと映し出された木々に、鳥が勘違いして激突死することが多いのに対し、爆撃によって空けられた穴に、鳥の巣がいくつもできるパレスチナ人の住居のほうがむしろ立派な「自然との共存」になっているらしい。先進国の「自然に優しい」というのは欺瞞にしかならず、人為では到底自然には及ばないということなんだろう。

地球温暖化によって、真夏の東京は、まるで砂漠を歩いているかのように木陰というものがなくなった。(猛暑のある日、まったく木陰のない住宅街で道に迷い、遭難するかと思うくらい暑かったことがある)それでもなお街路樹や樹木を伐採するという都市開発のセンスには驚くしかないし、それって、かなり時代から取り残された発想じゃないか。

・・一個の内在する精神とは、身体だけに内在するのではなく、対外の伝達経路やメッセージに含めた全体に内在する。そしてこれら個々の精神をすべてサブシステムとして組み込んだ、大文字の「精神」が存在する。
                    ~『精神の生態学』グレゴリー・ベイトソン

三鷹の団地から今住んでいる家に引っ越してきたのは去年の12月。山積みの段ボールと格闘しているクリスマスの朝、どこからかクリスマスの聖歌が流れてきた。地図を見ると、家の近所に修道院があるので歩いて行ってみた。修道院の庭は市民に開放され公園になっていて、以来、この庭が気に入って何度も訪れている。すぐ近くの井の頭公園よりも人がいなくて静寂だからだ。早朝から起きて一日中祈りと作務に捧げている尼さんたちの沈黙が、あたりに漂っているようで、とても落ち着く場所なのである。

都会というのはどこもかしこも意味と目的に満ち満ちた場所だが、自然というのはそういった窮屈な世界から人を解放してくれる。意味の世界では、知性と感情、部分と全体など断片に分けて考える。そこから「全体」とか「個」といった考えが生まれて、社会の「個か全体か」という議論になる。社会では個人の違いを無視した(みんな一緒)が強引に押し付けられたり、あるいは逆に差異を強調するための階級意識などが生まれたりする。

自然というものははるかに鷹揚で寛大であり、多様なものすべてをつなげて融合するのである。こうやって静かに林の中に座っていると、はるか昔から人は樹木と対話していたのかもしれないな、と思うのである。

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