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夕焼け小焼け №52 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

母と同居・卒業の準備を

          鈴木茂夫

昭和28年(1953年)初頭。
 母は私が東洋哲学科からロシア文学科に転科し、そのために卒業が1年延びることを深刻に受け止めていた。卒業できるのかもよく分からない。そして私が腸閉塞で生死の境をさまよったのを受け、容易ならざる状況だと思った。
 天理教東中央大教会で、はぐれ者のように暮らしているのも好ましくない。
 母は私のそばで生活を見守るしかないと決意した。中村館長に事情を話して、興望館を退職することを認めてもらった。収入は途絶するのだ。大倉を売却したお金に手をつけるのもやむをえないとした。

 母は教会にかけあい、教会の戦災にあった赤煉瓦の二階家の1室を確保した。ここはもともと大山巌元帥陸軍大将の豪華な赤煉瓦のゲストハウスだった。空襲で屋内が焼け、赤煉瓦の外壁が残った。東京都が戦災者の仮設住宅として内部を補修して住めるようにしたものだ。上下で8家族が入居している。あてがわれた部屋は12畳の広さはある。炊事、便所は共同使用だ。
 私は3畳間から書籍、寝具、衣類を2階へ運び上げた。そこには窓から差し込んでくる陽の光がある。地中のモグラが地上にでたような気分だった。私は東中央分教会の人員から外された。

 母は東中央分教会に住み込むのではなく、独立して東芳陽布教所を祀りたいと申し出た。天理教の組織では、組織の中心である天理教教会本部、大教会、分教会、布教所、講社がある。大教会は本部に直属し、傘下に50以上の分教会があることが求められる。分教会は所属の大凶会長の承認というか認証があって設置できる。布教所は分教会長の承認、認証があって設置できる。講社は布教所長の承認、認可があって設置できる。簡便な神棚が持ち込まれた。

 興望館から母の身の回りの品を運び込んだ。なけなしのお金をはたいて炊事道具を買い求めた。
 母が共同の炊事場に行き、午後6時過ぎに夕食を持ち帰った。チャーハンだ。おかずはない。口にする。外食券食堂の味とは違う。食べ慣れた母の味だ。何も話さない。ひたすら食べる。皿に盛られたチャーハンの一粒ものこさず食べた。そしてやっと、
 「おいしい。みんな食べきったよ」
 「よかったわね」
 母は中華鍋に残っていた僅かな量を口にしていた。
 お腹にしっかりと食べたので、体中が温かくなった。眠くなってくる。

 早稻田大學5年目の新春だ。授業料は3分の1程度に安くなった。育英資金は4年間支給されたが、5年目にはもう支給されない。
 私は1年遅れになっているから,この1年でロシア文学科の必修科目の単位を取得し、卒業論文と就職をしなければならない。
 母と同居することになったので、これまで始終感じていた孤独も食べ物への飢餓感も消えた。そして何よりも家庭にいるのだと満ち足りる。教会に顔を出さなくてもいい。
 毎日が楽しくなった。
 私は朝食を終えると通学。必ず授業を受けるようになった。授業は楽しかった。

 露文科の主任教授の岡沢秀虎先生は「ロシア文学思潮」の担任だ。学生時代は早稻田大學児童文学会で活躍していたという。スターリン体制には批判的だ。
 「この3月に卒業、難関といわれる放送会社・ラジオ東京に就職した萩元晴彦君はチェーホフを卒業論文の題材とした。私はこれを読んで嬉しかった。よく書けていた。10年に1度でるかでないかという傑作だ。私はこれを諸君の前で朗読する。君たちもこれにならい、すぐれた卒業論文を書くようにになることを希望する」
 岡沢先生は、その論文を取り出して読みはじめた。
「チェーホフの出現はロシア文学の歴史にあらたな視点をもたらした。チェーホフは貴族階級ではなく雑階級の出身であることが、自由で平明な作品を創出しえたのである……」
 確かに萩元の論文はチェーホフをよく描いている。
 岡沢先生は萩元の論文に傾倒しているから、メリハリをつけて読んでいく。しかし読まされているわれわれはげんなりしてくる。萩元論文は4回講読されて終わった。チェーホフを卒論の題材にしてはダメだなと、われわれは話しあった。

 卒業論文はまずどの作家を対象に選ぶかだ。そして担任教授を選ばなければならない。近代ロシア文学の主な作家を列挙するとアレクサンドル・プーシキン『エヴゲーニイ・オネーギン』、フョードル・ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、ニコライ・ゴーゴリの『ディヵーニカ近郷夜話』、レフ・トルストイの『戦争と平和』、イワン・ツルゲーネフの『猟人日記』、アントン・チェーホフの『桜の園』、イワン・ゴンチャロフの『オブローモフ』などがいる。
 大物作家は翻訳作品も多い。これまでにその評論・批評も多い。だから新たに視点を開拓するのは至難だ。しかしよく勉強してきている学生はその難関に挑む。
 中流作家は,原典も翻訳作品も少ない。ロシア語の評論・批評は適当にある。狙い目と言える。
 奇策だがあまり卒論の対象にされてこなかった小粒の作家を選ぶことだ。一人いた。
フセーヴォロド・ガルシン(1855-1888)だ。エカテリノスラフ県で生まれた下級貴族の子だ。幼いときからロシアの古典はじめトルストイなどの作品に親しんでいた。中学のころ、精神疾患に悩まされるようになる。
露土戦争のさなかの1877年に従軍してブルガリアなどに出かけた。
その体験を、『四日間』や『戦争情景』に書いた。それで認められる。
 1883年に医学生のナジェージダ・ニコラエヴナと結婚。『ナジェージダ・ニコラエヴナ』を書き上げた。1888年、コーカサスに転地療養する直前に飛び降り自殺を図り、その際の怪我が致命傷となり永眠した。享年33歳。作品は20数点。
 私は名古屋でガルシンの『赤い花』を読み、惹かれていたからそれに決めた。
 本郷・神田の書店を訪ね、本郷の文生書院でガルシン全集上下2巻(創芸社刊)を求めた。
なんとしてもガルシンで卒業しなくちゃ。
卒業論文を見て頂く教授を誰にしようか。これも考えどころだ。
 ロシア文学科主任教授の岡沢秀虎先生はソビエト文学について研究されている。私と顔を合わせると、なによりもロシア語の習得、きちんとした学習そして生活をと訓戒をたれてくださる。まごまごしているともう1年ロシア語を学べばと言われる。
 谷耕平先生は、ネクラーソフの『デカブリストの妻』の翻訳で知られる。デカブリストとは1825年12月、貴族の将校が皇帝専制の打破をめざして叛乱。首謀者5人が絞首刑、106人がシベリア流刑となった。事件はロシア語で12月を意味するデカブリストと言われる。
2人の妻が夫とともに旅する物語だ。専制は言葉の厳格さを大事にする。
 横田瑞穂先生はショーロホフの大作『静かなドン』を翻訳した。温厚な人柄だが、授業受けたことはない。後年、五木寛之や後藤明生の指導に当たられたかとか。お願いに参上するのに躊躇してしまった。
米川正夫先生は,他の先生が早稲田の卒業生なのに、めずらしく東京外語の出身だ。、ドストエフスキーの『白痴』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『未成年』『罪と罰』の後期5大長編をすべて翻訳されている。日本語でロシア文学を語るとき第一人者だ。いつもいそがしくされている。
黒田辰男先生はファジェーエフの『若き親衛隊』で社会主義リアリズムを解説された。ソビエト作家同盟と親密だ。
 松尾隆先生は早稻田大學英文科の卒業だ。木寺黎二の筆名で『ドストエフスキー文献考』翻訳にロシアの実存主義にたつ『シェストフ選集』がある。唯物弁証法、社会主義などを訴え、進歩派の教授として学生に人気がある。

 私はロシア文学科のなかでは,異端と目されている松尾隆先生を選んだ。大学に近い大名庭園・甘泉園のそばの自宅を訪れた。
 「僕に卒論を頼みに来るのはめずらしいね。あまり厳格な指導はよそう。君はロシア語の成績があまりよくないから、良い点を与えるのは難しいかな。原稿用紙60枚以上書いてあれば合格点をとるように努力するよ。評価は『可』なら大丈夫だ。僕は君たちも知っているように、英文科の卒業だ。番外の人間だが、科内の序列は3番目だ。なんといっても教授だからな」
 「先生、なんとしても『可』を保証して下さい。お願いします」
 私に異存はない。『可』なら問題なく卒業できるのだから。先生の選択も間違ってはいない。
 母は島根県飯石郡赤名町の郵便局に勤める岩佐平治さんに連絡、娘の芙美子さんに東京で美容を学ばせたらどうかと呼びかけた。平治さんは芙美子さんと話し合い上京を決めた。
 芙美子さんは「わが家」に住み込み、代々木の山野高等美容学校に通い始めた。女の子が加わり、なんとなく賑やかになった。
 私は押し入れの棚に布団を入れて寝た。寝心地は悪くない。
  
  母は朝食を終えると、横浜の赤十字病院にいる三村安雄さんの介護に訪ねる。安雄さんは重篤な結核患者で数年間入院している。知り合いの人からの紹介で出かけるようになった。、満州で役人をしていた主人が亡くなり、母一人、子一人のかていで生活保護を受けているとか。母は看護婦の担当領域以外の洗濯、排泄の援助などを引き受けている。天理教の布教活動、おたすけだ。母は夕食前には帰ってくる。ときどき、本牧で安く売っていたとシャコを買ってきた。
  3人で囲む食卓は、つましいけれど心豊かだった。


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