霧笛 №4 [文芸美術の森]
霧笛 4
作家 大佛次郎
「あんた、まだ飲まないんじゃない?」
作家 大佛次郎
「あんた、まだ飲まないんじゃない?」
と、娘は千代吉の顔色を伺うように見た。
「飲むさ、いくらだい? 取ってくれたらいい」
千代吉は、女の目の色のおどおどしているのを見ていっそう迫るようにいった。
娘はしばらく黙っていたが、
「あんたの召上がった分だけでいいわ」
といって、台の上の銀貨を取ろうとした、そのとたんに千代吉は台越しに腕を伸ばして、
女の顔を両手ではさんでいた。微かに驚きの声を漏らした唇は、別の唇で、まったく蓋を
されていた。女はもがいて、夢中で千代吉の顔をかきむしった。はじめて千代吉は手を放した。
それからお互に、離れたまま、敵同士のように目と目とを見合せていた。
「悪かったかね?」
男はかみつくような声で、押しだすようにこういい放った。大胆不敵な目の色はいっこうに変りがなかった。強い非難を含んで見つめている女の方で、かえって、先に弱々しく視線を外して不平らしく口の中でなにかつぶやいた。
「異人の真似(まね)なんか、よしたらいいー」
「悪かったね。それでいくらなんだ。足りなければもっと出すぜ」
「なんに払うっていうの?」
「なにからなにまで、すっかり、こめてだ」
「持ってもしないくせに」
「冗談でしょう。俺ア買物をするときは、いつだって財布に相談してからにする。高すぎるものは手をだしたことがないんだ。煙草が欲しいが持ってねえか」
女は、千代吉の手がとどかないように台から離れて、背後(うしろ)の棚にすれすれに立っていて、煙草を袂(たもと)から出しながら、千代吉には渡さないで冷然と自分の口に啣(くわ)え、火をつけてから故意に静かに一服して、もやもや漂う煙の陰から男の顔を見つめた。
「持っていても、お前さんにはあげられないね」
千代吉はあきれたように、女の姿を見まもっていた。つめたい顔立が、いけぞんざいな口のきき方が、不思議になまめかしく見えることだ。千代吉は、唇に残ってるキスの味を思い返した。
「くれないっていうんならもらわなくたっていい。そう欲しくもないんだ」
「負惜(まけお)しみでしょう?」
女は千代吉の怒りをこめた顔つきを見つめていた。右の頬に糸のように血のにじんでいるのを見た。さっき、自分が夢中で爪で引っかいたものなのだ。そんなにしたのも、男のやり方がびっくりさせられるほど、がむしゃらで烈(はげ)しかったせいなのである。女はそれを考えるといまは急におかしくなっていた。
「富さんをぽかぽかやったって、本当?」
千代吉は急に両手を宙にひろげて大きな欠伸(あくび)をして、なにか力をこめて抱えこむような恰好で腕組みしてからいった。
「奥へ行ってみよう」
「…………」
「誰かもっと親切な奴が、煙草ぐらいくれるだろう。なんにしてもお前さんの顔を、少し長く見すぎていたようだ。ほかにも誰かきれいなひとが多勢いるんだろう」
「ええ、多勢」
女は煙草を啣えたまま台にもたれて、千代吉を見送った。肩幅の広い、太い木の幹でも見るようにがっしりしたたくましい胴を、あらためて物を見なおすような、烈しい興味の窺(うかが)える目つきでじっと見まもっていた。
奥は小部屋に分れていた。廊下は薄暗い。各部屋の壁の上部にある風抜きの窓から漏れる瓦斯灯(ガスとう)の青い光が、天井を明るくしているだけだった。
千代吉は、平らな廊下でつまずいて、まだ酔っているなと自覚した。知らずに、壁にもたれて立って、大きな息をしているのである。ただ、自分の身体の中に平常抑えつけて暮している獣物(けだもの)のようなものが、忽然と幅を増し、背たけを加えて、棒を立てたように身体の中にわさのさばっているのを感じる。どこへ行こうがなにをしようが勝手なのだ。噂では日本人の客は頑として拒むとか聞いている外人相手の商売家へ入ってきているわけだが、こんな安普請の、ペンキ塗りの家なんか、自分が毀(こわ)そうと思えば、たちまちに毀してしまえると思うのだ。
廊下の奥から誰か出てきた。長襦袢一枚の女で、ふいと出てきたときは、薄暗いところで見るのだし、細長くて幽霊のような感じを与えた。女は裸も同じような姿だった。千代吉がいるのに気がつき、そんな日本人がいるのを不審に思ったように見返りながらひどく事務的な冷淡な様子で、はだけた胸を合せもしないで便所らしいガラス戸の中へ姿を消した。
(つんつんしてやがる。女郎め)
千代吉はむやみと腹が立った。出てくるのを廊下に待っていて、なにか、悪戯してやることも考えないではなかった。少し前から人の気配がしていた側のドアの中からお代官坂の富の声がしたのに気がついて、乱暴に、その把手(ハンドル)をつかんで開けようとした。
「誰?」
と、女の声でとがめた。
千代吉は返事もしないで、むりに開けようとして、鍵がかかっているのに気がついてから、
「俺だ」
といった。
鍵の音をさせてドアをあけてくれたのは、富だった。
煙草の煙がもうもうとこもった部屋の中に、女が三人と、富のほかに、もっとでっぷりした男が一人、テーブルを囲んでいて、入ってきた千代吉に一度に視線をあびせかけた。洋酒の壜やコップのほかに、めいめいの前に、辞夢と群や銀貨がちらぼっていた。
「待っててくんな」
と、富はいった。
「もう、すぐだ」
「酔っぱらいさんかい?」
と、巻煙草を嘲えた、相撲のように肥った女が側からいった。
「富の奴、もう、さんざんなんだよ」
「まったく、すっからかんだ。今夜ぐらい、けちのついたことはない」
「今夜とは限んないね」
この四十がらみの大柄の女がこの家のおかみさんらしかった。ほかに二人いる女も、どちらも一見して異人屋敷の女とわかる。その一人の年若い方は、胸のところに首から金鎖を垂らしていた。千代吉が支那人かと最初思ったのは、正面にいた大男だった。顎なんか二重になっている、色の白い、でっぷりした男で、顔の色つやもいいし、われるくらい福相の、絶えずにこにこしている男だった。
「さあ、やろう」
と、その男がいった。
千代吉が入ってきたのでいったん中断された注意を各人が急に回復して、手の中の加留多に向けなおしたものに違いない。勝負に特有の緊張した沈黙が、卓を中心にしてみなぎった。
千代吉は自分だけ除外されているようでおもしろくなかったので、部屋の隅にある寝台に腰をおろしかけたが、不満を抑えきれなかったので、
「おい」
と、故意に無作法に、連れに話しかけた。
「豚常って奴は、どこにいるんだい?」
富は答えなかった。代りに、千代吉のいるところからは正面になっていた大男がひょいと顔をあげて千代吉を見て、
「なにか用があるのかい?」
と、おだやかに尋ね返した。
「常五郎はおれだが……」
気がついて見るとお代官坂の富が顔色を変えて、今さら、制(と)めようもないので途方にくれたような顔色になっていたので、はじめて、千代吉にも、その福相の男が、その豚常だと、わかって、不意を衝かれた形で即座の返事も出なかった。
豚常という男には、どこか大きいところがあった。こちらが返事に詰っているのを見ると、強いて問い返そうとする様子もなく、ちょうど自分の番に廻ってきていた加留多を無造作にめくって、見入った。
「気をつけなよ。手前、酔ってやがる」
と狼狽えて持薬をはさんだのは、富だった。千代吉は、無言で挑むように肩をそびえさせた。その間も目を放さずに豚常の顔を見つめていたのだが、豚常の方ではいっこう気にかけないでいるらしいのが、甘く見られるようで、むやみに、腹が立ってきた。
「酔っちゃいねえ、あれっばっちの酒で」
「おい、兄(あに)さん」
と豚常は、愛橋のある目もとを笑わせて、おだやかに声をかけてきた。
「どんな話か知らねえが、他人(ひと)がせっかく愉快に遊んでいるところだ。用があるなら後で聞くから、少し待ってもらおうよ。はははははは、……どこの若い衆だ? おい、富さん、お前の番だ」
「へえ、おれの番か?」
「めくるんだ」
豚常は、卓の上へひじをつきながら、離れてでくの坊のように立っていて、自分でもそれを知っていっそうけわしい顔つきになってにらんでいる千代吉の方を、ゆったりと見て笑うのだった。
「どこかの屋敷にいる人かい?」
番はまた廻ってきた。豚常は、めくった加留多を返してみながら、
「こいつはいいね」
「また、いいの? ついてるんだね。親方」
「そうかも知れねえ。負けたくっても、これじゃア負けようがない」
「いよいよ、おれもお陀仏か?」
「気の弱いことをいう! いつもの富さんのようでもない。なんなら…⊥
豚常は悠然(ゆうぜん)と目をあげて、千代吉の方を見た。
「その若い衆もやるんだろう。代ってもらってもいいぜ。少しは風の向きが違ってくるかもしれない。どうだい、兄さん。お前さん、富さんの代りをしないか?」
千代吉は、この相手の申し出ることならなんでも拒まずにはいられなかったので、無言のまま、首を振ってみせた。
豚常は、また機嫌よく笑っていた。
「そいつも、いやか? 困ったもんだね。まあ、いいや。富さん、そのまま、やんねえ」
「いや、待っておくんなさい」
お代官坂の富は、自分の困った立場の申訳(もうしわけ)にも、千代吉をここで勝負に加えて、なんとかこの場の恰好をつけたいと、あせっているようだった。
「おい、兄さん、お前、代ってくんないか? 大丈夫だ! お前、今夜は、べらぼうに運が.いいんだから、ひとつ、おいらの代りにやって、大きく当てて、皆をあっといわしてくれ。なあ、兄さん」
富は、わざわざ立ってきていた。
「ええ。まったくだ。お前、今夜はおれより運のいいのは確かなんだ。そうだろう。いいじゃないか? やってくんなよ、
その間も、豚常は、千代吉のことをまるで念頭においていないように、隣に坐っている女になにか話しかけながら、手を伸ばして女のえりの金鎖を引きだして鎖の端につけてある金色の十字架を薄ら笑いを含んで眺めていた。てんで、こちらを無視しているらしい態度が、最初に富から聞いた話と思い合せて、相手の底の知れない不安を千代吉に抱かせてきていたのも事実であった。
「さあ……」
わざわざ腕をつかんで、強いる連れに、千代吉は、まだ逆らいながら、最初ほどの気勢もなく、豚常と卓を隔てて坐らせられていた。
「さあ、やろう。やろう」
豚常は、相変らずの機嫌で向きなおって若者の顔を見つめた。
「親は、こんどはお前さんだな」
2025-01-14 09:02
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