詩人の本棚 №2 [文芸美術の森]
東西の文化を踏まえた森鴎外
高松力平
高松力平
林太郎・森鴎外(1862-1922)は、島根県津和野町に津和野藩医森静男の長男として生まれた。19歳で東大医学部を卒業、軍医となる。23歳でドイツに留学。ライプチヒ、ミュンヘン、ベルリンに滞在、研究に励んだ。ヨーロッパの風土に馴染み、日本人であることも同時に意識していたと思われる。 以下は、それ以後の鴎外を底流した立場だ。
「新しい日本は東洋の文化と西洋の文化とが落ち合って渦を巻いている国である、そこで東洋の文化に立脚している学者もある、西洋の文化に立脚している学者もある、どちらも一本足で立っている、(中略)現にある許多(あまた)の学問上の葛藤や衝突はこの二要素が争っているのである、そこで時代は別に二本足の学者を要求する、東西両洋の文化を、一般ずつの足で踏まえて立っている学者を要求する、真に穏健な議論はそういう人を待って始て立てられる、そういう人は現代に必要なる調和的要素である」「鼎軒先生」
26歳で4年間のをドイツ留学を終えて帰国。
30歳で本郷駒込千駄木町(現・文京区千駄木1丁目)に居を構えた。⒉階から遠く品川の海を望めたので『観潮楼』と命名。残る30年の人生を家族とともに過ごした。
軍医として才能を発揮し陸軍医務局長や陸軍軍医総監の地位に進む。その一方、明治文壇の重鎮として大きな業績を残した。
代表作としては
『舞姫』(1890)
『雁』(1915)
『うたかたの記』(1890)
『即興詩人』(1901)
『ヰタ・セクスアリス』(1909)
『阿部一族』(1913
『山椒大夫』(1915)
『高瀬舟』(1916)
『渋江抽斎』(1916)など。
鴎外の文体は鮮やかだ。確固とした漢文の素養に裏打ちされた言文一致で展開する。音読してみるとそれが実感できる。鴎外の作品は小説について語られることの方が多いが、詩作でも卓抜な作品を遺している。
鴎外は詩集『於母影』(おもかげ)を編むのに際し。「独り西詩の意思世界と情感世界との美ならず又西詩の外形の美をも邦人に示」そうとしたのだと言っている。
「オフェリアの歌」は,シェクスピアの『ハムレット』が原詩だ。第4幕5場で,可憐な狂ったオフェリアが歌う歌だ。
『於母影』
オフェリアの歌
いづれを君が恋人と
わきて知るべきすべやある
貝の冠とつく杖と
はける靴とぞしるしなる
かれは死にけり我ひめよ
渠(かれ)はよみぢへ立ちにけり
かしらの方の苔を見よ
あしの方には石たてり
柩(ひつぎ)をおほふきぬの色は
高ねの雪と見まがひぬ
涙やどせる花の環(わ)は
ぬれたるままに葬(ほうむ)りぬ
問答形式のこの歌は、当時の観客に喝采を浴びた。
こうして鴎外は,これまでの日本には見られなかった新しさを切り拓いた。
笛の音
少年の巻
その1
君をはじめて見てしとき
そのうれしさやいかなりし
むすぶおもひもとけそめて
笛の声とはなりにけり
おもふおもひのあればこそ
夜すがらかくはふきすさべ
あはれと君もききねかし
こころこめたる笛のこえ
その2
君をはじめて見しときは
やよひ二日のことなりき
君があたりゆ風ふきて
こころのかすみをはらひけり
おぼろ月夜のかげはれて
さやけき光のそのうちに
みゆるかつらのその花は
うれしや君が名なりけり(以下略 )
沙羅の木
褐色(ちかいろ)の根府川石(ねぶかわいし)に
白き花はたと落ちたり、
ありとしも靑葉がくれに
見えざりしさらの木の花。
いねよかし
その1
けさたちいでし古里(ふるさと)は
青海原(あおうなばら)にかくれけり
夜嵐(よあらし)ふきて艪(ろ)きしれば
おどろきてたつ村千(むらち)どり
波にかくるる夕日影(ゆうひかげ)
追ひつつはしる舟のあし
のこる日影もわかれゆけ
わが故郷もいねよかし
その2
しばし波路(なみじ)のかりのやど
あすも変らぬ日は出でん
されど見ゆるは空とうみと
わがふるさとは遠からん
はや傾きぬ宿の軒(のき)
かまどにすだく秋のむし
垣根にしげる八重葎(やえむぐら)
かど辺(べ)に犬のこえかなし
東京三鷹市の禅林寺に鴎外の墓がある。その墓碑銘には
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
鴎外は人生の最期を、壮麗な官職・鴎外という名声を取り除いた森林太郎として迎えると言い切っている。私たちはその鮮やかな覚悟に合掌するのみだ。
2025-01-14 09:01
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