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雑記帳2025-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2025-1-15
◆今年のNHKの大河ドラマ「べらぼー」の主人公は、江戸天明の出版王・蔦屋重三郎、通称蔦重です。 その蔦重ゆかりの絵師3人が冬の三光院サロンのテーマになりました。初回は喜多川歌麿。歌麿の美人画を知らない人はいない、それでも、当時の背景を知り、鋭い観察や写生の腕を知れば、歌麿の大首絵を見るとき、より楽しくなるではありませんか。

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蔦重が手がけた出版分野は浄瑠璃本、吉原再見、狂歌絵本、黄表紙、洒落本、読本、往来もの、学術書など、多岐にわたります。その上に浮世絵です。
それゆえ人脈も凄い。作家には、朋誠堂喜三二、恋川春町、太田南畝(蜀山人)、山東京伝、十辺舎一九、曲亭馬琴・・・、絵師には北尾重政、北尾政演(山東京伝)、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎・・・目がくらみそうです。

蔦重が発掘し、世に出した歌麿は、彼とほぼ同時代を生き、独特の気品と憂愁をおびた美人画の名手年てしられますが、歌麿自身については謎が多く、生地、生年も正確なところはわかっていません。菩提寺に残る記録から没年は58歳とのみ。少年時代に江戸の狩野派に弟子入りしたあたりから少しずつ歌麿がみえてきますが、この頃の作品は残っているものはわずかです。

美人画の第一人者として本人も美男子であったかといえば、そうでもなく、醜男だったという説もあり、唯一残っている自画像は顔をかくしています。

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天明期に入り、版元・蔦屋重三郎とくんで、次々と個性的な浮世絵を発表していきます。
最初の大判錦絵は「青楼仁和嘉女芸者部」です。
吉原の芸者衆のおねりの状況をえがいたこの絵の、衣装や芸者おいよの顔つきをよくみてみましょう。憂いを帯びた品格ある表情は、ある種理想化された女性の顔です。衣装の細かな描写は、絵師、彫り師、摺り師の三位一体の技術が創り上げた至高の作品です。

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次なる歌麿の傑作は「狂歌絵本」三部作です。
天明期の江戸は狂歌ブーム。この流行に目を付けた蔦屋重三郎は歌麿を起用して浮世絵と狂歌を組み合わせた「狂歌絵本」の制作にのりだしました。

歌麿は天明6年(1785年)から寛政2年(1790年)の5年間に14種の「狂歌絵本」を描いていますが、中でも次の三部作は歌麿の驚くべき観察力と写実力が見て取れます。

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上図の3枚は狂歌の席題を絵にした『画本虫撰』『潮干のつと』『百千鳥』。「つと」は貝のことです。
飛んできた蝶や蜻蛉、様々な貝、鳥を描いた観察力と写実力はやがて美人画に結晶していきます。

天明の後にやってきたのは寛政の改革です。蔦屋は資産の半分を没収、手鎖50日の刑をうけました。蔦重は美人画で立ち直りを図りました。それまで美人画といえば前身画だったのを大首絵にしたのです。

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それまで美人画と言えば全身像だった

寛政3~4年ごろの作品、10枚シリーズの『婦女人相10躰』の一つ、「浮気の相」は湯上りの図です。振り向いた瞬間を捉えたしぐさや繊細な浴衣は制限された数少ない色目で表現され、三位一体となったチームプレイの見事な出来上がりです。

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寛政5年には有名な『寛政3美人~富本豊雛、浪速屋おきた、高島おひさ』が出版されました。モデルの3人は実在の人物です。

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歌麿の力をもってすれば美人はそれぞれの違いを描けたはず、なぜ、みな同じようなパターン化された顔になるのでしょうか。実は、日本画には、気高さや気品を記号化する伝統がありました。
美人は見る人それぞれに理想のイメージがあります。絵師はそのイメージを壊さないようにとみちびかれたのが、源氏物語絵巻に見られる「引き目かぎ鼻」でした。その伝統は江戸にも継承されました。浮世絵の美人画もその伝統を踏まえていたのです。

『寛政3美人』はパターン化されてはいますが、芸者・豊雛のきりっとした気質、男たちを接待する明るくやさしいおきた、大事に育てられた甘えん坊のおひさ、3人それぞれが微妙に描きわけられています。

歌麿は3人を一枚に一人ずつ描いてもいます。そして、驚くことに、高嶺の花の美人画を、かけそば1杯とほぼ同じ値段で庶民が買う事ができたのでした。(当時かけそば1杯16文。錦絵は20文)

『ぽっぴんを吹く女』は着物の市松模様や髪の毛手のこんだ描き方が注目されます。手が小さく描かれているのは顔にリアルな手を描き込むと全体をこわすことになるからです。これはギリシャ彫刻にも見られます。

同じころ描かれた『歌撰恋之部』のモデルは素人の女性です。豊かな商家に嫁いだ若奥さんの「物思恋』。揺蕩う思い、目つき、腕や髷の描写、どれをとっても三位一体の世界最高の技。それを庶民が買うことができたのは、世界史上、江戸のこの時期だけです。唇や袖から見える僅かな赤は黒と相まって効果的です。『深忍恋』は百人一首の平兼盛の歌を連想させます。・・・「しのぶれど色に出にけりわが恋はものや思ふと人の問ふまで」。

歌麿は『青楼十二時』以外にも吉原を舞台にした『北国五色墨』などの大首絵をたくさん描いています。青楼も北国も吉原のことです。
下級遊女をモデルにした「河岸(かし)」や「てっぽう」、一方でトップ花魁がモデルの「小紫」。着物やさりげなく置かれた小物にいたるまで、吉原を熟知していたからこそ描けたものでした。

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寛政7年頃には、蔦重の組む相手は写楽へ移り、歌麿は別の版元から「台所」を出します。この後、歌麿は多くの母子像を描きました。生地も生年も不詳の歌麿にはつきることのない母性願望があったようです。これはダ・ヴィンチと同じですね。

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台所

歌麿を世に出した蔦重は寛政9年(1797年)に48歳の若さで亡くなりました。死因は当時江戸わずらいと呼ばれていた脚気でした。この時歌麿は40代前半。幕府の締め付けは厳しさを増してゆきます。
美人画に女性の実名を刷り込むことを禁止したのを皮切りに、奉行所による錦絵の検閲強化はやがて大首絵の禁止にまでなりました。

厳しい締め付けをしたたかに生き抜いたように見えた歌麿でしたが、思いがけないところで手鎖50日の処罰を受けることになりました。文化元年(1804年)に描いた歴史画『太閤五妻洛東遊観図』が豊臣家を題材にしていたため法にふれたのです。

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晩年の歌麿の作品
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太閤五妻洛東遊観図

この刑は晩年の歌麿には相当こたえたようで、憔悴のうちに、2年後の文化3年(1806年)にこの世を去りました。。

◆三光院でいただく睦月の献立のメインは「金銀富貴」でした。金はきんかん、銀はぎんなん、富貴はふき。縁起物の一皿です。

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金銀富貴
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精進料理では卵は使わず豆腐を使った茶碗蒸し


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