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霧笛 №3 [文芸美術の森]

霧笛 3

          作家  大佛次郎

 場所も記像も時の観念もさらになかった。なにもかももうろうとしているなかに、自分の身体の、手足の端まで充実した快さを、うっとりと味わっていた。ものういまでに、気重く感じられる。眠っているんだなと思った。身体が、どこか水の底のような、妨げられることのない深みに沈んで、のびのびと、自由自在に横たわっていたのを感じる。
 そう感じたとき、千代吉は徐々に醒(さ)め始めてきていた。弾力をひそめて自分の体重を柔かく受け止めているクッションの抵抗の具合が、主人の屋敷の客間の長椅子のように思い、知らない間にそんなところへ来て睡(ねむ)ってしまったのかと、ぼんやり思ったのだが、主人は商用で神戸へ行った留守なので、なにをしたところで安心なのだと、しびれたような頭の隅でぼんやり思っていると、つい間近に誰か人がいて、ゆるくものうげに団扇を動かしている気配が、まだ綴(と)じつけられたように重い瞼の上に感じられるのだった。女のにおいのようなものがした。
 急に身内に走るものがあったように感じて、千代吉は目をあけてみた。視線は正確に、それまでに人のいる気配を感じていたところに向った。   
 部屋の内は薄暗かったが、若い女が一人椅子にかけているのが、浴衣の模様の藍の色の鮮やかなのを浮かせて、いかにもはっきりと見えた。部屋の内は静かだった。細めたランプの芯(しん)が黄ばんで燃えているだけである。
 見たことのない女だった。十七、八の、小柄な女で、なぜ、そんなところに坐っているのか知らないが、部屋の入口のドアの側に椅子を置いて、ガラス越しに外を見ているので横に向けた顔に外の光を受けている。ゆたかな髪を銀杏返しに結って、顔立も静かな、若い女だった。             
 気がついてみると、ガラス戸の外はすぐ往来で、瓦斯灯(ガスとう)の光が青くふるえながら、ガラスに映っているわけだ。ガラスにはペンキで横文字でなにか書いてある。千代吉のいるところからは、文字を裏側から見るのだ。
 (そうなのだ!)
 記憶は戻ってきた。
 千代吉は、お代官坂の富に引っ張られて、このドアをあけてここへ入ってきたように覚えている。そのときはもう苦しかったほど酔っていたが、ここへ入ってきたことまではたしかだ。
  それから倒れてしまったのだろう。これは長井須田。酒場から話して壁側に押し付けてある、布もよごれた椅子だ。酒場は台の上に暗いランプが、棚に並べたいろいろの壜の壜腹をぼんやり浮かしているだけで、天井からさげてある瓦斯灯ももう消えている。
 千代吉が起き上ろうとして動いたので、椅子の女は気がついて、顔を向けた。
 薄暗い中に白く動いた顔に、男は自分の立場をてれた。
「どこだい、ここは?」
女はしばらく答えないで、黙って笑いながら、椅子にかけて少しはだけていた浴衣の前を
なおした。
「どこか知らないの?」
「知るもんか!」
千代吉は、女の静かな調子を怒ったような声で答えて、立ち上った。
「おれの連れは帰ったのか?」
「富さん?」
女はこういっておいて、そのことは答えオかった。千代吉が突っ立って返事を待っている
静かな間を、団扇の動きがゆるやかに刻んだ。
「兄ちゃん……」
「…………」
「富さんをぽかぽかに殴ったんですって?」
 千代吉は、急に短気らしい色を眉間にひらめかした。女をにらみつけた目は、まるで威嚇するように見えた。
「どこへ行ったって、訊(き)いているんだ!」
 団扇の動きがやんだ。女はさも驚いたように目をみはってじっと千代吉を見上げていた。
千代吉は側へ寄ってはじめて気がついたのだが、女の顔は、こんな酒場にいるものらしくもなく、子供っぽくて、素人(しろうと)臭かった。千代吉の荒っぽい剣幕に、実際に怯えたよケに見えたくらいである。
 「先へ帰ったのか?」
 幾分か語気を柔げて、こう訊くと、娘は千代吉の顔を見つめたまま銀杏返しの髪を軽く横に振ってみせた。
 「奥にいるわ」
 「ふむ、奥に?」
 そう聞けば酒場のわきに入口があって狭い廊下が奥へ入っているのを見た。奥の方で先刻から男女の笑い声がしていた。この家だってこのごろ居留地に殖えたあいまい屋の一軒に違いないのである。齢噺の荒野の壁に横領頂の淫山の警並べて、誰のだか西洋人の軍人
の肖像が掲げてある。酒場の具合だって椅子や卓子の置いてあるのだって、いずれ主人は外国人で、治外法権の特別の扱いがあるから日本の警察が手をいれられないのを好都合にして、荒っぽいもうけをしている家に違いないのだ。疑問は、西洋人の経営の店では日本人を客にしない習慣があることである。
 「奥でなにをしているんだ?」
 「行ってみるといいわ」
 「お前もここの家のひとかね?」
 「違うの、ただ遊びに来てんだわ」
 娘は千代吉の目をまぶしそうに視線を外らした。
 千代吉は、あくまでも、女の姿を見すえていた。女の首筋は細かった。青い、おどおどした陰影(かげ)を持っていた若い体のしなやかさを浴衣の上から想像できるくらいであった。小さい手だの、組み合せた足首だの、すべてがいかにも日本の娘らしい、こまかくて優しいものだったのを、珍しいものでも見つけたように、しげしげと眺めるのだった。
 「なんて名だい?」
 「はな」
 「お花さんか」
 千代吉は、なんとなぐ満足して首を傾げた。
 「いい女だね、お前さん」
 女は人を小馬鹿にしたように笑って立ち上ると、廻って酒場の中へ入って、台を隔てていわば要塞へこもったようにして、千代吉と向い合った。
 「なにか、お酒飲む?」
 「飲んだってしょうがねえが……」
 小便臭い女のくせに生意気なことをしやがる、となんとなく腹を立てていた。
 「お前が飲むんなら一杯ぐらいつきあおうか?」
 「ブランデー?」
 「うむ」
 たしかに女は美しかった。まだ荒されていない、そんな感じのほかに、静かな顔立の中
に、冷淡らしいものがあるのが、男の心をひきつけた。
 「商売をしているのかね?」          つ
 女は、黙って、グラスを二つ並べて、一つにブランデーを注いでからこんどは別のレッテルの壕を棚から取って、もう一つのグラスを満たした。
 「なにを飲むんだ?」
 「そうね。ジン?」
 「そいつは強いんだろう」
 女は、あいまいな笑い方をしながら千代吉の問いには答えないでグラスの脚を指ではさんだ。
 「召上がらない?」
 「そっちを俺に飲ませないか?」
 何気なく、こういいだしたのだが、隠しもおおせない狼狽(ろうばい)の色が女の顔にあらわれたのを見て、千代吉は変だと思った。
 千代吉は腕を伸ばしていた。グラスは女が渡すまいとして動かした手から落ちそうになって傾き、酒がこぼれて、台をぬらした。
 「乱暴しっこなし」
千代吉はそんなことには無関係に酒にぬれて気持の悪い指を口へ持っていって、しゃぶり
かけていた。舌の端に感じたのは、アルコールの気の微塵もない、無味の水であった。女が見せた狼狽の理由が、これであった。
「ははあ……」
と千代吉はひと。でうなずいた。台に両腕でもたれると、無遠慮な視線をあびせて女の顔
をのぞきこんでいた。黙って金をだして台の上においた。
「いくらだい、両方で⊥/
「あんた、まだ飲まないんじゃない?」


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