私の雑のう №1 [雑木林の四季]
はるかなる山河に その1
矢作啓太郎
矢作啓太郎
はじめに
雑のうとは雑多なものを入れ肩から掛ける布製の小型のカバン。何を入れるかに決まりはない。小型だからあまり大きいものは入らない。適当な大きさのものを選んで自分の好きなようにすればよい。これは90歳を超えた老人が雑のうにためこんだとりとめもない駄文のひとつだけれど……。
書架から何気なく新書版の一冊を引き出した。
手にしたのは『はるかなる山河に』東大戦没学生の手記 東京大学出版会 1951年だった。この本はよく憶えている。
昭和27年(1952年)大学3年の秋。東京大学でレッドパージ反対を叫ぶ都学連(東京都学生自治会連合)の集会があり、20数校の大学から2000人近い学生が集まった。
この年の春、講和条約が発効し、約7年間の占領時代が終わっていた。日本が戻ってきたと思ったのもつかのま、6月末には北朝鮮軍が韓国に襲いかかっていた。
戦争が間近だ。進歩的な教授を大学から追放するレッドパージが、現実のものになるという危機感があった。集会の帰途、この本を東大の生協で買い求めた。
そんな時代の雰囲気の中でこの本を読んだ。
冒頭に2人の教授が学生たちを追悼している。
戦没学生にささぐ 南原繁
……一たび動員下命、学生の特権が停止せられて戦に召されるや諸君はペンを剣に代えて粛然として壮途に上った。その際多くの学徒のうち誰一人、嘗て他国に見られた如き命を拒んで国民としての義務を免れんとする者はなかった。 諸君の総ては国家の意志と命令に忠実に従ったのである。(中略)
諸君は客年8月15日、 わが邦肇国以来の呪わ式運命の日を目撃しなかった。(中略) 俺らは真に愛するべく浸しむべき幾万の額とをしなった。
然し、諸君に告げたいことは、われらの行く手に民族の新たな曙光、大いなる黎明はすでに明け初めつつあることである。
序 辰野 隆
青春の遺書を読まねばならぬ老者の胸は痛い。
我らは真に愛する可く親しむ可き幾万の学徒を失った。 今や諸国の領土は狭められ。 衣食住は前代未聞の制限を強いられ。一日を糊するにもなほ我等は常ならぬ努力に疲れているが、斯のような艱難な、我等は如何ように刻苦しても、不撓の努力を重ねて徐ろに償い得ることであろう。然し一度征いて帰らぬ青年学徒の命数を想ふと、今日我等老骨がおめおめ生き残っていることが、赦されぬ逆事として、折りにふれて、良心を悩まし,苦しめるのである。
昭和16年(1941年)12月8日。 日本はアメリカ、イギリス,オランダに対して宣戦を布告、大戦争が始まった。緒戦は南方戦域で勝ち続けた。しかし、アメリカは反撃を開始し昭和17年(1942年)夏以降、戦局の主導権は逆転した。
昭和18年(1943年)10月21日。秋雨が降りしきる明治神宮外苑競技場(現・国立競技場)に首都圏の大学・高専77校の25000人が参加して学徒出陣の総会が開かれた。
学生代表の東京帝国大学2年生だった江橋慎四郎さんは答辞を述べた。
生等今や、見敵必殺の銃剣をひっ提げ、積年忍苦の精進研鑚を挙げて、悉くこの光栄ある重任に獻げ、挺身以て頑敵を撃滅せん。生等もとより生還を期せず。
このあと出陣学徒は小銃を担いで分列行進し前線へと向かった。
戦いを厳しく多くの学生は学園へと戻らなかった。
今、再び読み返すと感慨は新ただ。学徒の思いの抄録を試みた。
佐々木八郎 東大経済学部 23歳
昭和20年4月14日 沖縄海上で昭和特攻隊員として戦死
では何の為に僕は,海鷲を志願するのか。さういふ風に,僕の今の気持は,日本人ではあるが,狭いショーヴィニズムを離れた風来の一人間として,カーライルではないが、父も知らぬ,母も知らぬ、この世に生まれた一人の人間として,偶然置かれたこの日本の土地、この父母、そして今迄に受けて来た学問と,鍛へあげた体とを、一人の学生としてそれらの事情を運命として担う人間としての職務をつくしたい。全力を捧げて人間としての一生をその運命の命ずるままに送りたい、さういふ気持なのだ。そしてお互に生まれもった運命を背中に担いつつ,お互夫々きまったやうに力一杯戦はうではないか。つまらない理屈をつけて、自分にきまった道から逃げかくれすることは卑怯である。
大井栄光 東大理学部数学科 25歳
昭和16年華北柿樹園で戦死
(母へ 昭和15年4月17日)
母上様
いよいよ別離の日が参りました。
けれども私は元気にいって参りますから、呉々もお体を大切になさって苦心して生還した時には、一層御元気なるお姿に接し得ることを祈っております、
何の屈託もなく何の感情の高揚沈低も無きかの如く装ふて居りましても私はやはり多くの未完成を抱いたまま戦地に参ります。そこには寂寞の感もありますし,愛惜の情もあります。けれども見えざる神の意志の支配に全幅の信頼を置いて,危難地に赴く構へは聊か乍ら既に会得して居ると自負して居ります。此の上はママも義光も三重子も皆が私の心情をくみとってせめて笑顔をもって私を送っていただきたかったのですが、やはり親と子の情はもっと深刻切実のものである様です。私はママの涙をいとひませぬ。しかし此の後はなるべく朗らかに日々を過ごされて私の出しますたよりをお待ち下さることを願上げます。
2024-12-30 07:22
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