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住宅団地 記憶と再生 №52 [雑木林の四季]

Ⅶ ひばりが丘団地(ひばりが丘パークヒルズ)
 
     国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

ひばりが丘団地の暮らし
 
 この団地に入居し、子育ても終えて20年以上になる居住者の生活ぶりや団地のコミュニティづくりの様子が、1981年6月8日に公団家賃裁判の法廷に立った戸石八千代原告の陳述によく描かれているので引用しておく(『東京地裁・公団住宅家賃裁判II』1983年、東京多摩自治協、84~86ページ)。
 私は原告の戸石八千代です。
 私は昭和34(1959)年5月30日に現在の住居ひばりが丘82-105の3Kに入居いたしました。もう22年前になります。当時家族は夫婦と子ども4人の6人家族でしたから、畳の部屋が3部屋あるというので、3Kに申し込みました。そのときの主人の給料は34年4月24,480円で、ひばりが丘団地3Kの家賃は6,550円とあまりにも高すぎ、給料から家賃を差し引くと、家族の生活に支障をきたしました。そのため主人はアルバイトをして家賃をどうにか支払うことにして入居しました。
 3部屋あるということで希望に胸ふくらませて入居いたしましたが、「団地サイズ」でそれぞれの部屋がいかにも狭く、お台所は食器棚をうしろに置くと、流し台の前に私のような小柄なものがやっと立てるスペースしかなく、肥った人は蟹の横ばいでなければ通れないのです。
 つぎに洗濯機を置こうと思ったら置き場がなく、仕方なくベランダに置けば、雨にぬれて損傷が早く、カバーをかけてもモーターのいたみが早くすぐだめになってしまうのです。玄関には下駄箱がなく、ベランダにあるべき物入れが玄関わきにあるので、物入れの整理中に来客があると大慌て、たいへん不便です。
 下駄箱のかわりなのでしょうか台所の壁の下のほうに戸棚のようなものがあって、これがまた場所的にとても使いづらいのです。こんなありさまで、どれ一つとってみても住む人の身になって造られているとは思えません。一事が万事で、玄関わきにお風呂場があり、もちろん更衣室もありませんので、お風呂に入っているとき玄関に人が来ますと、その
人が帰るまで風呂場から出られなし)で困ったこともしばしばあります。
 壁の結露にしても長いあいだ悩まされています。押入れにいれた本がぬれて駄目になったり、お布団がかびたりはつい最近までつづいています。
 ただ、当時主人が九段会館で入居説明を聞いてきたその日からずっと言いつづけてきたことは、「なんといっても個別原価方式で土地代まですべて含まれているので、いまは高家賃でたいへんだが、住んでいるかぎり家賃が上がることがないのだから、今に楽になるよ」との言葉でした。私もずっとそれを信じてまいりました。
 ところがその家賃が「不均衡是正」の名のもとに、こんなにも古くなってから7千円も上げられてしまったのです。黙っているわけにはいきません。
 20年以上もたって、どんなに大切にして住んでも、あちこち破損していく現在、ガスもれがあったり、排水管がくさって水があふれたり、住まいについて不安なことはいっぱいあります。外壁の亀裂、いくらいっても20年間一度も塗装もしていない、汚れほうだいの建物が今後の地震に耐えられるのだろうかと心配です。
 そのうえ建物の内部の修繕は個人負担といわれ、20年間に畳替え、ふすまの張り替え、壁の塗り替え等みんな私たちが個人でやってきたのです。
 入居当時2,700戸の建物と小学校が一つあるだけでしたが、住みよい環境にしたいと自治会をつくり、みんなで力を合わせて保育園をつくり、児童館を建て、幼児教室を育て、図書館をつくり一生懸命努力してきたいま、一方的に家賃値上げ通告をしてきて、いやなら出て行けといわんばかりの態度は納得いきません。
 ひばりが丘団地は20年以上たちますので、老人世帯も必然的に増えてきました。私の家庭も最近主人が亡くなり、現在長男と二人暮らしですが、やがて長男が結婚して別所帯になったときに、いまのような公団の一方的な家賃値上げがくりかえし行われると、歳をとり一人暮らしで収入も少なくなったときに追い出されるのではないかといちばん心配し
ています。このことは多くの老人世帯が同じぐ悩み心配しています。
 またここから狭いため去った子どもたちにとって、ここは懐かしい故郷なのです。成長期をここで育った子どもたちが故郷を求めて帰ってくる日のために、老朽化がすすみスラム化しつつある団地の修繕や補強にも力を注いでいただきたいと思います。
 昔から衣、食、住は人間が生活するうえで大切なものとされています。その「住」生活がいまおびやかされています。
 以上申しあげました理由によりまして、もう一度声を大にしてこの一方的値上げにたいして、私は納得のいくまで断固反対していくことを述べて私の陳述を終わります。

団地建て替え事業に着手

 住宅・都市整備公団がひばりが丘団地を建て替え調査団地に指定し、空き家補充を停止したのは1991年である。きっそく自治会は「建て替え対策委員会」を発足させ、その後、住民懇談会や棟集会、青空集会をかさね、アンケート調査もくりかえして、居住者の意向や要望を確かめてきた。対策委員会は、建て替え先行団地の見学や公団「説明会」の傍聴、多摩公団住宅自治会協議会とともに合同の公団東京支社交渉などもおこない、東京都住宅局にたいしては都営住宅の団地内併設を要請してきた0団地は当時3市にまたがり、自
治体要請では特別の困難をかかえつつも、そうした経過のなかで94年には3市と自治会、公団による「ひばりが丘団地建啓に係る三市連絡協議会」を発足させた。
 翌1995年に公団は早々と「ひばりが丘団地建替グランドプラン」を作成し、東京都および3市に協力をもとめて事業を進めていた。それによると、公団自身の手で184棟、2,714戸を建て替え、3,588戸の住宅をはじめ、都市計画道路等の公共施設、保育所、児童館、派出所などの公益施設を建設する。高層化によって大幅の戸数増をはかる一方で、建ペい率を33.3%から26.0%に下げて緑のスペースと駐車場(総戸数の60%)を確保し、住宅規模は平均38.6㎡から66・6㎡に広げるという計画であった。全体像が明らかになって、自治会と公団は居住者の戻り住宅の間取りや外構、団地の屋外空間と景観、保存樹木等にかんする勉強会やワークショップをおこない、97年からは事業着手前に月1回程度の会合をもっている。ここでとくに問題になったのは、事業手法の「期別制」であった。
 「期別制」とは、団地全域の建て替え方針をきめながら工事プログラムはしめさず、一部区域についてのみ事業説明会をひらき、指定した工事区域以外は他団地扱いにする手法をいう。したがって大半の居住者には自分が住む区域の事業説明会がひらかれるまで着手時期は不明であり、もちろん家賃がどうなるかも分からず、生活の見通しが立たない。引っ越しを考えるにしても、未定区域の居住者には建て替えにともなう措置は適用されず、取り壊す住宅でも退去のとき原状回復の修繕費が請求され、引越し料はもちろん自己負担になる等である。一方、計画修繕や環境改善は建て替え予定を理由に指定区域外もストップする例が多い。公団は期別制をとることで、居住者に困惑と犠牲を強い、自己負担での退去をよぎなくさせる。
 自治会は1998年1月にも文書で、居住者が戻り入居できる高家賃の是正とともに、「期別ブロック方式」反対などり項目を強く申し入れている。

『住宅団地 記憶と再生』 東信堂



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