地球千鳥足Ⅱ №60 [雑木林の四季]
坤吟する二匹の大亀‥ガラパゴス
小川地球村塾村長 小川律昭
大海で亀の泳いでいる場面に出会う。ちょうどダーウィン研究所でゾウガメを見てゴムボートで停泊汽船に帰る途中のこと、ウミガメが首をもちあげ、我々に注意深く目を配りながら泳いでいるのだ。時として水中に身を沈め、また浮き上がっては泳ぐ。体長一メートルはあろうか。水面に首を出して用心を怠ることのないその姿に緊張の表情がうかがわれる。
大海で亀の泳いでいる場面に出会う。ちょうどダーウィン研究所でゾウガメを見てゴムボートで停泊汽船に帰る途中のこと、ウミガメが首をもちあげ、我々に注意深く目を配りながら泳いでいるのだ。時として水中に身を沈め、また浮き上がっては泳ぐ。体長一メートルはあろうか。水面に首を出して用心を怠ることのないその姿に緊張の表情がうかがわれる。
亀の寿命は平均して二十年から三十年といわれている。この大きさまで成長したのは老獪に生き抜いた証明であろう。それはそれは危険に満ちた自然界、幾多の弱肉強食の試練を経てきたことだろう。その真剣な眼ざしは、かつて出会った危険な体験を思い出したかのようだ。とくに人間には要注意。出来うる限り離れようとするのだが、人間どもは彼を追うことしか考えない。海中にいくら潜っても、すぐに追いかけてくる人間は始末が悪い、という表情で、我々人間から日を離すことなく懸命に泳ぐ姿が痛々しい。
時は夕暮れ、どこまで泳いでいくのであろう。餌を求めてか、ねぐらを求めてか、それとも家族に会いにかえるのか。執拗についてくるボートの人間どもを睨みながら、みずからが定めた意思を貫徹すべく泳ぐのであった。私がいましがた見た、飼育されている亀の仲間と対比するに、どちらの亀が幸せか。日がな寝そべって暮らす亀と危険を冒して大海を泳ぎ、餌を求めなければならない亀。食料と引き換えに自由を奪われた一生と毎日が挑戦である一生と生き甲斐はどちらに? 表情を身近に見てその心理に触れた思いがした、極めて印象的な彼の眼であった。
同じガラパゴスの別の島での情景。かつての入り江が陸地で遮断され、フラミンゴの飛来する海水の沼になっている。その沼に動く生き物を遠くから発見する。凝視するとそれは亀だった。二匹の大亀が岸に近づくにつれて水が引き、もがいていた。その沼から潅木林を経て海がぁる。その亀が海の匂いのする方向へ泳いできたのはいいが、そこは水が減り、泥沼になっていた。泥濘にからだの自由を奪われ、両手、両足を懸命にばたつかせるが、どろどろの地面には抵抗がないので前進出来ない。大きな身体を浮かせるのが精一杯だ。遠くてその表情はわからず、時折頭の向きが少し変わるだけ。だが死にもの狂いの彼の行動は伝わってくる。沼が満タンに水を湛えたかつての日、すいすい泳いだ経験があったから横断しようとしたのであろう。今は底無し沼、進もうと意志働けど身体は自由にならない。見ていて哀れだがどうしようもない。係員が助けに行ったが、人間も足が深みに沈むばかりで、ズボンをまくって行ったものの途中で諦めて帰ってきてしまった。
亀は十日間ぐらい食べなくてもよい体質だといわれている。が、いずれは力尽きて死ぬ運命に従わざるを得ないだろう。偶然の幸運に出会って助かるよう祈るのみだが、自然淘汰の酷さに心乱れた。情報の発達している人間社会なら、気象状況が予測出来る。本能に知恵と工夫を重ねて今日まで進歩し続けてきた人間と異なり、この大亀たちがここまで生きられたことが不思議であるが、それゆえにこそ亀だからと眼をそらすのはつらい。人間も亀も運命にさいなまれた一個の平等な生命体なのだ。亀たちの幸運を祈るのみの私の無力さ。
一年強のメキシコ駐在を終え、日本への帰国に際し、このガラパゴスに立ち寄ったのだが、動植物の生態が自然のままで存在するこの太平洋に浮かぶガラパゴス諸島、緑豊かで大きい島は自然環境も抜群、木々の茂った一五〇〇メートル級の山もある。エクアドルの領土であるゆえ、自然の状態が維持されたのである。これがアメリカであればハワイ諸島のような文明を人工的に作り上げていよう。人工の手が入らない大自然が貴重になった現在、ここでの余暇を楽しむことの出来た自分を幸せに思う。二匹の大亀の生きざまに感動と哀憐の情を誘われつつ。
(一九九八年七月)
(一九九八年七月)
『万年青年のための予防医学』 文芸社
2024-12-29 08:25
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