美味懐古 №7 [雑木林の四季]
外食券食堂
加茂史也
前説・世の中の移り変わりに消えていった店がある。1950年代から1970年にかけ東京
にあった店。今も憶えている店。そんな店を心の内に訪ねてみた。
昭和24年(1949年)4月。私は東京渋谷の天理教教会に入居、東京での生活が始まった。 3度の食事時間は決まっている。 私は気ままに寝たり起きたりする。だからすぐに教会で食事する員数から外されてしまった。自力で食事ができる安価な食堂を見つけなければならなくなった。
そんな時、級友の一人が、
「君、外食券食堂知ってるの」
「いや、知らない」
「学生向けに安価でいいんだ。大隈講堂の横手にあるんだよ。案内しよう」
木造平屋全面ガラス戸の一軒があった。20卓ほどの机と椅子。奥は厨房。店との境目のガラス棚にたくさんの料理が陳列してある。
サバの味噌煮、。鮭の切り身、アジのフライ、イカの姿煮、、金目鯛の煮付け、マグロ煮付け、豚生姜焼き、肉野菜、さんま焼き、ホッケの一夜干し、鶏肉から揚げ,ニラレバ.
ハムエッグ、コロッケ、目玉焼き。さつま揚げ、メンチカツ,、麻婆豆腐、とんかつ、カレーライス,生卵。 納豆。冷奴、味噌汁、焼き海苔、しらすおろし、大根おろし……
級友は慣れている。
「飯⒉人前、サバの味噌煮、しらすおろし、味噌汁」」
指名した料理を皿の上に取りよせる。手早く会計のおはさんが、
「3品で90円だよ」
級友が私の番だと目顔で知らしせる。私は級友の注文にならった。
気の良い級友は、外食券食堂に講釈してくれた。
戦時中に食料事業が悪化したため 米は配給制度の対象になった。 食糧不足が続き 戦後も配給制度が続いている。旅館で宿泊するには、米の現物を持参しなければ、食事ができないと言われた。
都会で外食する勤労大衆のために外食券食堂が設立された。外食券食堂は外食券と引き換えに米飯を提供する。米飯だけではなく副食も提供する。
外食券は米の引換券だ。米の配給を担当している販売店で申請すれば受け取ることができる。甲券と乙券の2種類がある。甲券は米280グラム、乙券は米337グラムだ。乙券は筋力労働者のためと言われている。
これに対して。 一般の飲食店は配給制度に頼らない割高な米を仕入れて営業しているから。 料理の値段は高くなる。外食店食堂の料理の値段は割安だ。
東京にはざっと500軒の外食券食堂があるという、
昭和23年になると食糧事情が好転してきたから、 外食券無しでも割増料金を払えば 食事できるようになっていた。
この日以後、私はもっぱら原宿駅近くと、大隈講堂横の2軒の外食券を利用した。
外食券食堂は、一般の食堂と様子が違う。外食券食堂に入っても、「いらっしゃい」と声はかからない。料理の陳列棚を眺めていても、「これが美味しいですよ」と示唆しない。代金を払っても「ありがとうございます」とは言わない。不親切で無愛想な見えるけれど、料理について質問したりすると、きちんと説明してくれる。どうもそんな対応が店の流儀のようだ。そんな流儀にも慣れる。
手持ちのお金に余裕があるときは、飯⒉人前を頼む。丼にこんもりと盛り上がった飯は、見るからに食欲をそそった。
私の好みは、アジのフライとイカの姿煮だ。陳列棚に出来立てのアジがあるとご機嫌だ。
厚みのあるアジに噛みつくと、美味しいなあと思う。
イカの姿煮は冷めていても、イカを一匹まるまる食べられるという期待で充足した。
2024-12-29 08:24
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