SSブログ

夕焼け小焼け №51 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

母は大倉を売り東京へ

            鈴木茂夫

 昭和26年(1961年)春。
 台湾から引き揚げてから5年、母は大倉にあって畑を耕し、田に働き、夜は俵を編んでひたすらに働いてきた。にわか百姓が本人にも村の人たちにもできるのだろうかと思われていたが、村人ともなじみ、本家の幸枝さんと親しまれている。
 母から便りがあった。あなたもまもなく大學を卒業する。しかるべき会社に就職して生活していくだろう。これからの生活の本拠は、大倉ではなく東京に置くと思う。
 鈴木家の嫡男であるあなたが生き延びて行くには家屋がいる。手元にそんなお金はない。大倉に生きてきた先祖には申し訳ないが、大倉の屋敷、田畑,山林を処分して資金をつくるしかない。さいわいにもそれで資金ができる。わたくしも、その方策に賛成した。菩提寺・廣圓寺の小松和尚も賛成したとのこと。
 わが家の持ち分は、田畑が5反(約5000平方メートル),山林が5町(約5ヘクタール)だ。
 これらの資産は、祖父が死亡し息子の廣蔭が相続する順序だったが、ボルネオ戦線で廣蔭の消息が不明だったため、茂夫が相続している。
 母は奈良県王寺に住む夫・廣蔭の弟・勝海さんに、遺産相続の取り分を請求しないで欲しいと了解を求めた。
 母は、わが家の向こう三軒両隣に、なんとか買い取って欲しいと懇願。父と仲のよかった定一さんがまず快諾してくれた。それで話はすすみ、三軒の家で適宜どこを分けるかを協議した。その結果、売却金として70万円が手に入った。

 母は東京での働き口を見つけたいと、大阪で今川学園を経営している兄嫁の三木達子さんに依頼。達子さんは親しくしている労働省婦人少年局長の藤田たきさんに相談、すぐに東京墨田区の福祉施設・興望館が受け入れてくれると決まった。

  浅草の松屋ビルから,東武電車に乗った。発車するとすぐに隅田川の鉄橋を渡る。最初に停まるのが業平橋、次が曳船、私はそこで降りる。
 改札口を出るとそこは寺島町だ。この町には機械油と揮発性の液体の臭いがする。通りに沿っている溝には、どんよりした黒い下水が泡を噴き、メタンガスの臭いがした。私がふだん暮らしている東京都とは、まるで異なる空間だ。決して豊かな人たちの暮らしているところではない。
 町全体が工場なのだ。トタン板で囲まれた小さな工場からは、モーターの音がきこえてくる。住宅だと思う二階家の軒下には、洗濯物が吊り下げられ、一階は作業場になっていて、金属板を切断していたり、ガス溶接をしたりしている。その機械長屋に挟まれるように駄菓子屋が店を出していて、子どもたちが群がっている。
 このあたりには,戦前、玉ノ井という売春地域があったが、戦災で焼失、戦後はその近くに鳩の町と名を改めて営業している。
 東口から外に出て突き当たりを右に曲がる。郵便局が見えてきたら、そこでもう一度右に曲がるとにたどりつく。歩いて5分ほどの距離だ。
 大正のはじめ1919年、アメリカのキリスト教婦人団体の手で創立された。東京の貧困地区住民の生活向上をめざしたのだとか。こうした福祉施設はセツルメントという。
 興望館は400坪ほどの敷地に、木造モルタル2階建ての本館と平屋の別館がある。20数人の職員が、診療所、託児所、児童養護、幼稚園などの事業を行っている。
 別館の扉を開けると、そこにはミルクとおしめの臭いが充満していた。板の間に大勢の子どもたちがいる。そのほとんどが孤児なのだ。1人1人の子どもたちには、それぞれの事情がある。貧困のために親が置いていった子。捨てられていた子。ここに収容されている子どもたちは、興望館の子どもとして育っている。
 泣いているこ、折り重なるようにして戯れている子、ぽつんと1人ぼっちの子、子どもたちの声が入り混じって, 鳥のさえずりのようだ。子どもたちがいっせいに私を見つめる。
 子どもたちの中にいて、数人の婦人が世話をしている。みんな白いエプロンをしているので、見分けがつかない。
 「茂夫さん、こんにちは」
 母の方が私に気づいたようだ。私は室内の隅に座り込む。よちよち歩きの子、這ってくる子、子どもたちが群れをなして私の周りによってきた。
 先頭の2.3人が、あぐらをかいている私の膝に乗り、肩に手をかけた。そして胸の周りに2人、3人と抱きつくというか、しがみつくというか、ともかく私に密着する。まるで私は小人国を訪れたがりばーみたいだ。身動き一つできなくなる。私はじっとしているしかない。
 子どもたちの温もりが伝わり、子どもたちの匂いでむせかえる。私は空いている両の手で抱かれる順番を待っている子どもたちの頭をなでる。
 この子どもたちは、この施設で衣食住を保証されている。だが不足しているものがある。 それは肌のふれあいだ。
 ここには親はいない。親代わりもかねている保育担当の数人の婦人だけでは手が回らない。きっと今、子どもたちは私とのふれあいに、父親の感触を満たしているのではないかと思う。それは私の生い立ちによる思い過ごしかもしれない。しかし、私の推測は間違っているとは思いたくない。父は私が14歳の初夏、台湾から南方戦線に出かけた。そして敗戦になっても帰っては来なかった。それ以来、私は父によく似た男性に、父の面影を求めて、凝視するようになった。40代の男性の醸し出す雰囲気、それに父を求めたのだった。今もその思いは変わらない。
 部屋の一隅に、数多くの段ボールの箱が積み重ねてある。母に訊ねると、
「『ララ』『ケア』『ユニセフ』から来たものよ。それはアメリカのいくつかの慈善団体と国連から贈られてきたものよ。アメリカの慈善団体、キリスト教の教会、市民団体が,敗戦日本の復興に役立てて欲しいと、義援金を集めたり、衣類の提供を求めたりして物資を調達したのね。ここにあるのは、中身は脱脂粉乳、チーズ、子どもの衣類、古着などね」
 それぞれの箱には大きな横文字が印刷されてある。LARA,CARE, UNICEFなど。眼を近づけると,LARAには Licensed  Agncies  for Relief of Asia  つまり、アジア救済連盟、アメリカカリフォルニアの日系アメリカ人が主体になって活動しているという。
 CAREの下には、Cooperative for Assistance and Relief  Everywhere これは全世界援助救済協力機構だ。
UNICEF には United Nations International Childrens  Emergency Fund 国連国際児童緊急基金だ。
 「この興望館に収容されている乳幼児に、日本の国から支出されているお金は僅かで,それだけではとても足りないの。だからアメリカの物資がないと,世話をしきれないのが現状なのね」
 アメリカ市民の善意の現物を目のあたりにすると,私はアメリカが多面的であることを思わないではいられない。
 私はアメリカ帝国主義反対を叫んでいる。それはアメリカの巨大な資本主義体制が、世界に社会主義を実現する妨げになっていると思っているからだ。だがそれは私の建前だ。私の本音は必ずしもアメリカに敵意を抱いてはいない。戦後、私たち日本人はアメリカ軍 とアメリカ人、アメリカの考え方に接した。戦時中の「お国のために」に代わって,「民主主義」が合い言葉になった。私もアメリカに出会った1人だ。
 私は高校のころ、アメリカ占領軍の若い兵士と友人になった。若者はブルースと言った。
 私の英語の語彙は限られている。貧しい表現法しか知らない。でも夢中になって,戦争・平和・民主主義などについて話しあった。辞書を手にして夢中になって話しあった。ブルースには明るさがあった。開けっぴろげな善意があった。私と対等な関係を保っていた。お互いに理解しようという熱意があった。だから私とブルースは、明らかに心が通じあっていた。
 アメリカが巨大な存在であることは確かだ。それはとりもなおさず巨大なさまざまな矛盾をかかえていることでもあるだろう。戦時中の敵国に、善意を形ある物として贈りとどけてくるアメリカ市民に私は脱帽する。

 夕刻6時、母に伴われて職員食堂へ行く。すでに食膳が整えられていた。ロールキャベツが2個それが主菜だ。豚汁が添えられている。その香りに刺激され、私は生唾を飲み込む。つぎつぎと職員が席に着く。中村館長が席を見回してから両手を組み,食膳の祈りの言葉を唱えた。みんながそれに唱和する。

  父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。
  ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください。
  わたしたちの主イエス・キリストによって アーメン

 館長の人柄も反映しているのだろう。食堂の雰囲気は和やかだ。差別なくみんなが同じ食事をとる。
 私の暮らしている教会とは違う。3杯も飯のお代わりをしてしまったが、炊事担当の女性はにこやかに応対してくれた。
 母は本館2階に居室を与えられている。床が板張りの4畳半だ。木製の寝台と洋ダンスがしつらえてある。その小さな空間が、私と母のかりそめの家庭だ。家庭とは,生活を共にする血縁関係を指すのだろうか。その居宅を意味するのだろうか。血縁関係だとすれば、それは家族と言えばいいだろう。


nice!(1)  コメント(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。