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浅草風土記 №41 [文芸美術の森]

夏と町々 不動様 5

       作家・俳人  久保田万太郎
   
             八

 そのむかしはなしを、一伍一什、熹朔さんに話しました…・
「とにかく芝居茶屋だの、凌いだの、祭礼だの、そういう字のならんでいるのをみただけでもうカッとなってしまったんですからね。」
 そのあとそういってわらいました。
 が、いまだからそうわらえるようなもの、実際それまでの文学は、そういってもそういう文字に縁がなさすぎました。そういう存在の美しさに眼をふさぎすぎました。そういう人生を下積にしすぎました。――決してそれは自然主義の文学ばかりでなく、そのまえの硯友社の文学にしてもなおその繊細さを欠いていました。東京の、東京人の生活、あく迄ただしい伝統をもったその生活の、その底にかよういみじくも哀しいかれらの呼吸を、われわれ決してそれまでのどの文学にも聴くことが出来なかったのでした……
 が、やがてその広っ場を出てお堂のまえに立ったとき、
「これァいけない。」
 ひそかにそうあたりをみ廻しました。
 お堂は出来ました。立派に再建出来ました。でもそのお堂のまわり、お堂を取巻くいろいろの建造物の、もとのすがたにすべてまだ立ちもどっていないことがいたましく……というよりも、もっと弱い感じに寂しくつつましく震災の名残を物語っています。……といぅことは、たとえば三十六童子を随処に立たせたあのこごしい岩根のかげもそこにみ出されなければ、積まれた石の一片毎に奉納者の名まえを彫りつけたあの玉垣もむなしくいま残骸をとどめているばかり。……ただその石だたみのうえの大香炉あって、折からまた音もなくふり出した雨の中、しずかになつかしく昔ながらにうち煩っているのがみられるばかりでした。――人に押されて、そのままわれわれ、出るともなく表門のほうへ出ました。
 両側にならんだ講茶屋、暖簾と納め手拭との影のめざましくつづいたその光景。……「深川の唄」にもはッきりその特徴の描かれた光景。……墨一トいろの、いえば一ト言、「信心」のかげの濃く珍んだ光景。……で、おそらくあなたもそうお思いになったろうとおもいます、その講茶屋の一けん、むかし通った運座の家、忘れ難いあの「おもあかり」の宿をさすがに人情で覗きました。――その隣の店で粟餅を千切り、そのまえの店で団子を焼くように、その店では、四五人樺をかけた印半纏の男たちが、以前にかわらずいそがしそうに金鍔の解をつつんでいました。――が、「内陣新吉原講」の鉄門のそと、夜長、夜寒、しぐれのふぜいに懸られてあった石橋は、その下をながれていた細い溝の水とともにいつかそのすがたを消していました。
 そのあと、潮見橋をわたり、船木橋をわたったわれわれは、まるで戦争のような騒ぎの区画整理のなかを抜けて「きん稲」のまえに立ちました。木場のけしきは変ってもこのしもたやのような小さな料理屋のけしきはかありません。震災まえとおなじ間取の、二夕間しかない一ト間の、庭に向いたほうの座敷にすわって改めてその庭の上をみ直したとき、柳だの、銀杏だの、椎だの、さくらだの、桃だの、そうした若木ばかりの青々とした梢に、いつかまた止んだ雨のしッとりあかるい深川の……辰巳の空があくまでしずかに拡がっていました。――そこにはコンクリートのベンチも、コンクリートの藤棚も、コンクリートの土橋も、そうしたものの存在はすべて感じられませんでした。
「あしたは霄れますよ。」
あたくしは憲朔さんにいいました。

『浅草風土記』 中公文庫


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