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多摩のむかし道と伝説の旅 №137 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

          多摩のむかし道と伝説の旅(№31)
       -古歌に詠われた向ノ岡から多摩の横山道を行く-3
                  原田環爾

[Ⅱ]万葉歌に詠まれたよこやまの道を行く
 これより丘の上広場のスタート地点からから唐木田まで多摩よこやまの道東路を辿ることにする。

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 よこやまの道は丘の上の道だけあってのびやかで気持ちがいい。道幅は3mばかりで小道の左手には雑木林が広WS023 のコピー.jpgがり、右手には眼下の尾根幹線道路を挟んで多摩東公園、更にその向こうに多摩市の市街地がパノラマ風景の様に遠望することが出来る。程なく左手雑木林の樹間から広大な住宅街が姿を表す。この辺りは三沢川の源流付近で、川崎市と多摩市との市境の尾根筋を「よこやま道」として残して大規模に宅地造成化されたものだ。かつては鬱蒼とした水源林が一帯を覆っていたものであろう。この先ささやかな小山の上り坂となり、小山を下るとまた小山といったふうになだらかな起伏を繰り返す。小山付近にはまき道があるので疲れたらまき道をとればよい。まき道といってもほんのささやかなものだから迷うことはない。続いて比較的大きな小山の諏訪ヶ岳の頂きに来る。そこには丸い椅子が6基用意されているので、腰を下ろして雑木林の樹間から市街風景を楽しむことが出来る。ここから急勾配の坂道を下り降りると、「よこやまの道」の道標が立っている。そこには三沢川の源流方面へ向かう細い分岐道が2本ばかり出ている。左側は瓜生黒川往還と称する江戸時WS024 のコピー.jpg代からあった道で、黒川特産の黒川炭や禅寺丸柿を八王子や江戸へ運ぶのに利用された。またこの道は黒川の汁守神社に通じており、武蔵六所宮(現大国魂神社)にお供えする汁物を調整して運んだ道とも思われる。一方右手の分岐道は川崎市水道局黒川高区配水池を経て黒川最奥の狼谷戸に抜ける道であろう。
 分岐道を無視して道なりに右へカーブしてゆく。程なく多摩エコプラザの建屋の横辺りで「もみじの広場」と称するロータリー風の瀟洒な芝の広場に入る。そこに高さ1m足らずの自然石に「多摩よこやまの道」と刻まれた石碑が立っている。一説によれば府中から東海道へ向かう古東海道と呼ばれる官道がこの辺りを通っていたとされる。
 広場を反時計周りに半周し、幅50cmばかりのごく細い上WS025 のコピー.jpgり階段を辿って再び丘の上の尾根筋に向かう。すると忽然と樹々は掻き消え、広々とした山畑の風景が眼前に広がる。その風景の中で畑仕事に精出す農夫の姿が印象的だ。実にゆったりとした牧歌的な雰囲気がなんとも言えない快感をもたらしてくれる。畑風景を抜けると多摩市街を一望のもとに見渡すことができる展望広場に来る。広場の一角には「防人見返りの峠」と記した木柱が立っている。北九州へ向かう防人達が官道を通ってこの峠にさしかかると、二度と帰れるか分からない故郷を懐かしんで見返したことであろう。
 万葉集の東歌の中に多摩の防人の妻が詠んだ歌が収録されている。
WS026 のコピー.jpg万葉集巻第二十第四四一七
 赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒ゆか遣らん
 豊島郡の上丁椋椅部荒虫の妻の宇遅部黒女の歌
 歌の内容は武蔵国の民、椋椅部荒虫が防人に召集され、国府(現府中)に集合する様命ぜられ、至急出発しなければならなくなった。妻の宇遅部黒女は、遠く北九州へ向かう夫を気遣って大事な馬に乗って行って貰おうと思い立ち、出立前に馬を野原に放して、腹一杯の草を食べさせてい た。ところが運悪く馬に逃げられてしまって、やむなく夫を徒歩で多摩丘陵を越えさせることになってしまった。そんな妻の嘆きを詠んだものである。
 WS027 のコピー.jpgところで防人とはそもそもどんな制度だったのだろうか。西暦645年、大化改新で律令国家建設を目指した大和朝廷は、対外的には風雲急を告げる東アジア情勢に対処するため、北九州の防衛体制を固める必要に迫られていた。とりわけ663年、白村江における唐・新羅連合軍に対する敗戦は一層これに拍車をかけることになった。当初は全国から兵士が徴用されたが、天平2年(730)からは朝廷の東国掌握政策とも絡み、もっぱら東国の民のみが徴用されるようになった。防人に召された民は、武蔵国府のあった府中に集合した後、国府の役人である防人部領使の先導で遠い旅路についた。自分の食い扶持を背に東海道を陸路野宿を重ねながら難波津を目指し、難波津からはやっと官費が支給されて瀬戸内海を海路北九州へ向かった。任地では対馬、壱岐、筑紫など辺境の地に配属され、田畑を耕し自給自足しながら、防備兵として3年の兵役を務めた。やっとの思いで兵役を終えた防人達の帰路はまた厳しいものであった。官の援助はなく自力で帰るしかなく、無事に故郷に帰れるという保WS028 のコピー.jpg証はなかった。防人という制度が古代の民衆にとっていかに過酷なものであったかを物語っている。それだけに万葉集の防人歌に綴られた妻子や親兄弟との別れの歌は実に痛々しいほど切々と訴えるものがある。この過酷な制度は9世紀初頭の平安時代まで、約150年間もの長きにわたって続いたのである。(この項つづく)


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